第二章(2)

「……詰まらぬ」

 不服げな声がした。銀狼と私は、海の方を振り返った。

 そこから、美しい女性が覗いていた。

 海水に濡れた黒髪が貼り付いたその顔は、本当に美しかった。年頃は、十五歳にもなっていないのではないか、という程度で、女性と言うより少女である。成熟しきっていない、あどけなさの残る美貌だ。

 唇を不満げに尖らせて、彼女は言った。

「も少し取り乱しても良いのではないかえ、可愛げのないことじゃ」

『貴女は……人魚ですか』

 フェルディナントが問い、彼女は、ふん、と言った。

「種族としてはもちろんそうじゃ。そなたの探しておる人魚とは別じゃがな。儂は代理じゃ」

『代理……?』

「その娘がたらし込んだ人魚は儂の姐さまじゃ。卑怯じゃとは思わぬか、恥ずかしげもなく甘味などという卑賤なもので儂が姐さまを誑かすとは……なにがこんぺいとじゃ、あんなもの、ただの砂糖の塊ではないか。ばかばかしい」

『……つまりコンスタンスは貴女の姉上に金平糖を贈り、その見返りに、あの場に送り届けてもらった、ということですか』

「結果としてはそうじゃが、」

 言いかけて人魚は、急に我に返ったらしかった。ふん、と顔を背けた。

「なぜ儂が人間ごときに一から十まで解説してやらねばならぬ。とにかく姐さまはそれで力を使い果たし、ある若者との契約を果たせなくなったので、儂に代理を頼んだ。川に落ちた男を五体満足で逃がすというのが契約の内容じゃ」

『……それで、どうして銀狼と鴉に変じているのでしょうか』

「娘の方は姐さまの命じゃ」

 言って人魚は、ざばー、と海から上がった。

 ほっそりした若々しい体が露わになる。

「その娘、儂が見つけたときにはほぼ死んでおったのよ。即死に近かったわけじゃ。先ほど記憶の欠落といっておったが、それは正しくない。正確には魂の欠落、と言うべきじゃ。娘の体は今儂らが世界で治療中での」

『……そ、それは、お手数をおかけいたしまして』

 私は頭を下げた。人魚は私を見て、目を細める。

「全くじゃ。も少し遅ければ間にあわなんだ。肉体はもうほとんど治りかけておるが、今体に魂を戻すわけにはいかぬのじゃ」

『どうしてですか』

「魂の欠落がまだ深刻じゃからのう、今体に戻しては、一生そのままじゃ。それでもよいのかえ」

『……それは、困る……』

 言いかけて私は首を傾げた。

 困る、のかな?

「自覚はないやもしれぬが、すべての感情が著しく阻害されておるぞ。困らぬ、苦しまぬ、悲しまぬ。じゃけどその代わり、楽しさも喜びも幸せもない。

 ……まあ、貴女がどう言おうと、魂の修復は姐さまが指示じゃもの、貴女の意志などどうでもよいわ。それで、鴉の体に魔法をかけた。鴉には鴉の魂があり、それはもちろん欠けておらぬゆえ、んー。なんと言うべきか。魂の在るべき姿をきちんと備えた体に宿ることで、魂の修復を助けてもらうのじゃな。魔法でそれを強化しておるゆえ、五日も在れば修復は済もう。体に戻すのはそれからじゃ」

『治る……のですか?』

「励め」

『励む、の、ですか? 励めば、何とかなるのでしょうか』

「知らぬわ。じゃが欠落が残るまま五日を過ぎればもはや、完全に元に戻る術はないじゃろうな。さて……」

 言って人魚は、つと手を伸ばしてフェルディナントにふれた。

 もふ、と音を立てたのが確かに聞こえた。とてもさわり心地の良さそうな毛皮だ。

 人魚の指先が、毛皮をかき回す。もふ、もふもふ、もふもふもふもふ。

 そして人魚は、がくりと頭を垂れた。「……儂が愚かであった……」

『あの、……なにが?』

「もはや用はないわ。どこへでも去ね」

 言い捨てて、人魚はざぶんと海へ飛び込んだ。フェルディナントが声を上げる。

『あの、まだ話は済んでおりませんが』

「知らぬ」

 ぷかりと海面に人魚の頭が浮いた。だだをこねるような、拗ねた表情をしていた。

「儂の期待を裏切ったその罪は重いぞえ」

 期待って何だろう。

『元に戻していただけませんか』

「厭じゃ」

『困ります』

「困れ困れ。儂は困らぬ」

 憎たらしい、と私が思ったとき、フェルディナントが声を潜めた。

『これでは、契約を果たしたことにはならないと思いますが』

「どうしてじゃ。姐さまからは、五体満足で逃がせ、と言われただけじゃ。銀狼に変じさせてはならぬなどと言われた覚えはない」

『貴女の姉上がユリウスと果たした契約は、川に落ちた人間の治療と、その生命の保護では?』

「そうじゃが?」

『生命の保護はまだ果たされていないと思いますが。ここがどこかもわからず、食べ物も飲み物もない。この生き物がなにを食べるのかも知らない。近々のたれ死ぬような気がするのですが』

「ここはルファ・ルダとかいう場所のすぐそばじゃ。崖を上がって半日も走ればたどり着くわ」

『半日って、』

「人間のまま放り出しては飢え死にかもしれぬが」意地悪そうに人魚は笑った。「銀狼にしてやったのじゃ。そうそう飢えも乾きもするまいし、人の足で十日かかる距離も半日で走れる。感謝されこそすれ、なじられる筋合いはないはずじゃ」

『そんな。どうか考え直していただけませんか。眠っている間にいきなり別の生き物に変えられたら、そして直してやらないと言われたら、どんな気持ちになるものか、想像――』

「想像じゃと!?」

 その言葉が、人魚の逆鱗だったらしい。

 出し抜けに人魚は目をつり上げて怒鳴った。

「ええいッ、うるさいうるさい! 姐さまみたいな口を利くでない!」

『えっ』

「いつもそうじゃ! 人間、人間、人間! 人間がなんじゃ、なぜそこまで人間などのために配慮してやらねばならぬのじゃ! 儂らの掟が誤りじゃなどと――なぜっ」

『……あの、』

「想像!? それがなんだというのじゃ! そなたの気持ちなど儂の知ったことか! 儂とそなたは種族が違う、ならばわかりあうことなどできぬ! それのどこがおかしい!」

 鬱憤を晴らすかのように人魚は怒鳴り散らした。フェルディナントも私も、何と言っていいかわからない。ところがその沈黙までもが、人魚の逆鱗に触れたようだった。

「なぜ黙っておる! 姐さまもいつも黙る、『想像』できぬ儂を、説得することさえしてくれぬ! 教えられもしないのに想像などできるものか! ええい小癪なっ、」

 べしん、尾鰭で水面を打って、人魚は叫んだ。

「ならばずっと黙っておれ!!!」

 その声が、フェルディナントに魔法をかけた。

 なぜだろう、その魔法が私には『見えた』。声が、フェルディナントの喉に絡みついたのが見えたのだ。

 フェルディナントがよろけ、体勢を立て直した。激昂の余韻に人魚ははあはあと息をついていたが、ややして、ふん、と顔を背けた。

「この先、一度でも意志を宿した言葉を発してみよ。そなたは永遠に人には戻れぬ」

『なっ』

 私は思わず声を上げた。こう言うの、もしかして、八つ当たり、とか言わないだろうか。

「姐さまにも解けぬ。かけた儂にしか解けぬ。じゃがひとつだけ機会をやろう。そなた自身が心から愛する人間から、口づけを得ることができたら、魔法はすべて解ける」

 くくく、喉を鳴らして人魚はわらった。

「人間はさぞ、『想像』とやらが得意なのであろうな。物言わぬ狼を人間の王子だと見抜くことだとて、『愛』を知る人間にはさぞたやすかろう」

『……あんまりです。ひどすぎます』

 私がつぶやくと、人魚は声に出してわらった。

 とても荒んだ、ひどく悲しい声だった。

「……儂は貴女が憎い。治療などしとうはなかった。姐さまを誑かした。姐さまは今心底貴女を案じておる。これは伝えよとの命じゃから言わねばならぬ――どうしても、どうしても、助けが必要なときは儂の名を呼べと姐さまは言った。姐さまの名はティシティアリナフェイミス。温もりを知る人魚の名じゃ」

『え、ま、待って。てぃし――?』

「伝えたぞ。二度と儂の前に顔を見せるな」

『ま、待って! まっ』

 上げた声もむなしく、人魚は海に沈んだ。

 そのまま、出てこなかった。



 数分後。フェルディナントは、ため息をついた。はああああ――ひどく長く、重く、苦しいため息だった。

 ややして、顔を上げる。ふんふん、匂いを嗅いでいる狼に、私はもう少し近づいた。

『……あの。あの、……何とかなるわ。大丈夫よ。だって私は喋っていいわけだし、貴方が本当は』

 いいかけて私は気がついた。

『待って。さっきあの方は、貴方を『人間の王子』と言わなかった?』

 銀狼はぷいっとそっぽを向く。私は羽ばたいて、顔の前に回り込んだ。

『言ったわ。言ったわよ。……貴方、王子様なの?』

 ぶんぶん、銀狼は首を振る。違う、と言いたいらしい。

『違うの? ……まあそれは後でいいわ、とにかく、私は貴方が人間だと知ってるし、貴方の思い人にも、本当は人間なのだって話してあげられるもの。絶望とはほど遠いわ。……で、貴方が心から愛してる人って誰なの?』

 ぐい。

 狼が、私に鼻面を近づけた。今にも嘴に鼻面がくっつきそうなほど。

『え、待って』

 ぐいぐい。

『……私、なの?』

 こくり。銀狼がうなずき、私はぞっとした。

『嘘!』

 ぶんぶんと銀狼が首を振り、ぐいー、さらに顔を近づける。若草色の瞳が真剣に見えて、私はたじろいだ。

『ね、ね。嘘、なのよね? ね?』

 銀狼が首を傾げて見せた。なぜ嘘だと思うのか、と聞きたいのかもしれない。

『だって、だって。そんなはずないわ。わ、私、私……そ、それに、私今、鴉だもの! やっぱり人間に戻ってからじゃないと、口づけの効力なんてないんじゃないかしら? そ、そう、そうよ。五日経って私が記憶を取り戻したら、そうしたら、そうしたら』

 ふと。

 銀狼が笑った。いたずらっぽい笑みだった。

 それで私は悟った。

『……からかったの?』

 こくり。銀狼はうなずいて頭を巡らせ、再び匂いをかぎ始めた。

『そんな冗談言うなんて、ちょっとひどいんじゃないかしら』

 抗議する。でも、効果があるとは思えなかった。たぶん、これも、感情が阻害されているからなのだろう。あんなからかい方をするなんてひどい、という知識だけはあるが、怒りが湧かない。

 やはり銀狼は全く堪えた風もなく知らんぷりで歩き出す。私は羽ばたいて、遠慮なく銀狼の背に乗った。銀狼に変えられ、おまけに言葉まで封じられてしまった『王子様』は、きっと八つ当たりがしたかったのだろう。そう思う。

 そして、今の感情の意味を考えた。

 フェルディナントが私を好きだと思ったとき、私は『悲しかった』。

 ……そう。そうだ。胸が痛むあの感情は、確か、悲しい、というものだったはず。どうしてだろう。フェルディナントは私と『大の仲良し』で、どうやら『王子様』であるらしい。優しい人だという印象もあり、記憶を失う前、私もフェルディナントに好意を抱いていたはずだ。

 なのにどうして、悲しみを覚えたのだろう。狼の背の上で私は立ち尽くした。

 思い出した感情は『悲しみ』。空っぽの心の中に、一番初めに思い出してしまったせいか、湧きあがる感情が、そのまま心臓切り裂くような気がする。どうしていいかわからない。どうすればこの痛みを消せるのだろう。銀狼の背の上で、私はこっそり涙を流した。なぜだろう、と思いながら。

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