第2話 夢の中

 突然に、覚醒したかのような感覚に惑う。


 これにはまだ慣れない。


 俺は周囲をぐるりと見渡し、四角い部屋だと理解する。そして薄暗い部屋に、ひとりで立っているのだともわかる。光源は天井の蛍光灯だが、頼りないほどに薄く照らすのみで、チカチカと点滅していた。しかし暗闇よりはマシだ。


 気温は……空気は肌寒いと感じるほどに冷えている。


 ダッフルコートは手に持っていて、持って歩くのも面倒なので着た。そうしながら、部屋の中を観察する。


 安っぽいベッドは薄汚れていて、まじまじと眺めると病室で見かけるタイプであるとわかった。背伸びすれば届く箇所に窓があり、外は雨だとガラスを濡らす滴が教えてくれる。窓の大きさは二十一インチのテレビ画面ほどだ。


 この部屋に、森本イズミはいない。


 俺は違和感を覚える。


 夢は、見ている本人が作り出した幻想空間だ。ゆえにそれは、夢を見ている当人を中心に構成されるので、俺がその人の夢に入ると、必ず近くに本人がいる。しかし、今回は違う。


 中学から高校にかけて、悪戯でいろんな人の夢に入り込んだ俺であるが、こんな事は初めてだ。だから、薄気味悪さを消せない。 


 緊張していると認めよう。


 たしかに、この夢はおかしい。


 いや、そう決めつけるのは早計だ。


 とにかく、森本イズミを探さなくては……。


 部屋の角にドアがある。


 どこにでもあるようなドアではなく、学校の用具室とか倉庫とかに相応しい鉄の扉だ。


 ノブを回すと、鍵はかかっていなかった。


 そっと押し開く。


 生温い空気が室内に流れ込んでくる。同時に、鼻腔にまとわりつくような金属臭とカビの匂いが襲ってきた。


 俺は、尻がもぞもぞとするような緊張を覚えながら外へと出る。


 とんでもなく広い空間だと気付いた。


 俺は、ここがどんな施設か知っている。


 体育館だ。もしくは、それに近いもの。


 バスケットコートやバレーボールのラインが貼られた床を眺め、正面奥に見えるステージを見る。この場所は先ほどの部屋よりは明るく、見上げれば照明がポツン、ポツンと灯っていた。フロアを見下ろせるギャラリーが二階壁際をぐるりと囲っていて、高校生の頃にそ練習試合の観戦をしていた記憶が蘇った。


 さらに高い場所にはキャットウォークがあると、うっすらと見えるコンクリートの張り出し具合でわかった。不思議なのは、窓が全くないことだ。


 俺は、森本イズミがこの体育館のどこかにいるのかと考え、ステージの方向へと歩き出す。ステージを中心に左右にはドアがあり、おそらく用具室や控室になっているのだと想像した。


「いやぁぁああああああ!」


 突然の悲鳴!


 俺は咄嗟に振り向いた。


 体育館の出入り口は閉じられているが、その声はさらに向こう側から聞こえた。


 体育館だけじゃないのか!


「やめろぉおおおお!」


 やめろ?


 男の声?


「きゃぁあああああ!」


 女。


 二人いる?


 俺は体育館の出入り口を押し開き、直角に右へと折れている通路に飛び出す。


 天井に吊るされた裸電球が、ゆらゆらと揺れ、その光はとても小さい。大人が横に三人も並べばいっぱいとなる通路は窓ひとつなく、壁面は黒く汚れている。


 嫌な感覚がする。


 この先は危険だという本能の警告が、俺の足を止める。


 まっすぐに伸びる通路には、悲鳴や怒鳴り声をあげた男女はおらず、俺は体育館と通路の先を交互に眺めて迷う。


 戻って調べるべきか、先に進むべきか。


 ドン!


 音に驚き、体育館のコートを見る。


 バスケットボールが跳ねていて、ドン、ドン、トントン、トトトトトと転がった。


 俺は急いで取って返し、体育館二階のギャラリーを見上げる。


 誰もいない。


 でも、バスケットボールは上から落ちてきたに違いない。


 ここを調べるべきか、先に進むべきか。


 迷ったあげく、危険を承知で声をあげた。


「森本さん! 森本さん、いるか!?」


 しん、と静まり返っている体育館。


 俺は通路を進むと決めた。


 急ごう。


 通路を奥へと進みながら考える。


 やめろ! と叫んでいたので、二人は争っていたか、第三者に襲われていたのかのいずれかだ。森本さんが言っていたように、この夢の中には少なくとも複数人が存在している。そして、先程の悲鳴を森本さんではないと信じている自分がいることに気付いた。


 どうして?


 森本さんじゃないと思ったのは何故だ?


 すぐにわかった。


 彼女は、「わたしはひとりで」「心細くて」と昼間に言っていたからだ。


 つまり、夢の中での森本さんは単独で行動していた。仮に、誰かと会っているなら、彼女は俺に伝えたのではないか。自分の他に、こういう特徴の人がいたと。


 もしかしたら、個人名があがってきたかもしれない。


 俺は通路を走る。


 通路の先は右に折れていて、「また右か」と声に出していた。


 曲がってすぐ階段となっていて、上へと続いていた。


 一気に駆け上がろうとした瞬間、二階の踊り場に人が飛び出してきた。


「あ!」


 声が出ていた。


 制服姿の男の子が、壊れた人形のように手足を振り回して壁に突っ込む。グシャっという嫌な音と共に、彼はずるずると倒れ込んだ。


 階段を駆け上がる。


 頭上を見た。


 天井には裸電球があるだけだ。それは激しく左右に揺れていた。


 冷や汗と荒い呼吸。


 ざわつく肌。


 踊り場で倒れる男の子に駆け寄り抱き起こすと、彼は焦点の定まらない目を見開いたまま、青紫色の唇を動かす。


「ご……ごめん……なさい……ごごご……さい……ご」


 彼は首が折れたように頭をのけぞらせ、俺の腕の中で死んだ。


 素早く周囲を確かめる。


 誰もいない。


 踊り場から左右に通路が伸びているが、これまでとの決定的な違いはドアがあることだ。それもよく見知ったものだ。そして、だから俺はここがどこだか理解した。


 学校。


 ここは学校だ。


 制服からでは中学生か高校生かわからない。ただ、男の子の体格が子供っぽくないので、高校生ではないかと思う。


 彼は手足が異様に長く伸びていて、どうしたらこうなるのかという状態だ。


 息苦しさに喘ぎ、この異常な夢は何だと立ち上がった。


 森本イズミはどこにいる?


 階段はここで終わっている。


 ここが学校で、上の階があるなら、階段はここで上へと繋がっているはずだ。


 それとも、他の場所にあるのか?


 ここは学校だが、しかし造りはおかしい。窓がないのが最たるものだ。


 通路に出て、左右を確認する。


 ふと、男の子が気になり振り返った。


 彼は倒れたままだ。


 再び近づき、制服のポケットの中をひとつずつ確かめていく。


 ズボンの後ろ、尻のポケットに折りたたむタイプの財布が入っていた。


 中を見る。


 千円札、小銭、レシート。


 俺は財布を彼のポケットに返した。


 制服の内ポケットも調べる。


 定期入れが出てきた。


 定期はパスモで、区間しか表示されていない。でも、これでこの学校がどこにあるのかわかる。


 登戸と祖師ヶ谷大蔵の区間で使える定期券だから、どちらかにこの高校はある。


 全く知らない駅名で、どの鉄道会社かも不明だが、何も情報がないよりはいい。


 移動しようと立ち上がった時、ドクンと心臓が跳ねたような感覚で口を開いていた。


 グラリと、建物全体が揺れる。


 俺は立ち上がれず、片膝をついたまま。


 この現象は、夢が終わる前だ。


 森本イズミが、目を覚まそうとしている。


 つまり、彼女はまたしても、殺されそうになってしまった。


 駄目だ。彼女がどこにいるかわからない状態で、この広い空間の中に入るのは時間の無駄だ。


 グラグラと揺れる空間の中で、俺は少しでも情報を得ようと通路を見る。


 踊り場から左を見れば、四つのドアが通路右手に並んでいた。その奥は、ここからでは行き止まりにしか見えない。


 反対を見る。


 左手に、六つのドアが並んでいる。そして同じく、奥は行き止まりに見えた。


 空間の揺れが大きくなる。


 これ以上は無理か!?


 ノイズが、いたるところに走り始め、空間の色合いが薄まっていく。壁も、床も、天井も全てが融けていくように薄くなっていく。


 夢が終ろうとしているのだ


「……は……れだ?」


 声が聞こえた。


 女の声?

 しわがれた、かすれたような気味悪い声だ。


「おぉまぁあぇはぁああ……だぁあれぇえだぁあぁああ?」


 耳元で、はっきりと聞こえる。


 俺はうすら寒さを覚えた。




-nightmare-




 俺はベッドの上で瞼を開く。


 ダッフルコートは抱えたままだ。


 パンツのポケットからスマートフォンを取り出し、清宮さんに電話した。


 彼女はすぐに出た。


「もしもし、森本さんはどうです?」

『聖さん、ちょっと待ってください。折り返します』


 電話はそこで切れた。


 そうとうに慌てていたようだが、何があったんだろうか?


 だが、とにかく待つしかない。


 俺はスマートフォンのディスプレイを改めて眺め、そこに表示された時計で時間を知った。


 午前二時五〇分。


 ベッドに寝転んだのが〇時より前だから、三時間ほど寝ていたことになる。自分でも不思議なほどに意識ははっきりしていて、寝起きという感覚はない。


 清宮さんから電話がかかってきた。


「もしもし」

『すいません。イズミをお風呂に……汗でびっしょりだったんで……』


 俺はスマートフォンを持つ手を、右から左に替えた。


『……すよ。寝ている時もうなされていたし、とても怖い夢だったんだと思います』

「それは後で説明するとして、お願いがあります。お風呂で一人にさせないでください。嫌な感じがするから」


 どうしてかと問われると説明に困るが、直感を信じて話した俺に、彼女は理由も聞かず承知した。


『わかりました。ちょっと移動しますね』


 衣擦れの音がしたかと思うと、ドアを閉じる音が続く。


『イズミー! どう?』


 彼女の声が少し遠い。スマートフォンを顔から離しているのだと思われる。


『今、聖さんと電話してるの。イズミの近くにいてって言われて……うん。すぐに電話があってぇ。そうそう! 優しいんだよぉ。とっても素敵なの』


 聞こえてる……聞こえちゃってるよ。


 今、自分がとてもだらしない顔をしているのだとわかる。


 それにしても、清宮さんの友達に対する話し方は、俺と会話する時と雰囲気が違うと思う。使い分けができているのだなと感心した。


 スピーカーから微かなノイズが聞こえ、次にはっきりとした彼女の声が聞こえた。


『聖さん、イズミがお風呂からあがりました。着替えたら代わりますね』

「あ、はい。お願いします」


 緊張する。


 俺は優しく素敵な男でなければならないのだ……。


 ふと、ここで俺は清宮さんに学校の場所を尋ねようと思った。彼女と森本イズミは中高と同じであったそうなので、あの不思議な場所のモデルとなった建物がどこにあるかがわかるかもしれないと考えたのだ。


「清宮さん、二人が通ってた中学校と高校、最寄駅はそれぞれどこでした?」

『中学も高校も祖師ヶ谷大蔵ですよ』


 祖師ヶ谷大蔵……。


 これであの学校の場所がどこにあるのかがわかった。


『どうしたんですか?』

「森本さんの夢、舞台が学校じゃないかと思って。体育館、教室らしき部屋の並び……学校っぽいんですよ。でも、中学か高校かはわからないなぁ」

『プールはありました?』

「プール? いや、外には出てなくて……なんというか、説明すると難しいんだけど、外に出る玄関的なものがないんです」

『いえいえ、体育館の隣に室内プールがあったら、それは高校だなと思って』


 なるほど。


 じゃあ、あれは中学校だったのか?


 体育館を出てから、校舎らしき場所まで行くまで通路は一本道だった。


『あ、代わりますね』

「お願いします」


 俺はベッドから立ち上がり、冷蔵庫へと向かう。


 喉が渇いた。


 お茶のペットボトルを取り出し、マグカップにドボドボと注ぐ。


『あ、高野さん。もしもし、イズミです』


 マグカップを片手にテーブルに向かい、座椅子に深く座る。


「ごめん。夢の中で、見つけられなかった」

『いえ、すいません。でも、本当に入っていたんですね。夢から覚めたらすぐに電話をくれるんだもん』


 なんか喜ばれている?


 まあ、これまで散々に悩んでいた夢に関して、共感できる仲間ができたと思われているのかもしれない。


「入っただけじゃあまり意味がないというか……あんまり役には立てないとわかっていたけど、全くの役立たずで申し訳なくて」


 俺はそこで言葉をきり、お茶を飲んで続ける。


「で、今、清宮さんとも話をしてたんですが、あれ、学校ですよね?」

『あー! ああ!』


 いきなり大きな声を出した森本イズミ。


 俺はスマートフォンを耳から離していた。


『ごめんなさい。びっくりして』


 俺もびっくりした……。


『でも、そうですね。学校かも』


 学校かも?


 そうか。もしかしたら彼女が夢でいる場所というのは、構造がわかりにくいのかもしれない。


 電話で話していてももどかしく感じて、俺は思い切って言ってみた。


「これから、そちらに行っていいですか? 電話だとまどろっこしいんで」


 森本イズミは迷わなかった。


『はい。あ、でも二時間ください』

「え?」

『片付けます』


 なるほど。


 散らかっているわけだ。


 俺は、「わかりました」と伝え、清宮さんと代わってもらった。そして場所をメッセージで送って欲しいと頼み、電話を終える。


 電車は動いていないが、シェアカーを借りていけば問題ない。


 スマートフォンが震えた。


 高野さんからのメッセージだ。


 森本イズミは下北沢に住んでいるのか……。世田谷二丁目の住所をナビゲーションアプリに入力して検索をかけると、ここから三〇分程度の場所だとわかった。


 この時間だから、シェアカーは空いてるだろう。


 俺は出かける前にシャワーを浴びようと決めた。

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