第一章(2)

「あの」

 出し抜けに声をかけられて、コンスタンスは飛び上がった。

 ユリウスがさっき示した椅子がある方の木立から、黒髪がひょこっと覗いた。

「き――」

 飛び出しかけた悲鳴を、せっぱ詰まった声が止めた。

「大声を出さないで。ごめんなさい、怪しい者じゃありません」

 慌てたような声が、本当に困っているようだった。

 そしてそれが若い綺麗な女性だったという点もあって、コンスタンスは、なんとか悲鳴を飲み込んだ。木立から出てきた彼女は小柄で、この辺りではあまり見かけない顔立ちをしていた。異国風の顔立ちだ。玉子の黄身をたっぷり使って作ったクリームのような、なんだか美味しそうな色合いの肌をしている。まっすぐな黒髪は腰まで届く長さで、手入れが行き届いてつやつやしていたが、服装は簡素な旅装だった。

 瞳の色は灰色だった。ユリウスと同じ色だ、というのが、大声を出さなかった一番の理由かも知れない。

「ど、どこから入ったん、ですか」

 コンスタンスはドレスの裾をつまみ上げ、少し彼女に近寄った。コンスタンスよりだいぶ背が低いが、幼いわけではない。コンスタンスより少し年下かも知れないけれど、物腰はとても落ち着いている。

「扉はひとつしかないって聞いてるわ」

「それがその」

 彼女は呻くように言って、恥ずかしそうに顔を背けた。

「……道に、迷っちゃって……」

 どう迷ったらこんな場所に入り込めるのだろうか。コンスタンスは少々呆れて辺りを見回した。

「そちらの扉から入ったのではないのですか?」

 先程ユリウスが出て行った扉を指すと、彼女は首を振った。

「こっちから来ました」小川の下流の方だ。「ごめんなさい、本当に、本当に、騒ぎにしたくないんです。それにその、時間もあまりないんです。昼食までには――だから恥を忍んで、その、……助けて、いただきたくて。その扉の先には、何がありますか? ご存じですか」

「ええ、私たちが泊まっている部屋がありますわ」

「誰にも見つからずに、そっと出られそうでしょうか」

「今はちょっと……気むずかしい人が一人いるの」

 彼女は絶望的だ、という顔をした。哀しそうに肩を落とした。

「……いつもこうなんです。知らない場所に来るといつも、思いがけない場所に入り込んでしまうんです」

「普通に歩いていても?」

「普通に歩いていても」

 彼女は重々しく繰り返し、はあぁ、とため息をつく。

「それに今日は、ちょっと問題があったもので……やっぱり誰かに、案内を頼むべきでした……でも……何とか、その、そのう。……粗相をしたくなかったの」

「まあ」

「今日は大事な日なんですよ」

「まあ、私もです」

 彼女の灰色の瞳がコンスタンスを見た。「あなたも?」

「そうなの。大事な日に、粗相をしたくないという気持ちはよくわかるわ。ね、どこから入ってきたの? この扉を通るのは諦めた方がいいわ、本当に石頭の偏屈おやじがいるから、絶対見つからない方がいい。それなら、戻る方がまだいいと思うわ」

「……戻るのはちょっと……」

 言って彼女は、ちらりと上を見た。三メートルほど上にあるガラス張りの天井の、南側の外れに、小さな隙間が空いている。示されなければ気づかないだろうほど、ここから見ると小さい。

「……あそこから!?」

「はい」彼女は頷く。「もう、他にどうしようもなくて。降りるのは何とかなったけど、飛び上がるのは……物理法則的に……」

「って、いつからいたの?」

「あなた方が来るちょっと前。二人いたでしょ? 騒がれるとまずいと思って……あ、でも、話は聞こえなかった。盗み聞きするつもりはなかったし、そもそも距離が結構あったの、本当です」

 必死に言う様子が微笑ましかった。可愛らしい人だとコンスタンスは思う。

「じゃ、どうしましょうか。この庭園には出口はひとつだけだし、もうすぐ連れが戻ってくるわ。あの人は、もちろん、あなたのことを騒ぎ立てたりはしない人だけれど、」

 彼女の表情をみて、コンスタンスは残りを飲み込んだ。できるだけ人に見つかりたくない、と、その灰色の瞳が言っている。

「じゃあ今のうちに私が外に出て、偏屈おやじを……」

 何とか追い出せるだろうか、と、思った。想像するだけで、

「……無理だわ……」

 呻かずにはいられない。あの侯爵が、コンスタンスなどの言葉に従って席を外してくれるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。

「そんなに偏屈なの?」

「そりゃあもう。私の言うことなんか絶対に取り合ってくれないわ。私、とても嫌われてしまっているの」

「そっか……じゃあ……」

「……」

「……」

「……」

 黒髪の少女が見つめているものを見て、コンスタンスも考えた。

 うまくいくだろうか。

「……偏屈おやじを追い出すよりは可能性があるかも知れないわ」

「え? ……え? で、も、まさか、そんなわけにはいかない、です、よね」

「私は気にしないわ。あなたは小柄だし」

「でも」彼女はまじまじとコンスタンスを見た。「気にしないの?」

「大丈夫よ、ちゃんと下着の上に下履きも履いているもの」

「でも、あなたみたいな方の、まさかそんな」

「あ、その点は気にしないで。私偽者なの」

 彼女はぽかんとした。「偽者?」

「ごめんなさい、私、やむにやまれぬ事情があって、お姫様のフリをしているの。本当はただの小間使いだから、そんなに気を使わなくて大丈夫ですよ」

 コンスタンスはぴらり、と、ドレスをまくって見せた。

「結構疲れると思うけれど、できるだけゆっくり歩くから……一か八か、やってみましょうか?」


 ドレスはひだがふんだんにあり、裾まで届く長さだ。

 コンスタンスはできるだけゆっくりと歩いた。黒髪の少女はコンスタンスのドレスの中でしゃがみ込み、にじるような格好で後をついてくる。大変だろうに、彼女は全く遅れずについてきた。コンスタンスはしゃなりしゃなりと歩き、扇で顔を隠して、先程の居間に出た。フェルディナントに、ちょっと散歩してきます、と言い置いて、スタローン侯爵に礼をひとつ。

 万一見つかったら、そう思うと冷や汗が流れる。

 令嬢のスカートの中に入り込んだという汚名を少女に着せるのも気の毒だし、見知らぬ人間をスカートの中に入れたなんてばれたなら、スタローン侯爵がいったい何を言うだろう。ドキドキしながら向きを変えて扉を開いた、その時だ。

「あ、待って」

 フェルディナントに声をかけられ、コンスタンスも、ドレスの中の少女もびくりとした。

「は、はい?」

「ちょっと」

 フェルディナントはこちらにやってくる。その顔がスタローン侯爵から隠れるように笑いをかみ殺しているのが見える。見つかったのだろうか。でも、どうして? どうしてわかったのだろう? 振り返っても、裾から何も出ていないし、不自然な盛り上がり方もしていない。何とか察して欲しいと必死で念を送るコンスタンスに、フェルディナントは床から拾い上げたものを手渡した。

「靴を忘れてるよ」

「……あ」

 コンスタンスはフェルディナントの手に視線を落とした。先程脱いだ踵の高い靴がふたつ。

 ここで履くわけにはいかない。

 と、

 ぽん。可愛らしい音とともに、フェルディナントの手の中で靴が小さくなった。

「危険はないんだろうけど」

 靴を握らせてくれながら、フェルディナントは囁いた。

「後で詳しく話を聞かせてもらうからね」

「……はい」

 コンスタンスはかろうじて微笑んで、退散した。一目散に。尻尾を巻いて。


   *


 数分後、幾度かの緊張と混乱を経て、コンスタンスと黒髪の少女は、果てしなく続く廊下の端の、緞子の陰にいた。コンスタンスがまくり上げた裾から、乱れた黒髪がひょいと覗く。

「……もう……本当に……本当に……」

 少女は乱れた髪もそのままに、こちらに向けて深々と礼をした。

「このご恩は忘れません。本当に助かりました」

「まあそんな、そんなに気にしないで」

 コンスタンスは慌てて手を伸ばして彼女を立ち上がらせ、ぱたぱたと埃を叩いて身なりを整えてやった。髪は手ぐしで梳かして、旅装の裾を直して、襟を元どおり折り返す。

「急いでいるんでしょう? 昼食まで、あまり時間がないわ。早く戻らないとね。お部屋は、何号室?」

「西館の三階と聞いています」

「あら、ここは東館よ」言いながらコンスタンスは急いで靴を履いた。「一緒に行きましょう、迷子になったことが誰かにばれる前に」

「で、でも、もうこれ以上は」

 少女は逡巡した。その手を、コンスタンスは急いで握った。

「これ以上というなら、それこそこれ以上、迷うわけにはいかないんじゃない? 私の方は大丈夫よ、ここの二階に図書室があるんですって。そこに行ってたと言えば……」

「誰に?」

 出し抜けに低い声で問われ、二人は縮み上がった。

 さっと緞子が開いて、そこから覗き込んだのは、険しい顔をしたユリウスだ。

「そんな嘘を、誰につくつもり……あれ」

「……ユリウス」

 コンスタンスは呻いた。少女がびくりとする。

「え」

「こ、これはね、ユリウス、ちょっと事情があって」

「フェルディナントが、コンスタンスが訳ありの誰かといそいそ出て行った、って言うから、慌てて様子を見に来たんだけど」

 ユリウスが黒髪の少女を見ながら言い、コンスタンスは目眩を覚えた。いったいどうしてフェルディナント王弟殿下は、そんないかがわしい言い方をしたのだろう。

「……そんなんじゃありません。ちょっとお困りの様子だったので、」

 言いかけて、コンスタンスも少女の様子に気づいた。

 黒髪の少女は、蒼白になっていた。「ふぇる……」小さな桜色の唇から、「でぃなん、と?」名前がこぼれ落ちる。

 少女は、ユリウスに言った。

「……ユリウス……ユリウス=シャトー様、で、いらっしゃいますか」

「はい」

 彼女はぎこちない様子でこちらを見た。

「コンスタンス=ガルフィン、様……?」

 コンスタンスは驚いた。

「ええ、そうです。あ、の?」

「うああああああああ」

 突然少女は呻いて、顔を覆って座り込んだ。

「何でよりによって……よりによって……ううう……」

「とりあえず」

 ユリウスは、やけに優しい口調で言った。

「お部屋へご案内しましょうか、マイラ=グウェリン様」

 彼女がびくっとする。泣き出しそうな真っ赤な顔が指の隙間から覗き、コンスタンスは、後退った。

「……嘘でしょ」

「すみません……」

 彼女は既に半泣きだった。縮こまりながらも立ち上がると、世にも情けない顔をして、うめくように言った。

「マイラ=グウェリンと申します。……ごめんなさい……」

 謝らなくても、と、コンスタンスは思った。

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