第九章 闇の殺戮



   1



 舐めやがって。

 黄は林の中に潜みながらいらだっていた。

 どうも部下の毛に振りまわされたようだが、あの小娘になにかとんでもない秘密があるというのはもはや妄想とは思えない。なにかがある。

 北のやつらは、小娘を軍隊を使ってさらうだけでなく、俺たちがそれを追ってくるのを見越して罠を張っていやがった。

 いつの間にか囲まれている。ひとりひとりの戦闘能力で負ける気はしないが、こっちが四人なのに対し、敵は多勢。しかも全員が戦争でもするかのような完全武装だ。こっちが武器といえばせいぜい拳銃とナイフしか持っていないのに対し、向こうはアサルトライフル。さらに手榴弾も装備し、おまけに拳銃弾を通さないボディアーマーを着込んでいるはず。はっきりいって有利とはいえない。

 黄にとって戦闘はたんなる任務の一環でしかない。そう、やるべきことのほんの一部だ。任務のすべてではないし、ましてや趣味でも遊びでもない。やるかやられるかのスリルだの、サディスティックな欲望などとは無縁なのだ。そのへんが毛や劉あたりとはすこしちがう。

 大事なのは国家に忠誠を尽くすことであり、仲間や部下とともに任務を遂行後、生きて帰ることだ。

 だから、姑息な手段を使って、自分や部下を害しようとするものはけっして許さない。

 北の兵士たちがじわじわとまわりから迫ってくるのが気配でわかった。

 武器と数で勝るというだけでハンターにでもなったつもりか?

 逆だ。貴様たちこそがウサギだ。それをわからせてやらないといけない。

「俺が囮になります。背後に回ってしとめてください」

 そばにいる孫がつぶやいた。

 二手に分かれたせいで、毛と劉は砂浜を挟んで向こう側にいるが、いっしょにいる孫は三人の部下の中でも黄がもっとも信頼する男だ。毛や劉は殺しや戦闘に必要以上にのめり込み、暴走しがちだが、孫はそんなことはない。戦いに対する男気のようなものはもっているが、あくまでも任務を最優先にする冷静な男だ。

「よし、頼む。無理はするなよ。やつらを引きつけたあとは気配を消せ」

「はい」

 たがいに小声でやりとりしたあと、孫は派手な音をたてて走った。

 逆に黄自身は空気になった。完全に気配を絶ち、そばの樹に同化するように。

 敵兵の動きが変わる。おそらく囲まれたせいでパニックになって逃げだそうとしているとでも思ったのだろう。

 連中は孫の動きを追った。

 やつらの奢りが見える。からんでいた女の子が逃げだしたから無条件に追う十代の不良のようなものだ。追えば必ず獲物を手にすることができる。返り討ちに遭うことなどありえない。そういう奢り。

 やつらは黄のすぐそばを通りすぎた。ばきばきと小さな草木を蹴散らしながら。

 闇の中とはいえ、暗視ゴーグルをしているから注意深く見れば、その姿を見つけることができたはずなのに。

 だが今のやつらにしてみれば、武器と数で絶対的に劣る敵が、そんなことをするわけもないとしか思えないのだろう。だから見えない。いくら気配を殺しているとはいえ、丸見えなのにだ。

 最後のひとりが通りすぎたとき、黄は行動を起こした。

 気配を消したまま、最後尾の敵を追う。足音ひとつ立てずに。

 武器はナイフを使うことにした。拳銃を使えばどうしても音が出る。もちろん素手で殺すこともできるが、ナイフを使うのはたんに能率の問題だ。

 前を走っていた北の兵士の足が緩んだ。派手な音を立てていた孫が気配を消し、見失ったのだ。

 黄はその隙をのがさない。長い手を伸ばすと、後ろからその男の口を覆い自分のほうに引きよせた。同時にナイフで喉を掻き切る。

 罪悪感も、恐れも、とまどいも、喜びすらもない。包丁で豚肉を切るのとなんらかわりがなかった。

 男の体がびくんと痙攣する。それっきり動かなくなった。おそらくなにが起こったのか理解すらしていないはず。

 黄は音を立てないように、死体を静かに地面に下ろした。

 それでもなにか異変を感じたのか、そばにいた男がこっちを振り向く。だが黄はすでにその位置から離れていた。やはり音も立てずに。

 そいつは中国語でも日本語でもない言葉で死体に話しかける。朝鮮語で「おい、どうした?」とでもいったのだろう。

 そいつが近づいてくる。

 茂みから飛び出した黄は、そいつのアサルトライフルの銃口を掴み、自分からねらいを外すと、ナイフを正面から喉に突きたてた。

「ぐ……ひゅう」

 ナイフを抜くとき、喉から異様な声が漏れる。

 さすがに敵は異変に気づいたようだ。前のほうからこっちに意識が集中する。

 黄は死体を突き飛ばす。あわれな亡骸はばさばさと茂みを押しつぶしながら倒れると、あちこちから集中する弾を受けた。

 ふ。ようやく自分たちがウサギだと思い知ったか?

 敵の攻撃から恐れを感じる。

 追っていたはずなのに、いつの間にか追われている。おそらく、あまり経験のない兵士たちなのだろう。心の動揺が銃の撃ち方ひとつで丸わかりだ。

 そいつらは自分たちが集中砲火したものが、敵ではなく仲間の死体であるとようやく理解したようだ。いっせいに攻撃がやむ。

 まわりから緊張が走る。さすがに黄は姿を樹の陰に隠している。もうやつらに油断はない。奢りもない。優越感すらないはずだ。

 やつらは死体のまわりできょろきょろとあたりを見まわした。

 脅えろ。取り乱せ。錯乱しろ。

 より仕事がしやすくなる。

 すこし離れた位置から悲鳴が聞こえた。孫の声ではない。孫が敵をしとめたのだろう。

 その声に黄を探していた敵兵たちはいっせいにそっちを向く。

 黄はその瞬間、樹の陰から、一番近くにいたやつの延髄を後ろから突き刺した。

 ナイフを手間に強く引くと、男も引きよせられる。黄はそいつの尻を思い切り蹴飛ばした。

 三メートルもふっとんだろうか? そいつはばさりと派手な音を立てて茂みに転がる。

 だだだだ。

 パニックになったひとりが、遺体にライフル弾をフルオートでぶち込んだ。

 とうぜん、残りのやつの注意もそっちに向く。

 黄はその隙に移動した。豹のように静かに、それでいてすばやく。

 そのさい、ふたりの後ろを高速で移動。ナイフの切っ先で延髄を掻き切る。

 そいつらがどさりと倒れるころ、黄はべつの木陰にもぐり込んでいた。

 もはやそいつらの精神は尋常ではないのだろう。悲鳴とも奇声ともつかぬ哀れな声が話の中に響く。

 見えない敵に恐れおののいているのだ。

 不思議でしょうがないだろう。暗視ゴーグルはわずかな灯りを増幅し、この程度の暗闇ならはっきりと敵の姿をとらえられるはず。それが見えない。

 意図的に敵の死角をつくり、そこを音を立てずに移動して木陰に隠れているだけなのだが、からくりがわからなければ透明人間とかわらない。

 なまじっか、見えるだけに視覚に頼りすぎているのだ。

「ぎゃあああ」

 遠くからまた叫び声。孫が選んだ新たなる生け贄の最後の声。

 ひとりが不用意に動き、たまたま黄のそばに来た。

 長い手でそいつの頭をヘルメットごしにむんずと掴む。次の瞬間、黄は手首を捻った。

 ぽきんと音がしてそいつの首はへし折れる。

 その死体は音を立てないように、木陰に引っぱりこむ。

 そいつのアサルトライフルを奪って乱射してもいいが、それでは芸がない。暗殺は静かに、密やかに。最後のひとりが自分以外全滅したことを知らないくらいでちょうどいい。それはたんなる美学などではなく、けっきょく、そういうやり方で死なずにすんできたという実績があるのだ。

 誰がなんといおうと、今まで自分が生き残ってきたやりかたこそが正しい。

 暗視ゴーグル。こんなものもいらない。むしろ邪魔ですらあった。

 訓練の一環として暗闇での組み手などもおこなっている黄には、視覚より気配に頼ったほうがずっと確実なのだ。とくに相手が脅えて動き回っているときはなおさらだった。

 さらにボディアーマー。これも身につける気はない。

 撃たれてもだいじょうぶと思えば、それは油断につながる。慢心は動きを鈍らせ、神経を弛緩させる。それは命取りになる。そもそも、ボディアーマーの防御力など絶対的なものではなく、弾丸によっては貫通するし、頭部に当たれば即死だ。さらには手足、下腹部すら守ってくれない不完全な代物でしかない。

 遺体の持っていたナイフを抜くと、すこし遠くにいた敵に投げる。そいつは「ぐ」と一瞬だけ低い声を上げると、どさりと倒れた。

「ど、どこだ。出てこい」

 ひとりが朝鮮語ではなく日本語で叫んだ。

 もちろん出ていくわけもない。かわりに遺体のヘルメットを自分の後ろ側の樹に投げつける。

 わめいていたやつはその音に反応した。足早にその樹に近づき、黄のいるところを通りすぎようとする。もちろん通さない。黄はナイフを一振り。次の瞬間には移動する。

 そいつは二、三歩前に進むと、そのまま前に倒れた。喉から血を流して。

 その場に残っていた敵三人がそいつのそばに行く。黄はそいつらの後ろに回っている。

 まず、ひとり目。ナイフを延髄に突きたてる。

 ふたり目は黄の気配に気づき、アサルトライフルの銃口を向けた。

 だがそのときには黄はすでに敵の懐に入っていた。そのいきおいを利用した肘打ちが敵の胸部にめり込む。ちょうど心臓のあたりだ。そいつは口から血を吐いて倒れた。

 最後のやつ。撃ってきた。黄はふたりめの死体を盾にして突進する。そのまま死体をそいつにぶち当てた。その隙に相手の後ろに回る。しかし敵は気づかない。

 両手で敵の頭と首をつかむとぐるりと回した。

 めきゃっ。

 首の骨の折れる感触とともに、そいつは地に落ちる。

 さて、孫の様子を見に行くか。

 黄は念のため、死体からアサルトライフルを奪う。遠くの敵を倒すにはやはりあったほうが便利だし、ここまで敵の数が減れば、身を隠しての暗殺にもさほど意味はない。

 気配を探りながら黄は闇の中を前進した。

 おかしい。気配がない。

 敵はおろか、孫の気配までもがない。

 いやな予感がした。まさか、やられたのか?

「孫!」

 黄は叫んだ。敵が生きていれば呼び寄せることになるが問題ない。来れば死体にするだけのこと。

 数メートル先に進むと、そこには死体の山が転がっていた。

 いずれも敵兵と思いきや、ひとりの遺体が磔になっている。両手を広げた状態でそれぞれナイフで手のひらを貫通し、樹に打ち込まれている。

「孫!」

 信じたくはなかったが、その遺体の服装は北朝鮮の兵士たちとはちがった。黄同様、黒っぽい私服であり、そのプロレスラーのような巨体は弾痕と血にまみれている。

 黄は手に持ったアサルトライフルを地に投げすてると、遺体にさわった。

「許せ。俺の力不足だった」

 部下の死は、自分の魂の一部が死んだように感じる。黄にとって一番つらいことは、任務半ばで部下や仲間を失うことだ。

 異変を感じた。

 真後ろから殺気。

 振り向くと、敵の死骸と信じていたものが、寝っ転がりながら銃をこっちに向けている。

 死んだふりして、気配を絶っていたのか?

 姑息な!

 アサルトライフルの断続的な銃声と、真っ白なマズルフラッシュ。

 弾は孫の遺体に突き刺さり、ゆらゆらと揺れた。しかし、黄はもうそこにはいない。

「どこだ?」

「ここだ」

 黄は寝ころんだままの敵の顔を上からのぞき込む。

 そいつは銃口を黄に向けようとする。しかしそれは無駄な努力だった。

 黄は銃身を掴むと、ぐるりと捻り、敵から奪い取った。それを無造作に投げすてる。

 敵ははね起き、拳銃を抜く。

 だがそいつが銃口を向けたとき、黄はもう同じ位置にはいない。

 銃を持った手首を掴み、関節を一瞬で極めた。

 ぼきりと関節が砕ける音。

 続いてそいつの間抜けな悲鳴。

 顔面に掌打。悲鳴は絶叫に変わった。

 暗視ゴーグルが砕け散り、目に突き刺さったのだ。

 さらにボディアーマーごしに、掌打をみぞおちに叩きこむ。

「ぴぎゃあ」

 耳障りな鳴き声が、ついに殺される瞬間の豚のようになり、そいつは地に転がって悶絶した。

「仲間を殺しやがって」

 黄はそいつの全身に蹴りを浴びせる。何発も。蹴る度に大げさに反応していたが、やがてほとんど動かなくなった。

 そいつの首に踵を打ち下ろす。それで完全に動かなくなった。

 死体に唾を吐きかけたが、まだ気が収まらない。

 任務には私情を挟まない黄だが、例外がある。部下を殺されたときだ。

 一応、任務最優先ではあるが、それさえもどうでもよくなりそうだ。

 小娘だけは生かしておくが、それ以外はアメリカだろうが北だろうが知ったことか。全員皆殺しだ。それからゆっくり小娘を拷問すればいい。

 もっともその小娘も、素直に情報を吐かなければ自制する自信はない。その場合はたぶんあっさりと殺すだろう。

 黄は海岸に向かった。



   2



 リンダは林を抜けると、海に浮かぶ船を見る。

 一艘のゴムボートが船に乗り付けようとしていた。それに乗っているのは、きららを連れた朴、それにもうひとり。ふたりともヘルメットにタクティカルベストといった戦闘服ではなく、カジュアルな恰好をしている。

 ゴムボートを奪って船に向かう方法もあったが、目立ちすぎる。敵の戦力がわからない以上、無謀すぎた。そもそも敵を倒すより、きららを探し出し救い出すことが優先される。

 となると見つからないように泳いで近づくしかない。

 リンダはアサルトライフルを手放した。さすがにこれを持って泳ぐのは無理だ。さらに上着とブラウス、スカートを脱ぎすてると、ブラとショーツだけの下着姿になる。無防備だが仕方がない。濡れた服がまとわりついて動きが鈍くなるよりましだ。

 もっとも脚に着けたガンホルダーとその中の拳銃はそのままだ。海水に晒したあと、問題なく撃てるかどうかすこし不安だったが、すぐには作動不良を起こしたりしないはず。さらにナイフ。これは手に持ったままだ。

 敵がこっちを見ていないのを確認し、静かに海に入った。

 まだ六月の日本海。水は意外なまでに冷たい。海の水温は気温に連動して、そうすぐには上がらないのだ。海水浴シーズンはもうちょっと先だ。

 冬の海に潜ったこともあるリンダだったが、今ほどウエットスーツをはじめとしたダイビング器材が欲しかったこともない。しかし躊躇している場合ではなかった。

 波を立てないように、平泳ぎでゆっくりと船に近づく。刺すような冷たさも、体を動かすことでいくぶん緩和された。

 きららはもう船の中に引っぱりこまれたようだ。早くしないと船が出てしまうかもしれない。かといって不用意に泳いで近づけば、敵に見つかる可能性もある。

 リンダは大きく息を吸うと、頭を水中に入れ、そのまま水面下一メートルほどをドルフィンキックで進む。

 ライトを持っていない上、海中なので視界は悪いが、船の灯りが上からもれているから目標を外すことはない。灯りをめがけて泳げばいい。

 急がなきゃ。

 リンダはそれでもなるべく体力を消耗しないように、ゆっくりと効率よく体を動かし、船に近づく。慌てても息が続かなくなるだけで、たいしてスピードは上がらない。

 そのとき、前方になにか黒い影を見つけた。

 魚?

 一瞬そう思ったが大きすぎる。まさかサメでもあるまい。

 暗い上にダイビング用マスクもゴーグルもしていないリンダには、それがなんであるかわかるまでに時間がかかった。

 人間?

 そいつはたしかに人間だった。ウエットスーツを着て、ダイビング用の装備で身を固めたダイバーだ。

 リンダは混乱した。こいつは誰だ?

 北の兵士? それにしては変だ。他のやつらが銃を担いで上陸しているのに、なぜこいつだけが?

 いや、リンダのように陸戦をかいくぐり、海から船に乗りこんでくる敵を想定して待機していたんだろう。ボートで近づく敵を海に引きずりこんで倒す係だ。

 そいつはすばやいスピードでリンダに向かってくる。

 リンダはナイフを構えた。水中戦は想定していなかったがやむを得ない。

 そいつは手になにかを持っていた。そこからなにかが飛び出す。

 リンダは反射的にナイフでそれを払った。細い金属の銛のようだ。つまり、敵は水中銃スピアガンを持っている。

 さいわいスピアガンは連発が効かない。次の銛をセットする前が勝負だ。

 リンダは前に出た。ナイフの切っ先でねらいを定めて。

 だが敵はひらりと身をかわす。身軽なリンダに比べて、重装備の敵は動きが遅そうな気がするが、フィンを履いている。素足のリンダよりはるかに水中での機動性が上なのだ。

 ナイフは敵も持っていた。脚に着けたケースから抜くと、リンダめがけて突いてくる。

 リンダはそれをナイフで受ける。

 どう考えても不利だった。

 息が苦しくなってきたのだ。それに対して敵はタンクを背負ってる。それが空にならない限り、いくらでも息が吸える。

 かといって息を吸うために海面に出ることは危険すぎた。どうしても無防備になる。ナイフで刺してくれといっているようなものだ。

 リンダは敵の装備にオクトパスがないか探した。

 オクトパスとは予備のレギュレーターのことである。水中で空気を吸うためのレギュレーターは、タンクにつなぐほうをファーストステージ、口でくわえるほうをセカンドステージというが、セカンドステージにはメインで自分がくわえるためのものの他に、仲間がエア切れした場合のための予備のものがある。それがオクトパスだ。

 だが残念ながら、敵の装備にはオクトパスがなかった。つまり、エアを奪おうとすれば、今敵がくわえているレギュレーターを奪わなくてはいけない。

 どうする?

 選択肢はあまりない。敵のエアを奪うか、隙をついて海面で呼吸するか、息がつきる前に敵を倒すか。

 迷っているうちに敵が攻撃を開始した。ナイフをひらひらと蝶のようにゆらす。そうやって幻惑させておきながら、いきなり来た。

 身を捩ってかわす。水中では思うように動けない。

 敵はすかさず次の攻撃に転じる。かろうじてナイフでそれを受け、相手の手首を掴んだ。

 そのまま敵の後ろに回り込もうとしたが、フィンのある分、相手のほうが水中の機動力は上だ。目の前に敵が回り込んでくる。

 相手のレギュテーターを奪おうと手を伸ばすも、ナイフに阻まれた。

 手首に浅い傷。敵はさらに胸に切りつけてくる。

 鎖骨のあたりを皮一枚切られた。

 ブラが外れたがそんなことを気にしている場合ではなかった。

 敵のナイフを持っていない左手がリンダの喉にかかった。

 反撃にナイフを喉に突きたてようとするが、敵にナイフで受けられた。

 敵は喉にかけた手を首に回して、自分のほうに引っぱりこむ。

 体重を掛けられない状態で、片手で喉を絞めるより、引きよせてナイフでしとめることを選んだのだろう。

 リンダはナイフを相手のナイフに合わせて必死で抵抗する。

 ナイフの刃と刃を合わせての力比べ。

 ぎりぎりとナイフがきしむ。力負けすればそのままいっきに喉を切られる。

 正直、リンダは限界だった。

 息が持たない。

 寒さで手が痺れる。

 そもそも単純な腕力では女のリンダより相手のほうが上だ。

 ……だめか?

 諦めかけたとき、リンダは自分がぜったいに勝てる武器を持っていることに気づいた。

 反射的に左手が足に伸びる。

 脚のホルダーに入れたグロック。それを抜いた。

 銃口を相手の腹に押しあて、引き金を引く。

 だん、だん、だん。

 相手はなにが起こったのか理解できなかったかもしれない。マスクをしていても、暗がりのためよく見えていなかったはず。まさか半裸の女が水の中に銃を持ってきているとは思ってもいなかったろう。

 拳銃、それも陸上用のオートマティックが水中で撃てるか? 撃てる。

 ただし命中率、威力ともがた落ちにはなるが、銃口を押しつけて撃つ分には関係ない。

 水圧のせいで暴発する可能性もないではないが、背に腹は代えられなかった。

 さいわい、銃は暴発も誤作動もせず、敵の土手っ腹に弾を三発ぶち込んでくれた。

 自分を掴む手首と、押し合っていたナイフから急激に力が失われる。

 リンダはすかさず敵のレギュレーターを奪うと、それを自分の口に押しこんだ。

 口に残った最後のエアを吐くと、思い切り吸い込む。生き返った気がした。

 さらに敵のマスクを奪って装着すると、鼻から息を出して中に入った水を押し出す。

 ぼやけた視界がクリアになった。

 船からのわずかな灯りで敵の顔を観察すると、すでに生気はない。あたりの海水は血でどんどん濁っていく。

 荒い呼吸が落ちついたころ、大きくひと息吸って、レギュレーターを口から離す。

 死体はゆっくりと沈んでいった。

 いきなり船のエンジン音が響いた。

 頭上からスポットライトのような灯りが海中を照らす。ロープとアンカーが見えた。乗組員が出航のためアンカーを回収しようと海中をライトで照らしているのだろう。つまり、ぼやぼやしていると、ほんとうにきららを連れ去られてしまう。

 このへんの海底はさほど深くはないらしく、アンカーはすぐそこに見えた。

 張っていたアンカーロープがたるむ。アンカーを外すために少し前に出たらしい。

 岩場から外れたアンカーが引っ張り上げられていく。

 リンダは上から照らすスポットライトからわずかに体を外しながら、アンカーといっしょに浮上する。

 海面に出たとたん、アンカーロープをつかんで引っぱった。

「なんだ?」

 なにかに引っかかったとでも思ったのだろう。アンカーを回収しようとしていた乗組員が甲板から身を乗り出して海面を見る。

 その瞬間、リンダはその男にナイフを投げた。ナイフは胸に深々と突き刺さり、その男は短いうめき声を上げる。

 リンダはロープをさらに引っぱる。ロープを握ったまま絶命したその男は、海面に落ちた。

 そいつは髪を銀色に染めたカジュアルな服装の男。おそらくさっき朴といっしょにリンダをゴムボートで運んだやつだ。

「どうした?」

 奥から男の声。リンダは音を立てないようにして船尾にまわる。面倒だが死体を引っぱって泳いだ。見つかると大騒ぎになるのは必然だからだ。

 もっとも死体が見つからなくても、同じだったらしい。前のほうからなにやら意味不明の叫び声が聞こえる。

 リンダは船尾にたどり着くと、装着していたマスクを投げすて、死体の胸からナイフを引き抜く。肺に穴を開けたせいか、死体はしずかに沈んでいった。

 血に濡れたナイフを一瞬だけ海水で洗うと、口にくわえ、しずかに乗船する。

 海中も寒かったが、上がったからといってましになったわけでもない。むしろ風を浴びたせいで体が凍りそうだ。白い肌が蒼白になり、体ががくがくと震えている。手に息を吐きかけ、擦り合わせる。かじかんで指が動かなければ銃も使えない。

 リンダは濡れた体を手で擦りながら考える。

 敵は何人いる? 朴といっしょに乗りこんだやつは倒した。あとはあらかじめこの船に乗っていたやつだけだ。たぶんいてもひとり、朴と合わせてふたりくらいだろう。

 船は古いがそれなりに広い。船尾にいくぶんのデッキがあるが、大半は屋根のかかったスペースだった。リンダは足音ひとつ立てず、中に忍びこむ。

 中は質素で薄汚れていた。中央にテーブルがあり、ここで食事などをするのだろう。下に降りるはしごがあり、そっちはおそらく仮眠を取る場所。きららがいるとすればたぶんそこだ。

 前にある操舵室をガラスのドア越しにちらりと見る。戦闘服を着た男がひとりいる。操船中なのでアサルトライフルは担いでいないが、腰には拳銃をぶら下げていた。朴はカジュアルな恰好だったから、ちがう。

 その男はリンダに気づかず、前のほうを向いて大声でなにかやりとりしている。

 つまり、アンカーを調べに行ったのが朴で、操舵手はガラス越しに外の朴と話し合っているのだ。

 このまま地下に忍びこんで、こっそりきららを奪還する方法もあったが、リンダはまず敵を倒すことを選択した。

 この冷たい海の中を、きららを引っぱって泳いでいくわけにはいかない。ゴムボートを使う必要がある。それには先に奇襲をかけてふたり倒すほうが楽だ。

 船首のほうに気を取られているのをさいわいと、操舵室に向かう。敵はいまだにこっちを振り向かない。

 リンダは操舵室の前でしゃがみ込み、扉をしずかに開けた。

 それでも敵は前を見たままだ。まったくのんきなものだ。

 リンダはいきなり相手の両膝を後ろから手で押した。

 まさに膝かっくんの要領で、その男の重心が落ちた瞬間、裾をつかみ、下に引っぱる。

 かすかな驚きの声を上げたまま男はしりもちをついた。リンダは後ろから男の口をふさぐと、ナイフで喉を横一文字に切り裂く。一瞬の行動だった。

 真っ赤な血が流れ落ち、びくんびくんと体が痙攣した。

 そのままその男を操舵室の外に引きずり出すと、その状態で数秒、リンダは待つ。

 男が完全に動かなくなるのを確認すると、口から手を離し、腰の拳銃をうばう。海水にどっぷり浸かった自分の拳銃よりも信用できるからだ。

 リンダは操舵室の中にはいると、うばった拳銃をガラス越しに船首に向ける。だが、外にいるはずの朴の姿がなかった。

 しまった。

 リンダがふり返ると、操舵室のガラス戸が砕け散る。

 銃撃? いや、ちがった。ガラスを突き破って飛んできたのは蹴りだった。

 リンダの構えた銃を足が正確に蹴り飛ばす。

 リンダはすかさず太もものホルダーに仕込んだ拳銃を左右同時に抜いた。

 しかしそれも撃つことはできなかった。銃口を向けると同時に、水平になぎ払うような蹴りが両方の銃をはじき飛ばしたからだ。

 砕けたガラス戸の向こうには朴が機械のように冷酷な目でこっちをにらみつつ、立ちつくしている。

「よくも同志を殺したな。アメリカの牝犬が」

 朴の強烈な前蹴りが、うなりを上げて飛んできた。



   3



 こっちは拳銃、向こうはアサルトライフル。ともに樹上で、同じ高さとはいえ、足を止めて撃ち合えば勝ち目はない。

 そう思った瞬間、端午は近くの樹に飛びうつっていた。しかも跳びながら拳銃の引き金を引く。

 だがそのときにはすでに、敵も同じ位置にはいなかった。端午同様、猿のように枝から枝へと移動している。

 ろくになにも見えない暗闇にもかかわらず、端午には気配でわかった。

 相手の位置。進む方向。ねらい。それらがびんびんと伝わってくる。

 ダダッという発射音。砕け散る枝。舞う葉。

 そんな中、端午は茂った葉の中につっこみ、引き金を引く。

 見えないのは敵も同じはずなのだ。暗視ゴーグルを使ってるかどうか知らないが、どちらにしろこうも身を隠す障害物の中を駆けめぐっている以上、見えても一瞬。それ以外はせいぜい枝や葉の動きで推測するしかないはず。

 だがねらいはたしかだ。ただほんの一瞬遅れるため、かろうじて命中していないに過ぎない。

 もっとも端午のねらいだってかなり正確なはず。やはりぎりぎりで当たっていないだけなのだ。

 とにかく、互いに止まれなかった。きっと止まればその時点でゲームオーバー。

 だから走る。跳ぶ。しかもできるだけ方向を読まれないように。

 しかしそれでも、こんなことを続けていると、互いに相手の動きの癖が読めてくる。

 そこだ。

 枝に飛びうつりながら撃った弾が敵を捕らえた。

 しかし、相手の殺気は消えない。生きてる。ぎりぎり外れたか、ボディアーマーに阻まれたらしい。

 次の枝に飛びうつろうとしたとき、体が動かなくなった。そのまま足を踏み外して落ちる。

 その瞬間、アサルトライフルの弾丸の雨は、端午が飛びうつろうとしたあたりに降りそそぐ。

 足を踏み外したのはどうやらミスではなかったらしい。端午の中に眠る野生の本能が無意識のうちに危険地帯に行くことを避けていたのだ。

 敵もついに端午の動きの癖を読み切ったらしい。

 しかも向こうは樹上、こっちは地べた。圧倒的に不利。

 端午は無我夢中で左右の銃のありったけの弾を敵のいるところにぶち込む。

 だが、敵はもうそこにはいない。端午同様、地に降りていた。距離にしておよそ五メートル。アサルトライフルの銃口はすでに端午のほうを向いている。

 至近距離で互いに銃口を向け合うふたり。しかし端午は自分の銃が空であることを知っていた。予備のマガジンもない。

 敵はにやりと笑うと引き金を引く。

 弾は出なかった。向こうも弾切れだ。

 その瞬間、端午は風のように走り、距離をつめた。

 しかしそれは相手も同じだった。アサルトライフルを投げすてると、ひるむことなく前に突き進んでくる。

 端午はいきおいに任せて右正拳突きを中段めがけて打つ。

 それは敵の肋骨をぶち折るはずだった。

 だが敵はそれを左手で外から巻きこむように打ち払うと、体をその外側にもってきた。左手がひるがえり、端午の右腕に添うように伸びてくる。

 顔面に飛んでくる鞭のような左掌打を、端午は左手でかろうじてブロックした。

 しかし敵の掌打はとまらない。螺旋を巻くようにひるがえると、みぞおちに飛んでくる。

 端午は後ろに飛び退いた。

 逃すものかと追ってくる敵。

 しぶとく、粘っこい攻めだ。

 端午は敵の踏み出した脚の膝下をねらって蹴りを繰り出す。

 相手は踏み込まんとした前足をはね上げ、防御。

 端午はふたたび後ろに下がり、ようやく間合いを保つことができた。

「今のは斧刃脚ふじんきゃく。おまえも中国拳法の使い手か?」

 相手は不敵に笑う。膝を砕くはずの技も完全に読まれていた。

 この男の拳法はまちがいなく太極拳。本来の太極拳は健康体操などとはほど遠いもので、試合用の格闘技ですらない。ねばっこく相手の懐に入り、敵の打撃を完全に殺しつつ、自分は近い間合いからでも全身のひねりを一カ所に集中させる発勁で、拳や掌を的確に急所に打ち込む殺人拳だ。

 しかも達人クラス。端午の体は無意識に反応してくれるが、あまりの変幻自在さに対応しきれない。

 端午の体に宿る、もともとの体術の使い手も、こんな男と戦った経験がないのだろう。

 今の端午は太極拳も使えないことはないが、同じ技なら勝負にならない。相手のほうが数段上だ。

「ひゅっ」

 男はするどい呼気を発しながら、瞬時に間合いをつめてくる。

 まずい。

 端午は接近戦では勝ち目がないことを本能的に察知した。

 だから動く。真後ろではなく、横に。

 樹の陰に回り込んだ。それも幹の直径が一メートル近くある大きめの樹だ。

「ちっ」

 露骨な舌打ちが聞こえる。やはりやりづらいらしい。

 なにせ正面から突っ込めない。横から回り込むにしろ、一方方向からしか攻撃できない。

 もっともそれはこっちもいっしょだった。

 正面からまっすぐ突くパンチ、縦の蹴り、打ち下ろしのパンチ、アッパー、すべて使えない。フックや回し蹴りなど横からの攻撃にしたところで、相手が逆の方向に回り込めば、樹を打ちつけ、自分の手足を痛めるだけだ。

 けっきょく、樹を中心に、互いに右に左にと隙をうかがいぐるぐるまわるということしかできない。

「いいのか、俺とこんなことをしてて?」

 業を煮やしたのか、相手の男は挑発してくる。

「あの小娘を助けたいんだろ? 仲間の女が行ったようだが、手に負えるのかな? 相手は北の工作員、朴。テコンドーの達人で、軍の特殊訓練を受けている殺人マシンだ。人間を殺すことなどなんとも思わないやつだぞ。しかも、ひとりじゃない」

 そんなことはわかっている。しかし、リンダとて並みの女じゃない。CIAのやり手エージェントなのだ。そしてリンダ自身、敵を殺すことも躊躇しない殺人機械であることは自分の目で確かめている。

 信じるしかない。リンダとて命がけなのだ。なにしろきららの死が自分の死につながることを知っている。おそらくわけもわからず命令できららをさらおうとしている朴とは本気度がまるでちがう。

「それはおまえも困るんじゃないのか? もし朴がリンダを殺して、きららを自分の国に連れ去ったらどうする?」

 端午はカマをかけた。こいつだって目的もわからず、命令にしたがってるだけなんだろうが、獲物をアメリカや北にかっさらわれていいわけがない。

「ひひひひ。苦戦しているようだな、毛」

 闇の中から不気味な声が響いた。といっても低くもしわがれてもいない。むしろ中性的な声だ。しかしその口調にはどこかサディスティックな響きがある。

「ふん。ほっとけ。手出し無用だ、劉。こいつは俺がやる」

 毛と呼ばれた男はその声の主にいった。

「ならば僕は船に向かったアメリカ女と日本の少女をいただこうかな。ほんというと蓮見のような生意気な男の拷問のほうが好きなんだけど、若い女も悪くはないか。ひひひ」

「そうしろ、劉。俺もすぐあとを追う」

 まずい。

 この毛には仲間がいた。しかも思い切り危険そうなやつだ。

 劉とかいう男の姿こそ見えないが、がさがさと音を立てて海岸に向かっていくのがわかる。

「ということだ、端午。朴がCIAの女を殺してくれれば手間が省けてなによりだ。逆でも同じこと。あとは劉が生き残ったほうを殺せばいい。あいつなら簡単なことだ。俺もすぐに追いつくしな」

 毛は自信満々にいう。とてもはったりとは思えなかった。

 目の前の毛より、船に向かうもうひとりのほうに注意が向かう。

 その一瞬の隙をつかれた。

 毛は動きの止まった端午の右手首をつかむ。そのまま強く引っぱった。

 バランスをくずす端午。もはや端午と敵の間には邪魔な樹の幹はない。

 毛の右掌と膝が同時に飛んでくる。それぞれ顔面と下腹部をねらって。

 太極拳の金鶏独立きんけいどくりつ

 端午は脚を上げ、膝蹴りを防ぐと同時に、左手で掌打をブロックする。

 毛の右掌がひるがえる。しかしそれを打たせはしなかった。

 つかまれた腕で球を抱くような恰好で、前に出した自分の足を軸に、回転した。毛のバランスが大きくくずれる。

 端午はそのままつかまれた腕を振り上げると同時に、その下をくぐった。

 毛の腕を絞り込み、真下に落とす。

 なにが起こったかわからなかっただろう。毛は後頭部から垂直落下し、地面に叩きつけられた。合気道の四方投げだ。

 下がアスファルトやコンクリートなら即死するほどのいきおいだった。しかし下は土。頭を強打しても、そうかんたんには死なない。端午はつかんだ左手を引き絞り、肘の上に膝を乗せて動きを制すると、とどめの正拳を顔面にふり下ろそうとした。

 だがそのとき、毛の自由な右手に、拳銃が握られているのをはじめて気づいた。もちろん銃口は端午の顔面に向いている。

 アサルトライフルを手放した時点で打撃戦になったので、そんなものを持っているなど考えもしなかったのだ。

 逃げる余裕も、拳を振り下ろす隙もない。

「なぜこんなものを持ってたのに使わなかったかって? 楽しみたかったんだよ、おまえとの拳法戦をな。銃で撃ち殺すより、拳法で殺すほうが楽しいだろ? 相手の恐れや動揺が直に手に伝わってきて。……だがそれも終わりだ」

 毛は逆転とばかりに、にやりと笑った。

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