第二章(1)
温かな光が、体をぬくぬくと包んでいる。
私は目を開けた。眩しい。
『あ、気がついた』
聞き覚えのある声が、ほっとしたようにそう言った。若い男性の声だった。私は瞬きをして、頭を起こした。
そこに見えたのは、きらきら光る銀色の毛の固まり。
小山ほどもあるそれがぐうっと動いて、若草色の瞳が私をのぞき込んできた。びしっと通った鼻面に、整った凛々しい顔立ち。ぴん、と尖った、ふたつの耳。
巨大な、狼の顔。
『――きゃああああああー!』
悲鳴が出た。意外だった。どうして悲鳴が出たんだろう? ともあれ悲鳴とともに飛び起きた、瞬間に、私は宙に浮いていた。ばっさ、翼が風を打った。力強い翼の色は、黒だ。
悲鳴はまだ続いている。
『な、な、な、なに!? なんなの!? いやー! 食べないでー!!』
『食べるか』
狼が冷静につっこんだ。そのとき、私は既に海の上にいた。風がなく、凪いだ海だった。すーい、風を切って、私は旋回した。そして不思議に思った。
私、飛んでる。
『コンスタンス、だよね? おーい、戻っておいでー』
銀色の巨大な狼が呼んでいる。あの声には聞き覚えがあるし、優しい相手だと私は知っている。だから大丈夫だと思うのに、恐怖は消えない。
大きいからだ。とても巨大だから。
食べられてしまう。そんな恐怖が胸に食いついている。
――いやだ、近寄りたくない。怖い。怖い。怖い。怖い。
『食べたりしないよ。食べる気なら寝てる間に食べてたでしょ。落ち着いて、コンスタンス。大丈夫だから』
ええ、私も、大丈夫だと思うのだけれど。けれど。
――近寄りたくない。怖い。怖い。怖い……
『ごめんなさい、申し訳ないんだけど』
私は声を張り上げて、狼に声を投げた。
『体が勝手に怖がってる感じなんです。ちょっと、後ろを向いて、その崖ぎりぎりに寄ってもらえません? 私は体を説得するから』
不思議な感じだった。自分の体の意志を、こんなにくっきりと感じることなどあるだろうか。明確な意志。私の心は大丈夫だと思っているのに、体が勝手に怖がるなんて。さっきの悲鳴も、私があげたと言うよりは、私の体が勝手にあげた、という印象だ。
ばっさ。翼を鳴らして私は飛んでいる。
――私、鴉?
だったっけ? どうもおかしな感じだ。
私、生まれつき、鴉だったかしら?
『コンスタンス、これでいいだろ。ほら、降りてきてよ』
狼がいるのは、海に張り出した岩棚の上だ。岩棚は崖にくっついている。その崖ぎりぎりに座り込んだ狼は、律儀にも海に背を向けて――つまり崖に鼻面をくっつけるような窮屈な格好で、私を呼んでいる。ほら、大丈夫よ。体を説得した。大きな生き物はあんな風に背中を向けているし、それほど近寄らないようにするわ。襲いかかってくることが万一あっても、絶対に逃げられる。だから大丈夫よ?
ようやく体が言うことを聞いた。渋々ながら、ではあったけれど。
岩棚の上に降りたって、私は言う。
『ごめんなさい、お待たせしました』
『目が覚めてよかったよ。本当に心配したんだ。生きてて本当によかった』
狼は噛みしめるような口調で言った。私は曖昧に頷いた。狼が、なにを言っているのかわからない。
『ええと……あの……ご心配、おかけした、ん、でしたね?』
ちらり、狼がこちらを見る。鴉はびくりとしたけれど、何とか押さえつけた。
『コンスタンス、大丈夫?』
『ええと』
やむなく、白状した。
『コンスタンスって、私の名前……ですか?』
『おう』
狼は、ショックを受けたらしかった。
声に聞き覚えもあるし、優しい人だという印象もある。だからきっと、私は親しかったのだろう。狼と。
……狼と親しかったコンスタンスというらしい『私』も、やはり狼だったのだろうか。
しばらく経って、狼は気を取り直したようにこちらを向いた。体が勝手に走って逃げ、岩棚ぎりぎりで何とか止まる。
『逃げないで、ってば』
『私も止めたいの。でも、体が勝手に逃げるのよ』
『変だね。僕の体は勝手に動いたりしない。ということは、それ、コンスタンスの体が変えられたんじゃなくて、鴉は独立した存在として在って、そこに、コンスタンスの意識が間借りしてるってことなのかな』
『ええ、それです。間借りしてる、という感じ』
『コンスタンス……うん、いや、大丈夫、君はコンスタンスだ。声が同じだし、話し方の印象も間違いない。だから君がコンスタンスだと断定して話を進めるけど、……記憶がないの?』
『記憶……というか、ええと。貴方が狼で、私を知ってる、ということは、私も狼……だったのかしら』
『そんなわけないだろ』
呆れられてしまったらしい。狼は顔だけではなく体まで、ぐるりとこちらに向けた。
『僕も貴女も、人間だ。……だったんだ。少なくとも、昨日の晩まではね』
『それが今じゃ、狼と鴉?』
『そう。何とか思い出して欲しいんだけどな。昨日の晩、僕は大勢の刺客に襲われたんだ』
『しかく』
『殺されそうになったんだよ。もう少しで殺される寸前だった。そこに貴女が、どこからともなく現れた。僕を殺そうとしていた刃は貴女の体を切り裂いて』
『えっ』
『僕は貴女を抱えて川に落ちた。しばらく流されて、意識が遠のいた。……気がついたら朝で、この場所にいて、銀色の大きな狼になっていて、横に鴉が倒れてた。いやー、本当に、不安だったんだよ。貴女が悲鳴を上げるまで、本当に、ただの鴉だったらどうしようって』
『え、え。ちょっと待って』
私は少し、狼に近づいた。
『私、殺されたんですか?』
『いや、生きてるでしょ』
『生きてる……の?』
『じゃあ今元気満々でしゃべってる貴女は幽霊なの? 違うだろ。記憶喪失の幽霊なんて聞いたことある?』
『自分のことさえ忘れてしまったのに、幽霊にまつわる記憶なんてあるわけないでしょう』
狼は、笑ったようだった。
『じゃあ、状況をもう少し説明するね。僕の名前は、フェルディナント』
『ふぇるでぃなんと』
大層な名前だ。まるで王子様みたい。
『貴女の名前は、コンスタンス。それでね、貴女と僕は大の仲良しだから、敬語を使われると傷つくからやめてね』
『あ、そうなの? じゃあ』
私は頭を切り換えた。
『ごめんね、フェルディナント、大の仲良しなのに忘れてしまって』
狼は何故か、してやったり、というように笑った。
『いいんだ。貴女のせいじゃないし。それに、お礼を言わないとね。殺されそうなところを、助けてくれてありがとう。僕のせいでケガをさせて申し訳なかった』
『いえいえ、どういたしまして。……それで、これからどうしましょうか』
私は途方に暮れて辺りを見回した。鴉はだいぶ落ち着いたのか、狼のそばにもう少し近寄っても騒がなかった。
『困ったわ……ここはどこなのかしら』
『わからないんだ。どうしてこんな大きな狼になっているのかもね』
『それよ』私はフェルディナントの方にもう一度くちばしを向けた。『大きいのよ。それは、私が鴉だからそう思うのかしら? でも、それにしても大きくないかしら? 狼ってこんなに大きな生き物だったかしら』
『ふうん、一般常識とかはちゃんとしてるようで安心したよ。そう、普通の狼はこんなに大きくない。つまりこれは、普通の狼じゃない。銀狼、という生き物だと思うんだ』
『銀……銀狼? って、伝説の』
『そう、伝説の生き物になりつつあるよね。最近、とんと噂を聞かないもの。でも、実在の生き物だ。英傑王に会いに来たんだからね』
『英傑王……んー、その名前は、知ってるような気がするわ』
『うん、英傑王くらいは、一般常識の中に入るんだろう。とにかく、状況を少しでも整理しないとね。どう、話してる内に、何か思い出しそうな気配はない?』
『……ごめんなさい』
私は肩を落とした。記憶の欠落を指摘されても、どこが欠けているのかさえわからない。ましてやそれが戻る気配なんて。
『うーん』フェルディナントはゆっくりと言った。『本当にね、不思議なんだ。貴女がどこから現れたのか。さっきも言ったけど、僕は、刺客に周囲を取り囲まれてたんだよ。剣の心得なんてあるわけない貴女が、あの包囲の中に無傷で飛び込んでくるなんて』
『そう……』
『何者かの関与があったはずなんだ。貴女が自力であの場に来られたはずがない。僕が銀狼の姿に変えられてる、ということを考えても……ユリウスのあの行動も考え合わせると、どうしてもこうなる。ごめん、本当に推測でしかないんだけど。
貴女、人魚に知り合いいない?』
『そんなわけないじゃない……』
私は両の翼で顔を覆った。人魚なんて、これまた伝説みたいなものではないか。
フェルディナントは首を傾げる。
『僕の知る限り、ユリウスも貴女も、人魚と友達づきあいなんてしてなかったよ。だから本当に、ごく最近知り合ったんじゃないかと思うんだ。怪しいのは昨日、いや一昨日か。貴女があの人をスカートの中に入れてこっそり出て行って、ユリウスが追いかけて、戻ってくるまでの一刻足らず』
『ちょっと待って。スカートの中に誰を入れたんですって? 私が?』
『そう。貴女は日常的に誰彼構わずスカートの中に入れて歩く趣味が』
『あるわけないでしょ!?』
思わず翼で叩くと、フェルディナントは嬉しげに笑った。
『やー、いいなあー。貴女は最近僕たちから距離を置こうと必死だったから。周囲の抑圧も全部忘れたってところだけは歓迎だな』
『ふざけないで頂戴! 頭がよけい混乱するじゃないの!』
『ごめん』
前足を挙げて謝罪の仕草を見せてから、狼は座り直した。
『まあとにかく、今回の一連の出来事には、人魚が関与してる。筋の通った説明は、人魚を欠いては付けられない。ユリウスは僕の暗殺を決行しなければならない羽目に陥った。だから、人魚と契約したんだと思うんだ。人魚は致命傷でさえ治せると言われているから……それならスタローン侯爵の要請に応え、なおかつ、僕の命を助けることができるからね』
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