第5章 アクロの求めた世界
第19話 蒼青の虚界
青い海の中で、アクロは俯いていた。
苦しい。痛い。痒い。寒い。
あらゆる痛みの感情が体の内を蝕んでいた。
あふれた魔力は体の隅々まで浸透し、意識まで飲み込んだ。
――こんなことをしている場合じゃない。
救わなければならない人がいる。
魔術の才能がなく、生きる目的が無かったアクロに目的を与えてくれた二人の少女。
どれだけ惨めで哀れであっても、決して見放さずにそばに居てくれた二人の少女。
世界が青から黒へと切り替わる。
絶望に塗られた世界の中に小さな窓が開き、映像と音が流れる。
周囲に現れた大量の魔族。砂に飲み込まれ身動きが取れなくなるオリヴィア。そして、押さえつけられるアジュール姉妹。
それが今現実で起きていることだとアクロは直感した。
――違う。
世界が徐々に赤に染まっていく。
抗うラズを殴りつけて黙らせ、服を破り辱める魔族に、尋常ではない怒りがこみ上げた。
絶望に打ちひしがれたセフィアへ、舌なめずりしながら近づく魔族たちに殺意が生まれた。
今にも窒息し気を失いそうなオリヴィアに、焦燥を感じた。
――俺がたどり着きたかった世界じゃない
否定する。拒絶する。抵抗する。
世界はぐるりと回り、色が混ざり合い、風景が捻れ、音が混濁し、意識が混乱する。
――俺の世界を返せ。
それでもアクロは願い続ける。
自分の理想郷を。
二人に振り回される日常を。
カチリと、何かが開く音がした。
「
世界が取り戻せないなら、奪い返せばいい。
世界が失われたのなら、創ればいい。
アクロは、蒼き世界への扉を開いた。
世界は青に染まった。
赤かったはずの地は青くなり、青い空はより蒼くなる。まるで海の中に立っているかのような景色へと塗り替えられた。
魔族たちは不安そうに周囲を見渡していた。幻想的でもあり異様なこの光景に言葉に変えられない感情に掻き立てられていた。
何が起きているのか、この場にいる誰もが理解できなかった。
「何をした……何をした! アクロ=アイト!」
絶叫するバルトロ。彼の表情には、恐れが浮かんでいる。
世界を覆い尽くすアクロの〝魔術〟は常識の範疇を遥かに超えている。何らかの効果が付与されている空間を、全魔族軍を覆うほどの広さで展開するなど数十人規模の魔術師が一日かけて儀式を行ってようやく出来るほどの代物である。
それを目の前に立つ魔術の才能がないたった一人の男が、魔術陣も詠唱もなしで瞬時に発生させた。
常識ではありえない。しかし、この世界にはそれを可能にする奇跡が存在する。
それを人は“魔法”と呼ぶ。
「先にあいつを殺せ! 嬲るのはその後だ!」
バルトロは理解できないアクロの返しに苛立ちを募らせ、周囲の魔族に命令する。
王の命令に、兵たちは雄叫びを上げながら襲いかかる。先ほどまで目にかけていたセフィアやラズを襲っていた魔族たちも、まるで今までしていたことを忘れたかのような切り替わり様だった。おそらく魔族たち全員、何らかの手段で命令を聞くように強制されているに違いない。
ある者は剣を手に、ある者は魔術陣を展開し、ある者は拳を握り。
一万に及ぶ兵が津波のような勢いでアクロへと押し寄せる。
「どうだ! 全包囲攻撃では貴様の魔術でも抗えまい!」
バルトロは高笑いをしているが、それが虚勢であることは火を見るより明らかだった。
アクロはその様子を情けなく思い、肩をすくめた。
「そんなことをしなくても、今の俺には何も出来ないさ。いつもどおり、俺はポンコツなんだから。それは校長だったアンタがよく知ってるだろう?」
「……一体何を……」
バルトロはアクロの言っている言葉が理解できなかった。
確かにアクロは魔術の成績がかなり低い。魔術を利用する職には絶対に付けないというコメントを教師に書かれるほど、才能がなかった。それでもこの異様な空間を生み出しているのは他でもないアクロである。何も出来ない筈がない。
だが、次の一瞬で無理矢理理解させられることになる。
膨大な魔力がアクロ中心に膨れ上がり、黒い影がアクロから空へと飛翔する。空には黒い影が不規則に青い空をくるくると回り、アクロへ迫る魔族たちを見下ろしている。
そしてそれらは、アクロに迫る魔族を次々斬りかかる。
「まさか……」
斬撃を受けた魔族は気を失ったかのように倒れていく。頑丈な鎧も強固な魔術障壁もすり抜けるその鎌を防ぐすべはなく、ただただ蹂躙されていく。
バルトロはそれを見紛う筈がない。
十年前から何度も見てきたそれを、憎しみを抱き続けたそれを見間違うはずがない。
バルトロが絶句する中、蒼き髪を持つ少女がアクロの右隣へと降り立つ。黒い衣を羽織り、純銀の鋭い大鎌を持つセフィアはぽつりと魔術名を告げる。
「
あらゆる精神魔術・呪い魔術を防ぐ黒衣を身に纏い、精神に直接攻撃を行う死靈の召喚術。
その鎌の一撃は物理では決して防ぐことが出来ず失神へと誘う。
セフィアはそれを百体呼び寄せ、戦場を跋扈させる。幹部であろうが雑魚であろうが、容赦なく切り伏せる。数秒経たぬ内に、魔族の大群は瓦解した。
「何が……何が起きているんだ! なぜあいつの体内に仕込んだ
バルトロは喚き叫びながら地に手を付け、砂に命令を与える。
魔族共々、アクロらを砂で押し潰せと。
一度命令すれば、目的を終えるまで止まらない。たとえバルトロが殺されようと、命令が与えられている赤い砂は主の命を全うするだろう。
死霊の弱点は、物理的な防御力が一切ないこと。それを知っているからこその行動だった。
「押し潰せ! 原型がなくなるまで圧殺しろ!」
しかし、バルトロは怒りのあまり大切なことを忘れていた。
アジュール家の当主は一人ではない。
精神系魔術に強い当主だけでなく、もう一人、物理系魔術に特化した当主の存在を忘れていた。
「
アクロを中心に、燦然と輝く水色の魔術陣が展開する。
殺意を帯びた赤い砂が、瞬く間に水色の結晶へと変異する。殺風景な砂漠は、幻想的な結晶が蔓延る土地へと変わった。
ありとあらゆる無機物を、属性の持たない結晶へと変える物質構築概念変革魔法。
魔術を超えた魔法に域し、概念レベルで物質情報を書き換える恐ろしき術に、バルトロの顔が土気色に変わっていく。
「ラズ……貴様まで……」
ラズは乱れた服を整え、破られた箇所を手で抑えながらアクロの左隣に立った。
「アクロ……遅い。怖かったんだから」
「ごめん……かなり待たせた」
ラズは裾を掴み、腕に頭を寄せる。
アクロはただ謝った。謝ることしか出来なかった。もう少し早く自分の本当の力に気づいていれば、二人に酷い目をあわせずに済んだ。
セフィアも右隣からアクロの手に自身の手を重ねる。
「ええ、遅すぎです。ですけど……良かった。アクロが無事で」
「心配させてすまなかった」
バルトロはその光景を見て硬直していた。
セフィアとラズは心をすぐに切り替えて、裏切り者へと目を向ける。
「どうしました? もう魔族はいないのですか? 砂を操らないのですか?」
「まだ策があるなら使いなさい。後悔しないうちにね」
バルトロは悔しそうな顔をするが何も言い返せない。
魔族は殆どセフィアの手によって昏倒させられている。魔力を通わせた砂は全て結晶に変えられている。
たとえ新たに魔術を発動したところで、結晶に変えられるのがオチ。かと言って、自信で特攻してもセフィアの悪霊が容赦なく斬りかかるだろう。
「これは一体……」
オリヴィアはただ唖然と目の前の出来事を見ていた。
アジュール姉妹の魔力がまるで別人のようになっている。アクロが話したような、人離れした魔力が回路に通っていた。
「オリヴィアさん、もう大丈夫です。ここから先は、私たちに任せて下さい。この状況を打破します」
「ついでに、この世界を魔族から救ってあげるわ」
そして二人は声を揃えて言い放つ。
「「アジュールの名に誓って」」
アジュールの名を用いた契約は絶対遵守される。
それはつまるところ、勝利宣言だった。
「ちょっと待ってくれ」
意気揚々としたアジュール姉妹の前にアクロが一歩出る。
「アクロ……?」
「あいつは俺がぶん殴る」
ラズは何か言おうとしたが止めた。ここまで来て自ら命を放り出すほどの愚か者ではない。何か考えがあってのことだろうと信じて。
「分かったわ。私の分も、お姉ちゃんの分も……お願い」
「ああ、任せろ!」
アクロはバルトロに向かって走りだした。
武器も何も持たず、身体強化もせず、ただ走る。そしてアクロはついに、ラズの魔術陣から飛び出した。
その様子を見て、バルトロは吹き出した。
「何をしてくると思えば……特攻か。二人が再び魔術を使えるようになったことは驚きだが、貴様がそれではなあ」
バルトロは周囲に複数の魔術陣を展開する。
数多の属性、数多の効果が付加された魔術陣がアクロに向けられる。
大量の砂の操作、魔法の発動、数多の魔術の使用。それらを行ってなお、バルトロには魔術が余っていた。
「時間戻しか、はたまた解除魔術か……どうやって私の術を解いたかは分からぬが、いずれにせよ貴様を殺せば済む話だ!」
「「アクロ!」」
後方で叫ぶ幼なじみの声を耳にし、アクロはもう一つの魔法を発動させる。
バルトロはアクロを過小評価していた。魔術が使えないという事実だけに目を向け、何故アイト家がアジュール家とつきあいがあるのかを調べ尽くさなかった。
アイト家は農家であり、アジュール家と仲がいい家系であり、そして、代々魔法師を生み出してきた家系であった。
“アジュールの戦姿の影にはアイト有り”。
アジュールの力でくぐり抜けられない危機は、全てアイト家の魔法によって乗り越えた。アジュール家の今の繁栄は、アイト家の助力あってこそであった。
アクロの脳に強くイメージされた世界を現実世界へと
アジュール姉妹をアクロは幼い頃からずっと見てきた。夢の中にまで出るほど、脳に焼き付いていた。そのイメージを現実のアジュール姉妹へと上書きした。
「お前は、一度ポンコツになって出直してこい!」
であれば、逆のことも出来る。
魔術が使えなかった自分自身のイメージを、他人に上書きすることを。
アクロは走りながら手をバルトロに向ける。そして、脳にイメージした自分自身をバルトロに投影する。
「
魔術陣が一斉に消滅する。
背中に生えた羽や、角も消滅した。
彼の体はアクロと同じポンコツになってしまったのだ。
「アクロ=アイトオォォォッ!」
迫り来るアクロに、バルトロは拳を持って迎え撃つ。しかし、魔術に頼りきった体から繰り出される拳撃は容易に躱される。
「喰らいやがれ!」
セフィアの想い、ラズの想い、オリヴィアの想い、第4師団全員の想い。そして、アクロ自身の想い。
全てを込めた渾身の一撃が、バルトロの頬へとめり込む。
魔力による補助がない老人となったバルトロの身体は、後方に大きく吹っ飛びばたりと倒れた。
「やったぞ……」
ついに終わらせた。そして、ついにアクロの求めた世界を取り戻した。
アクロは力尽き、その場で倒れた。
世界が徐々に元に戻っていく。
たとえ広範囲を対象とした魔法の発動はかなり負荷がかかっていた。
セフィアとラズは互いに顔を見合わせて、くすっと笑う。
「ったく、最後の最後でみっともないわね……」
「本当ですね。でも……今回は許してあげましょう」
「今回だけよ」
それは、いつものセフィアとラズのやりとりだった。
――元に戻った途端、これかよ
アクロは微笑みながら、意識を微睡みの奥へと沈めた。
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