第二章(4)

 パトリシアは本当に親切だった。

 エリックやほかの男たちの態度からして、どうやら、彼女はかつてのニースのような立場にいるらしい、と、アデリシアは十数分の内に理解した。水夫たちから『親分の思い人』兼『凄腕の料理人』として一目も二目も置かれていたニースは、レギニータ号で、いわばお后様のようだった。普段、船のことでニースが口出しをすることはなかった――たぶん――が、いざ発言したときにはその要望は絶対に受け入れられるのが常だった。どんな荒くれ水夫だって、ニースには親切であろうと努めていた。

 パトリシアがニースと違うのは、『お后様』のように崇められることを嫌がっていない、というだけだ。

 どうやらこの集団の『王様』であるエリックの、思い人であり、おまけに、そう、彼女はお姫様で――麓に降りてからも、それは変わらなかった。


 吹雪の隙間を見計らって、エリックは一同を下山させた。その点については、アデリシアはエリックに感謝しないわけにはいかなかった。パトリシアの強い願いを聞き入れたという形ではあったが、エリックはその屈強な背にアデリシアを背負ってくれた。また彼は確かに、頼りがいのある指導者であるらしい。彼は風を読み、雲を読んで、吹雪が弱まったほんの数刻の機会を逃さなかった。下山の決断があと数分でも遅かったら、もう一晩を雪山で過ごさなければならなかっただろう。

 アデリシアを背負い、パトリシアを助けながら、エリックは迅速に森を抜けた。なだらかな傾斜路についてからはそりに乗った。操縦も確かで安定感があり、ほんの一刻足らずの下山は、快適、とさえ言えるほどだった。


 そりは快調に滑り続け、あっと言う間に集落の手前にある広場に滑り込んだ。明らかに、そりが家屋や納屋に激突することを防ぐために作られた広場だ。

 アデリシアはずっと歓声を堪えていたが、パトリシアにはお見通しだったらしい。そりが止まって降りる際、「爽快だったでしょ」と囁かれた。うん、頷くと、嬉しそうな笑顔が返ってきた。アデリシアもなんだか嬉しくなる。

 パトリシアはエリックが大好きなのだ。

 だからエリックがアデリシアに好かれたり感心されたりすると自分のことのように嬉しいのだ。

 それがわかるから、アデリシアはパトリシアをもっと好きになってしまう。どうしてだろう、初めて会ったのに、もうずいぶん長いこと一緒にいたような気さえする。

 こんな綺麗な人、今まで見たことがない、はずなのに。その柔和な表情のせいか、長いことずっと探していた友人に再会したような嬉しさを感じる。

「アデリシア――だったかな」

 エリックも、そりで機嫌が直ったのかもしれない。そりを引くロープを肩に担いで歩き出しながら、エリックは穏やか、と言える声で言った。

「親が見つかるまで、家に住んでいいぞ」

「あら、いいの?」

 パトリシアが嬉しげな声を上げる。うん、とエリックは頷いた。

「うちならサーシャが世話をしてくれる。貴女も嬉しいだろ」

「ええ……ええ、嬉しいわ! よかったあ、今までずっと、なんて頼もうか考えてたところだったのよ」

 パトリシアが嬉しげに両手を打ち合わせ、エリックも目だけで微笑んだ。

「まだ三月だしな、役場で名簿を繰るにしても、自宅にいるとは限らん。〈神殿〉に移動してたら捜すのはもっと難しい。家に腰を据えて、ゆっくり探せばいい」

「あ、ありがとう、ございます」

 親切にはこう返さねばと、アデリシアは頭を下げた。エリックの唐突な親切は不可解だったが、アデリシアにとっては渡りに船だ。家、と言った。つまり、グウェリン家、ではないだろうか。そこにいれば、マイラが帰ってくるかもしれない。そんな淡い期待を、アデリシアは抱いたのだった。

 広場を出て、二人のお供と別れ、エリックは町中に歩を進める。町、と言っても、静まり返った静かな集落だ。そこにある家はアデリシアが今まで本で読んで来たような、木造の建物ではなく、雪でできたこんもりした小山が続々並んでいる、ように見える。アデリシアはきょろきょろし、どうやらそれは、道の両側に作られた石造りの土手のようなものに、窓や扉が作られているらしいと気づいた。

 そうか、と思う。木造だったら、屋根の上の雪を下ろさなければ、重みでつぶれてしまうだろう。でもこれなら、多少は積もるに任せていても、道路の雪かきさえすれば生活には困らない。

 パトリシアが手を引いてくれている。その柔らかな手のひらの感触が嬉しかった。もこもこの毛皮にくるまれたパトリシアは、小屋の中で見たときより少し幼く見えた。この人はどうやらマイラより三、四歳ほどは年上らしいが……

 いい人みたいだし。エリックに、マイラを殴ったりしないでくれと頼んでいたし。エリックがいないところでパトリシアに全部打ち明けたら、もしかして、マイラの現状を教えてもらえるかもしれない。

 そう思っている頃、正面に、大きな建物が見えてきた。

「あれは、なあに?」

 アデリシアは思わず呆気にとられて訊ねた。

 あんな巨大な建物を見たのは、初めてだった。

「ああ、あれは〈神殿〉よ。普通の人が冬ごもりするための建物」

「冬、ごもり?」

「そう。まだマヌエルが本当に、ごく一握りしか生まれていなくて、国中の雪かきなんてぜんぜん無理なの。だから、町中、ほとんど雪に埋もれちゃってるでしょう」

「うん」

「この道路はマヌエルの雪かき範囲に入ってるから、この辺りには冬でも人が住めるけど……国のほとんどの部分は、冬には閉鎖されるのね。で、普通の人はあの〈神殿〉に籠もって冬を越すの」

「私たちも、あそこに住むのね?」

 まるで塔での生活と同じだ。アデリシアは少しうきうきしたが、パトリシアは首を振った。

「あたしはエルカテルミナですもの。エリックはグウェリンの長だし、今じゃもう、エルヴェントラでもある。だからあんな場所に籠もらなくてもいいのよ」

「あんな場所……」

 そんな言い方、なんだかおかしい。この人が、そんなことを言うだなんて。

 そう思った、その時だ。

 道の両脇に並んだ石造りの建物、その窓に、人影があるのに気づいた。

 ぎょっとする。

 その人――壮年の男だった――は、ひどく暗く、陰気な、浮かない顔をしてエリックを見ていた。

 真っ黒な喪服に、身を包んで。

「……アデル、気にしなくていいのよ」

 パトリシアが囁いてきたが、気にするなと言われても無理だ。アデリシアはその隣の家の窓に、またひとり、女が立ったのをみた。喪服に、陰気な目つき。詰るような、蔑むような、無言の抗議を湛えた目。

 ちっ。

 エリックが舌打ちをする。パトリシアが足を早めた。優しかった手は、今や痛いほどにアデリシアの手のひらを握りしめている。

「大丈夫よ。歩いて」

「……っ」

 アデリシアは息を飲んだ。ぎいい、背後の扉が開いて、そこから男が出てきた。喪服の男。何も言わない。窓辺に立つ男も、エリックが視線を向けるとすっとそらす。でも、エリックの視線がはずれるとまた、その陰気な抗議のまなざしをじっと注いでくる。

 窓という窓、扉という扉が、ぎい、ぎいい、と音を立てて開く。そのひとつひとつに喪服の人間がたたずんでこちらを見ている。そんな錯覚さえ抱いて、アデリシアはぞっとした。実際には、そんなにたくさんじゃない。ひとり、ふたり、三人、四、五、六、七八九十十一十二――

「大丈夫よ、アデル」

 パトリシアの声は、自分に言い聞かせるように聞こえた。大丈夫よ、パトリシア。あんなの平気よ。気にしないで大丈夫よ。

 ――気にならないわけがない。

 自分が抗議されているわけではない、はずの、アデリシアでさえ居たたまれない。新たに扉や窓が開く、そのたびに、心臓がぎゅうっとする。なんという、無言の、それでいて執拗な糾弾だろう。

 そして。

 エリックが周囲を睥睨しながら、パトリシアが身を縮めながら、角を曲がった。そこに。

 黒ずくめの、集団がいた。

 葬列だった。

 中心に、黒く塗られた棺があり、その周囲を、すすり泣く人たちが取り囲んでいた。ひそひそと、おそらくは死者を悼む囁きが小さな広場に充満していたが、エリックとパトリシアが姿を見せた瞬間にぴたりと止んだ。アデリシアは固唾を飲んだ。

 静寂。

 人々はエリックを見なかった。

 ただ俯いて。黙って。

 エリックが通り過ぎるのを待っている。

 まるで死神が、災厄が、その場から去るのを、通り過ぎるのを、ただ頭を下げてやり過ごそうとでも言うかのようだ。エリックは何も言わない。その浅黒い顔が、怒りのためか、それとも別の理由か、ひどく青ざめている。

 あの棺の中には、誰がいるのだろう。

 アデリシアの脳に、不吉な考えが去来した。

 ――マイラだったり、して。

「……」

 まさか、声に出して言いたいのを、必死で押さえつけた。マイラが死ぬわけない。だって、死んでいたら、訳も聞かずに殴ったりしないで、と、パトリシアが頼んだりするはずないじゃないか。

 ――じゃあ、誰の棺?

 ――エリックに向けられているこの無言の抗議は、どういう意味?

 と。

 パトリシアがアデリシアの手を放した。つかつかと、棺に歩み寄っていく。黒いヴェールをかけた女性、恐らくは喪主にあたるのであろう人に、パトリシアは優雅に一礼した。

「このたびは突然のことで――お悔やみを申し上げますわ」

「……パトリシア様」

 女性は涙声で、パトリシアに応対した。

「ご丁寧にいたみいります……老いたりとは言え、エルヴェントラの席にある内の死でしたから……ご参列を賜われるはずと思い、ここで、お待ち申し上げておりました」

 言葉こそ丁寧だったが、それは、紛れもない糾弾だった。

 アデリシアは身を縮めたが、パトリシアは、その叱責を迎え撃つ。

「寒い中お待たせして申し訳ありませんでした。ごめんなさい、後から、弔問に伺おうと思っていましたの」

「そんな。貴女はエルカテルミナ――」

「だからですわ。あろうことか雪山の〈窓〉を盗んで逃げた者がいるって、もうお聞きでしょう。指導者の急死の隙を狙った犯行が、何を意味するものなのか……私は国を、守らなければならないの。今すぐ帰って、新しい指導者を立て、危機に対処しなければなりませんから。準備しなければならないことが、色々あるのよ」

「指導者はもうお決めなのでしょ。……ヴァルターが死ぬ前からずっと、お決めだったのでしょ。準備? 何の準備か存じませんけれど、とっくに整っているのではなくて」

 未亡人が冷たい口調で言う。周囲が慌て、エリックが、腰に下げた剣に手をかける。パトリシアはそれを押さえて微笑んだ。

「まだ冬の猛威が残るこの季節に、指導者を欠いたままではエスメラルダの危機ですもの。エリックは、私の要望に応えて立ち上がってくれたのよ。ヴァルターは本当にお気の毒でした。でも、おかしな疑いはやめていただきたいわ」

「……ぬけぬけと。よくおっしゃいますわね」

「私はエルカテルミナよ。ルファルファの娘。そもそも、エルヴェントラという地位は、私の夫が占めるべき地位。ヴァルターには再々そのことをお話していたのに、ご理解いただけなかった。本当に、本当に、お気の毒だとは思うけれど、ルファルファの意志がエリックを支持したのではないかしら、と、私は思うわ」

「……何ですって……!」

「これ以上、エリックにおかしな疑いをかけること、ルファルファの娘が許しません。覚えておいていただくわ」

 パトリシアは優雅に、堂々と、周囲を見渡した。

 一様に非難の視線を向けていた人たちが、ばつが悪そうに下を向く。

 未亡人だけが、涙のたまった瞳で、パトリシアを睨み続けている。パトリシアはそれを見返し、微笑んだ。

「……行きましょう、エリック。一刻の猶予もないわ。雪害と寒さと嵐と飢えと、泥棒と……立ち向かわなければならない問題が山積みだもの」

 エリックが歩き出す。アデリシアは足が出なかった。

 本当にこの人たちについて行っていいのか、一瞬、迷った。

 夫を失ったばかりの未亡人の涙が、海賊親分が死んだときのニースにかぶる。


 あの時、ニースも泣いた。初めは〈子供たち〉の前で……その後は、ひとりで、隠れて。〈子供たち〉に心配をかけまいと、こっそり泣いていたのを、アデリシアはよく知っている。ニースはきっと、未だに親分を愛していて、未だに彼を悼んでいる。だってあの日から、アデリシアも〈子供たち〉も、あのミートパイを食べていない。

 親分の大好物を、ニースはもう、作れなくなったのだ。

 だからアデリシアも、あれ以来一度も作っていない。ニースが泣くかもしれないと思うと怖かった。ニースをもう、これ以上、打ちのめしたくなかった。

 ――親分が死んだのは病気のせいだった。

 ――それを、ルファルファの意思だ、親分の素行が悪かったせいだと、ニースに言った人がもしいたら。


 どうして。どうしてなの。不審で、不思議で、たまらなかった。パトリシアの口からそんな言葉が出たことが信じられない。あの優しい微笑みを持つ人が、あんなことを言うなんて信じられない。死者を悼む人を更に鞭打つような言葉を。

 立ちすくんだアデリシアの手を、エリックが苛立たしげに握る。引きずられるように、アデリシアは歩き出す。

 その手をふりほどけなかったのは、力が強かったからじゃない。

 パトリシアが、人々の非難の視線を前にして、必死で笑顔を保っていることが、わかってしまったからだ。

「【最後の娘】がまだどなたも選ばなくて、本当にようございましたこと」

 未亡人は辛辣な言葉を、パトリシアとエリックの背に投げつけた。

「【最後の娘】が【最初の娘】を諫めたら――私たち国民は、二人娘どちらかを選ばなければならない羽目に陥るところですわ」

「本当にね」

 パトリシアは振り返り、極上の笑みを投げた。

「【最後の娘】は私の存在に、きっと、何の文句もない。だから未だに、誰のことも、選ばないのじゃないかしら」


 無言の抗議に満ちた広場を通り過ぎ、角を曲がると、ようやく、喪服の集団も、窓辺にたたずむ人間もいなくなった。パトリシアはふうっと息をつき、苛立ちをやり過ごすように顔をこすった。

 エリックが、その細い肩を抱く。

「……人魚との契約を……急がなくてはな」

「ええ、そうね」

 パトリシアは悲しげに微笑んだ。

「本当に、そのとおりね……エリック」

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