第十章 魔獣バトルロイヤル



   1



 場所がまずい。

 リンダは朴の蹴りをブロックしながら思った。

 せまい操舵室の中ではまともに動くことすらできない。そんな中、朴は器用にあらゆる角度から蹴りをとばしてくる。

 なんとかしなくては。

 リンダの格闘技はレスリングを基本に、ボクシングと空手の打撃を取り入れている。とはいえ、打撃戦では朴に勝てそうになかった。勝つためには寝技に持ち込む必要がある。

 だが条件が悪い。朴が操舵室のガラス戸をぶち割ったおかげで、床にはガラスの破片が散乱している。ただでさえリンダが身につけているものはショーツ一枚。靴すら履いてない。それに引き替え朴は、長袖長ズボン、靴も履いている。寝技に持ち込むにはこの場から出なければ無理だ。

 それ以前に、足の踏み場が限られているため、ディフェンスにも限界がある。このままではいずれ朴の蹴りにつかまる。

「死ね」

 朴の横蹴りがリンダの顔面をねらう。

 それを間一髪、身をかがめてかわすと、朴の胴に飛びついた。

 ただでさえ、一本足で不安定なところに、強烈なタックルを喰らえば、どんな男でもたおれるしかない。

 リンダはそのまま倒れた朴の体の上を転がり、頭を越えて向こう側にいった。ほんとうはその場で寝技を仕掛けたいところだが、ガラスの破片を避ける必要があったのだ。

 だが朴はリンダが逃げようとしていると思ったらしい。床に倒れたまま、逃がすまいと必死に手を伸ばす。

 逆に朴のほうがリンダにタックルをかけるような恰好になった。リンダは慌てず、そのまま柔道の巴投げのように足で朴の腹を押し上げながら真後ろに回転し、自分が上になって押さえ込むつもりだった。

 だが、後方回転が途中でとまる。朴の体がテーブルにぶつかったらしい。

 しまった。

 だだっ広いマットの上とは勝手がちがう。けっきょく、裏返ることができず、あお向けのリンダの上に朴がのしかかってきた。

 朴の両手が上から伸びる。

 馬乗りになったまま、リンダの首を両手で上から締め付けようとしているのだ。

 リンダは必死で手首をつかみ、防御する。

「無駄だ。力なら俺のほうが上だ」

 朴のいうとおりだった。ここまでくると技もクソもない。ただでさえ力では向こうが上のようだし、おまけに手がかじかんでいつもの握力がない。しかも敵は上から体重をかけられる。

 じりじりと朴の両手が喉に食い込もうとしていた。

 このまま首を絞められれば終わり。反撃しようがない。

 リンダは首を起こすと、朴の親指に噛みついた。

「ぐわっ」

 この攻撃はまったく予期していなかったらしい。朴はとっさに手を引く。

 リンダはその一瞬の隙に、二本指の目つぶしを朴にはなった。

 ぐにっと指先が眼球に入る感触。

 朴は悲鳴とともにのけぞる。

 リンダは上に乗っていた朴をはねのけ、後ろに回る。そのまま腕を首に回した。そのまま反対の腕の肘裏をつかみ、そっちの手は頭を後ろから押さえる。

 いわゆるスリーパーホールド。裸締め。

 リンダは腕を相手の喉に食い込ませ、渾身の力で締め上げた。

「ぐおおおおお」

 朴はとうぜん、暴れる。手を後ろにやり、リンダの髪をつかんだ。

 引っぺがそうと必死だが、どんなに髪を引っぱられようとやめるわけにはいかない。

 やがて、朴の腕から力が抜けていく。しかしリンダはうかつに離さなかった。死んだふりをしているかもしれないからだ。

 それから数秒、さらに締め付け、ようやく首から手を離した。

「はあ、はあ、はあ」

 リンダは肩で息をしながら、念のため朴の脈を取り、死んだのを確かめる。

 そのとき、ようやくまわりのことに気を配る余裕ができた。ここに来るまでは林のほうから鳴っていた銃声が途絶えている。

 勝負がついた?

 端午の勝利を信じたかった。今の端午はなぜか小脳の持ち主であるトムの動きすら凌駕している。よくわからないが、はじめのうち、反発してうまく力を出し切れなかったふたつの脳が、なじみ、融合することで神がかった力を発揮しだしているような気がする。

 あるいは端午の脳や肉体には、天才といわれたトムに足りないものを補うなにかがあったのかもしれない。だとすると、偶然が奇跡を起こし、ミックスアップすることで天才を超えたのだ。

 そんな端午が負けるはずがない。

 そう思う反面、不安もあった。さっき端午がいっていた目眩と痺れだ。確信はないが、これは端午の脳とトムの脳が反発しているのではないか? 危機に面したとき、大脳と小脳が必要以上に密接な情報交換を行い、端午とトムが一体化することで超人的な能力を発揮する反面、危機が去ったとき、副作用として両者が互いを拒絶するのでは?

 ただの想像に過ぎないが、もしそれが真実だとすると、端午は頭に爆弾を抱えているようなものだ。とくに大きなピンチを乗り越えた直後こそが無防備になる。

 いきなり林のほうから銃声が鳴りひびいた。アサルトライフルではなく、拳銃の音。続けて二発。

 なにかいやな予感がした。常識で考えれば、拳銃音なら端午の攻撃のはず。だが、今の銃声は端午のグロックとはちがう気がする。

 だが、まず確保しなければならないのは、きららの安全だった。それがすべてに優先する。

 リンダはおそらくきららがいるだろう寝室を目指し、はしごを下りていく。

 下は案の定、寝床になっていて、二段ベッドが並んでいる。きららは一番手前の下の段のベッドに制服姿のまま横たわっていた。

「きらら」

 軽くきららの頬を叩いてみるが反応はない。クスリかなにかで眠らされているのだろう。

 まったく無謀ことをしてくれちゃって。

 無知とは怖いとあらためて思った。あまり激烈な薬物を使えば、それだけで爆弾が反応するかもしれないというのに。

 リンダはきららを担ぐと、はしごを上る。いったんきららをテーブルの上に横たえると、考えた。

 さて、どうしたものか?

 気を失ったきららを引っぱって泳ぐわけにはいかない。危険すぎる。

 ならばいったん岸まで泳いで、あいつらのゴムボートを引っぱってくるべきか? あるいはこの船のどこかに、まだゴムボートが収納してあるかもしれない。それを探すか?

 その前にはたしてこのまま上陸してだいじょうぶなのか? 敵の残党がいないとは限らない。とりあえず、もはや戦闘は起こっていないようで、銃声は聞こえない。もっともだからといって安全である保証などなにもない。

 とりあえず、武器をキープしておこうと思った。用意してきた自分の拳銃と操舵手が持っていた拳銃が、操舵室の中に転がっているはずだ。

 リンダはさして警戒もせずに奥の操舵室に向かう。

 そのとき、物陰から真っ黒い疾風が舞った。

 リンダは一瞬なにが起こったかわからなかったが、ドーンというはげしい衝撃とともに壁にふっとばされて、はじめて伏兵がいたことに気づいた。

 口から胃液がもれる。そのままずるずると床にくずれおちた。立っていられない。

 自分をはじき飛ばした男。軍隊の恰好はしておらず、黒ずくめの痩せたのっぽ。筋肉質ではないが、非常にしなやかな体をしている。

 顔つきは精悍な感じで、おそらく四十歳前後。若くはないが、全身から精力がみなぎっている。目つきは鷹か鷲のようにするどく、口髭がみょうに似合っていた。

「北の……」

 いや、ちがう。リンダに当てたのは蹴りではなく、拳による突きのようだ。しかも今まで受けたことがないほど強烈な打撃だった。おそらく中国拳法の発勁。

「い……いつの間に?」

 さっき、この男はいなかった。そうか、下の階にきららを探しに行った隙に乗船したのか? 体が濡れていないところを見ると、見つかることを恐れずボートで乗船したのだろう。大胆すぎる。

 男はリンダが動けないのを当然とばかりに、操舵室に歩いていくと、手前にある邪魔な死体を蹴飛ばし、拳銃を拾った。

 やはりそうだ。この男が北朝鮮の工作員なら、仲間の死体を足蹴にするわけがない。こいつは中国の工作員だ。

「部下が死んだ。俺の目の前でだ」

 男は冷たい声でいう。鷲のような目に、人間らしい怒りが浮かんでいる。ただの殺人機械ではなく、部下を愛する心を持っているらしい。

「やった北のやつはぶち殺したやった。おまえの仲間は、もうべつの部下が片づけてるころだ」

 おそらくそいつと端午が戦った。勝ったのは……。

 そいつは銃口をリンダに向けて威嚇する。

「答えろ。この女はなんなんだ? どうして、高校生のガキのために、アメリカと北朝鮮が動く?」

「知りもしないで、殺し合い? めでたい男ね」

「黙れ。毛のやつはこの任務を楽しんでいたが、俺は最初から乗り気じゃなかった。挙げ句の果てに部下が殺された。はっきりいって、俺はもう任務なんてどうでもいい気分だ。答えないのなら、おまえとこの女を撃ち殺して終わらせる」

「あたしはともかく、その子は殺さないことを勧めるわ。じゃないと、あんたも死ぬ」

「どうしてだ?」

 答えるわけにはいかない。たとえ、撃ち殺されようとも。

 なんとか反撃に出たいが、丸腰である上、いまださっきのダメージから回復できず、立ち上がることすらできない。

 それにこの男相手では、たとえ素手同士で、体にダメージがなかったとしても無理そうだ。こいつは先ほど、あれでも手加減したにちがいない。殺してしまっては情報を聞き出せないから。

「いえ」

 男が引き金をしぼる。銃声とともに、ショーツの右側が弾けた。同時に痛みが走る。弾はかすっただけだが、その部分の皮膚が裂け、血がにじんでいる。

「いえ」

 次は左。

 ちぎれた布きれは外れ、リンダの身を隠すものはなにひとつなくなった。

 もっともそんなことを気にしている場合じゃない。

「タイムリミットだ」

 男は銃口をリンダの胸に向けた。

「ちょっと待ってくださいよ」

 そういいつつ、いきなり入ってきた男がいる。細身の美形男だ。

 長身の男は反射的にそいつに銃口を向けたが、すぐにねらいをリンダに戻した。

 どうやらその男は部下らしく、無線かなにかで連絡を取って、呼び寄せたのだろう。

「劉、毛はどうした?」

「ガキ相手に楽しんでます。向こうは素手ですし、格闘で毛に勝てるのは、黄隊長くらいでしょう?」

「しょうがないやつだ、毛は。いつも任務に遊びを持ち込む。いつかそれが身を滅ぼす。何度いってもわからない」

「そんなことより、黄隊長。そいつを殺してどうする気です。任務遂行のためにも、ここはやはり拷問でしょう?」

 劉とかいう女みたいな顔をした男は下品に笑う。

「おまえに任せる」

 黄といわれた男は、すこし頭に上った血が下がったようだ。もっとも黄はどちらかといえば任務に忠実な男のようだが、交代した劉はかなりサディスティックな感じだ。リンダにしてみれば、かえって悪い状況になったとしか思えない。

「ただし、ひと言いっておく。孫は殺された。殺したのは北のやつらだが、そもそもの発端はこいつらだ」

「ほう」

 劉の目が怪しく光った。

「ならばきびしく取り調べないといけませんね」

 こいつは黄とちがって、仲間の死など悲しんでいないのだろう。残虐な拷問をする口実ができて喜んでいるようにすら感じられる。

 劉はいったんリンダの目の前から離れると、船の中を物色しはじめた。

 すぐにビール瓶を見つけてくる。

「ひひひ。ちょっと前にやくざの蓮見ってやつを拷問したんだけどさ、そいつになにをやったと思う?」

 劉はじつに楽しそうに笑う。

 リンダはそんなもの想像すらしたくなかった。

 しかし抵抗しようにも今のリンダは体がもう動かない。

 体が冷え切ったこともあるが、さっきの黄の一撃はリンダの体の機能を狂わせた。立てないどころか腕さえ満足に動かせない。かろうじて声が出せるだけだ。

「う……ぐう」

 テーブルの上のきららの口からうめき声がもれた。

「おっと、意識を取りもどしたのかな?」

 劉はリンダを無視して、きららの顔を上からのぞき込んだ。

 きららの目が開いた。

「な、なに?」

 きららはなにが起こっているのかまったく理解できていない様子だ。それでもしばらくすると、意識を失う前のことを思い出したらしい。

「あ、あんた、あいつらの仲間?」

 そして、床に死体が転がっていることに気づいたらしい。

「きゃあああああ」

 ぱしーんと劉がきららの頬を張る。

「いいかい、きららちゃん、これから聞くことに素直に答えたほうが身のためだよ。なぜ、北はあんたをさらった?」

「もおおおおお。どいつもこいつも、みんな同じことを聞くのね。知らないわよ。あたしがいったいなにしたっていうのよ!」

「落ちついて、きらら。興奮しちゃダメ」

 リンダは落ちつけようとした。感情の爆発はものすごく危険だ。今のきららはきわめて危ない。どう見てもテンパってる。

 無理もない。誘拐された上、自分を誘拐した男は死んでいる。それ以外にも死体が。

「あんたたちもやめて。いいかげんにしないと、とんでもないことになるわ」

 しかし劉はリンダを無視し、きららを脅す。

「答えないと大変なことになるよ。まず素っ裸にひん剥いて、吊す。で、この瓶をあんたのあそこに突っ込んでやるよ」

「な、なんですって?」

「馬鹿、やめて。これ以上、きららを追いつめないで」

 リンダは叫んだ。脅しすぎれば、殺さずともスイッチが入る。

「黙れ。もちろんそれだけですむと思うなよ。ありとあらゆる痛いこと、苦しいこと、恥ずかしいことをしたあと、恥ずかしい写真をネットで世界中にばらまいてやる。ついでにおまえの学校の生徒全員にその写真をばらまいてやるよ」

「じょ、冗談じゃ……」

 きららの言葉が詰まり、顔面が見る見るうちに蒼白になる。

 まずい。まずい。まずい。

 リンダは本気で焦った。ほんとにこのままじゃスイッチが入る。

「まず、その邪魔な服を脱げ」

 劉の手がきららの制服にかかった。

 その瞬間、銃声が鳴りひびいた。

 二発。三発。

 劉の体が揺れる。踊るように。

 ぱたりと劉が床に倒れると、血の水たまりが床に広がっていった。

 端午?

 あまりのことに、きららはかくんと意識を失った。

 やばい。

 リンダは一瞬、目をつぶったが、かろうじて起爆スイッチは入らなかったらしい。きららは存外に図太い。

「うおおおおおおお」

 黄が吼える。その顔にふたたび部下を殺された狂おしいまでの怒りを浮かべて。

 その長身は黒い疾風のようにリンダの目の前を通りすぎると、弾が飛んできた方向、後部デッキに向かって跳ぶ。ドアをぶち破った。



   2



 危機一髪だった。

 先ほど止めることができなかった劉という残虐そうな男。そいつがきららを拷問しようとしていた。まさに間一髪で後部デッキからドアのガラス窓越しに、銃で射殺することができたことに、端午は安堵のため息をつく。

 だが次の瞬間、雄叫びとともにドアが蹴破られた。

 端午ははね飛ばされ、デッキに転がる。その反動で思わず銃を手放した。

「端午君?」

 叫んだのは若宮。先行して朴たちを追っていたCIAエージェントだ。

 船室内から飛び出した長身で手足の長い黒ずくめの男は、仰向けに倒れている端午に銃口を向ける。

 若宮がそいつを撃とうとした瞬間、男は端午を見たまま、腕だけ横にいた若宮に向け、引き金を引く。

 断続的な銃声が鳴り響く。男は若宮を見もしていないのに、それはことごとく彼の胴体に命中した。

 若宮はそのまま後ろにふっとび、海に落ちる。しかしその男は興味を示さなかった。そいつはただ端午だけをにらみつけている。

「よくも部下を殺したな、貴様。毛もやったのか?」

 男は撃ち尽くしたのか、手に持っていた拳銃を無造作に海に投げすてた。

 こいつにとって拳銃とはその程度の武器でしかないらしい。あったほうがちょっと楽なだけで、なくてもぜんぜん問題ないくらいのもの。だから簡単に手放す。

「毛を射殺したのは、今おまえが撃った男だ。俺があわや撃たれそうになったとき、助けてくれた」

 そう、まさに危機一髪だった。先行して林に潜入したはいいが、火力で圧倒的に勝る北の兵士たちが跋扈している中に飛び出すことができずに、気配を殺して隠れていたらしい。その目の前で端午と毛が死闘を開始したというわけだ。はっきりいって、端午はまったくその存在を感じることができなかった。それは毛も同じだったらしい。

 その男は若宮が毛の仇だと知ってはじめて、たった今自分が海に撃ち落とした男のほうにちらりと目をやった。

「無造作に殺しすぎたか。ただのうるさい蠅にしか思えなかったからな」

 どうやらあっさり若宮を殺したことを後悔しているようだ。逆にいえば、端午をあっさりと殺す気はないらしい。

 いずれにしろ体勢が悪い。自分はあお向けに寝っ転がり、相手は立っている。

 いや、いっそのことこのまま寝技に持ち込んだほうがいいのか?

 相手はおそらく毛同様に中国拳法の達人だ。端午は柔道ができ、リンダほどではないが、寝技も使える。

 そう思った瞬間、そいつはほとんど垂直に飛び上がった。それも信じられないくらいに高々と。

 跳躍というより、怪鳥が空に舞い上がったかのようだ。

 そのままそいつの足が、端午の顔めがけて落下してくる。

 その蹴りは、最初はスローモーションのように感じたが、近づくにつれ、どんどん加速し、直前ではまさに目に見えないほどの高速になった。

 やばい。

 端午は必死に転がりながら、それを避け、一連の流れの中で起きあがった。

 男の足は、おそらく強化プラスティックと思われる船体を貫いていた。

 チャンスかと思い、間合いをつめると、男はこともなげに足を床から抜き、高速で振りまわした。

 ブロックしたがなんの意味もなかった。端午の体は浮き、二メートルもふっとばされる。

 端午が足を床に付けるころ、男はすでにこっちに向かってきていた。

 槍のような正拳突きが飛んでくる。

 それをかわし前に出る。入り身ではいって相手の外側に回る。

 そのまま相手を投げようと、体を密着させた瞬間、端午の腰に重い衝撃が走る。

 まるで相撲取りのぶちかましを喰らったかのように錯覚した。

 気づくと端午はまたふっとばされていた。そのまま船室側の壁に激突する。

「な、……なんだ?」

「馬鹿め。発勁とは手や足でのみ使えるとでも思っていたか? 発勁とは相手に触れている部分が、腰だろうと肩だろうと、いや、腹でも背中でもかまわん、どこでも使えるのだ」

「なんだって?」

 つまり、今は接触した腰から発勁を放ち、端午をふっとばしたというのか?

 それは端午も、小脳の主でもあるトムも使えない技術だ。

 いや、それはさっき死闘をくり広げた毛ですら使いこなせてはいなかったはず。

 こいつは毛以上の達人なのか?

「さっきの女の助っ人を期待しているなら無駄だぞ。急所に発勁をぶち込んでおいた。当分はまともに動けん」

 嘘ではないのだろう。端午ひとりでやるしかない。

 だが密着してもはね飛ばされ、かといって距離を置けば長い脚が飛んでくる。おまけに豹のように身軽なやつだ。

 どうしろってんだよ?

 考えるひまもなく、敵は飛んできた。

 まさに翼があるかのように飛翔すると、豪快な音で風を切り、強烈な蹴りが端午の首を刈ろうとする。

 端午は逃げる。かわすというより、走った。とても最小限の動きでかわして、反撃するなどできるようには思えない。

 だめだ。銃だ。こいつを倒すには銃がいる。

 こいつは雨園とも、朴とも、毛とも桁が違った。はっきりいって飢えたライオンと戦っているようなものだ。素手じゃぜったいに勝ち目がない。

 端午はさっき落とした銃の位置を探す。どこかデッキの上に転がってるはずだ。

 しかしいかに満月とはいえ、たいした明かりではない。この暗さの中、そう簡単には見つからない。

 おまけにゆっくり探しているひまがなかった。

 なにせちょっとでも隙を見せれば、復讐に燃えた野獣が襲いかかってくる。

 びょおおおお。豪快な飛び蹴りが端午の顔面を襲う。

 またしても大げさにかわすしかなかった。

 敵は船べりを蹴ると、ふたたび飛んできた。

 そのまま独楽のように旋回しつつ、端午は身をかがめてかわすのが精いっぱいだった。

 敵は地に足がつくと、次の瞬間にはそこにいなかった。

 壁を蹴り、空転し、右に左にと飛ぶ。

 まさに豹、いや、ほとんど瞬間移動しているとしか思えない。

 やつの動きが見えない。

 いや、もちろん目で追えないほどの超スピードで動いているわけはない。動きが予測できないのだ。さらに黒っぽい服装はバックの闇に溶け、なおさらそう思えるのだろう。

 端午は左右にはじき飛ばされ、腕や脚がまたたく間に傷だらけになった。

 ナイフなど使っていない。肌を切り、筋肉を裂くなど手刀で充分なのだ。

 遊んでいる。いや、簡単に殺すつもりがないらしい。

 とことんまで端午を脅えさせ、痛めつけ、絶望させてから殺すつもりなのだろう。殺された部下に対するレクイエムなのだ。

 真後ろからはげしい衝撃を感じた。前方に無様に転がり、デッキにはいつくばったとき、やつはいった。

「そろそろ死ぬか?」

 やつが動きをとめ、端午を見下ろす。

 勝ちほこりやがって。

 端午は起きあがることもできずに、両足を投げ出し、船べりに背をもたれた状態で、そう思ったが、すぐに考え直した。

 こいつは勝ちほこってなどいない。当然の結果だと思っている。幼児に喧嘩で勝って勝ちほこる大人などいない。

 素手で自分に勝てる人間などこの世にいないと信じ切っているかのようだ。

 だがこいつはわかってない。

 端午はさっき蹴り飛ばされ、転がったとき、偶然にもさっき自分が落とした銃を見つけた。それが今、手の中にある。もちろん、やつには見えないように隠し持っている。

 ただし闇雲に撃つ気はなかった。

 これは最後のチャンスだ。外せばもう勝機はない。

 銃口を向けた瞬間、おそらくやつは同じ場所にはいない。当てる自信がなかった。

 いつだ。いつ撃てばいい?

 端午は自問する。

 もっと引きよせるか? 接触するチャンスを待つか?

 うまくいきそうにない。ならば撃つそぶりを見せずに撃つか?

 殺気を読まれそうな気がする。

 どうする? どうする?

 考えがまとまらない。しかし敵はじりじりと端午に近づいてくる。

 我慢できない。撃て。

 しかし、腕は自分の命令を聞いてはくれなかった。

 動かない。

 一瞬なにが起こったのかわからなかったが、つぎに視界がひずむ。目の前ののっぽがぐんにゃりと歪んだ。

 やくざをぶち殺した直後に起こった現象と同じだ。目眩と手の痺れ、それも前回よりはるかに強烈だ。

 極度のピンチの連続で、ミックスアップした端午とトムの脳がオーバーヒートした。たぶん、そういうことなんだろう。

 冗談じゃねえ。よりによってこんなときに。

 も、戻れ。元に戻れ。回復しろ。

 ほんの一瞬でいい。

 だが、腕はびりびりと痺れ、指先ひとつ動かせない。駐車場のときはどれくらいで元に戻った? 十数秒? 数十秒? あるいは一分近かったかも。なんにしろ回復するのに時間が足りない。

「小僧。どうやって死にたい?」

 のっしのっしと敵が近づいてくる。しかしその姿は壊れかけの白黒テレビを見ているかのようにざらざらとノイズまみれだ。

 そいつはゆっくりと大げさに手刀を天高くふりかざした。こっちが動けないのはお見通しらしい。

「ま、待て。きららの秘密をしゃべる」

 時間を稼ぎたかった。ほんの二、三十秒ほど。

「もう、そんなことどうでもいい」

 そいつの冷徹な目に怒りの炎が宿った。

 殺られる。

 ざばーん。

 いきなり真後ろが波打った。

 そして耳のすぐそばで銃声が響く。

 敵は踊った。

 端午にはなにが起こっているのか、理解できなかった。

「若宮さん?」

 すぐ後ろを一瞬見ると、ずぶ濡れの若宮が海から船べりにしがみついて、腕を伸ばしている。その先には拳銃。

「くたばれ」

 若宮は続けて引き金を引いた。

 ふたたび、端午のすぐそばでマズルフラッシュが光る。ちかちかと点滅するライトのように、断続的に。

 銃声はビートを刻む。まるでドラムのように。

 長身の男は踊る。ステップを踏みながら。

 右に左に。そしてターン。

 弾切れ。しかし男は倒れなかった。それどころか笑った。声高らかに。

 ついさっき、劉も端午の弾丸の雨を浴び踊ったが、それは着弾の衝撃で右に左にと体が揺れたせいだ。しかしこいつはちがう。たぶん一発も受けていない。

 踊りながらよけた。いや、よけた動作が踊っているように見えたのだ。

 化けものめ。

「生きていたか? そうか、中にボディアーマーを着込んでいたな? なによりだ。毛の仇を討たせてくれるチャンスをもらえてな」

 このとき、男は端午を見ていなかった。その狂気に満ちた目は真後ろの若宮に向いている。

「ふははははははは」

 男は跳んだ。両手を広げながら。

 それは天空に向かって飛ぶ、怪鳥、いや、翼を持った悪魔に見えた。

 黒い服装はバックの夜空に溶け込み、ほとんど見えない。ただ異様な殺気をまき散らして、その気配は強大な存在感を示している。

 ほんの数秒のはずだが、端午にはそいつが数分も空を飛んでいるような気がした。

 そのとき、端午の手の痺れは消えていた。反射的に腕が上がる。

 隠し持っていた拳銃がそいつにねらいを定めている。

 そのとき、はじめて思った。

 いくらこいつでも空中ならよけられない。

 端午は引き金を引いた。

 だん、だん、だん、だん、だん。

 そいつが黒い翼を持っていたように見えたのは錯覚だった。

 さすがに空中を自由に飛び回れるはずもない。

 そいつの体は不自然に揺れた。

 つい先ほど見せた、華麗なステップとはほど遠い、無様な動き。

 よけてるんじゃない。着弾してるんだ。

 そいつは端午の頭を通りすぎ、若宮を蹴り殺そうとしたのだろう。

 しかし、それは敵わなかった。

 太陽に翼を焼かれたイカロスのように、なにもできずに海に落ちる。

 端午は起きあがり、そいつの落ちたあたりを見る。

 海面に男がうつぶせになって浮かんでいたが、じきに沈んでいく。ゆっくりゆらゆらと揺れながら、暗い海の中に沈んでいき、すぐに見えなくなった。夜の海に溶け去るかのように。

「助かったよ、端午君。ついでに引き上げてくれると助かるんだけど」

 若宮は歯をがちがちとならしながらいった。



   3



 若宮を引き上げた端午は、デッキから中に入る。

「どうやら勝ったみたいね」

 リンダの顔にほっとした表情が浮かぶ。もっとも立ち上がることさえできないようで、全裸の体を隠すこともなく、壁により掛かったままへたり込んでいた。

 端午は視線をリンダの体から外しつつ、きららを見た。制服を着たままテーブルの上に横たわっている。

「きららは?」

「気を失ってるだけ。ほんと助かるわ。目の前で人が撃たれてもリミット以上には動じない子で」

 まあ、神経の弱い女だったらいまごろ日本はふっとんでるころだ。

「悪いけど、下に行ってシーツを持ってきてくれる?」

「ちょっと待ってろ」

 端午はいわれるがままに、下の階に行くと、ベッドからシーツを剥がしてきて、リンダに被せた。

「リンダさんも大変ですねぇ。へえっくしょん」

 ずぶ濡れで入ってきた若宮がリンダを哀れみの目で見ると、自分も地階に消えた。着るものでも探す気なのだろう。

 とりあえず、あたりに転がってる死体をどうにかしようと思った。きららが意識を取りもどしたとき、目に入るとやっかいだ。

「う……ううん」

 だが、それを実行する前に、きららが吐息を漏らす。その顔は悪夢でうなされているようだ。

 目をさますか?

 きららを連れ出そうとしたが遅かった。きららはぱっちりと目を開ける。

「きゃああああああああ」

 さっきのことを思い出したのか、きららは突然飛び起きると絶叫した。

 まずい。普通じゃない。

 ほんとうはさっきこうなっても不思議じゃなかったのだ。それがあっけなく気を失った分、夢の中で恐怖が増幅されたのかもしれない。

 端午は泣き叫ぶきららの顔を掴むと、鼻がくっつかんばかりに顔を間近に寄せる。

「落ちつけ、きらら。俺だ。端午だ」

 しかし、きららの目はうつろだった。端午を見ていない。端午を認識していない。

 さらに体はがちがちで、開いた口も二度と閉じることはないのではと思えてしまうほどだ。

「なんとかして、端午!」

 横からはリンダの叫び声。

 そう、リンダも焦ってる。これは爆発の兆候なのだ。

 なんとかって、どうすりゃいいんだ?

 いい考えなど浮かばない。とにかく叫ぶのをやめさせようと思った。

 反射的に端午はきららを抱き寄せ、唇を吸った。

 絶叫を口でふさぎ、そのまま強く優しく抱きしめる。

 人形のように硬直していたきららの体が、人間らしい反応を見せたかと思うと、端午は頬に熱い痛みを感じる。

 きららが引っぱたいたのだ。

「なにすんのよ、このスケベタンゴ」

「そうだ。俺だ、端午だ。落ちつけ。もう終わった。もう誰も死なない」

「く、来んのがおそ~い!」

 きららは目から滝のように涙を溢れさせると、ぽかぽかと端午の頭を殴る。

 そうかと思うと、今度は顔を端午の胸に押しつけた。端午は優しく背中をなでてやる。

「うえ~ん」

 きららが子供のように泣く。まだ精神は不安定だが、とりあえず、だいじょうぶだろう。

 心底ほっとした。

「だいじょうぶですか、きららさん?」

 敵の普段着に着替えた若宮が下から駆け上がってきた。

「わ、若宮さん。無事だったの?」

 きららはその姿を見て、きょとんとする。

「ええ、伊藤警部補も無事ですよ。爆発前に僕が場所を移しておきました」

「よかったぁ」

 きららはほっと息をつく。

「ね、ねえ、タンゴ。どうして、スパイや殺し屋どもがあたしを殺しにくんのよ?」

 ようやく落ちついたのか、きららは顔を上げると、根本的な疑問を端午にぶつけた。

 ほんとのことをいったら、またパニックになりそうだ。

「さあな。だが、もう来ないよ。もし来ても俺が守ってやる。今回みたいにな」

「ほんと? ほんとね? 約束だよ」

 きららは真っ赤に腫れた目で、端午をにらんだ。

「ああ、もちろんだ。誰にも指一本触れさせない」

 そのひと言にきららはようやく落ちついたようだ。

「あ、そ、そうだ。これ爆弾なのよ。外して」

 きららは必死に首に付いている物騒なネックレスをアピールする。小型爆弾がワイヤーで首に巻かれてあった。

 端午は拳銃をワイヤーに押しつけると、きららの首を傷つけないように撃った。それでようやくきららはほっとした顔になる。

 そのとき、外からばらばらとヘリコプターの音がした。

 また敵か?

「きらら、ここにいろ」

 端午はそう叫ぶと、後ろのデッキに飛び出した。

 見上げると、かなり低い位置に軍用ヘリがホバリングしている。ロケット弾でも打ち込まれたら終わりだ。

 端午は反射的に銃口を操縦席に向ける。

「はい、ストップ」

 いきなり腕をつかまれた。若宮だった。

「だいじょうぶ。うちの連中だよ。まったく今ごろ来やがって」

 つまりCIAの応援部隊らしい。

 まったくもって遅すぎる。こいつが来ていたら北朝鮮の兵士たちももっと楽に倒せたはずなのに。

 陸のほうからパトカーの音が聞こえはじめた。まわりに人家がなかろうが、さすがにこれだけの銃撃戦があればとうぜんそうなる。

「さあ、端午君。リンダさんを連れてヘリに乗ってくれ。ここは僕がごまかしておくからさ」

 まあ、若宮は刑事なのだから、尾行してきららを助けに来たということで正当性があるが、リンダと端午はそうはいかない。

「そういうことね。手を貸して、端午」

 後ろからリンダの声がする。ようやくすこしは回復したのか、壁により掛かりながらもなんとか立ち上がっていた。

 端午はシーツがずり落ちないように気を使いながら、その手を取り、肩を貸した。

「あたしはどうするばいいのよ、若宮さん?」

「きららちゃん、君は僕といっしょに帰る。だいじょうぶ、警察がちゃんと護送するよ、念入りにね」

 ヘリから縄ばしごが降りてきた。ぐずぐずしてると警官たちがこっちに来てしまう。

「じゃあな。きらら、あした学校で会おう」

「約束だよ。ずうっと、あたしのこと守ってよ」

「了解」

 端午はそういって、リンダを抱きかかえながら縄ばしごに捕まる。

 心細そうにするきららを残し、ヘリは飛び立った。


   *


「助かったわ」

 ボートが見えなくなったころ、ヘリの後部座席でリンダが端午にいった。

「とうぜんのことをしたまでだ」

 そういいつつ、あまりとうぜんのことでもない気がした。すくなくとも、高校生が武装した外国の特殊工作員と殺し合ったあげくに勝ち残るのは、かなり異常なことだ。

「戦ってるときの君はトムにそっくりだった。いや、それ以上かな。神がかってた」

「たしかに自分でも信じられなかったな」

 とても人間とは思えないような動きだった。トムとはそんなに優秀な戦士だったのだろうか?

「君とトムの脳がなじむことで、新たな次元の可能性を生み出したのね、きっと」

 リンダがちょっと潤んだ目で端午を見つめる。

「な、なあ、リンダ。前から思ってたんだけど、トムとはどういう関係だったんだ?」

「君の思ってる通りよ。相棒であると同時に恋人だった」

 リンダはいきなり端午にキスをした。

 端午は驚いたが、体が自然にそれを受け入れる。知らないうちにリンダの舌を吸い、自分の舌を絡めていた。

 端午はそのとき、どうすればリンダの体がどう反応するか、瞬間的にわかった。

 同時に体がリンダを求める。端午の心ではなく、トムの体の記憶が。それは端午の本能と相まって強烈な衝動となる。

「だめ」

 リンダは唇を離し、拒否する。

「やっぱりそれはだめ。君はあくまで端午。トムじゃない」

「だったらなんで……」

「このキスはただのご褒美よ。それ以上でもそれ以下でもない」

 リンダの唇はかすかに震えていた。

「でも、懐かしいキスだった」

 だからこそ、それ以上はだめと暗にいってる気がした。

 端午も必死で体の暴走を押しとどめた。自分自身の心で。

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