別の顔
「蓮さん、解剖室の深山さんから呼び出しです」
「ああ、分かった。今行く」
業務が忙し過ぎる為か最近はまともに食事をとる時間もない。今日は珍しく昼食がまともに摂れたと思いきや、ラボに帰った途端解剖室から呼び出しがかかった。エレベーターのボタンを押しながら胃の中を空っぽにしておけば良かったと後悔する。
今日は先日神奈川港で起きた殺人事件の現場検証を午前中に終らせ、午後は被害者の関係者に話を聞く事になっていた。ある程度の事件なら被害者の関係者を洗っていくうちに事件の解明に結びつく証拠を発見したり、容疑者の目星が付いたりする。しかし今回は一筋縄ではいかない事が既に明白であった。
被害者の関係者といっても彼は元アテーナであったが、今は引退し年金生活で悠々自適な生活を過ごしていた奴である。社会的に閉鎖されて生活する老人の関係者を当たると言っても大概限られている為、有力な情報が聞き出せる可能性はあまり望めない。そうなると現場に残された証拠が頼りになるのだが、今回の事件はあまりにも物的証拠が少なく、捜査は難航していた。深夜の港であった事から目撃者は皆無に近く、証言として証拠を提示出来る第三者もいないとなると、特捜チームはお手上げ状態である。そして知能犯罪組織アテーナの関与。これが大きなネックとなっていた。
そこで頼りにするのが科学捜査班の分析結果である。チームは皆、藁をも縋る気持ちで深山の分析結果を待っている。そこで新たな情報が出るとは到底思えないが、彼の業務を評価するには丁度いい頃合いだと高橋も思っていた。優秀な監察医がどこまで優秀なのか。アメリカで養った監視医としての素質がどこまであるのか。チームの力になるのか。今回の事件のリーダーとして精査する必要が高橋にはあった。
エレベーターを降りると大きなホールがあり、そこに「科学捜査部研究所」と案内がある。地下3階は何度来ても慣れない。ガラスが何重にもなっている自動扉を越え、網膜認証、IDスキャンをしてからでないと科学班のラボに入れない。ここに入れるのは特別捜査部のチームのリーダーから上の階級に限られる。つまり高橋が率いるチームでは、高橋と神田のみここに入る事を許されていない。生体実験なども行なう現場では常に厳重のセキュリティが敷かれていた。
また、この建物内では科学班のラボだけ陽圧室になっている。室内をクリーンに保つ為、外からの感染源を含む可能性のある空気を一切入れない作りになっているのだ。
扉を潜るとガラス張りになっている研究所がいくつも並び、まるで植物の細胞のようである。白を基調とした壁はラボ内の光を上手く反射させ、陰湿な空気は全く感じない。しかし白衣の中に真っ黒なスーツな自分はいつだって目立つ。色々な角度から皆の目線が刺さる。何となく天使と悪魔みたいだと思った。
天使と言っても彼等は犯罪を明るみにするエリート科学者だ。ここは閉鎖されたマッドサイエンティストの穴蔵…….そんな事を公言したら特捜のリーダーを降格されてしまいかねないが、これは褒め言葉だ。そう声高に言いたい程、東京支部の科学班は分析に執念を持っている。全体の人数はそこまで多くないが、深山に聞いた所、全員最低でも10件は常時事件を担当しているというから驚きだ。一番忙しいと言われている特捜の自分のチームでさえ、担当する事件が3件を越える事は滅多に無い。熱心に顕微鏡を覗く科学班員を横目で見つつ心の中で労いの言葉を掛けながら、奥にある解剖室へ急いだ。
奥に進むにつれ空気が重くなる。「解剖室」と書かれた異質な空間。鉄で出来た扉を見るとここだけ気温が低いのではないかと思ってしまう。深山が来るまではここに特捜のチームが入る事は殆ど無かった。しかしチームで行動しなければならない程の事件が立て続いている今、他職種の連携はより必要になってくる。その事は充分に理解しているのだが、改めて検視をするとなると話は別だ。死体を見るのは慣れているものの、改めて死体が並んでいる部屋に入ると思うと身体が強張ってしまう。
「これもリーダーの務めだな」
そう心の中で呟くとIDをスラッシュさせ、解剖室へ入って行った。
部屋内は先日来た時とあまり雰囲気は変化していない。死体を乗せるアルミのストレッチャーが何台か連なり、左奥の部屋の隅には壁一面に扉がついている。あの壁の中に何体もの死体が眠っていると思うと背筋が異様に寒くなる。先日は深山が解剖中であった為、たくさんのグロテスクな機器が配置してあったが今はキレイに片付けられている。が、肝心な深山がいない。
「深山、高橋だ」
自分の声が反射する。静かだ。電気も中央の主要電源しか付いていない所を見ると、部屋の奥にはいない様子である。
「深山?」
声を出していないとこの部屋の陰湿さに身体が巻き込まれそうだ。この部屋はこの世とあの世が混じっている。そんな感じがする。
カツカツと自分が歩く度に靴が鳴る。それが部屋内に響いて耳に届くだけであとは何も音が聞こえない。まだ部屋に入ってから1分も経っていないのにも関わらず、息苦しくなってくる。この部屋に毎日長時間いる深山は神経が麻痺しているんじゃないだろうか?
「おい、深山どこにいるんだ?」
部屋を徘徊していると視界に例のアルミの扉が目に入った。よく見ると扉にナンバーがふってあり、下にあるカードには死亡推定日と名前、性別、年齢、死亡した場所が書いてある。この様にして死体を管理しているのかと思い、壁一面にある銀の扉一枚一枚に目を配らせる。
『篠田紀子 女性 65歳 20○○年 9月14日 光町公園にて』
『北島光太郎 男性 78歳 20○○年 10月30日 自宅にて』
『福島慶太 男性 33歳 20○○年 9月29日 湊駅にて』
ざっと目を通しても年齢や性別、死体の置かれた所も様々である。最近は高齢者が自宅で療養する傾向にあるからか独居で自宅で一人亡くなる方が少なくないという。在宅医療やヘルパーなどを受けていればいいが、何もサービスを受けていなく、また誰も訪問する人がいないと自宅で死んでいた事に長期間気付かなかったという例も今は多くなってきているらしい。死体の第一発見者が警察を呼び、警察が明らかに事件性がなく老人の突然死だと判断しても、必ず「不審死」として定義しなくてはならず、監察医で解剖をしなくてはならないというから制度とは大変だ。その場合、東京支部は呼ばれる事なく地元の警察も地方の国立大学などの法医学者に依頼し検死を行なってもらうのだが、警察が明らかに事件性があると判断し、それが猟奇的である場合、犯罪組織が関わっている場合、テロなどの可能性がある場合、国家機密に関わる場合には東京支部の科学班の監察医に依頼が来る事になっている。そこまで件数としては多くないと思っていたが、最近2ヶ月の死体がここまであると検死官の業務の多忙さが計り知れる。
更に目を通して行くと見覚えのある名前を発見した。
『須藤俊介 男性 70歳 20○○年 8月15日 玉川土手河川敷にて』
『笹野信二 男性 74歳 20○○年 9月26日 木島製作所倉庫内にて』
『谷広太 男性 69歳 20○○年 11月1日 神奈川港波止場にて』
ここ3ヶ月で起こっているアテーナの元幹部の連続殺人事件の被害者だ。三人共通して殺害場所が人通りの少ない場所であり、目撃者もいなく殺害方法も銃で頭蓋を撃たれ殺されている。手足を拘束された形跡もあり、先日見つかった谷の場合は抵抗した痕がなかったが、残りの二人は死前にかなり抵抗したと思われる。犯行場所に犯人の証拠は一切なく、犯罪に精通している者、前科者、殺し屋など殺人を生業としている者など様々なプロファイリングがなされているが未だ決定的な証拠は見つかっていない。しかもアテーナを敵視している組織や人は国内だけでなく海外にもいるのだ。国際犯罪にも関与していると仮定すると捜査は難航を極めていた。
ふと谷の死体が入っている扉に手を伸ばしてみる。死体を見たい訳ではないのに身体が勝手に動く。どこか第三者が自分を客観視しているような感覚に襲われる。ここの空気は何か含んでるんじゃないか?そう頭の隅で思った言葉もすぐ消えて行った。
壁に埋め込まれた取っ手に手を掛け一気に引いた。ガチャンという音と供に谷の死体が現れた。
「白いな……」
何故こう呟いたのか分からない。が、自然と口から出ていたのだ。血の気が無くなった死体は高橋の言う通り異様に白かった。
頭に弾痕の痕。少し銃創の付近にやけどの様なケロイド状になった皮膚の跡がある。近距離で撃ったせいだろう。犯人はよほど被害者に恐怖を植え付けたかったに違いない。頭の傷以外はあまり外傷がない。本当に眠っているようであった。しかし身体は冷たいのだろう。人は死ぬとこんなにも綺麗なのに、こんなにも人間からは遠く離れてしまうのか。そう思うと見ているのが辛くなった。
「痛かったか?」
言った瞬間バカな事をしたと後悔する。返事がないのは百も承知だ。自己嫌悪に陥りながら死体を壁の中に返そうと、取っ手に手を伸ばした。
「一瞬だから痛みは感じませんよ」
突然後ろから声がして高橋は驚きの余り飛び上がる。その瞬間にガンと腕をストレッチャーにぶつける。
「お、おまえ!驚かすな!」
「すみません。気付いてるかと思ってました」
詫びの言葉とは裏腹にニコニコと笑みを浮かべながら歩いてくるのはこの部屋の責任者の深山である。キザな眼鏡の奥にある目が「面白いものを見た」と言っているようにも見える。
「腕大丈夫ですか?凄い音しましたよ?」
「うるさい」
「本当にすみません。IDがスラッシュした音聞こえませんでした?」
「そんなもの気付かない。消音にしておいたんだろう」
「そんな事しないですよ!」
余程集中していたんですね。と高橋の顔を伺いながら呟く。何となく深山に弱みを握られた様な感じがして、深山を睨みつつ奥歯を噛んだ。
隣に来ると今まで見ていた谷の死体に目を向ける。
「谷広太の遺体を見ていたのですか?」
「ああ」
すると深山が「失礼」と言いながら、谷の遺体が横たわったストレッチャーを全て壁から引き出した。金属が擦れる嫌な音と供に谷の身体が露になる。
裸にされた青白い物体。金属の板に眠らされている谷はもう人間だとは思えなかった。
「まず遺体を見る時はまず、検屍時の体温の冷却程度、死斑の発現、死体硬直の状況、眼の角膜の混濁度、全身の腐敗状況をチェックし、またその結果と死体が置かれていた環境要因を照らし合わせながら検屍を行ないます」
そう説明しながら深山は部屋の隅にある棚からゴム手袋を持って来て、一つを自分に渡した。何かレクチャーをするつもりらしい。
「一口に死後経過時間と言っても、外気温や湿度、死体が置かれていた場所、着衣をしていたかどうかなど、たくさんの外的要因によって遺体の損傷度は変わってくるんです」
手袋を付けると深山は谷の身体の皮膚を優しく押す。眉間に皺が寄るのが自分でも分かる。
「彼の場合は波止場ですから海辺という事になります。そうすると風通しも良いですし、昼間は日を浴びますね。その事による組織損傷とあと潮風は遺体の損傷を早めるので、長時間放置されている場合皮膚損傷が通常より早まります」
高橋も特捜部に入る前このような講義は何度も受けて来た。検屍については専門家程ではないが、ある程度は知識がある。
「裸体ではなく普通一般の着衣をしている死体だと、死後十時間から十二時間で外表のいづれかの部位にも温かみを感じなくなり、死体解剖時では十五時間から十七時間の死後経過で内臓にも温かみが消える……そうだろ?」
深山が嬉しそうに笑みを浮かべる。まだコンビを組んで日が浅いが、こんな楽しそうな表情をする深山を、初対面の頃は想像もできなかった。
「死斑というのはご存知ですか?人は死亡する事により心臓の拍動が永久停止し、血液循環も停止します。死体が一定の姿勢のまま置いておかれると、血管内にある血液は重力の方に向かって落ちていくんです」
「うつ伏せの状態で死んでいれば身体の前面に、仰向けで死んでいれば身体の背面に死斑が出来るという事か」
「その通りです。谷の場合、彼は座ったままで殺されていました。なのでこのように仙骨部という座った時に地面に付くお尻の骨の周囲に死斑が出現しています」
そう言って深山が谷の死体を横向けにする。彼の臀部に黒っぽい紫色の死斑があるのが分かった。
「死斑についても慎重に鑑別します。まず死斑の発現部位とその程度、死斑発現の遅速、死斑の移動、死斑の色調などです」
「死斑の移動?どういう事だ?」
谷の身体を慎重に元に戻すと、深山は淡々と言葉を続けた。
「死体は動かされていると死斑が発現しない場合があるんです。実際に海や川の漂流死体では死斑が明瞭に発現しない事があります」
「それは重力が一定にかからないからという事か?」
「その通りです。死斑というのは死体に発現してから四時間から五時間はまだ固定しない為、体位つまり身体の向きを変えると死斑が消える事があるんです。例えば殺人現場で第一現場で殺し、車などで第二現場まで運び放置したという場合は死斑が見られない事もあるんです」
「じゃあそういった場合はどうするんだ?」
そうですね…と深山が少し考える素振りを見せる。
「実は死斑というのは解剖してみると腎臓や肺にも出現するんです。余りにも判別が難しい場合には組織標本を使って血管外に出ている出血なのか、それとも血管内なのか判別しなければなりません」
「谷の場合だとどうなんだ?」
やっと本題に入ろうかと谷の事を切り出すと、深山がハッと気付かされたように目を開いた。
「そうですね。そういえば捜査の事で話があったんでした。ちょっと待って下さい。資料持って来ます」
そう言いながら手袋を外すと、深山は解剖室の奥にある資料庫に小走りで走って行った。自身の専門に関して熱心に語る彼の目は、いつもの冷淡そうに見える表情を幾分か明るくしていた。深山はきっとこんな話をするのが楽しかったのだろう。アメリカから帰国してすぐに慣れない場所でヘッドハンティングを受け、こんな陰湿な場所に閉じ込められているのだ。滅多に同情しない高橋でも彼の今の状況はあまりにも不憫だと思う。そんな深山の意外な一面を今日は垣間見た気がした。
資料を取りに行く後ろ姿がやけに嬉しそうで、一緒に遊ぶ友達を見つけた子供のように見えたのは自分だけだろうか?
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