第一章(1)

 あの子のことは、もう顔も覚えていない。

 とても小さな頃だった。たぶん六歳とか七歳とか、それくらい。私はぷんぷん怒りながら、まだ慣れない町の中を歩いていた。

 フェルディナントとユリウスは、たまに、たまにだけれど、私を仲間外れにする。

 そりゃあ、私は二人ほど速く走れないし、二人ほど高い木に登らない(登れないのではない。登りたくないだけだ)。探検ごっこでは遅れがちになる。

 でも、だからって置いてくなんてひどい。

 ぷんぷん怒りながらずんずん歩いた。絶対、絶対、もう一緒に遊んであげたりするものか。遊んでもらえないのじゃない。こっちが遊んであげないんだから。

 その町がどこだったのか、どこをどう歩いたのかも覚えていない、の、だけれど。

 いつしか私は、高い木に囲まれた箱庭のような場所に入り込んでいた。

 生け垣はそびえ立つように高く、侵入者を阻むようにびっしりと取り囲んでいた。あれほど怒っていなかったら、絶対入ったりしなかった。うろうろするうちに、ここはどう考えても私有地だと気づき、叱られる前に出ようと思いながら闇雲に歩き回るうち、ふと、生け垣の迷路が切れて……

 そこに、あの子がいた。

 広い芝生の真ん中に大きな木が一本立っていて、見事な枝に設置された大きな吊り下げ椅子に座り込んで、本を読んでいた。

 私と同じ年頃の、綺麗な女の子。

 ――こんにちは。

 道を教えてもらおうと声をかけると、彼女は顔を上げた。はっとした。頬が真っ赤に染まって、本に顔を隠してしまう。

 ――なに、してるの?

 訊ねると彼女は本の陰からちらりと瞳を覗かせた。

 ――本、読んでるの。

 好奇心がうずいた。この子はいったい誰だろう。今まで一度も会ったことがなかった。灰色の瞳が、ユリウスと同じで好ましかった。異国風の顔立ちが風変わりで、とても綺麗だ。この箱庭の中も魅力的。

 ――遊ぼうよ。

 誘うと、また瞳が本の陰に隠れた。

 ――遊べないの。

 ――どうして?

 ――遊んじゃだめだって。ここから出ちゃいけないの。

 ――ふうん。

 私は彼女の隣にすとんと座った。

 ――じゃあ、ここで遊ぼうよ。それならいいでしょう?

 ――いい……のかな? 

 ――いいよ。遊ぼうよ。

 ――うーん……でも、なにして遊ぶ?

 ――いつもここで、なにをして遊ぶの?

 私は辺りを見回した。真ん中に大きな木が一本。広々とした芝生は玉蹴りとか鬼ごっことかしたら楽しそうだ。色とりどりの花が咲き乱れている一角も、小さな菜園もあれば、砂遊びができる一角も、滑り台もある。ほかの子供がいないのが不思議なほどの充実ぶり。

 ――木登りは、楽しいかな。いろいろなものが見えて。

 彼女が小さな声で言い、私はむっとした。フェルディナントもユリウスもこの子も、木登りばっかり。

 ――私、木登りはしないの。

 宣言すると彼女は首を傾げた。

 ――できないの?

 ――ううん、しないの。面白くないんだもん。

 ――あのね。

 彼女はゆっくりと、その木を見上げた。

 ――この木は、エクストラニクス男爵って言うの。

 ――名前があるの?

 ――うん、とてもお爺さんだけど、すごく紳士なの。でね、この世で一番好きなことは、子供が枝に登ってくれることなんだって。

 ――ふうん。

 ――助けると思って、ちょっと登ってあげて。いやだったら、すぐに降りていいから。

 言いながら彼女はひょいと幹に手をかけ、靴を脱いでするすると登った。見るとエクストラニクス男爵の幹には太いロープが巻いてあり、それを足がかりにしているのだ。

 ――紳士だから大丈夫だよ。優しくて穏やかで、子供が登るのが大好きなんだ。

 その声に誘われて……その日私は、生まれて初めて、その広い広い世界を見た。

 エクストラニクス男爵の枝はとても太く、五メートルは登ってもびくともしない太さを保っていた。梢の隙間から見える世界は広かった。広くて、広くて、どこまででも飛んで行けそうな気がした。少し離れた場所に、エクストラニクス男爵そっくりなもう一本の木が見える。その木の麓にある広場で、二人の男の子が駆け回っているのが見えた。ユリウスとフェルディナントだ。いつも見下ろされるばかりだった私が、今日は彼らを見下ろしている。それがとても爽快で――とても開放的で。

 その庭で過ごした半日は、今までの人生で一番楽しかった思い出の一つだ。砂山を作り、花冠を作り、追いかけっこをし、ボール遊びもした。エクストラニクス男爵を船に見立てて海賊ごっこをし、塔に見立ててお姫様ごっこをし、森に見立てて小人の探検隊ごっこもした。手をつないではしゃぎ、声を上げて笑った。

 ――また遊ぼうね。明日また、来るからね。

 約束をした。また一緒に、絶対絶対、遊ぼうね、と。

 でも、次の日に行ったとき、もう、その箱庭には誰もいなかった。

 果たされなかった約束は、十年以上経った今もなお、胸のどこかにしこりとなって残っている。


   *


 アリエディアは、夢のように綺麗だ。

 この町に着いてからずっと、コンスタンスは夢見心地だった。着飾った人々、美しい石畳、長い年月を経た風格、美味しい食事に、整然とした町並み。住民たちも観光客に慣れていて、とても親切で穏やかで、町全体が歓迎してくれているような雰囲気だ。

 極めつけには、この豪奢な宿。

 ――まるで本当に、生まれついてのお姫様になったような気分。

「コンスタンス、こちらへどうぞ」

 ユリウスは、まるで本物の令嬢にするかのように手を差し出してきた。

 その瞬間、コンスタンスは我に返った。

 どっと冷や汗が吹き出した。絞められたコルセットの苦しさと、かかとの高い靴で痛めつけられた足が急に存在を主張し始める。何やってるの、と思ってしまった。うっとり夢見心地に浸っている場合ではなかった。

 私はお姫様なんかじゃない。小間使いの身分だ。

 もしへまをしたら――

「大丈夫」

 ユリウスは優しく微笑み、コンスタンスの手をそっと取って、そこに口づけを落とした。

「大丈夫。僕がついてるから」

 ――これなら大丈夫。どこからどう見ても本物のお姫様よ!

 デリアナの太鼓判を思い出し、コンスタンスは呼吸を整える。演技演技、と自分に言い聞かせ、扇を開いた。ユリウスに手を委ねて、そっと微笑む。「その調子」声をかけてきたのは王弟殿下。大丈夫だ。ユリウスとフェルディナントが一緒なら、何も怖いことなどあるものか。

 コンスタンスは勇気を振り絞り、馬車から降りた。つま先と指先に、特に注意を払う。優雅に、エレガントに。

「いらっしゃいませ」

 宿の支配人が丁寧に挨拶し、従業員が総出で出迎える中を、コンスタンスはユリウスに支えられながらしずしずと進む。右隣にはフェルディナント=ミンスター・アナカルシス王弟殿下だ。王妃宮の侍女頭に猛特訓させられていなかったら、緊張と晴れがましさで窒息していただろう。

 ただの小間使いのくせに。

 エイベル=スタローン侯爵の視線が背中にちくちく突き刺さっているが、努めて気にしないふりをする。

 見ただけでは、コンスタンスが本当は小間使いの身分なのだ、ということなどわからない。……はずだ。この一ヶ月、侍女頭とデリアナに朝から晩まで令嬢としての立ち居振る舞いを特訓され、先週、めでたく太鼓判をもらった。微笑み方、頷き方、エスコート役への手の預け方からドレスの裁き方、扇の持ち方、カップの傾け方まで、みっちり仕込まれたのだから。

 しゃべらなければ大丈夫だ。

 そして令嬢というものは、公の場ではしゃべらない方が格調高く見える、らしい。

「お越しを賜り光栄でございます。どうぞごゆるりとおくつろぎくださいますよう。ご入用の際は何でもお申し付けくださいませ」

 支配人の挨拶には、扇の陰から目だけで頷けばいい。睫を伏せて、微笑みを乗せて。教えどおりにしてみると、なるほど、支配人はそれだけで天にも昇るような表情をした。

 申し訳ない。

 頭の中で平謝りしながら、コンスタンスは必死で自分の役を演じ続けた。

 騙す気はないの。本当にごめんなさい。やむにやまれぬ事情があるの……。



 豪奢な部屋に通され、お茶の給仕を受け、支配人も小間使いもみんな出て行くまで、何とかボロを出さずに済んだ。扉が閉まるやいなやフェルディナントはくつくつと喉を鳴らして笑い出し、コンスタンスはほっとして扇を膝に落とした。

 やり遂げた。まずは第一段階、というところだけれど。

「……どうしてお笑いになるんですの、フェルディナント=ミンスター・アナカルシス王弟殿下」

 睨むとフェルディナントはまだ笑いながら手を振った。

「いやごめん、いや、本当にごめん。大したものだったよ、まさに本物のお姫様だった。コンスタンス、いざとなったら度胸があるじゃないか」

「大丈夫だって言っただろ。コンスタンスはやるときはちゃんとやれる人なんだ」

 ユリウスはフェルディナントに言い、それから、こちらに笑顔を向けた。

「コンスタンス、どうもありがとう。無理を言って悪かったね」

「謝ることはない」

 とげとげしい口調で言ったのは、ソファにふんぞり返ったスタローン侯爵だ。

「小間使い風情が令嬢としてちやほやされるんだから、幸運に感謝すべきはその子の方――」

「エイベル=スタローン侯爵、コンスタンス=ガルフィンは小間使いではなく、僕の許嫁です」

 ユリウスが言い、コンスタンスは身を竦ませる。スタローン侯爵はこれ見よがしに足を組み替え、嘆かわしい、という顔をした。

「ユリウス=シャトー、噂には聞いていたが、君は本当に小間使いなどを妻に迎えるつもりなのか」

「小間使いじゃありません。王宮の資料室務めです」

「資料室! 君は身分の何たるかが――」

「身分など」ユリウスは言いかけ、言い直した。「……身分がなくても、彼女には功績があります。彼女を雇ってから、ようやくあのガルテの遺した膨大な資料が整理されて来たんです。最近、アナカルディアの製薬所が相次いで拡張申請を出しています。それは彼女がガルテの難解な資料を読み解き、整理し、索引をつけ、誰でも利用できる状態に整えてくれたからなんです」

「シャトー家はまだ貴族ではないが、君のお父上、ランバート=シャトー殿はれっきとした英傑王のお身内ではないか。私は承服しかねるね、何を好きこのんで小間使いごとき――」

「まあまあ、お茶が冷めますよ、スタローン侯爵」

 フェルディナント王弟殿下はやんわりと遮った。コンスタンスは心底感謝した。

 ユリウスの頭に血が上る寸前の、絶妙なタイミングだった。

 フェルディナントは目だけでユリウスをたしなめ、縮み上がっているコンスタンスを見て微笑んだ。

「コンスタンスも寛いでいいんだよ。あなたにはこんな面倒なことをお願いして本当に申し訳ないと思ってるんだ。でも、本当にありがとう」

「い、いえ、お役に立てれば嬉しいです」

 スタローン侯爵はまだ不満げにじろじろとコンスタンスを見、ふん、と鼻を鳴らして茶を飲んだ。スタローン侯爵は八つ当たりをしてるだけなんだ、昨日ユリウスに言われた言葉を思い出して心を落ち着かせようとする。こんな茶番のお守りを王から命じられて、スタローン侯爵は貧乏くじを引いた、それがそもそも気に入らないのだ。

 コンスタンスはクッキーを一枚食べ、その美味しさに、思わず頬を綻ばせた。

「美味しい」

「それは良かった」

 フェルディナントは微笑んで、それで、とスタローン侯爵に水を向けた。

「先日お話ししたティファ・ルダ産リルア石の販売割り当てについてなのですが、まだ問題がありまして。この期に侯爵のご意見をうかがえれば」

「おお」

 侯爵は目に見えて機嫌を直した。ティファ・ルダの地下に眠る『財宝』のうま味を狙う貴族は多い。まだ少し不機嫌を装いながらも、小鼻がぴくっと動いた。フェルディナントが資料を取り出し、二人はその上に屈み込んで、なにやら難しい話をし始める。

 コンスタンスは心底フェルディナントに感謝して、もう一枚クッキーをつまんだ。本当に、フェルディナントは昔から変わらず親切だ。公平で利発で、聡明で勇気があって。

 フェルディナントがあんなに優秀でなければ、エスメラルダの【最後の娘】との結婚なんかにすがらなくても生き延びられたんだろうけれどね。

 とは、フェルディナントと同い年で親友で右腕でもある、ユリウス=シャトーの言だ。おかしなものだ、と、コンスタンスは思わないではいられない。優秀で聡明で、おまけに親切で温厚、という美点が理由で、殺されかけるだなんて。

「コンスタンス、こっちにおいで」

 そのユリウスは、この豪奢な部屋の奥に続くらしい扉のところでコンスタンスを呼んだ。少し悪戯っぽい顔をしている。コンスタンスがそちらへ行くと、ほら、と続きの間の中を示した。

「……わあ……!」

 コンスタンスは思わず歓声を上げた。

 寝室でもあるのかと思ったが、違った。そこは、広々とした庭園になっていた。

「……ここ、三階じゃなかった?」

「すごいよね。ここ、この部屋に泊まる人たちだけのための庭園なんだ。ほら、一応屋内だよ」

 見上げると、なるほど天井がある。ガラス張りだ。日の光がさんさんと降り注いでいる。おまけに、水音がすると思ったら、庭園の真ん中に美しい川が流れているのだ。床は柔らかな芝が敷かれていて、樹木や色とりどりの花々が、絶妙な配置に置かれている。

「靴を脱いだ方がいいよ。芝を痛めるから」

「……脱いでいいの?」

 思わず訊ねるとユリウスは顔を歪めた。吹き出しそうになったのを堪えたらしい。

「もちろん、その方がいいと思うよ」

「ああ、嬉しい」

 コンスタンスは大喜びで靴を脱いだ。じんじん痛む足が解放されて、そっと芝を踏むと、涙が出るほど気持ちがいい。

「あちらは午後には到着の予定だ。この庭園には僕たちの部屋を通らないと行けないだろ、ちょうどいいんじゃないかと思って」

 ユリウスは自分も靴を脱ぎ、後ろ手に扉を閉めた。スタローン侯爵から遮断されて、コンスタンスはすがすがしい空気を胸一杯に吸い込んだ。小川のせせらぎの、若葉の、花々の放つ様々な芳香が混ざり合った素晴らしい匂いだ。

「そうね」

 しばらく景色を堪能してから、コンスタンスは頷いた。

 ここなら、エスメラルダの【最後の娘】――候補――も、きっと覗いて見たがるだろう。

 コンスタンスの役割は、フェルディナントの婚約者と『偶然ばったり』出会って親しくなり、この部屋に連れてくる、というものだ。

 そうじゃないと、フェルディナントもあちらも、あまりに気の毒だ。仕方がないことだとは言え、初めて会うのが結婚式だなんて、あんまりじゃないか。

 貴族ではよくあることだ、と、フェルディナントは気にしていないようだったけれど、それでもこの計画を立てたユリウスを、コンスタンスはすごいと思う。

「二階に図書室兼喫茶室があるんだ。昼食を食べたら移動して、そこで会う予定」

「どんな人かしらね、マイラ=グウェリン様って」

 優しい人だといいなあ、と思う。コンスタンスが『親しくなる』というのは、もちろんフェルディナントに引き合わせるための口実だけれど……

 フェルディナントは結婚したら、王位継承権を放棄して、エスメラルダに住むことになる。そうしたらたぶん、ユリウスもエスメラルダに引っ越すことになるだろう……たぶん。

 そうしたら、『ユリウスの婚約者』であるコンスタンスも、数々の苦難を乗り越えられさえすれば、きっとエスメラルダに住むことになる。マイラ=グウェリンとは、これからもずっと付き合っていくことになるのだ。どんな子だろう。マイラ=グウェリンは、フェルディナント、ユリウス、そしてコンスタンスと同じ、十九歳だ。あのグウェリンの一族で、あのエルヴェントラ=ラ・マイ・エスメラルダのひ孫にあたるという、とても由緒正しい家柄だから、もちろん小間使いに過ぎないコンスタンスと友人づきあいなどしないだろうが……

「親切な人だと思うわ」

「そうだね。僕もそう思う」

 コンスタンスはユリウスの同意を得られたことにホッとした。

「そうよね。そうじゃなきゃ、会ったことのない人と結婚の約束なんてできないし、し続けられないわよね」

「まああちらにも下心はあるんだろうけど」

「でもそれって、孤児院の後ろ盾になって欲しいってことでしょう? 悪い理由じゃないし」

「よっぽど訳ありの孤児院なんだろうけどね」

 確かに、とコンスタンスも思う。エスメラルダの偉人のひ孫なのに、わざわざ嫁ぎ先に庇護を頼まなければならない孤児たちとは、一体どういう存在なのだろう。

「でも、子供には罪はないわ」

 呟くと、ユリウスは微笑んだ。

「そうだね。僕もそう思うよ」

 そしてフェルディナントにも罪はなかった、と、コンスタンスは思った。

 年の離れた兄が王位に就いたのも、長い間嫡男が生まれなかったのも、フェルディナントのせいじゃない。

 王が周囲の圧力に負けてフェルディナントを第一王位継承者に定めた、そのたった二年後に、嫡男が生まれてしまった。それだって、フェルディナントのせいじゃない。

 それなのにフェルディナントは実の兄によって命を狙われ、エスメラルダに『留学』しなければならなかった。彼のために奔走して【最後の娘】との婚姻、という約束を取り付けてくれた人がいなかったら、フェルディナントはずっとエスメラルダに避難し続けなければならなかっただろう。

 何より、マイラ=グウェリンという女性が、その婚姻を拒まなかったから。

 二十歳になったら【最後の娘】の名を継いで、フェルディナントと結婚するという約束を、今日まで拒否しないでくれたから。

 マイラ=グウェリンの約束は、十二年もの長い間、フェルディナントの命を守り続けてきた。本当に優しい人なのだと、コンスタンスは思う。

 会話が途絶えた。

 どこから入ってくるのか、さわやかな風がそよそよと、コンスタンスの後れ毛を撫でていく。

「ここは本当にいいところだね」

 ややして、ユリウスが言った。

「昼食はここに運んでくれるよう頼んでくるよ。お目付役殿が一緒にいない方がゆっくり食べられるだろ?」

「えっ」

 一瞬、嬉しい、と思ってしまった。スタローン侯爵と一緒に食事を取っても、味が全然わからないのだ。

「そうしよう」

 重々しくユリウスは頷き、コンスタンスは慌てた。

「待って、そんな。私は平気よ、」

「僕が平気じゃないんだよ。そこに椅子があるから座って待ってて」

 止める間もなく、ユリウスはさっさと歩いて行ってしまった。コンスタンスは、ああ、と息をついた。ユリウスはコンスタンスを愛してくれていて、コンスタンスにとって一番いいことを、と考えて実行に移してくれるけれど、コンスタンスが単なる『小間使い』であり、自分達がスタローン侯爵のみならず国中の殆どの人間から“身分違いの恋”だと後ろ指を指されるような関係である、と言うことに、全く頓着しないところが時々苦しい。


 ――身分をわきまえなさい。

 ――坊ちゃまと結婚するなんて絶対にいけません。

 ――坊ちゃまは英傑王のお身内として、いつか、この国の爵位を手にするお方。釣り合った身分の令嬢との出会いを、お前などが邪魔してはいけません。


 三ヶ月前に流行病で亡くなるまで、母は、ことある事に厳しくコンスタンスに言い続けた。エスメラルダ出身の小間使いだった母は、ランバート=シャトーが英傑王の養子になったとき、その身の回りの世話をするために一緒にやって来た、というだけの存在だった。だからよけいに、苦々しい思いでいたのだろう。シャトー家から追い出されたら、母もコンスタンスも、路頭に迷うしかなかったからだ。

 コンスタンスが物心ついたときには父親は既に亡かった。財産も、家すらない。

 ランバートの家に住み込みで働く小間使いの娘は、なぜかその家の跡継ぎと一緒に兄妹のように育てられた。たぶん、跡継ぎの情操教育のためだったのだろう。『妹』を作ることで、ユリウスの成長に様々な効果を期待した、と言うことだったのだろう。

 なのに。

「……まさか求婚されるなんて」

 今もまだ、どこかで信じられない。

 ユリウスもまた自分を愛してくれていたことは、夢のように嬉しいことだった。でも、それまで考えてみもしなかった。母はずっと、コンスタンスに、身分をわきまえなければならないと、口を酸っぱくして言っていた。甘えてはいけない。コンスタンスの仕事だって、ランバートの斡旋でありつけたのだ。感謝こそすれ、それ以上の望みなど、決して抱いてはいけないと。

 コンスタンスはずっとユリウスに淡い恋心を持っていたけれど。

 分別を弁えられる年頃になってからずっと、叶わぬ思いだと、大それた望みなのだと、母に言われるまでもなく、自分に言い聞かせてきたのに。

 ユリウスにとっては、身分など瑣事でしかなかった。コンスタンスには高すぎて越えることなど考えることもできない壁を、ユリウスは大胆にまたぎ越えようとしている。

 ――でも、私には越えられそうもない。

 だって、とうてい無理だ。スタローン侯爵や母が言うとおり、小間使いの身分の者がユリウスと結婚するなんて絶対に無理だ。うまくいくわけがないのだ。ユリウスを悲しませたくない一心で、今日までずるずるきてしまったが、断らなければならない。自分から身を引くべきなのだ。

 ――この計画がうまくいったら。

 コンスタンスは自分に言い聞かせる。

 ――そうしたら。

 仕事も辞めなければならないだろう。ユリウスを拒絶した身で、王宮の資料室勤めだなんて許されるはずがない。きっとアナカルディアから出るのが一番いいのだろう、でも、その先どうすればいいのだろう――。

 そう、コンスタンスには、マイラ=グウェリンとの友人づきあいなんて不可能だとわかっていた。フェルディナントが結婚してエスメラルダに住む、ユリウスもたぶん一緒に行く、でも、コンスタンスまでが一緒に行けるなんて夢を、見てはいけない。

 夢だけで十分じゃないか。

 こんなドレスを着せてもらって、ユリウスの婚約者という立場のお姫様を演じさせてもらった。この楽しい思い出があれば、それで十分じゃないか。

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