第一章(8)

 せせらぎに合わせてゆらゆらと揺れるが、見て取るのに不自由はない。そこはどうやら昨夜泊まった部屋のようだ。せせらぎの中で、ユリウスが窓を開けた。屋根の上に顔を出すと、そこにマイラが立っている。

『……何をしに来られました』

 ユリウスの声は、今まで聞いたことがないほど冷たかった。マイラは部屋の中に入ろうとせず、屋根の上に立ったままユリウスをじっと見て、目を伏せた。

『謝罪に参りました……』

『謝罪。何に対する?』

『エルヴェントラが交代して……エスメラルダは舵を切り替えた。私は、帰らなければなりません』

『フェルディナントを見捨てるのですね』

『ええ』沈うつな声だった。『その、謝罪に参りました。本当に……申し訳ないと思っています』

『貴女は知ってたんだ。そうですよね』

 とても冷酷な声だった。コンスタンスはぞっとした。

 ここに映っているのは、本当にユリウスだろうか。

 普段冷静で落ち着き払っているけれど、ユリウスは基本的に朗らかだ。灰色の瞳がいつも面白がっているような色を湛えていて、まなざしはいつも、柔らかくて。

 それが。

 どうしてだろう。〈水鏡〉のせいか、それとも、水面のせせらぎのせいだろうか。

 ユリウスの瞳が、今は藍色に見える。

『【最後の娘】に結わえられた手紙に、書かれてたんですよね。こんな重大なことを、どこかに書き残しておかないはずがない。といって誰にでも見られてしまう場所では絶対にまずい。【最後の娘】に託す情報として、これほどふさわしい秘密もまたとない』

『……』

 マイラはそっと微笑んだ。悲しげな、それでいて、どことなく荒んだ笑みだった。

 マイラとユリウスは似ている。コンスタンスはそのとき初めてそう思った。

 まるで別の生き物のような。言葉を解する、綺麗で獰猛な、獣のような雰囲気だった。

『もちろん読みました。十六の時に。読まずにいられるわけがないでしょう? ……そして知りました。すべて腑に落ちました。なぜエスメラルダが今のように狂ってしまったのかも、すべて』

『……』

『最悪の事態を避けるためとは言え、決断したエルヴェントラを、それを止められなかった曾祖母を、私は恨みました。でも、最善の手段だとも、思いました。……私はグウェリンの人間です。そして【最後の娘】を担います』

 囁いてマイラは、左手を前に出して見せた。

 あの剣が、その手に握られていた。

 ぽん、小さな音とともに剣は縮み、まるでペンダントのような大きさになった。取り付けられていた革紐を首に掛け、マイラは微笑む。

『私の大事な人たちの命は、何としてでも守ります。だから手を貸して。エスメラルダから来る破滅の方は何とかするから、国王陛下の差し向ける破滅の方は、貴方に託します』

『勝手な言い分ですね』

『貴方はシャトーの人間です。生まれてすぐにその責を担わされた。気の毒だとは思うけど、逃げることは許さない』

『一生?』

『もちろん』

『……もううんざりだ。何もかも嫌になった。そう言って僕が、全てを放り出したらどうしますか。僕には――その権利が、あるのではないかと思いますが』

『【最後の娘】に命じられる不名誉を、その身に刻みましょうか』

 二人は睨み合った。息詰まる静寂を破ったのは、ユリウスの喉の鳴る音だった。

 胸が痛んだ。

 ――泣いてる? まさか。

『……お任せください、【最後の娘】。命じていただくには及びません。もう二度と、……会わなくても構うまい。何を置いてもお守りします。あの人が無事でいてくれれば、それだけで、僕の人生は意味のあるものになるでしょうから』

『……お察しします。ありがとう』

「あっ」

 唐突にティティが言い、ぱしゃん、と水面が跳ねた。

 映像がかき消え、せせらぎの音が、遠い喧噪が、戻ってきた。

 ティティが首を傾げる。

「これは妙じゃ。途中で弾かれた」

「弾かれ……?」

「ふうむ」ちらり、ティティはこちらを見た。「もしやして、貴女は、この続きを知っておるのではないか? この後、この娘か若者と、会話をせなんだか」

「ああ、ええ」コンスタンスは頷いた。「たぶんそうです。私が窓を開けたら、そこにマイラがいましたから……」

「貴女自身は〈水鏡〉に映らぬ、というわけか? ……これはしたり。予想以上の素養の強さじゃ。まだ孵化はしておらぬな? なのに……ふうむ……」

「あの……今のは、本当にあった出来事なのですね」

 囁くと、ティティはこちらを見て頷いた。

「〈水鏡〉が偽りを写すことはあり得ぬ。どれくらい過去のことなのかを探ることはできぬが、すべて現実に起こったことじゃ」

 ――窓を閉めておいた方がいいですよ。

 ――あまりに気の毒だと、思いませんか。

 昨日マイラから聞いたときには、はっきりとは意味が分からなかった。

 でも今、わかった。

 ユリウスのことだったのだ。

「……破滅とは、いったい、何なのでしょうか……」

 ティティは答えなかった。

 見ると、ティティはひどく、沈うつな顔をしていた。コンスタンスの視線に顔を上げ、苦笑してみせる。

「わからぬ。じゃが……今みた【最後の娘】には不吉なものを感じたの」

「不吉」

「彼女が何を決めたのかは分からぬが。血の香が匂い立つようじゃった。血なまぐさい決意……」

「危ない、ん、ですよね。やっぱり。エスメラルダに戻ったら、殺されてしまう、でもそれでも戻らなければ、ということなのかしら」

「違う。血をかぶってでも何事かを成す、という決意じゃな」

 予想外の言葉に、コンスタンスは驚いた。

「自分のではなく、誰かの血を流しても、ということですか」

「そうじゃな。……儂もちと、本腰を入れねばならぬかもしれんのう。破滅か……最悪の事態……」

 つぶやきはごく小さかった。

「姐さまを問いたださねばならぬ。まさかとは思うが」

 姐さま、というのは、ティティより年かさの人魚のことなのだろうか。コンスタンスはため息をついた。どうせなら、そのあたりのことも全て映してくれればいいのに。

「肝心なことは、何も分かりませんでしたね」

「それは儂のではなく貴女の責じゃ。想えと言うたであろう。巧いこと、知りたい秘密を話しておる情景を想わねば秘密など探り出せぬ。あと二回じゃぞ」

「は、はい」

 コンスタンスは目を閉じ、頭を働かせた。ユリウスがランバートから秘密を話された、あの小部屋の中の情景を、見ることができないだろうか。覗き見のようで気は引けたが、こうでもしないとあの人たちについていくことなどできない。だいたい、全てをコンスタンスから隠して、説明もなしに距離を置こうとする方が悪いのだ。人魚を甘味で釣って力を借りるくらい何だというのだ。

 ――フェルディナントも気の毒だ。

 そう思ってしまった、瞬間だった。

「来たぞ。――おや?」

 ティティの声に、コンスタンスは目を開けた。

 〈水鏡〉の中は、夜だった。

「……何じゃこれは。どういうことじゃ」

 ティティが訝しんでいる。ただ事ならぬ様子だ。でも、コンスタンスは気にしなかった。それどころではなかったのだ。

 林の中で、たき火が熾っている。寝袋に入って、火を見つめているのはフェルディナントだ。スタローン侯爵も一緒だった。こちらも寝袋に入って、フェルディナントに何事か話しかけている。

「これは……あり得ぬ……!」

 水音が高鳴る。コンスタンスは食い入るように水面を見つめた。フェルディナントもスタローン侯爵もいる、なのに、ユリウスがいないのだ。

 ざわ……

 不穏な空気がフェルディナントに押し寄せ、彼が、顔を上げた。いつの間にか、たき火の周りに、人影が歩み寄ろうとしていた。それも、一人ではない。二人、三人、四人、五人……

『夜盗か』

 スタローン侯爵が跳ね起きる。フェルディナントも寝袋を脱ぎ捨てて剣を抜いた。近寄ってきているのは、確かに夜盗のようだ。垢じみた顔、よれよれの薄汚れた衣類に、目つきも人相も悪いにやにや笑い。

 がいん、剣が鳴り、スタローン侯爵が大きく下がる。たちまち彼は夜盗たちに取り囲まれた。が、本気ではないのがこちらから見るとよくわかった。茶番だと、コンスタンスは悟った。フェルディナントを葬るためにスタローン侯爵が雇ったに違いない。ただ単に、剣の音をフェルディナントに聞かせているだけ、という動きで、スタローン侯爵は今にも声を上げて笑いそうな顔さえしていた。夜盗の大半はフェルディナントを取り囲んでいた。あざ笑うような下卑た笑い声がフェルディナントに降り注ぐ、

『フェルディナント!』

 ユリウスの声が背後から投げられ、フェルディナントはためらわずにそちらへ走った。ユリウスの剣が夜盗たちの包囲を切り開き、そこをフェルディナントが走る。川へ、ユリウスの指示に従って走っていくフェルディナントの背を、ユリウスが追いかけていく。

 その瞳が、まるで藍色の宝石みたいにキラキラ光っている。

「あり得ぬ。〈水鏡〉が乗っ取られた」

 ティティが狼狽した声で喚いている。

「これは未来の出来事じゃ……! もう保たぬ、儂の力、がっ、」

「ユリウス!!」

 コンスタンスは絶叫した。周囲はほとんど真の暗闇で、なぜその画が見えるのかはわからない。でも、はっきり見えた。川沿いで振り返ったフェルディナントに、ユリウスが、剣を降りかぶるのを。

『ユリウス、お前っ』

『国王陛下のご命令です。お許しを』

 キラキラ光る藍色の冷たい光。冷酷な表情。まるで別人のようなのに、それは疑いもなくユリウスだった。ユリウスがフェルディナントを殺そうとしている。シャトーの二人を信じてる、と事も無げに言った、あの幼なじみの、けなげで気の毒な王弟殿下を――

 ――そんなこと、させるわけにはいかない。

 そう、思ったのだ。だって。

 ――ユリウスがそんなことを、望んでいるわけがないのだから。

「……まさか! 待て……!」

 ティティの悲鳴を背に、コンスタンスは、その闇の中に飛び込んだ。

「やめて――ッ!」

 コンスタンスが飛び出したのは、過たず、フェルディナントとユリウスの目の前だった。

 ユリウスの降りかぶった剣の、真下だった。

 鋭い刃が、やけにゆっくりと、コンスタンスの肩から胸を、胸から腹を、切り裂いていく。灼熱の何かが、体の中を撫でていく。

 骨の砕ける音。血の吹き出る音。

「な――」

「……コンスタンス!」

 フェルディナントの両腕がコンスタンスの体を抱え込む。

「コンスタンス……!? なぜ……!」

 ユリウスの悲鳴を背に、フェルディナントはそのまま、川に飛び込んだ。



 ティティは力を失って、その場に倒れ伏した。水面から暗闇がかき消え、せせらぎが戻った。何が起こったのか本当にわからない。でも、起こってしまった。何か決定的な出来事が。

 慌てたような足音が背後に迫る。

「コンスタンス! ……コンスタンス!?」

 白髪交じりの初老の男が慌てふためいて、消えた少女の名を叫んでいる。ティティは何とか顔を起こした。初老の男が人魚に詰め寄る。

「すまない、訊ねるが、ここにいた少女は――コンスタンスはどこへ行った!?」

「……消えた……」

 うめいてティティは、たまらず力を抜いた。

 動けない。

 今の現象は、〈水鏡〉よりも遙かに大量の魔力を必要としたようで、さすがの彼女もほとんど魔力切れ寸前になっていた。体がほとんど動かない。まずい、と思う。これでは契約を果たせない。あまり時間がないというのに。

「……すまぬが儂を水の中に入れてくれぬか。体が動かぬ。足の先まで全部沈めてくれれば帰れるゆえ」

「貴女は……人魚ですか」

 初老の男は、ティティの言葉遣いだけで正体を悟ったらしい。ティティは頷いて、囁いた。

「一刻も惜しい……急いで帰って、体力を戻さねば……今宵の契約は……別の誰かに頼まねば。案ずるな。コンスタンスは、必ず見つけてみせる。まだ借りを返しきっておらぬゆえ、絶対死なせはせぬ。はよう儂を水の中に」

「お願いします。……お願いします」

 蒼白になりながら、男はティティを抱えて水の中に入れた。清涼な水に包まれて、ティティはほっとした。何とか帰れそうだ。

「あ」

 最後に、これだけは頼まなければと、ティティは男に言った。

「そのこんぺいとの壷も、一緒に入れてくれぬかえ」

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