第二章(3)

     *


 長いこと、こんなに近くに住んでいたのに、エスメラルダに来たのは初めてだ。

 そう思いながら、アデリシアは、ニースの『通行証』を使って、夜明け前にエスメラルダの周囲を取り囲む【壁】を抜けた。

 【壁】の向こうは、真っ白な銀世界だ。

 なだらかな雪の斜面をざくざく上っていく。どうやら『白い子供たち』には寒さや暑さを感じることができないらしく、そこがニースやマイラと決定的に違うところだ。ニースは、エスメラルダは寒い国だから、と、アデリシアにもこもこの上着を着せ、さらに毛皮で厳重にくるんでくれたが、正直なところ動きにくさしか感じない。それでも着ていなさい、とニースは厳しく言った。三月のエスメラルダで薄着でいたら、それだけで人間じゃないことがばれてしまうからと。

 毛皮の帽子からこぼれ出た髪が、また白くなっている。

 鏡の前では、アデリシアはマイラの子供の頃そっくりに見えていた(人間の子供なんて、マイラの小さい頃しか知らないから仕方がない)。でも、気を抜くと、アデリシアの姿が次第に変わっていくらしいのだ。髪も肌も色が抜けて白くなっていく。瞳の色も、マイラそっくりの灰色が、どんどん黒になる。顔立ちも変わる。ニースは感心して、『今まで見たことがないくらい綺麗な子供だ』と言ったが、いくら綺麗だって人間として異様なら化ける意味がなくなってしまう。

『察するに、もしあんたが人間になったらこういう顔をしてるってことなんだろうねえ』

 ニースはマイラに似せようとするのを諦め、最後にそういった。

『いいよ、一番楽な顔にしなよ、人前でどんどん顔が変わるよりゃ絶対その方がいいさ。でも髪の色だけは黒くできるように気をつけな。肌はしょうがないけどさ、その髪はちょっと目立ちすぎるよ』

 マイラ様と相談して、物理的に染めてもらえれば、それが一番いいんだろうけどねえ。

 しみじみ言われた。そのとおりだ、とアデリシアは思った。一生懸命歩くだけで、アデリシアの髪はどんどん白くなる。黒くする、と意識していないとそうできないらしいのだ。目立ちすぎると言われたが、誰かにマイラの行方を尋ねている間にどんどん白くなってしまったりしたら困る。

 早くマイラに会わなければ。

 マイラはお姫様というわけではないようだけれど、グウェリン、という、エスメラルダではかなり名門の家柄だ。国民はみんなマイラの顔を知っている。道行く人に訊ねれば、マイラの居場所くらいきっと教えてもらえるはずだ。

 真っ白な髪をぎゅうぎゅう帽子の中に押し込んで、アデリシアは先を急いだ。慣れない靴のせいでつま先がずきずき痛んでいる。暑さも寒さも感じないくせに、どうして痛みだけは感じるのだろう。不公平だ、という気がしてならない。


 寒くはないが、この風だけは困りものだ。

 ぴゅうぴゅう吹きすさぶ風は雪片を容赦なくアデリシアの頬に叩きつけていく。毛皮を取り去ってしまったから痛くてたまらない。スカーフを持たせてくれたニースの慧眼に感謝して、目だけを出して顔にぐるぐる巻き付けると、少し具合が良くなった。しかし、風は強まる一方だった。雪山を下りはじめて一刻もたたないうちに、アデリシアは真剣に生命の危機を感じ始めた。雪混じりの暴風が四方八方から絶え間なく襲いかかり、視界の確保はおろか呼吸すら難しい。かといって吹きっさらしの場所で休むわけにもいかない。このままでは数分で雪に埋もれてしまうだろうし、凍え死にしなくても呼吸ができなければ死んでしまう。

 ふと。

 せっぱ詰まったアデリシアの視界に、赤い矢印が飛び込んできた。

 それは、アデリシアからは頭上、たぶん大人の視界がちょうど届くあたりに取り付けられた看板だった。半ばが雪で埋まっていたが、赤い矢印の先っぽがかろうじて見えていた。文字も書いてある。雪の隙間から見える文字は、どうも、休憩所、とあるらしい。

 それを見て取る数瞬のうちにも、雪は容赦なく襲いかかってきている。考える暇もなく、アデリシアはよろよろとその矢印の示す方へ向かった。

 こーん。

 数十秒も歩かないうちに、その音が聞こえてきた。

 こーん。

 薪割りの音にそっくりだ。

 体が小さなアデリシアは薪割り当番からははずされるのが常だった。だからよけいに、薪割りを見るのは大好きだった。マイラのやり方はとても洗練されていて、剣の素養がない、という話は嘘に違いないと思っていた。それに、ユージンも本当に薪割りが上手だった――そう思ってアデリシアは唇を噛みしめた。あの音は、もう、二度と聞けない。

 でも現実に、薪割りのような音は暴風の音に負けずに響いてくる。その音を頼りに歩を進めると、

「!」

 出し抜けに、アデリシアは休憩所の扉の前に立っていた。

 扉から、明かりが漏れている。

 手袋をはめた自分の手が、きちんと人間の手をしていることを確かめてから、アデリシアは扉をたたいた。中に人がいる、それは気配で分かった。アデリシアのノックの音に応えて、中の誰かが動いた。

「誰だ」

 誰何の声は、ひどく低い。アデリシアは必死で声を振り絞った。

「あの、あの……お願い、助けてください、おねが、い」

「子供!?」

 ばん、扉が開いて、アデリシアは中に引きずり込まれた。

 小屋の中は狭く、たき火の匂いと、とても懐かしい匂いがした。水夫の部屋はいつもこういう匂いがしていた。ニースはいつも顔をしかめて、むさ苦しいったらありゃしない、と文句を言っていた。あの匂いだ。

 中にいたのは大柄な男が三人と、ほっそりした女性が一人だ、と見て取るうちにスカーフをはぎ取られ、アデリシアは今自分を引きずり込んだ大柄な人間にまじまじとのぞき込まれていた。

 まるで一等航海士にいたずらを叱られたときのよう。

「どこの子供だ」

 低い声で男は言う。アデリシアはきょろきょろと辺りを見回したが、ぐいっ、と頭を無理矢理固定された。男は目を細める。

「なんだこりゃ。パトリシアみたいに綺麗な子だな。名前は? 所属の地区はどこだ? こんな吹雪ん中、いったい何をしてる」

「あ、あたし、」

「エリック」

 鈴を降るような、軽やかな声がたしなめた。奥にいたほっそりした女性がこちらに顔を向けている。

「怯えてるじゃない、そんな小さな子を脅すものじゃないわ。こっちにつれてきて」

「パトリシア、」

「お願い、エリック」パトリシアと呼ばれた女性はにっこり笑う。「吹雪の中やっとここまでたどり着いたのに、そう脅されちゃ話もできないわ。さ、お嬢さん、こちらへどうぞ。あたしはパトリシア。あなたのお名前は?」

 エリックと呼ばれた男は渋々アデリシアを奥へ連れていった。暖炉の前の椅子に座っている女性を見て、アデリシアはなんだかほっとした。どこかで会ったことがあるような気がするくらい、雰囲気が柔らかい。とても優しそうな人だ。

「あたし、アデリシア、です。あの……エスメラルダじゃなくて、アリエディアから来――」

 パトリシアが目を丸くし、しまった、と思ったときは遅かった。形相を変えたエリックが、アデリシアの首根っこをつかんで引きずりあげた。

「アリエディアからだと!?」

「エリック!」

「おまえ、そうか――そうか、お前が泥棒だな!? お前が盗んだんだな!!」

 だん! アデリシアは、部屋の真ん中にある机の上に仰向けに叩きつけられた。残りの二人の男がやってきて、アデリシアの両手を押さえつける。「エリック!」パトリシアが立ち上がってエリックの背に手をかける。

「乱暴はやめて! こんな小さな子に――」

「どうやって入った」

 獣じみた男だった。灰色の瞳がぎらぎら光っている。マイラと同じ色なのに。

 顔立ちは整っている。水夫の中でも伊達男として有名だった、アリーという男に少し似ている。しかしアリーにはあった、ひょうきんで朗らかな気配は、エリックには全くなかった。首が締まる。目が回る。ニースが厳重に着せてくれた毛皮がはぎ取られ、右手を捕まえていた男が毛皮の中から『通行証』をつかみだした。

「あったぜ……あれ」

「なんだ」

 エリックが訊ね、男は『通行証』をひっくり返した。

「こりゃ違うぜ、雪山の〈窓〉じゃねえよ。てか、……なんだこりゃ? どこで手に入れたんだ、こんなもの」

「見せろ」

 エリックが手を伸ばし、喉元を閉めていた手が少し緩んで、アデリシアは急いで空気を貪った。泥棒、盗んだ、という言葉が頭の中でぐるぐる回っている。『雪山の窓』と聞こえたものは――混乱しながら考えているアデリシアに、パトリシアの優しい指先がそっと触れた。

「ほらほら、放して。……本当にもう、少し頭を冷やしてよ。こんな小さな子に乱暴するなんて最低よ」

 パトリシアはぷんぷん怒りながらアデリシアをそっと助け起こした。首元を触って無事を確かめ、よっこらしょ、と抱っこして、暖炉の前の肘掛け椅子の方に連れていってくれる。柔らかな感触。優しい匂い。アデリシアは少し陶然とした。

 この人に会ったことがあるような気がする理由に、思い当たったような気がした。顔は全然似てないが、昔のニースに抱っこされているみたいだ。

「泥棒……が、出たの?」

 小さな声で訊ねると、パトリシアはそっとアデリシアの頭を撫でた。

「そうなの。それで、エリックたちは気が立ってるのよ……乱暴をして、本当にごめんなさいね。こんな小さな子供に、盗みなんてできるわけないのに。可哀想に、こんなに冷え切って」

「パトリシア、貴女は甘すぎる。三月に子供が一人でエスメラルダに来るなんて普通じゃないだろ」

「だからねえ、私も事情を知りたいとは思うけど、そんなにがみがみ怒鳴ったり無理矢理捕まえたりしたんじゃあ、話せるものも話せないでしょ。あなたっていつもそう。普通の人は、特に女の子は、あなたみたいに強くないんだから、いたわりの気持ちを持たなくちゃだめよ」

「怪しい人間をいたわってなんていられるか」

「あのねえ、マイラがああなったのはあなたのせいもあるのよ」

「っ」

 アデリシアは息を飲んだ。マイラ、って、言った。

「あの子は剣の素養がなかったし、あなたみたいな強くて優秀な兄や曾お祖母さんと毎日毎日比べられるんだもの、いろいろとひねくれちゃいたい気持ち、私だってわかる。なのにあなたったら手ぐすね引いて待ちかまえて、顔を合わせれば性根を叩き直すってびしびししごくし怒るし怒鳴るし。あれじゃあ家にだって帰りたくなくなるわ」

「俺はあいつにグウェリンの一族として――」

「それは貴方の期待でしょ? 十九歳の頃の貴方なら、毎日びしびししごかれても逃げずに立ち向かうことができたと思うの、だって貴方はそれほど強いんだものね。でも、マイラはそうじゃないの。あの子は貴方の期待したほど強くない。グウェリンの一族にも、弱い人間というのは生まれるの、でも、それはマイラの罪かしら? 生まれつき弱いことは、悪いことかしらね」

「あいつもグウェリンだぞ。弱くてたまるか」

「それが気の毒だ、と言ってるのよ。弱いのにグウェリンの一族に生まれたのは、あの子のせいじゃないもの。

 ねえ約束してよ、エリック=グウェリン。マイラを捕まえても、訳も聞かずに殴ったりしないって」

 アデリシアは目を丸くして話を聞いていた。

 エリック=グウェリン。強くて優秀な、兄。

 ということは、このエリックは、マイラのお兄さん?

 ――似てない。

 いっそ感心するほど、ぜんぜん似てない兄妹だ。体格も性格も、髪の色も肌の色も――ああ、でも、そうだ。瞳の色だけ同じだ。

 エリックは顔をしかめている。

「パトリシア、貴女は甘いんだ」

「大丈夫よ。私が何とか道を正してみせるから。ヴァルターは死んだ。気の毒にね――でも自業自得よ。マイラが逃げるのを許そうとしたエルヴェントラはもういない。グウェリンの長もエルヴェントラも、もう貴方ですもの。マイラももうわかっているはずよ。あの子を守れるのは私だけ。……そして貴方だけ。だから大丈夫よ、きっともうすぐ目が覚めるから。

 でもお願いよ。今やったみたいに引きずり込んでがみがみ怒ったんじゃ、あの子は絶対心を開いてなんかくれないわ」

 エリックは憤然と息をついたが、もう何も言わず、どかっと椅子に腰掛けた。じろじろと、パトリシアの腕の中のアデリシアを見る。

「……それで、」

 低い声でエリックは言った。

「その子だが。貴女なら知ってるんじゃないか、これ」

 差し出したのはニースの『通行証』だ。〈人魚の骨〉を組み込んだペンダントだ。パトリシアは目を丸くしてそれを見、それから、アデリシアを見た。

「あなたこれ、どこで手に入れたの? まあ、まだ残っていたのね」

「見た感じ、〈人魚の骨〉で間違いないようだが――」

「そうよ、これは、だいぶ昔に国民に配られていたものよ。エスメラルダを〈壁〉が囲い始めた、本当に初期の十数年間に。戸籍の代わりにもなったのよ、銘はなんて?」

「ニース、とあるようだが」

「ニース、ニース、ニース……ねえ。覚えがないわ。アデリシア、ニースって知っていて?」

「うん。ニースがあたしにこれをくれたの」

 慎重に、マイラの不利にならないよう気をつけて、アデリシアは言葉を選んだ。

「ニースはアリエディアに住んでて、あたしを育ててくれたんだけど、病気になって。あたしのお父さんがエスメラルダに住んでるから、これを持ってってお見せ、って」

「まあぁ」

 パトリシアは、アデリシアの外見に騙されてくれた。アデリシアは『人間で言えば五歳くらいの子供に見える』とニースが言っていたから、出生のごたごたを抱えたあどけない子供だと、思ってくれたらしい。

 パトリシアという人は親切そうで、優しそうだ、とアデリシアは思う。

 でも、エリックの方はとても危険な匂いがする。マイラの兄――グウェリンの一族としてマイラの『性根を叩き直そうとしている』年の離れた兄、だ。

 マイラは弱い、とパトリシアは言った。

 でも、それは本当だろうか。

 マイラは逃げていたのだろうか。この強くて恐ろしい兄から逃げて、あの塔に来ていたのだろうか。そう、かもしれない。

 でも、そうじゃない。……気がするのだ。

 ――ニースばかりでなく、マイラまで、犠牲にするつもりなの?

 そうユージンに言われたとき、アデリシアは、違う、と思った。ニースも言っていた。自分のしたいとおりにしただけなのだと。マイラもきっとそうだ。マイラは『逃げたり』『犠牲になったり』するために、アナカルシスの王子様と結婚しようとしてたんじゃない。自分の望みを、心からの希望を、叶えようとしていた。はずだ。

 ――素敵な人なんだよ。すっごく、素敵な人なんだ。……早く会いたいな。

 そう話してくれたときの、マイラの頬の赤みを。幸せそうだった表情の方を、信じよう、と思う。

「泥棒は、〈人魚の骨〉を盗んだの?」

 囁くとパトリシアは、美しい眉に困惑を乗せて、頷いた。

「そうなの。本当に困ってるのよ。昨日一日で、雪山にある〈人魚の骨〉――三つあったんだけど、それが全部盗まれちゃったの。一つの場所には見張りがいたけど、その見張りは殴られてたわ、殺されてはいなくて、幸いだったけどね」

「〈人魚の骨〉って、【壁】に穴をあける道具のことでしょう?」

「そうよ。あなたも体験したと思うけど、この吹雪って普通じゃないでしょ。いくらエスメラルダでも、異常よ。これってやっぱり、〈人魚の骨〉の盗難と関係あるんじゃないかと思うの」

「そうなの――?」

「エスメラルダは寒い国なの。今でも毎年、子供と妊婦と老人は、冬になるとアナカルシスに避難するの、それほど過酷な冬なのよ。【壁】に取り囲まれると、どうも、その中は恐ろしく寒くなるようなの――本当は人が住めない場所に穴をあけて無理矢理住んでる、それがエスメラルダの現状なのよ。

 四月になったら子供たちも帰ってこられる。みんな本当にその日を待ち望んでるのに、この泥棒が三つも穴をふさいでしまったせいで、雪山は冬に逆戻り」

「何のために?」

「それがわからなくて困ってるのよね……。私たちは盗難の知らせを受けて調べに来たんだけど、帰りに吹雪に襲われて立ち往生してるってわけ。早く帰って対策を練らないと。次々に盗まれたら大変なことになるわ。エスメラルダは完全に凍り付いてしまう」

「人魚との約束も急がなくてはな」

 エリックが独り言のようにつぶやき、目を閉じた。パトリシアはそっと微笑んだ。

 悲しいような、不思議な微笑みだと、アデリシアは思った。

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