第2話 転移の先は女風呂
――君は力がほしいの?
音もなく、光もない。あるのは何かに流されているという感覚のみ。
神様の言う通り、エラーに関する情報は川のようにカイリの頭の中に流れ込んでいた。これはまた奇妙な感覚で、意識せずにエラーの情報が脳に浮かんでは消え、浮かんでは消える。しかし、消えた情報は思い返そうと思えばすぐに思い返すことができる。『勉強』という行為を消失させかねない現象に戸惑いながらも、カイリは必死で情報を整理した。
しばらくすると、まぶたの外側から光が漏れ、生ぬるい風を肌に感じるようになった。そして一瞬強い光を感じた後、水の音と共に足が地についた感触がした。
転位を終えたのだ。
どうやら、『こちらの世界』の水辺に飛ばされたらしい。じめっとした暖かさから、熱帯域かもしれない。
「「「え?」」」
生ぬるい風とともに、三つの声がカイリの耳に届いた。神様はカイリをエラーのもとに送ると言った。つまり、下手をしたら眼前にいるかもしれないということ。先程まで強く目を閉じていたため、目が眩まないように注意しゆっくりと開けた。
「え?」
次は、カイリがすっとんきょうな声をあげる番だった。
最大の緊張を持って臨戦態勢でいたカイリの目の前には、禍々しい怪物でも筋肉隆々な大男でもなく……素っ裸の少女がいたのだから。
湯船から出ようとしていたのか、身体にはたくさんの水滴が滴っている。小柄で幼い顔をしながらも、甘いリンゴのような艶やかな肌が色気を醸し出していた。サファイアを連想させる藍色の髪が出す美しさと丸っこくて大きい紺の瞳と柔らかそうな頬が出す可愛さが絶妙に合わさっていた。
何が起きたか分からず、つい目の前の事態を凝視してしまうカイリ。
「いやぁーっ!!」
「うおっ」
あまりに甲高い叫び声にカイリは思わず退いてしまったが、よく考えてみるとこの状況で叫ばないほうがおかしい。少女は身体を自分の腕で覆い、素早く後退して湯船に身を潜めた。
「お前がエラーか?」
カイリは思わず、真正面から訊いてしまった。
「あ、あんたの存在の方がエラーよ!」
少女は大声で返した。
そこでやっとカイリはこの大変な事態に気付き、視線を右に反らした。
すると、そこにはシャワーを持ったまま背を向けている少女がいた。スラッと延びた赤みがかった薄紫の長い髪と綺麗に整った顔には気品があり、吊り上った茶色の瞳には強い敵意が含まれていた。彼女の蠱惑的な体のラインに思わず見とれていると、
「っ!」
何をされたわけでもないが、尋常じゃない威圧感がカイリを襲った。背後に振り向くと、またタオルを身体に纏った別の少女が立っていた。湿気ていてもはっきりとしたカールがかかっているベージュの髪からどこか高貴なイメージがあった。先の凛々しい少女よりも背が低いに関わらず、神様並みのプロポーションの持ち主。濡れたタオルはその官能的な凹凸を隠すことができていなかった。
「今の光、何だったんだろうね?」
他二人と違い、その少女は呑気にそう言った。
カイリは空を見つめ、一回深呼吸した。暖かい空気がカイリを落ち着かせる。そして、こう言った。
「悪いのは、神様だ」
そもそも、カイリは神託のために神様に飛ばされただけだった。女風呂に飛ばすとは一言も聞いておらず、聞いていたとしてもカイリの意思で転位先は変えられないのでどのみち逃れられなかった。なので、現状に一切の罪悪感を抱いていなかった。
カイリの思考は既に、三人の少女へ移っていた。神様はカイリをエラーのいる場所に飛ばすと言っていた。もしその言葉が正しいなら、彼女らはエラーと無関係な存在ではないはずだ。もちろん、この風呂場自体が怪しいとも考えられる。
「では、これで」
三人の顔は覚えた。ここはひとまず退散して、この世界にいるらしい協力者を見つけることにしようとカイリは決めた。
カイリはそのまま風呂場のドアに向かって歩きだした。
「呑気に逃がすと――」
背後から聞こえた低い声。振り向くと、最初に目があった少女が空を飛んでいた。
服を着ていない筈の彼女の身体には、白い甲冑とマントに包まれていた。女であったことに油断していたカイリは、少女の速さに動くことができなかった。
「思ってんじゃないわよ!」
気づいた時には頬に手甲がめり込んでいた。カイリの体は宙を舞い、ドアに強く叩きつけられる。そしてそのまま気絶してしまった。
目が覚めたとき、カイリは両手を体に縄でぐるぐるに縛られた状態たった。縛っている縄は繊維的には普通の縄で、縛り方もただぐるぐる巻いただけだった。だが、表面に何やら奇妙な模様が描かれていた。その文様が何らかの力を生んでいるのか、カイリが力を入れてもびくともしなかった。
手で触らなくても分かるぐらい、カイリの頬は赤く膨れ上がっていた。心臓が脈を打つように頬の痛みはズキンズキンと頭に響かせていた。
顔面めがけて本気で殴るなんて容赦ないなとカイリは思った。体が吹き飛ぶほどの鉄拳は、カイリのように頑丈でなければ首の骨にまでダメージがいっていただろう。
とはいえカイリは、本気で殴られても文句を言えない事をしていたことに違いないが。
「あ、変態が目覚めた」
冷ややかな声の元に顔を向けると、二番目に見た薄紫色で長髪の少女がカイリの隣で腕を組んで立っていた。
今はバスタオル一枚ではなく、菫色のかわいらしいパジャマを着ていた。
「君は、男だったのか?」
カイリは躊躇いも無しに言葉にしてしまった。髪の長さや胸を見ると女なのだが長身であることや顔が凛ととしていること、声が低めであることを考えると男性だと思えないこともない。
彼女の瞳はよりいっそう釣り上がった。
「さっきじっくりとお体拝見していたくせによく言うな! その眼は! さっき! 男の体を! 眺めていたと! 言いたいのか!?」
後悔するまもなく、少女の罵声がカイリの頭にガンガン響いた。
「いや、女の身体を見ていた!」
言ってからカイリはまたもや遅れて失言だと気付いたが、遅かった。彼女の顔がみるみる真っ赤に変わっていった。
「もう一発顔に欲しいようだなっ!」
「……すまん」
縄でぐるぐる巻きにされているという立場のカイリは、たとえ理不尽な誘導をさせられていたとしても謝る以外の選択肢がなかった。少女はフンとそっぽを向いていた。
カイリが現在捕まっているのはどこかの廊下のようだった。カイリから見て左側に赤と青の暖簾がかかっていること、この男勝りな少女の髪が乾いていないことから風呂場の近くであることは推測できた。
廊下はレンガ模様の壁に質素な灰色の床。壁には中世欧州を連想させる蝋燭が並んでいた。廊下は洋、風呂場は和。なんともおかしい建物だと思ってしまうが、それはカイリが余所者のだからだろう。そもそも『洋』と『和』の概念がこの世界にもあるとは限らない。
「レティはいいわよね、見られてないし」
「胸、凝視されたけどねー」
「私は生よ、生! はーぁ、もうミンチにしても晴らせないわ。この気持ち」
残り二人が、暖簾の奥から姿を現した。男勝りな少女と同様、二人ともパジャマだ。
そしてカイリを見るや否や、露骨に嫌な顔をする人が一人。彼女は最初にカイリが見てしまった小さい少女だ。風呂場の時はそれどころじゃなかったため気にしていなかったが、改めて見ると彼女だけは他二人より一回り背が小さかった。
目が合うと、彼女は自分の胸を庇うように腕を体に巻いた。
「何よ、そんなじろじろ見ないで」
カイリの事を心底嫌っているようで、彼女は遠い位置からカイリを罵倒した。
「どうやって風呂に入ってきたかは知らないけど、ざまぁないわね」
カイリを見下す紺色の大きな瞳には、怒りと侮蔑が込められていた。
「その件に関しては、申し訳ない」
神様が、エラーがと言っても信じてもらえるはずが無い。この状況をすぐにでも脱したいカイリは謝る事にした。縄で縛られているので頭だけ下げて。
「とか言ってるけど、どうする? アンリ」
「分かりきった事を訊くな、ミシュ。許すはずが無い」
カイリの隣に立つアンリはきっぱりと言い切った。ミシュと呼ばれた小柄な少女はその答えに当たり前よねと同意した。
「なら、もう一発殴っていい?」
「いや、ここは『校長』に引き渡して尋問をしてもらおう。さきほど連絡をしておいた。その方がこいつも地獄を見る」
カイリは思わず目を見開いてしまった。カイリが一番回避したかったのは、これ以上騒ぎが大きくなってしまうことだ。特に、校長などという地位の高い人間に事が知れたらどのようになるか分からない。それなら、あの背の小さい少女に殴られている方がマシだ。
「確かにそれが妥当だけど……やられっぱなしで校長に引き渡すのは何か癪だわ」
小柄ながらも偉そうな口調のミシュと呼ばれた少女は、自分で罰を与えたくて仕方ないらしい。
「お願い! もう一発!」
「ダメだ。記憶が飛んだら困るだろう?」
そういう問題かよ、とカイリは口を挟みそうになったが止めた。
アンリの答えにミシュは不服そうに頬を膨らませながらも、それ以上は言わなかった。
「この大剣はどうするの?」
三人目の子がどこからか大剣を出してきた。藍色のそれはカイリが神託のために持ってきた武器だったが、いつの間にか取られていたらしい。
カイリは神様に託された『大切な物』も取られたかと、足を動かしてポケットの感触を確認した。幸いにも無事だった。
「レティ、見知らぬ武器には触るんじゃない。何が仕掛けているか分からない」
アンリはレティという子に厳しく注意した。レティはこくりと頷くと、その言葉に素直に従い、手にしていた大剣を床にそっと置いた。アンリの警戒心にカイリはほうと感心する。確かに二つ三つ、その大剣には
「案外鋭いな」
「ふん、当然だろ。自分はお前を一切信用していないのだからな」
カイリの称賛を当然と鼻で笑うアンリ。誉めているのに、とカイリは肩をすくめた。そして、アンリより奥で未だにカイリの大剣に興味を持っている少女に声をかけた。
「えーと、そこのレティ……だっけ?」
「私はレティシア=フォンティーヌ。きみは?」
「……へ?」
「名前言ったんだから、君も言うの。礼儀でしょ?」
子供を指摘するような口調でカイリに名前を求めてきた。変人扱いされているはずのカイリに。
「……俺はカイリ=ロイスウェル」
「よろしい」
流れのままに名乗ってしまったカイリに、満足げに頷くレティシア。ほんわかとしながらも、きちんとした性格の持ち主であるらしい。ベージュのツインテールもぴょこんと跳ねた。
「その剣、ホントに危ないから触り続けない方がいい」
「そうなんだ。ありがとう、カイリくん」
レティシアは礼をいった。あまりにも無垢な笑みに、手が動かせるなら頭をむしゃくしゃに掻きたいぐらいむずがゆかった。
「ありがとう……じゃないわよ! 何このむっつり変態に名前言ってんのよ! ねっとりべったりストーキングされるかもしれないわよ!」
「酷い言い様だな」
「馴れ馴れしく喋らないで」
思わず苦笑したカイリを、ぴしゃりと黙らせたミシュ。
「へ? でも、なんか悪い人じゃなさそうだし」
「こんな悪人みたいな顔をしてるのに?」
この言葉はカイリの心にずきりときた。きっと彼女はカイリの目を見てそう思ったのだろう。人より鋭いせいか、睨んでいないのに睨まれたなどの難癖つけられることが多かった。
「それ、根拠ないよー?」
「女風呂に堂々と現れたという事実は?」
「きっと、何かのミスだよ、事故かもしれないし」
「事故って言える余裕があるアンタが羨ましいわ……。直に見られてないとはいえ、なめ回すように見られているのよ?」
「私ぐらいのないすばでーなら仕方ないよ」
「ここで自慢!? 身長も胸もちっこい私に対する自慢か!?」
いつの間にかプロポーションの話になっていた。アンリは小さくため息をついた。どうやらいつもこんな調子らしい。
と、呑気な考えをしていた自分の頭を、カイリは一回リセットした。少女らが引き渡そうとしている『校長』とやらが来るまでに何らかの手を打たねばならない、とカイリは考える。こんな序盤で騒ぎを起こしてしまっては、今後のカイリの行動範囲を狭めてしまうだけである。
「何を考えているかは知らないが……校長は直に来られる」
静かにしていたカイリを何か企んでいるのかと思ったのか、アンリが釘を刺した。
校長という呼び名から、ここが学校である可能性は高い。魔法が存在する世界における校長は、優れた才能と経験を持つ人物が選ばれることが多い。最悪、カイリでも勝てない相手かもしれない。いくらカイリが神遣いであろうと、二十歳にも満たない子供にすぎない。経験の差で実力の差が覆されるというのはよくある話だ。
カイリは次々と押し寄せる不安を心から追い払った。たとえカイリより強い人物が来ても、何か出し抜くすべが見つかるかもしれない。
カイリの不安が払拭されようとした、まさにその時。床を震わせるほどの足音が、地を鳴らす。絶えず騒がしかったミシュとレティシアも口を紡いだ。
カイリはごくりと喉を鳴らした。
「アンリエトが儂を呼ぶとは珍しい。何があった?」
そして、その男は姿を現した。まず目に入ってくるのは二メートルほどの大きい胴体。白色のスーツのような服の上からでも分かるほど筋肉隆々で、その存在感はまるで熊のよう。顔はいかつく、髪は白銀の鬣のような型をしていた。
――まさか。
しかしカイリは、不思議とその男性に恐れを抱かなかった。
「こいつです、校長。武器を所持したこの男が、突然女風呂に現れました」
アンリ、もといアンリエトは校長の隣に寄り報告した。
「なるほど……む?」
「どうされました?」
眉をしかめた校長に、アンリエトは問い掛けた。校長はカイリの顔をじっと見つめて、ポンと手を打った。
「もしかして……カイリ=ロイスウェルくんではないか?」
「やはりあなただったか、ギスラン=ラフォルジュ。こんな人間離れした顔はあなたしかいないと思ってたよ」
「ははは、相変わらず生意気なことを」
カイリとギスランは笑いあった。彼こそ神様の言った現地協力者だったのだ。
顔見知りだったのは完全に想定外だったが、それ故に動きやすい。カイリは一気に晴れた気持ちになった。
予想だにしないこの状況にキョトンとする三人。覗き魔と校長が高らかに笑い合っているのだから無理もないだろう。
「で、お前が女風呂を覗いたというのは本当か?」
「事故だ。神様の気まぐれで」
神様、という言葉にギスランは納得した表情を浮かべた。
「事故なんかじゃないです! こいつ、下心ありまくりで入ってきたんですよ!」
ギスランの反応が納得できないのか、ミシュはカイリをびしっと指さして抗議した。
「自分もそう思います」
すかさずアンリエトもミシュを擁護した。これもまた、無理のないことだ。風呂場で覗かれたのにも関わらず、無罪になろうとしているように見えたのだから。
「ミシュリーだけでなくアンリエトも、か」
ギスランは困ったように二人の顔を見た。
ミシュ、もといミシュリーとアンリエトは必死に説得し始めた。
困り果てたギスランは一度ミシュリーを黙らせて、もう一人に尋ねた。
「レティシアはどう思う?」
「私ですか? ……事故なら、なんで転位したのか理由が聞きたいですねー」
「っ!?」
このレティシアの問こそ、カイリが一番恐れていた質問だった。
「神様の頼みでやってきた」などと言えるはずがない上、口が達者でないカイリは方便で乗りきれる自身がなかった。
「あれ? なんで黙っちゃったの?」
「沈黙の肯定ってやつか」
「ふふーん、やっぱり変態なのね!」
レティシア、アンリエト、ミシュリーがカイリを煽るように言った。
「そうか、なるほど」
そしてギスランまでも頷いた。まさか、同じ『神遣い』である彼が――
「分かった。儂の部屋に連れていく」
それはこの場を収める最大の一手だと、カイリは感心した。合理的に彼女らから逃れることができ、冤罪が晴れ、更には情報が集めることができる。一石三鳥に、もしかしたらそれ以上になるかもしれない。
「そして、こいつに真相を喋らせ、正しい処置を取る。もちろん、お前たちにその真相を話し、儂の決めた処置に納得すればだ。それなら文句はあるまい?」
もちろん、校長の判断に抗う者は誰としていなかった。ギスランは大剣を拾い、カイリを片手で乱暴に立たせた。
カイリは立つ際に、三人には気付かれないようにギスランに耳打ちをした。それを聞いたギスランは三人の少女へと振り返った。
「そうだ、こいつがここに現れたのを見たものは他にいないか?」
「ええ、いないと思います」
「風呂に入りかけた、または出たばかりの者とかは?」
「そういう人もいないと思います。こんな昼間からお風呂に入る人はあまりいませんし、更衣室で人影も見てません」
「分かった。ありがとう、アンリエト」
アンリエトは礼儀正しく一礼する。彼女の様子を見るに、ギスランはかなり慕われているらしい。だとすれば余計に情報収集に使えると、心のなかでほくそ笑んだ。
「ギスラン校長にこっぴりと骸骨になるまで搾られるがいいわ!」
ミシュリーの勝ち誇った声を聞きながら、勝ち誇った表情でカイリはその場を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます