第6話 天才の域に到達した青年

 頭が割れるかと思うほどの鋭い頭痛と、まるで腹の中で生き物が蠢いているかのような不規則で連続的な腹痛。

 今まで一度も感じたことない凄惨な痛みが、アクロを覚醒へと促す。


「いって……」


 頭を抑えながら、上半身を起こし自分の場外を確認する。目立った外傷はなく、意識もはっきりと冴えていた。激しい頭痛と腹痛が収まれば、動くことが出来るようになるだろう。

 お腹をさすりながら込み上げる吐き気を押さえつけ、アクロは周囲を見渡す。

 アクロが座り込んでいるのはおおよそ10メートルは超えるだろう大樹が並ぶ密林の中だった。木々の隙間から差し込む強い日差し、空気の湿り気具合、サウナのような熱さから熱帯的な地域であることは推測できる。

 太陽の位置は丁度真上。アクロの元いた世界と同じ原理ならば、時間は真昼頃。闇夜の中異世界に放り込まれ、夜行性の獣に蹂躙されることが無くなったことにアクロは安堵した。


「セフィア。ラズ。起きろ」


 すぐ隣で倒れていたアジュール姉妹を揺すって起こす。


「……うぅ……ここは……」

「あたた……なんか気持ち悪い……吐きそう」


 揺すり始めて一分経たぬうちに二人揃って目を覚ます。

 二人ともアクロと同じような痛みを感じているためか、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。あのアジュール姉妹にとっても転移魔術は負荷がかかることなのだろうか。


「俺も頭痛と腹痛で参りそうだ……転移魔術はこんなに負荷がかかるものなのか?」

「いえ、そんな筈はありません。慣れてない者が転移したならまだしも、私やラズのような何度も経験した者でさえ副作用があるなんて、私は聞いたこともありません」

「それなら……バルトロの転移魔術が下手だったということか?」

「ヴィオティート家当主たるあの人が、そんなミスをするとは思いません。しかも転移させる対象が私達なら尚更です」


 バルトロはアジュール家に手出しできないと言っていたことをアクロは思い出した。つい先程聞いた筈なのに、遠い昔のように思えた。それだけ先程の転移の時間を長く、濃厚に感じたということでもある。

 では一体何が原因なのだろうかと考えるが、あまりに情報量が少なすぎて解決の糸口すら見つからない。

 アクロは早くも不安に駆られた。“想定していない事態”が早速起きたのではないかと思い始めた。


「とりあえず、開けた場所に移ろう。物陰から襲われたらひとたまりもない」


 アクロは手で身体を支えながら、転ばないようゆっくりと立つ。痛みは引いてないが、慣れてきたためかゆっくりであれば動くことが出来るようになっていた。

 足音どころか、葉の擦れる音すら聞こえないほど静かで誰かいるようには思えない。しかし、魔術の使える世界であれば姿を消し無音で動く方法はいくらでもある。警戒するに越したことはない。

 我ながらいい判断だと思いながら歩きだそうとしたが、アジュール姉妹は全く動いていなかった。


「どうした? まだ動けないか?」


 頭を抑えて蹲る二人が心配になり、アクロは二人に近寄る。

 すると、ラズに腰を掴まれ無理矢理座らせられる。いつもより弱い力だったが、だからこそ逆らうことが出来なかった。


「どうした?」

「もうちょっとここにいさせて欲しいんだけど。この尋常じゃない頭痛と腹痛で動けないわ」

「いやでも、この状況で襲われたら一溜まりもないぞ」


 いくらあのアジュール姉妹といえど、魔術を展開するには僅かながらも時間を要する。不意打ちには対処しきれない可能性がある。不意打ちでなくても今の体調での交戦は良くないだろう。

 ラズはじっとアクロを見つめ、ため息をついた。


「そうね……けど、ちょっと無理そう」


 ラズはふらっと大きく身体を左右に揺れた後、ぽとんと顔をアクロの肩に落とした。

 水色の髪がアクロの視界を覆い、甘いの匂いがアクロの鼻孔をくすぐる。いきなりの出来事にドギマギしつつ、倒れこんだラズの身体を支える。


「おい、どうした!」


 必死に声をかけるアクロ。初めて出会った時から、ラズが体調を崩したところを見たことがなかった。それだけラズは身体が強く、例え感染症が流行った時でも一人だけ感染しなかった伝説まで残している。だからこそ、アクロは心配になった。体内の痛みに慣れていないラズは、この謎の頭痛と腹痛に一層苦しめられているのではないかと。

 荒々しい呼吸をしながら、ラズは衝撃の言葉を耳打ちする。


「もう襲われてるわ。ここは幻術の世界よ」


 アクロにしか聞こえないような小さな声だったが、アクロの脳内には大きく響いた。

 

「いい、アクロ。このまま解説してあげるから声を出さないで。悟られないように顔を俯けて」


 アクロは問いたい気持ちを押し殺して、ラズの言葉に従う。

 幻術だと言われてみれば、思い当たる節がないわけではない。動物の鳴き声や風の音などの自然の音が一切ないのは、改めて考えれば不自然なことではあった。

 だがここは異世界であるため、そういう森があるのだと思っていた。


「魔力感知力が平均的な私ですら気付いたから、おそらく大した使い手ではないわ。今お姉ちゃんが幻術を解析してるから、それまで私たちは動けないふりをしてるってわけ」


 幻術は相手の認識を狂わし、戦況を大きく覆す一手とも成り得る対人に特化した魔術の一つ。

 幻術の弱点は、魔力そのもので対象を取り囲まなければならないところにある。魔術というのは、魔力を何らかの物質に変換又は干渉し使用するものが大半を占める。対して幻術は魔力そのものに幻覚作用の効果を保持させ、それを対象の周囲で維持させることで発動する。

 そのため、膨大な魔術を必要とすると共に、魔力感知にて気づかれやすい難点がある。

 またセフィアのように魔力感知力が高い人間であれば、幻越しに魔力を捉えその性質や術者の位置まで見抜くことができる。


「……分かった。痛みは大丈夫なんだな」

「大丈夫じゃないわよ。身動き1つ取れないんだから」

「そうだったな。セフィアの方はどうだろうか」


 アクロはセフィアの解析が終わるまで、演技を続けることにした。

 ラズは普段ふざけたことをよく言うが、真剣な表情の時には決して嘘をつかない。

 幻術でここまで大きな密林を再現できるのか? 敵の目的は? 異世界に来た途端に幻術というのは都合良すぎないか?

 分からないことは多々あるが、今は従うしか無い。

 あのアジュール姉妹なのだから、ものの数分で解決するだろう。質問時間はその後設けても遅くはない。

 セフィアは二人に振り返り、汗を滲ませながら痛々しい笑みを向ける。


「私も大丈……」


 それは唐突に起きた。

 何の前触れもなくセフィアの身体が傾き、そのまま地面へと横たわった。ふわりと浮いた青い髪が、さらさらと舞いながら落ちる。

 あまりに突然の出来事に、ラズとアクロは状況を飲み込めなかった。


「おねえちゃん……?」

 

 ラズは声を震わせながら、動かなくなった姉へと這い寄る。

 必死に呼びかけるが、セフィアは微動だにしない。アクロはふらふらと立ち上がり、セフィアの様子を見るため歩み寄る。

 セフィアの顔はまるで死人のように白くなっており、かすかな呼吸音が口から漏れている。主だった外傷はなく、何故倒れこんだか不思議だった。

 転移してから感じていた頭痛や腹痛は気が狂いそうになるほどの痛さであったが、失神するほどではなかった。


「頭の魔力が乱れてる。まさか……精神魔術……?」

 

 ラズは姉の頭を凝視し、ぽつりと呟く。

 物理的干渉を受けていないのであれば、考えられる攻撃手段は一つ。精神を対象とした魔術による攻撃である。しかし、セフィアは精神系魔術のスペシャリストであり、常に“蒼玉の死霊”サファイア・デスカルネヴァーレの対精神魔術に特化した魔力衣を纏っている。そのため、精神魔術で倒されたとは考えにくい。


「セフィアが精神魔術に……あり得ない。黒い衣を纏っているんだぞ?」

「さっきは頭までは纏ってないなかったわ。それにしても魔術の気配が全く感じれなかった……」


 アクロはぎしりと歯ぎしりする。一体何が起きているか検討もつかずに立つことしか出来ない自分に腹が立った。

 ラズはセフィアを起こすのをやめ、立ち上がる。そして腰に差している剣を抜く。


「そこにいるのは分かっているわ! こそこそしないで出てきなさい!」


 ラズは剣をある方面へと向ける。

 すると剣先にある空間が歪み、一人の男が姿を表した。

 背に黒い羽、頭に赤い角が二本と人間には無い容姿をしていた。聖人のような黒い布を巻きつけているような服で、赤褐色の髪から真紅の瞳が覗いている。

 その容姿は人間では無い。バルトロが言った“魔族”と呼ばれる種族だとアクロは直感した。

 ラズは顔に怒りを剥き出しにし、後ろへと剣を構える。


「貴様っ! よくもお姉ちゃんを!」

 

 ラズが走りだそうとした次の瞬間、男はラズの眼前に立っていた。アクロが気付いた時には既に、ラズは遥か後方へと吹き飛ばされていた。

 接近戦に置いて圧倒的な実力を持つラズを、いとも簡単にねじ伏せた。アクロは無意識にこの男から後退っていた。

 アジュール姉妹をたった十秒でねじ伏せたこの男に勝てる筈がない。やはり異世界など来るべきではなかった。アクロの脳裏に渦巻くのは死のみだった。逃げようとする気すら起きない。

 男はアクロに見向きもせず、セフィアへと歩み寄る。

 アクロの足は恐怖で震え、一歩も歩くことができない。

 “アクロってどんくさくてビビリよね”。ラズの声が頭の中で湧き上がる。今日までにビビリである自分に怒りを覚えたことがない。体中が燃え上がるような焦燥感に駆られるが、それでも恐怖心を打ち勝つには至らない。


「魔王様に楯突くものは死すべき宿命にある」


 男の低い声が響くと共に具現するは紅色の槍。禍々しく捻れている穂先が、セフィアの首筋へと向けられる。


「やめろ」


 恐怖で震える足を手で押さえつけながら、ようやく一歩踏み出す。

 だが、それだけだった。セフィアの命の危機だというのに、出来たことはただ一歩足を踏み出したことだけ。


「……やめろ」

 

 男が槍を刺さんと後ろに引く。

 アクロの脳内には走馬灯のようにセフィアとの思い出が流れる。そして、セフィアの居ない世界を考えた途端、胸の奥が息もできないほどの強さで締め付けられる。


「…………やめろォォッ!」


 込み上げる思いを全て込め、アクロは全力で叫んだ。

 刹那、体中に熱と痛みが巡り周り、青い光が肌から溢れ出る。頭痛が一段と酷くなり、耳鳴りのような高い音が頭を揺さぶる。

 男は動きを止め、アクロに身体を向ける。

 

「お前も危険因子か……」


 男は無表情のまま、槍をアクロへと向け突進する。

 ラズでさえ捉えきれられなかった高速の一突き。

 魔力感知も、運動神経も、動体視力も、筋力も全てがラズに劣っているアクロに避けられぬ道理はない。

 しかしアクロは迫り来る凶器ではなく、脳内に浮かぶ一つの言葉に意識が向けられていた。それが言葉が何の意味があるかは分からなかったが、何が起こるかは不思議と知っていた。

 そして敵の槍が突き刺さんとする直前、アクロはその言葉を呟いた。


“紺龍の暴流”ブルマリーノ・ヴィオレンツァ


 アクロから膨大な魔力が放出され、敵の目を眩ませる。

 膨大な紺色が足元から湧き出し、アクロを覆う盾となる。男は槍を弾き飛ばされ、即座に後退し距離を取る。惑うことなく攻撃から撤退へと切り替えた。男は武術だけでなく、判断力も長けていた。

 しかしアクロは撤退を許さない。高さ十メートルほどに達した紺色の魔力の壁は、まるで空腹の猛獣の如く次々と男へとなだれ込む。

 逃げられないと悟った男は急ぎ障壁を展開する。体全体を包み込む三重障壁。だが、圧倒的物量の前に成すすべもなく破壊される。男は断末魔を上げる間もなく、魔力の波に飲み込まれた。そのまま幻術空間すら突き破り、男を地面へと強く叩きつけられた。


「はぁ……はぁ……」


 アクロは膝を地面につき、薄れゆく幻術の世界に目を向ける。

 緑豊かなはずの森林は枯れ果てた赤い砂地へ、柔らかく潤いのあった土はひび割れ硬い荒れ地へと変わる。

 アクロらを取り囲むように四人の男が立っていた。派手な紅色のローブをまとい、透明な水晶が先端に取り付けられた杖を持っている。彼らが幻術を発動していたのだろうことは、アクロにも分かった。先ほど吹き飛ばした男と同様に、頭に角が背には羽が生えている。


「キムラン様を一撃で吹き飛ばしたぞ……」

「それに四人がかりで作った幻術を魔力だけで無理やりこじ開けた。逃げたほうがいいんじゃないか?」


 敵の中に動揺が生まれるほど、アクロの“紺龍の暴流”ブルマリーノ・ヴィオレンツァは恐ろしい術であったようだ。

 その術の最大の脅威は圧倒的な魔力量。魔術障壁を抉り、幻術世界を吹き飛ばすほどの密度を持った魔力は一人の人間で操れるものではない。そもそも、そのような魔力が一人の人間が持っていることすらあり得なかった。


「ビビるな! 相手は三人、しかもそのうち二人は伸びてやがる」

「そうだそうだ。全員で襲えば勝機はある」


 四人はへっぴり腰になりながらも、杖をアクロへと向け戦闘態勢を取る。

 アクロは立ち上がらろうとするが、膝に力が入らない。慣れない魔力を使ったためか、体中が軋むように傷んでいる。頭痛も刻々とひどくなり、意識を保つのが精一杯だった。

 今度こそ抗う術がない。限界かと諦めかけた時だった。


「そろそろ、ギブアップでしょうか?」

「アクロにしては上出来だけど、締めがかっこ悪すぎよ」

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