陰謀
街路側のライトが眩しい。既に日付が変わって二時間経つ。この時間帯は道路も空いているは当然だろう。終電を逃したのだろうか。疲れた表情をしたサラリーマンがタクシーを止めているのが目に入る。
道路を挟んで反対側に先日高橋と一緒に食事に行ったレストランが見えた。あの時は本当に楽しかった。あの時と今では様々な事が起こり過ぎた。そして様々な事が変わってしまった。高橋は無事だろうか。
高速道路に入ると車も深夜を走るトラックだけで、車もまだらである。あと1時間。指定された場所は三島が殺されたセメント工場の近く。海外に物資を運搬する為のコンテナ倉庫だ。あの辺りは工場が乱立し、住民も住んでおらずコンテナを降ろしに数日に一度トラックが往来するだけとなっている。悪く言えば無法地帯。犯罪が起こっても昼間ならともかく、深夜など気付かれる事はまずないだろう。
助手席に座る神田は、東京支部を出発してからずっと窓の外を見ている。高橋が運転していた時の自分みたいだ。
志摩は最後まで深山を止めた。行く必要はない。高橋を助ける他の方法を探そうと。しかし深山の決心は堅かった。何しろ時間が無い。高橋の居場所さえ掴めていないこの状況を、たった2時間で好転出来るはずもなかった。
車に乗り込む神田に志摩は言った。「深山をお願いします」と。それに神田が深く頷く。志摩と握手をしたのはこれで最初で最後になるだろう。
「お前は素晴らしい捜査官だ」志摩が認めてくれた言葉に、深山は微笑み返した。
オレンジ色のナトリウムランプが定期的に車内を明るく染める。神田は何を思っているのだろう。これからの交渉の事か。新藤の事だろうか。それとも高橋を救出した時、彼の処分をどうするかだろうか。出口まであと4kmという表示が出る。自然と緊張や恐怖は感じない。今は高橋の無事だけが心配であった。
「神田さん、一つ聞いていいですか?」
「なんだ?」
「蓮さんを救出した後、彼の処分はどうするんですか?」
神田が窓から目を離して深山の方を見る。明らかに苦い表情をしているが今は気にしてはいられない。
彼も今は考えたくないだろう。しかし深山はアテーナに交渉に行く前に高橋の処分に関しては聞いておきたかった。目前に続く規則的に並んだランプを見ながら神田が口を開く。
「あいつは法を犯した。それは紛れもない事実だ。それ相応の処分をしようと思っている」
「刑事訴訟を起すという事ですか?」
神田が言葉を詰まらせる。
「それはまだ分からない」
神田には珍しく不明瞭な回答だった。しかし深山は分かっていた。
神田が明確に高橋の処分に関して公言出来ないのは、彼も少なからず高橋の行動を黙認し、容認していたからだ。高橋が殺したのは皆法を犯し、今までのうのうと生きていた者達ばかり。神田も身分上高橋を処分しなくてはならないが、それ自体彼にとって不本意な行為なのではないか。その解釈は少々逸脱しているだろうか。
道路を走っているのがこの車だけになった。暗い夜道を白線に沿ってただ走り続ける。まるでレールの上を歩いている自分達のようだ。国民にとっては法に則って捌く正義の象徴。しかし自分の価値観や倫理には蓋をしなくてはならない。ただ法というレールに沿って正義を行使するだけの業務なのだ。
「神田さん、正義ってなんでしょうね」
高橋を見ていると「正義」とは何か分からなくなった。法に基づいて裁きをするのが正義なら、法を逃れても黙認されている者達は放っておいてもいいのだろうか。
「僕は蓮さんの殺人には一種の正義があるのだと思います。もちろん人を殺めるのは正義とは言えません。しかし僕達が所属している警察は他人からの正義の押しつけをされている対象なのではないかと思ってしまうんです」
「それはお前が警察に所属してから感じた事か?」
「蓮さんの行動には自己的な正義感があります。だからこそ、あなたも彼の行動を知りながら黙認してきた。あなたは彼を認めてしまっているんです」
神田の目は何か遠くを見ているようだった。
彼自身も高橋に何かを期待していたのかもしれない。昔、神田は高橋の上司を失った。アテーナと言う巨大組織に対して何も出来ない事を悔やんだはずだ。しかし東京支部の特捜部という大きなものを背負い過ぎてしまったせいで、彼の過去の思いはどこか遠くへ行ってしまったのだろう。それを実行したのが部下である高橋だったのだ。自分には出来なかった事、自分には無かったものを部下の高橋は持っていたのだ。
沈黙が車内を包む。この沈黙が神田にとっての肯定の意のように深山には思えた。
「”正義とは、ほぼ同等の力の状態を前提とする報償との交換だ”というニーチェの言葉があります。自己的な正義でも、何かを実行するとなると報償や犠牲が伴うのです。蓮さんはこれを充分理解していると思うのです」
「だから見逃せと?」
「新藤さんの死がこれに値するとは思っていません。しかしあなたも少なからず蓮さんの行動を見て見ぬ振りをしていたという事を忘れないで下さい」
高速道路の出口を知らせる矢印が見えてきた。車載GPSが切れている事を確認する。ここからは彼等の領地だろう。高橋の命が最優先の今、不審な行動は出来ない。
ウインカーを切ると車は暗い夜道へと入って行った。神田はもう何も話さなかった。
高速道路から降りてから10分。市街地を真っ直ぐ海の方へ走った所に指定された場所はある。
道は途中から整備されておらず、砂利道が続く。一角に気休め程度の草むらを見つけると車を停める。深山と神田は車から降りると辺りを歩き始める。
辺りは暗闇に包まれ、コンテナを収容する倉庫が乱立している。タンカーが荷揚げをする為の大きなクレーンが真上に見える。
静かだ。時折波の音がするだけで他には何も聞こえない。少し風が出てきただろうかトレンチコートだけでは肌寒い。すると深山の携帯が静寂を破った。静かであるせいか一際音が反響する。
神田がこちらを見てくる。彼も少し緊張しているのだろうか。いつもより表情に険しさがある。電話を耳に当てると男の声がした。
『追っ手はいないようだな』
やはり追跡されていたようだ。
「蓮さんはどこですか?」
『お前から見て右から3番目のコンテナを左に曲がれ、そして正面の建物の右側に収容するコンテナの集積場がある。そこへ来い』
そう言い放つと電話は一方的に切れた。
「場所を指定してきました。追っ手がいない事も気付いているようです」急ぎましょう、そう言って神田に目配せをする。夜の海風を感じながら指定された場所へ二人で向かった。
*
隣に立つ男が電話を切る。相手は深山だろう。易々と敵陣に乗り込む相棒を見るくらいなら殺して欲しい。そう何度も願ったが、こいつらは最後のショーを自分に見せたいらしい。数時間前から意識が薄れると頭から氷水を掛けられ、意識を戻される。それが三回くらい続いた。
身体は冷えきり、散々殴られたせいで身体の至る所が悲鳴をあげている。撃たれた腕と殴られた頬の感覚は既になく、額から流れていた血も既に乾止まっていた。
「お前の相棒がもうすぐ来るぞ」
電話をコートの中に入れながら男が口を開く。十数人はいるかと思われる組織の人間が高橋の周りを囲み、深山と神田の到着を待っていた。アサルトライフルを脇に抱え、腰には拳銃がささっている。こんな重装備の奴等に丸腰の捜査員二人が立ち向かうなど無理な話だ。心の中で深山と神田が引き返してくれる事を願う。
自分はきっと殺されるだろう。そう高橋は直感していた。深山と神田は無関係だ。しかし自分はアテーナにとって敵であり、深山を得た後で自分を生かしておく必要は彼等にはない。
「なあ、一つ聞いていいか?」
殺される前に確認しておきたい事があった。
「なんだ?」
「お前が……父さんと家族を殺したんだろう?当時の幹部の生き残りはお前か?」
晴れた瞼で横に立つ男を見る。彼は少しの笑みを浮かべるとサバイバルナイフを取り出し、高橋の座る椅子の背後に回る。
「自分の目で確かめてみろ」
言葉と共に椅子に括り付けられていた拘束が解かれる。腕はまだ後ろで縛られているが足が自由になる。高橋は重力に逆らえず前に転げ落ちた。
「さて、相棒様の到着だぞ」
倉庫のシャッターが開く、高橋に二つの影が見えた。
「特捜部捜査官の神田と深山だ。命令通り交渉に来た」
神田のいつもの凄んだ声が倉庫内に響き渡る。シャッターが閉まると倉庫内は最小限の電気だけ付いており、薄らと神田と深山の顔が見えた。
「武器は?」
「言われた通り所持していない」
「調べろ」
隣にいる男が部下に指示する。アサルトライフルを脇にずらすと部下二人が神田と深山の方へ向かう。身体を調べられている間、二人を見る。しかし、ここまで巻き込んでしまったという申し訳ない気持ちが大きく、高橋は二人の目を直視出来なかった。
「武器も盗聴器もありません」
「分かった。さて交渉に移ろうか」
武器を持った男が高橋を無理矢理立たせる。あまりの痛みで表情が歪む。
「特捜部は深山真也を手放してもいいと判断したのか?神田さん」
男が声を張りながら神田に問いかける。
そうだ。生きて特捜部に帰れたとしても自分は犯罪者だ。特捜部から考えても、自分と深山の人質の交渉は余りにも無意味であるのは明確だ。
神田なら分かるだろう。特捜部長を務め、支部の利益、組織の繁栄、捜査の進展を一番に考えてきた男。部下を使う事に何も厭わない彼なら、自分を捨てる事に賛成だったはずだ。なのに何故。
「俺は既に特捜部長を解任された。今はお前等が捉えている高橋が特捜部長兼チームのリーダーだ。そして深山の意志を尊重した結果の判断だ。迷いはない」
「あんたは部下の事ならどうなってもいいのだろう?特捜部などいくらでも代わりがいる。深山やこの高橋も、既に代替品を用意しているんだろう」
男が神田に言い放つ。しかし神田は屈しなかった。
「俺は、高橋を処分するつもりはない」
倉庫内に響き渡る低い声に皆の目が集まる。神田の言葉にアテーナと隣にいた深山が驚いた表情をする。一番驚いたのは高橋だった。
「どんな気の迷いなのかね」
「高橋は法を犯した。しかし、彼は自分の信念に基づいて行動し正義を曲げなかった」
「こいつは犯罪者だぞ?そんな奴が警察にいていいと思うのか?」
「高橋を許すとは言ってない、高橋は人を殺めた。これは事実だ。しかし正義を守るという事では彼は間違っていなかった」
神田が言葉を続ける。
「秩序を守るだけが警察ではない。秩序を守るだけが正義ではないのだと彼は教えてくれた。だから処分はしない」
尋問室で神田と話した事を思い出す。新藤が死に、チームは壊滅状態。それでも復讐をやり遂げようとした自分を、必死に止めようとした神田。
彼はただ、大切な部下をこれ以上悪の道に染めたくなかったもしれない。神田は無器用だ。不器用だが部下の事を一番に分かっている。自分の解釈が一方的だったのかもしれない。『人を認識せずして評価するな』と幼い頃父に言われた言葉を思い出す。自分は神田を見間違っていた。今なら彼に謝れる気がした。
「秩序を守る為に法を強行している警察が、自己的な正義を守る事でそのツールを乱用してもいいと言うんだな。面白い」
男は幾分楽しそうだ。すると男が後ろにいた部下に合図をする。
別の男が縛られている腕の紐を上に引っぱり、高橋を無理矢理立たせようとする。
「いっつ….」
痛みを堪える為に歯を喰いしばるが嗚咽が漏れる。
ふらふらとする足でようやく立ち上がるも、顔を上げるのがやっとだ。後ろで腕を縛られている為、上手くバランスが取れない。隣で支えている部下の男の肩に寄りかかる形になってしまっている。
「神田、これで深山の腕を後ろで縛れ」
男が神田に向かって何やらビニールの紐のような物を投げる。どうやら太い結束バンドのようだ。神田はそれを掴むと深山の後ろに回る。
神田に縛られながら、深山は真っ直ぐとリーダー格の男の顔を見ていた。彼の表情からは何も読む事が出来ない。もちろん怒りもあるだろう。そしてこの後自分はどうなってしまうのか不安もあるはずだ。
しかし彼は毅然とした態度で男の命令に従っていた。目には不思議と力があった。
「さて深山をもらおうか」
背中をドンと押される。歩けということか。神田がこちらをじっと見つめている。前から深山がこちらへ歩いてくる。ふらふらと神田の方を目指して歩く。
情けない。本当に情けない。
自分はどこまで人を巻き込んでいるのだろう。14年前に復讐すると決めたあの日も、初めて人を殺めたあの夜も、後悔は全くなかった。
家族もいない。親しい友人もいない。恋人もいない。
自分には何も失うものはないと思っていた。しかし、実際は違っていた。
一緒に仕事をしてきたチーム。自分を兄のように慕い、着いてきてくれた新藤。自分の正義を認めてくれた神田。短い間だったが相棒として一緒にいてくれた深山。
皆の信用と信頼を自分は踏みにじった。自分の私欲だけで大勢の人を巻き込み、犠牲にしてしまった。目に涙が溢れ、歩いてくる深山がぼんやりとしか映らない。ごめん、深山。
隣を深山が通り抜ける。その時、深山が何かを囁いた。
「見てて下さい。蓮さん」
微かに聞こえた彼の言葉。しかし、それが何を意味するのか分からない。酸素の行き届いていない頭では何も考えられなかった。
神田が心配そうにこちらを見る。呼吸が苦しい。物理的な要因から来る苦しさよりも精神的な痛みの方が大きかった。深山は俺を恨んでいるだろうか。父さん、俺は間違っていたのか?
『見てて下さい。蓮さん』
深山の言葉が頭で木霊する。何故だろう。何か引っかかる。嫌な胸騒ぎがする。
「深山…..」
後ろを振り向くと深山が立っていた。銃を手に持って。
急に目が覚め、アドレナリンが全身に回る。
「深山!やめろ!」
パンパンと乾いた銃声が二発、倉庫内に反響する。バタンと人が倒れる音。ドクドクとうるさい鼓動。痛みは飛んでいた。
銃を構えた深山がこちらを見て笑う。この笑みを俺は見た事があった。
新しいおもちゃを見つけた時の子供のような、無邪気な笑顔。
倒れたのは、神田だった。
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