第一章(4)
*
西館が近づくにつれて、マイラの口数は減っていった。
本当に、王宮みたいに広大な敷地を持つ宿だ。もともとはラインスターク伯爵家の別荘だったらしいが、ヒルヴェリン=ラインスターク、通称『第一将軍』という有名な人物が、エリオット残虐王の治世を助けていたという理由で隠居した際、アナカルシス王家に寄贈した。譲り受けたのは英傑王だ。英傑王は熟慮の末、第一将軍が気に入っていたこの別荘をこれからも利用できるよう一計を案じ、王家から切り離して、貴族が泊まるための宿として体裁を整えた。
だからこんなに広大で、豪奢な作りになっているのだろう。コンスタンスが感心してきょろきょろしていると、こちらに気づいたのか、正面の扉から、かっちりした制服を着こなしたドアマンが出てきた。こちらに向けて一礼する――と、
かっ。
ドアマンの開いた扉から、踵の音も高らかに、真っ白なドレスを着た大変な美女が現れた。
小さな顔。背が高く、ほっそりした体つき。豊かな茶色の巻き毛がマントのように彼女の体を取り巻いている。神々しいほどの美貌だが、その美女は、怒っているようだった。鳶色の瞳がこちらを射抜く。
「……マイラ!」
マイラは立ちすくんでいた。その顔から血の気と表情がすうっと抜けるのをコンスタンスは見た。美女はつかつかとこちらに歩み寄り、ぐっとマイラの腕をつかんだ。
「見つけたわよ。私をのけ者にできなくてお生憎様ね」
「……パトリシア……」
唇が青い。コンスタンスは思わずマイラの腕に手をかけ、パトリシア、と呼ばれた美女はそれを見た。刺すような目がコンスタンスを一瞥したが、コンスタンスはその手を離さなかった。硬直していたマイラが、ようやく呻く。
「……どうしてここがわかったの」
「エリックが、ヴァルターから聞き出したのよ」
「そんな」かすれた声だった。「ヴァルターは……無事なの?」
「知らないわ、それどころじゃなかったもの。それより、これはいったいどういうこと。何こそこそしてるの、もう思い知ったんじゃなかったの? あたしを排除しようったって無駄なんだって、まだわかってないの? あたしがいなきゃ、何一つろくにできないくせに。自分の立場がまだわからないの」
「――」
コンスタンスは思わず口を開いたが、マイラが寸前で止めた。自分の腕にかけられたコンスタンスの指先をそっと握って、放す。
「……ごめんなさい、驚かせて。案内してくださってありがとうございました」
「こちらは?」
パトリシアがコンスタンスとユリウスを見比べた。ユリウスが口を開こうとしたが、それより前にマイラが言った。
「通りすがりの方たちです。私が迷っていたから案内してくださっただけ。……パトリシア、あなたのような人がこんな場所にいることが皆に知られたら大変でしょう、だから、手を煩わせたくなかったの。のけ者にしたわけじゃないんです」
「あなたっていつもそうよ。いつも勝手に物事を進めて、私に何の相談もなく――あなたを助けられるのは、アナカルシスの王子様なんかじゃない。私だけよ。もうわかってるでしょう?」
マイラは俯き、小さな声で、そうですね、と言った。
それからコンスタンスとユリウスに向けて、丁寧に一礼した。
「ご無礼をお許しください。ありがとうございました」
「いえ」
ユリウスが挨拶をし、コンスタンスも礼をする。マイラがきびすを返し、パトリシアはこちらを見た。取り繕うような、困ったような微笑みが、その愛らしい顔に浮かんだ。
「ごめんなさいね、あの子、お二人に何か失礼をしなかったかしら。ここまで送ってきていただいて感謝します。方向音痴で、一人じゃ本当に何もできないんだから」
コンスタンスは苛立ちを覚えていた。いったいこの人は何なのだろう。
そしてマイラが気がかりだった。あの顔色はただごとじゃなかった。
「そんなことありません。本当は、私の落とし物を拾ってくださったの。こちらの方が助けていただいたんですわ。お待ちの方がいらっしゃるとは存じませんで、お引き留めして、ご無礼をいたしました」
侍女頭の特訓を思い返してコンスタンスがそう言うと、パトリシアはうなずいた。
「そうでしたか。あ、ごめんなさい、こんな場所で――どうぞ、お入りくださいませんか。よろしければご一緒に昼食をどうかしら」
「せっかくですが」丁重にユリウスが言った。「そろそろ戻らなければ。来客の予定があるものですから」
「そうですか。……あの」
パトリシアは扇を取り出した。
ぱちっ。小気味良い音を立てて扇が開き、その陰で、囁くようにパトリシアは言った。
「あの子と一緒にいるときに、何か……飛んできませんでしたか」
「何か?」コンスタンスは首を傾げて見せ、
「何かとは?」ユリウスも聞き返した。
パトリシアは二人を見比べ、ふうっ、と扇の陰でため息をついた。
「飛んできていないのなら、良いのです。あの子は……どうも、危なっかしくて。心配で……」
「心配なのですか。どうして」
「昔からそうなんです。びっくりするほど頑固なのよ。人の言うことを聞かないで、いつも判断を誤って、どうしてそっちに行くんだろうって……方向音痴なの、全てにおいてね。今までずっと、失望させられてばかり」
勝手な言いぐさだ、とコンスタンスは思う。パトリシアはコンスタンスをじっと見た。
「あの子の味方は私しかいないんです。どうかそれをお忘れなく」
コンスタンスが、どういう意味かを考えているうちに、パトリシアはきびすを返していた。扇の傾け方も、ドアマンへのうなずくような礼も、全てが完璧な令嬢の仕草だった。ユリウスがコンスタンスの手を自分の左腕につかまらせ、促した。逆らわずについて行きながら、コンスタンスはつぶやく。
「……どういう意味かしら……」
忘れるな、だなんて。コンスタンスは結局名乗っていない。『通りすがり』の人間に言うには、不似合いな言葉ではないか。
「だいぶややこしい関係みたいだったね」
ユリウスは簡単に言った。その頬に笑みが浮かんでいるのを見て、コンスタンスは驚いた。
「何か、今の会話の中に、楽しい要素があったかしら?」
「大ありだよ。さっきまであなたも、こんな笑顔だったでしょ」
「……そうだった?」
「マイラ=グウェリン嬢の境遇を喜ぶのは良くないことだけと。でも少なくとも、彼女は、フェルディナントと結婚すれば、あのややこしそうなお姫様の支配下から解放されるんだ。それっていいことじゃないか」
「支配下」それだ。コンスタンスはうなずいた。「そうだわ、あの方、私に釘を刺したのね。まあ、なんて嫌みな方!」
「身分なんてくだらない、か。面白くなってきた。コンスタンス、残念だけど、今日の予定はたぶん中止になる。みんなで対応を練らないとね」
「中止って? どうして?」
驚いたコンスタンスに、ユリウスはゆっくりと言った。
「マイラ嬢の彼女への対応を見て……ヒントもくれていたけど、さっきのパトリシア嬢は十中八九、今代のエルカテルミナだ」
「……エルカ……えええ!?」
エルカテルミナと言えば、【最初の娘】のことだ。千年以上昔から連綿と続く『ルファルファの娘』で、神殿の神子。これこそ本物のお姫様である。
「マイラ嬢は【最後の娘】として嫁ぐ……ということは、あのパトリシア嬢が対外的にはマイラ嬢の主、ということになるんだ。その主がだ、自分の【剣】とフェルディナントとの婚姻を喜んでない。今日の面会にも、理由を付けてついてこようとするだろう。マイラ嬢は僕たちのことを『通りすがり』と紹介した。その嘘は午後の面会でばれてしまう。それくらいのことがわからないほど彼女はバカじゃない。たぶん何らかの理由を付けて面会はキャンセルされるはずだ」
「……そんな……」
コンスタンスの苛立ちは怒りに変わりつつあった。さっきの様子を見ても、今日の面会を彼女がどんなに楽しみにしていたか、ということくらいわかる。
「それに、暢気に未来の結婚相手と面会してる事態じゃなくなった恐れがある。さっきの顔色はただごとじゃなかった。『ヴァルターは無事なのか』とマイラ嬢が言っていただろ。エスメラルダのヴァルターと言えば、現エルヴェントラを思い出すね。エルヴェントラ=ル・ヴァルター=エスメラルダ。……エルヴェントラはマイラ嬢をフェルディナントに嫁がせることを了承した本人だ。それを喜ばないエリックとか言う人間が、ヴァルターからこの場所を『無理矢理』聞き出してパトリシア嬢を向かわせ、マイラ嬢は顔色を失ってヴァルターの安否を訊ねる。……結構不穏な事態だと思わない?」
そんな早口で言われても、と、コンスタンスは思った。コンスタンスはユリウスほどエスメラルダの事情に詳しくないのだ。人名を把握するだけで一苦労だ。
ユリウスはいよいよ楽しげに言った。
「今までずっと、ちょっと後ろめたかったんだ。フェルディナントの生命を守るために必要だとはいえ、ひとりの女性が意に染まぬ婚姻を強いられる、という事態が。でもこうなったら話は別だ。マイラ嬢と親しくなったあなたなら、この婚姻を成就させるのに、喜んで協力してくれるでしょう?」
「……もちろんだわ」
コンスタンスは頷いた。フェルディナントとの婚姻をマイラが望んでいるのなら、パトリシアと言う名のややこしいお姫様がどういおうと、絶対に成就させたい。それだけは、絶対に確かなことだ。
その時だ。
「……なんじゃ」
つまらなそうな呟きが出し抜けに聞こえ、ユリウスがギョッとしたように立ち止まった。
先ほどの四阿に続く細い小道から、小さな顔が覗いていた。
二歳くらいだろうか、ぷっくりした頬があどけない。黒い髪をあごの辺りで切りそろえた、目を疑うほど綺麗な幼児だ。最高の芸術家が最高の素材を使って作った人形だって、こんなに美しくはないだろう。薄い袖無しの、白くふんわりとしたドレスを着ているが、腕はむき出しだしおまけに裸足だ。
何が不満なのか、彼女はあどけない顔に不快そうな表情をありありと浮かべている。
「もう終わりか。つまらぬ」
「どうしました」ユリウスは穏やかな声で彼女に訊ねた。「何か僕たちにご用ですか。保護者の方はどちらに?」
「迷子ではないゆえ案ずるには及ばぬ。せっかく花と剣が揃ったのに此度も放棄とは」嘆かわしい、と言わんばかりに、彼女はやれやれと首を振った。「まことに、人間に責務を任せたままでは、成就がいつになるやら知れたものではないわ」
「失礼ですが、僕たちにご用ですか?」
ユリウスが丁重に繰り返し、彼女は長々とユリウスを見た。
ややして、ぷい、と顔を背ける。
「用などないわ。早う去ね」
「ご心配には及びませんよ。剣が五度目に彼女を選ぶ日はそう遠いことではないでしょう。その日までには、剣を放棄しないでもいい状況になっているよう、及ばずながら尽力いたします」
「何も知らぬ小僧が、大きな口を叩くものじゃ」
彼女は軽蔑したようにユリウスを睨んで、とことこと、四阿へ向かう小道へ戻っていく。コンスタンスはユリウスを見上げた。ユリウスは幼女の背を見送っていたが、コンスタンスの視線に気づいて囁いた。
「あの話し方。伝承のとおりだ。人魚だよ」
「え――」
「エスティエルティナがマイラ嬢を選んだのを感じて見に来たんだろう。だいぶご立腹のようだね」
とぷん、四阿の向こうで軽い水音がした。あの水鉢の立てた音だろうか。
ユリウスはこともなげに言う。
「人魚は清浄な水が充分あればどこへでも出没できるらしいから」
「……まああ……」
「責務って何だろう。ああ……知らないことがいっぱいだ。嫌になっちゃうよね。僕の人生全部を使ったとしても、王宮にある文献全てを読み尽くすことさえできなさそうだというのに、この世にある謎や知識は、図書館に収まりきらないほど多いと来てる」
「先代の【最後の娘】は……あの剣に、何を託したのかしらね」
言ってみるとユリウスは頭を抱えて見せた。
「本当に、不思議な剣に結わえ付けられている手紙に気づいておきながら、それを読まずに済ませられる人間の存在が信じられないよ」
コンスタンスは思わずくすっと笑った。ユリウスが探求心に富んでいると知ってはいたけれど、その一面がさらけ出されることなど滅多にない。可愛い、と思ってしまうのは、不躾なことだろう。コンスタンスは表情を取り繕った。
――身分なんてくだらない。
そう言ってくれたマイラの言葉が、嬉しかった。
コンスタンスがユリウスの求婚を受けたとしても、彼女なら、きっと軽蔑しないでくれるだろう。
コンスタンスはいつもどおり夢想した。ユリウスのさしのべてくれる手を、取ることができたら。ユリウスと一緒にいられて、フェルディナントともこれまでどおり友達づきあいをすることができて。その横にいるはずのマイラとも、様々な楽しいことを、一緒にすることができたなら。
そんな勇気が自分にあるなんて、信じられはしなかったけれど。
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