第五章 狼たちの始動



   1



 眠れない。

 きららは夜、暗がりの中、自室のベッドの上で悶々としていた。

 まあ、きょうはいろんなことがありすぎた。結果的にはあの店は壊滅状態。自分だって拉致はされたし、裸にひん剥かれはしたけど、それ以上のことはされてない。ある意味、結果オーライだ。家族は大騒ぎしたけど、最終的には無事だったことを知ると、すこしは安心したようだ。

 だけどきららの胸には、今、屈辱感が暗い影を落としている。

 ひとつはあんな悪党に一瞬とはいえ、心ときめかせてしまったこと。

 もうひとつは、そいつにあっさり負けたことだ。

 相手は剣道部のインターハイ選手。だから、こっちが素手で、あっちが木刀でも持っていたなら仕方ないかとも思う。

 だけど、逆だ。あっちが素手で、こっちはヌンチャク。なのに負けた。最高に悔しい。

 あいつ、懲りずに学校来ないかな?

 雨園にリベンジがしたかった。

 もっともその望はうすい。きららは泣き寝入りなんかする気はこれっぽっちもなかったから、あのあと着替えるとすぐに警察にいった。そのとき、刑事から聞いた話では、あの店はそうとうあくどいことをやっていたようだ。ほんとうに奈美以外にもいろんな女の子を強制的に売春させていて、雨園も関わっていたらしい。そんなやつがなにもなかったかのように、のこのこと学校にやってくるはずもない。

 もっともそのとき、あの加藤が殺されていたことも聞いた。

 タンゴの話じゃ、タンゴたちが出たときには生きてたらしいけど、いったい誰が殺したんだろう?

 一瞬、タンゴといっしょにきたあの女の人がやったのかと思ったが、さすがにそれはなさそうだ。それならばあのときタンゴはもっとあわてふためいていたはず。いっしょにきた相棒が人を殺して平気でいられるようなやつじゃないのだ。

 ま、なんにしろ、タンゴにあんなところを見られたのは一生の不覚よ。

 なにせ素っ裸で気を失っていたのだから。

 女としてはもちろん、武道家としても恥ずかしい。

 きららは顔がほてっていることに気づいた。

 ちくしょう。雨園のやつ、いつか叩きのめしてやりたい。

 だけど、いったいどうやったら勝てるのか?

 ヌンチャクがだめなら、サイかトンファを使うべきか? あるいはダブルヌンチャク?

 ああやってこうやってと、頭の中でシミュレーションする。

 ついに我慢できずに、ベッドから下りると実際に体を動かす。とりあえず、部屋に常備しているトンファを使った。

 トンファとは、棒にグリップがついたようなもので、棒の部分で敵の攻撃を受けたり、グリップを中心に回して棒の部分をぶち当てたり、あるいは先端で突いたりするための武器だ。きららは両手にひとつずつ持つと、ぶんぶん回したり、突いたりした。

 しばらくやってみたが、それでも怒りは収まらなかった。勝てるイメージが湧いてこないのだ。

 たとえ、イメージだけでも、雨園をぼこぼこにできれば気も晴れるのに。

 ちょっとタンゴのところにいってみようか?

 あのアメリカ女性のこともみょうに気になっていたし。

 もう十二時を過ぎていたが、問題ないだろう。まだ起きてるはず。

 窓からタンゴの部屋の窓をのぞいてみると、案の定、まだ灯りはついていた。

 そのまま窓を開け、パジャマのまま一階の屋根の上に乗った。

 なにげなく、下の道路を見ると人が立っていた。黒っぽい服を着た若い男で、きららの視線に気づくとあからさまに身を隠した。

 なによ、あいつ?

 さすがにきょうあんなことがあったばかりなので、気になった。

 ストーカー? それとも昼間の事件に関係あるやつ?

 冗談じゃないって。

 きららはすぐさま自分の部屋にはいると、窓の鍵を閉めた。

 警察に。

 きららはスマホで110番しようとする。しかしなぜか通じない。モニターを見てみると圏外になっていた。

 嘘?

 もちろん、普段この部屋が圏外になることなどない。

 下に行って居間の電話から警察に電話しようか?

 そう思ったとき、すたん、と窓のすぐ外でかすかになにかが屋根に飛びのる音がした。道路にいたやつがよじ登ってきたとは思えない。ひょっとして二階の屋根に誰かが潜んでいて、そいつが下りてきたのかもしれない。

 不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、攻撃的な気分になっている。

 誰だか知らないけど、寝てるふりをして、隙をついて捕まえてやる。

 きららは相手を誘うため、わざわざ電気を消すと、ついさっきまで振りまわしていたトンファを手に、ベッドにもぐり込む。そのまま窓の外に意識を集中した。

 そいつは様子をうかがっていたのか、しばらくは物音ひとつしなかった。

 逃げたかな? と思っていると、かすかに気配を感じる。

 窓にはカーテンが掛かっていたが、ちょうと真ん中の錠のあたりは十センチほどのすき間があったせいで、そこに誰かいるのがわかった。そいつはなにやらカッターのようなものを取り出すと、錠のあたりの窓ガラスをあっという間に切った。円状のガラスの破片は音も立てずに、部屋側に落ちる。男はそこから手を入れ、クレセント錠を開けた。

 しずかに開いていく窓。

 緊張するが、ここで叫べば逃げだしてしまう。こういうやつはぶちのめすに限る。

 みょうに強気だった。むしろ、雨園をやっつけるための予行演習という気分だ。

 薄目で観察していると、カーテンを開け、黒っぽい服を着た男がゆっくりと入ってきた。暗くてよくわからないが、シルエットから判断するとどちらかというと長身痩躯で、どうやら髪はオールバックにしているようだ。

 そいつは、しずかにポケットからナイフを取り出す。そのままそばまでやってきて、ナイフを持っていない左手できららの口に手を当てようとした。

 その瞬間、きららは布団をはね上げ、隠し持っていたトンファでナイフを持った手首をねらう。

 だが、トンファは空転し、床に激突した。男は信じられない反射神経で手首を引っ込めると、トンファを蹴り飛ばす。

「このぉ」

 すかさずもう一方のトンファを振る。しかしそいつはそれをかいくぐると、振り切ったところできららの手首を掴んだ。

 ぐいと手首を引っぱられ、あっという間に後ろに回りこまられた。

「い、痛……」

 そのまま後ろで肘を極められ、同時に口を塞がれた。痛みに耐えかねてトンファを手放すと、手を離されるかわりに、首にナイフを突きつけられた。ほんの一瞬のことだった。

「声を立てるな。逃げようとするな。さわげば殺す」

 男はしずかにいうが、下手に大声でどなりつけられるよりはるかに恐ろしかった。

 こいつ、ただものじゃない。ゴッサムの不良なんかとはレベルがちがう。

 直感でそう思えた。

 同時にきょう二度目の屈辱感が襲う。また負けた。

「死にたくなかったら正直に答えろ」

 男は後ろから顔を近づけ、耳元でささやいた。

「おまえは何者だ?」

 何者? それはこっちの台詞よ。

 そう叫びたかったが、口が押さえられていてひと言もしゃべれない。

 男も口をふさぎながら質問することを無意味だと感じたのか、低い声で脅す。

「口は自由にしてやる。そのかわり、俺の質問に小さな声で答えるだけだ。まちがっても、叫んだりするなよ。逆らえば殺す」

 男は大振りの軍用ナイフをこれ見よがしに目の前に見せつけたあと、ふたたび刃を喉に当てる。

 きららはうなずくしかなかった。

 じょ、冗談じゃないよ。

 もう完全に殺し屋だ。しかもやり慣れていそうだ。

 男は絶対優位な態勢になって、ようやく左手を口から離す。

「もう一度聞く。おまえは何者だ?」

「あ、あたしは……、ただの女子高生よ」

 固まりかけた口を必死で動かし、声を絞り出した。

「そんなはずはない。なぜ護衛がついていた?」

 護衛。あのアメリカ女のことだ。

 もちろん、きららはそんなこと知らない。

「とぼけるな。三秒時間をやる。答えろ」

 そんなこといったって、知らない。

「いち」

「ほんとに知らない」

「にぃ」

 ほ、本気だ。こいつ、本気で殺す。

「さん」

 顔は見えないが後ろの男が笑っている気がした。

 ただでやられてたまるもんか!

 きららは反射的にふり返りながら、腕でナイフを弾いた。

 喉が切っ先から自由になる。しかしそれは一瞬だった。

 ふたたび敵がナイフの先端をきららの目の前に突きつけた瞬間、窓ガラスが砕け散る音がひびいた。

 目の前のナイフがふっとんだ。

 男の右手からは鮮血が飛びちる。

 男は反射的に窓のほうにふり返った。

 ふたたび、ガラスが砕け散る音とともに、耳障りな炸裂音が鳴りひびく。

 銃声? それも一発じゃない。

 二発。三発。

 男はその音とともに、がくんがくんと揺れ、そのまま反対側の壁にたたき付けられる。

 な、なに?

 きららはわけがわからなくなりつつも、とっさに男から離れる。

 死んだの?

 見たところ男は目をつぶって、壁にもたれるように倒れている。血は流れていなかった。だけど確実に撃たれたはず。

 男は突然目を見ひらくと、バネ仕掛けの人形のように飛び上がった。そのまま窓めがけて走る。

「ひゃあああああ!」

 きららはあまりのことにその場で腰を抜かした。

 男は窓を開ける手間も惜しいのか、そのままガラスをたたき割って外に飛び出していく。

 外からはわめき声。だけどのぞく勇気はない。その前に体が動かなかった。

 下からはどたどたと階段を上がってくる音。

「きらら、なにがあった?」

 父親の声だ。さわぎを聞いて駆けつけてくれた。

 窓の外からは屋根の上ではげしく争う音。

 父親がドアを開けて入ってきた。

「お父さん、強盗よ、110番してぇえええ!」

 その姿を見ると、きららはようやく叫び声を上げることができた。

「なにい? 無事か、きらら」

 複数の人間が屋根から転がり落ちる音がひびく。

 父親がきららのところまで来て、抱きしめた。

 そのとき、きららは張り裂けそうだった心臓が、ようやく落ちついてきたのを自覚した。



   2



 たしか、こうだったな。

 端午は夜、自室でひとり体を動かしていた。

 きょう、あの店で連中をなぎ倒した技を思い出しつつ、なぞっている。

 忘れたくないのだ、あの感覚を。

 端午はあのとき、敵をぶちのめしながら快感に酔っていた。そして自由自在に動く自分の体に感動していた。

 CIAの施設で目覚め、リンダに合格をいい渡されたあとも、自宅で連日体に眠っている体術を呼び起こす訓練は続けていた。トムの体に染みついた体術は、たかが一週間や二週間の特訓では完璧に再現できるしろものではなかった。それは楽な作業ではなかったが、同時にとてつもなく楽しいことでもあった。

 なにしろ、日に日に、目に見えて自分が超人的な技を使えていくのが、おもしろくてたまらなかったから。

 だがそれはしょせん型であり、ひとり稽古だったが、きょうそれをはじめて実戦でまともに使えた。夜中の工事現場のときも実戦のつもりだったが、あのときは銃撃戦だったし、きょうの戦いとはぜんぜんちがう。端午にしてみれば、どこか後ろめたさがともなう銃撃戦より、実戦でも格闘のほうがずっと楽しい。

 しかも、今までだったらとても敵わなかったやつらを、まとめてひとりで捻りつぶしたのだ。おもしろくないはずがない。

 だから、それをこうやって思い出しつつトレースするのはたんなる訓練というより、喜びを反芻しているといってもいい。

 ここしばらく体をさいなんでいた筋肉痛も消え、同じ技を繰り出すにしても、より速く、より力強く出せるようになっていた。

 もちろん、たかだか二週間ほどのトレーニングで筋肉がそう発達するはずもないが、使い込むことによって力の出し方のようなものを覚えるらしい。さらに心肺機能に関しては短期間でもそれなりに強化されるらしく、前ほど息切れしたりしなくなったし、確実に持久力はついている。

 体がいい具合に汗ばみ、息が弾んできたころ、下の階の電話が鳴った。

 夜中の十二時過ぎ。スマホならともかく、家の電話が鳴るにはめずらしい時間だった。どうせ両親は寝ている。

 端午は気を利かせて階段を下りた。たぶんまちがい電話かなにかだ。起こすのは忍びない。

 居間にいき、受話器を取るとリンダの声がひびいた。

『端午?』

「リンダ? どうしてこっちの電話を?」

 リンダなら当然スマホのほうにかけてくると思ったからだ。

『ジャミングされてる。そのへん一帯のスマホはいま使えないはず。夜中にきららの部屋を監視させてる探偵の連絡も途絶えた。変よ。ぜったいになにか起こってる。きららの様子を見にいって。銃を持っていったほうがいいわ』

「わかった」

 端午は電話を切ると、二階に走る。

 机の引き出しの錠を開けると、拳銃の入ったケースを取りだした。それのロックを外すと、中のコルト・ガバメントを手に、窓から屋根づたいにきららの部屋の前までいく。その間、無意識にサム・セフティーを親指で外すと、スライドを手前までジャキンと引いた。それでチャンバーに初弾が送りこまれ、同時に撃鉄が起きる。準備オッケー。あとはねらいを定めて引き金を引くだけだ。

 さっきまでついていたきららの部屋の電気は、今消えている。だが端午の部屋から漏れる明かりのせいで真っ暗闇というわけでもない。

 カーテンのすき間から中をのぞくと、何者かがベッドの上で、きららを後ろから押さえつけている。

 この野郎、変質者か?

 一瞬そう思ったが、そいつの手にはナイフが握られ、その刃はきららの喉に押しつけられている。

 まずい。

 きららは動いた。ふり返りざまに謎の男のナイフを弾く。

 男は再び切っ先を突きつけようとした。

 端午の体は反射的に動いた。

 手に持った銃で、その男の右手にねらいを定めると、引き金を引く。

 銃声とともに、窓ガラスが砕け散り、弾は男の右手を貫いた。

 そいつのもっていたナイフははじけ飛ぶ。

 こっちを振り向く男。暗くて顔はわからない。だが直感でわかる。只者じゃない。しかもそうとうヤバいやつ。

 端午は容赦なく引き金をしぼった。

 一発。二発。三発。

 窓ガラスは砕け散り、男は着弾のたびに反動で後ずさり、ついには壁にもたれるように倒れた。

 きららはそいつから飛び退くと、床に座り込んだ。荒い息づかいが聞こえるが、取り合えず体はなんともなさそうだ。

 無事みたいだな。だけど油断はならない。

 最悪、きららは恐怖だけで体内にある爆弾のスイッチを入れかねないのだ。

 突然、男がはね起きた。そのままこっちに突っこんでくる。

 終わったと思っていた端午は完全に虚をつかれた。

 防弾チョッキ着てたのか?

 銃を構えなおしたときには、そいつは窓を突き破り、そのまま飛び蹴りを食らわしてきた。

 それはかろうじてかわすが、ふたたび銃を向けたとき、前蹴りによって拳銃を下からはじき飛ばされた。

 さらに振り上げた足が端午の頭めがけて急降下してくる。

 その踵が端午の頭を蹴りつぶそうとする寸前、入り身でかわすと相手の横につく。

 そいつの踵は屋根を蹴破った。

 端午はかまわず、左手で相手の首を後ろから押さえると同時に、右腕を相手の顔に被せ、そのまま後ろに振りぬいた。

 合気道の入り身投げ。相手はそのまま後頭部から真下に落ちる。

 だが端午は真後ろから首筋にものすごい衝撃を感じた。

 その男が投げられながら、蹴りを放ったと気づいたのは、一瞬あとのことだった。

 端午は男とともに屋根の上に転げる。

 急勾配ではないが、傾斜のついた屋根の上のこと。ふたりはそのまま道路のほうに向かって落ちる。

 端午は空転し、足から地面に降り立った。相手もどうやら同じようなことをしたらしい。無様に地にはいつくばったりはしなかった。

「おまえは?」

 端午は街灯の明かりで相手の顔を見て、それが誰なのかはじめて認識した。

 オールバックの髪に、一重の切れ長の目。冷たい表情。

 あのいかがわしい店『ゴッサム』のバーテンだ。つまり、雨園の仲間か?

 っていうか、雨園はなんできららをねらうんだ?

 リンダに聞いた話では、あの『ゴッサム』という店は誘拐同然で女子高生を拐かし、働かせるというとんでもない店らしい。しかもきららは優子からの情報によってそのことに気づいた。だから、雨園がきららは拉致したのはたんに口封じをすると同時に、その店で働かせるためだと思っていた。

 しかし、店が壊滅状態になり、自身は逃亡しなければならないほど追いつめられているのに、今さら口封じでもないし、ましてや女を調達しようなどと思うはずもない。

 相手も自分と戦っているのが、昼間店に乗りこんできた男だと気づいたらしい。顔に驚きの表情が浮かぶ。

「何者だ?」

 バーテンはかまえを取りつつ、叫んだ。

 こいつの技は蹴り主体。かといってカポエイラのようなトリッキーな感じでもない。空手か、いや、おそらくテコンドーだ。

 さっき端午を襲った技は踵落とし。空手ではあまり使わない。テコンドーではたしかネリョチャギとか呼ばれていて、普通に使われる技らしい。

「おまえこそ、なぜきららを襲う?」

 まわりがさわがしくなってくる。消えていた電気がつく部屋もあった。たぶん警察に通報した家もあるはずだ。

「だまれ」

 テコンドーの男の回し蹴りが顔面に飛んできたかと思えば、いきなり軌道が変わった。蹴りは端午の脚に炸裂した。

 カットしきれず、芯まで響く衝撃。たまらず膝を折る。

 さらに横蹴りが顔面に飛んできた。端午は地面に転がってかわす。

 テコンドーの男は深追いしなかった。警察が来るのを恐れたのか、端午に背を向けると近くに止めてあったバイクに飛び乗った。

「待て」

 しかし待つわけもなく、男は走り去っていく。ナンバープレートは読めなかった。車種もわからない。

 端午にそいつを追う手段はなかった。ここにとどまるのもまずい。やむを得ず、端午はこっそりと自分の家の中に逃げ込む。

「おい、どうした、端午」

 間一髪だった。家に逃げ込んだ直後、父親が廊下に出てきた。

「いや、なにか音がしたから様子を見ようかと思って」

「やめとけ。関わるな。銃声みたいなのが聞こえたぞ。外に出ないほうがいい」

「うん。わかった」

 端午はそのまま二階に上がる。あいつを追えなかったのは残念だが、きららのことも気になっていた。

 自分の部屋からきららの部屋をのぞくと、灯りがついていてなにやらさわがしかった。きっと両親が駆けつけて事情を聞いているんだろう。

「きらら、だいじょうぶか?」

 端午は窓から顔を出し、叫んだ。

「タンゴ」

 声につられてきららも窓から顔を出す。

「怖かったよう。殺し屋が襲ってきたんだから!」

 泣いてはいるようだが、思ったほど取り乱してはいない。日本滅亡の心配はなさそうだ。

「いや、端午君、すまん、今は取りこんでるから」

 横から父親が顔を出し、窓を閉めた。

 パトカーの音がした。きららの親がきっと連絡したんだろう。

 とりえあず危険は去ったが、わからないことだらけだ。あのバーテンは何者だ? きららを襲ったのは雨園がからんでいるのか? それとも……。

 スマホを見ると、モニターのアンテナマークは三本立っている。端午はリンダに電話を入れた。



   3



 くそ。なんだ、あの男は?

 朴はバイクで逃走しながら憤慨した。

 べつにあの小娘を殺すのを邪魔されたからでもない。最初から殺す気はなかった。

 あのまま連れ去って、ゆっくり拷問する気だったが、あの男のおかげでそれもできなかった。

 CIAに関係してるのはまちがいないだろう。なぜ、日本人の高校生がCIAの手先をしているのかはわからないが。

 それより気になるのはあの女だった。

 ただの女子高生になぜあんな護衛がつく? しかもかなりの腕利きだ。

 あの女はどんな価値を持っているのだ?

 朴の知っている限り、雨園があの女を拉致したのは、あの女が秘密を嗅ぎつけたせいであり、それは友達が偶然雨園のスカウトした女の中にいたためだ。それ以上の意味などない。

 じっさい、朴にしてみれば、まさにどうでもいいことだった。CIAが出てくるまでは。

 朴は路地に入りこんだとき、一台の車が尾行していることに気づいた。どこにでもある白っぽいカローラ。

 CIAか?

 だが、あの護衛のガキは巻いたはず。

 とすると、きょう朴があそこに現れることを予期していたとは思えないから、あの女のために複数の護衛をつけていたことになる。

 朴は巻くより生け捕って目的を聞き出すことを選択した。住宅街を抜け、さびれた通りに敵を誘導する。

 夜中の一時ごろということもあり、人通りはおろか、すれ違う車すら、ほとんどないほどだった。

 相手は五十メートルほどの距離をキープしつつ、後ろに張りついていた。

 朴は突如Uターンすると、その車に向かった。アクセル全開で。

 あっという間につまる距離。

 あわや衝突という寸前、朴はバイクの前輪を浮かすと、自分は離脱し、受け身を取りつつ歩道に逃れた。

 バイクはふっとびつつも、前輪が運転席のフロントガラスにめり込む。

 コントロールを失った車は横転し、そのまま二、三回転すると腹を上にしてとまった。

 殺したか?

 やりすぎたかもしれないと思いつつ、朴は車の中をのぞき込む。

 運転席にはバイクの前輪以外なにもなかった。助手席もだ。

「動くな」

 真後ろから男の声とともに、背中になにかを突きつける感触。ハッタリでなければ拳銃だ。

 朴は深いお辞儀でもするように、頭を下のほうにぶんと振り、拳銃のねらいを外すと同時に、その反動で右足を真後ろにはね上げる。

 朴の足は男の手首を的確に捉えていた。強烈な後ろ蹴り《ティチャギ》は拳銃をはね飛ばす。

 それを目で確認すると、振り上げた足を地に付け、逆に軸足をはね上げる。後ろ回し蹴り《ティフリギ》が男の首に飛んだ。

 男は下がりもかがみもせず、前に出た。それもものすごいスピードで。そのまま手でブロックした。

 朴にしてみれば、踵や足首ではなく、膝の裏あたりを手でブロックされた恰好になる。間合いが近すぎて、それでは威力が伝えられない。おまけに男のブロックはただ固いだけでなく、当たった瞬間に腕を螺旋状に捻った。これで力はさらに分散される。手応えがまるでなかった。

 次の瞬間、朴の体が宙を舞う。軸足を払われたらしい。

 くそっ。

 予想外の反撃に困惑しつつも、朴は手を地面に付け、頭がアスファルトに直撃することを避けると同時に、その状態で蹴りを放った。

 男は今度は蹴りの届かない位置まで飛び退いた。

 朴はすぐに体勢をととのえ、構える。両手で顔面をガードし、左足を前に出した。そのまま軽くステップをふむ。

 敵のほうは右半身だった。前に出した右手は握らず、開いたまま。なんとなく、テコンドーとも空手ともちがう感じだった。

「中国拳法?」

 CIAかと思ったが、すくなくとも相手は白人ではない。アメリカ人だとしても東洋系。日系か中国系かあるいは自分と同族の朝鮮系かは、顔つきだけではわからなかった。だが、この技が中国拳法だとすると、とうぜん中国系、あるいは中国人そのものである可能性が高い。

 あらためて見てみると、小柄の上、子供っぽい顔つきだ。そういう意味ではさっきの日本人高校生に似ていたが、もっと無邪気な感じだ。日本人高校生が無理に背伸びをしようとしている感じがするのに対し、この男は子供っぽさを自覚しているはずだが、それを隠そうとしていない気がする。ただ、たんに少年ぽいだけでなく、小学生のようなある意味純粋な邪悪さ、残酷さを兼ね備えている感じすらする。

 この男は今まさに、足をむしるための虫を見つけた子供の顔をした。

「何者だ?」

 朴は前蹴り《アプチャギ》を放つ。相手は横に動いてかわした。

 なんというか柔らかいが非常にすばやい動きだ。

 こっちの蹴りの死角に入りこみ、前に出てこようとする。

 やばい。

 朴は蹴った足を戻すと、弾幕を張るかのように浅い蹴りを広範囲にマシンガンのようにくりだした。

 さすがに相手は後ろに下がるしかなかったようだ。だがまったく油断はできない。朴は前の左足をすこし浮かし、出てくれば容赦なく蹴る体勢にする。

 朴としては接近戦に持ち込まれたくない。もともと蹴り技主体のテコンドーはすこし離れた距離の戦いを得意とする。

 もちろん朴の技は、たんなる試合用のテコンドーではなく、実戦で相手を倒すためのものだから、必要とあれば拳や肘、膝も使う。しかしそれを考えても、接近戦は敵に分がありそうだった。

 もう、うかつにこちらから蹴り出すことはできない。

 相手はこちらが蹴るのをまって、すばやく死角に入りこみ、懐に入りこんでしとめる気だ。

 逆にいつでも蹴りを出せる体勢で待ちかまえいていれば、向こうも無茶はできない。突っこんできたときにカウンターの蹴りを入れられるのはさけたいはずだ。

 ふたりはにらみ合ったまま硬直状態に入った。

 パトカーのサイレンが聞こえた。事故を誰かが通報したらしい。

 となると、いつまでもここにいることはできない。それは向こうも同じはず。

 童顔の男は、じりじりと後ろずさり、間合いを広げていく。朴も無理に飛びこもうとは思わなかった。危険すぎる。

 敵はいきなり背を向けると疾走した。

 朴は追うか逃げるか、一瞬判断に迷った。警察は事故現場に来るのだから、追えば必然的に警察からは逃れることになる。しかし、それを躊躇するほど相手は強敵だった。素手の格闘では「虎」とあだ名されるほど、他の工作員を寄せ付けない強さを持つ自分と互角に戦えるほどの強さだ。

 朴は敵とはべつの方向に走る。

 なんだか知らないが、ただごとじゃない。

 小娘ひとりにCIAの女と仲間らしい日本人の小僧、それにおそらく中国共産党のスパイがまとわりついてる。八頭蛇神会にしたところで、自分の知らない思惑で動いているのかもしれない。

 きっとあの小娘には、日本、アメリカ、中国、そしてとうぜん祖国、朝鮮民主主義人民共和国の命運を握る重大ななにかを持っているか、知っているかしているにちがいない。

 となると、ぜったいに我が国だけが後れを取るわけにはいかないのだ。

 今後も護衛がつくだろうし、他国の工作員の妨害も入るかもしれない。隠密行動には限界がある。こうなったら派手にぶちかましてでもさらうべきだ。

 となると、もう自分ひとりの手には負えない。応援がいる。数と火力で圧倒するしかないのだ。

 日本のガキややくざ、アメリカの牝犬、中国の豚どもに舐められてたまるか。東京を火の海にしようと、必ず先に謎をつきとめてやる。

 朴は逃げながら、スマホで上司に連絡を取った。


   *


「リンダ。襲ったのは『ゴッサム』のバーテンをやってたやつだ。やつはバイクで逃げた」

 端午はスマホに向かってどなる。

『ゴッサムのバーテン?』

「ああ、つまり、今度の事件は雨園の差し金なのか?」

『……変ね。あいつはバックにやくざがついてるかもしれないけど、今のところただの不良の親玉よ。きららの秘密を知ってるはずもないし、執拗にねらう意味がわからないわ』

「とにかく、やつのバックのやくざを洗ってくれ」

『わかった。それで、端午と戦ったやつ、どんな戦い方だった? 素手?』

「いや、ナイフを持ってた。かなり大型のやつ。たぶん軍用ナイフだ。それから防弾チョッキ着てた。ついでにいうなら、やつの体術はおそらくテコンドー」

『テコンドー? ふん。……ひょっとしたら、「北」が嗅ぎつけたのかもね』

 リンダはぶっそうなことをいう。「北」とは北朝鮮のことだろう。つまり、八頭蛇神会とやらは北朝鮮とつながりがある?

『まあ、そのへんは調べておくわ』

 外がさわがしくなった。窓からちらっと見てみると、鑑識課らしき面子がなにやらさわいでいる。リンダにはそのことをつたえた。

『きっと死体を見つけたのね。やとってた探偵が殺されたんだわ』

 たしかによく見てみると、路上に誰かが倒れていた。

 敵は目的のためなら人を殺すことなどなんとも思わないやつってことだ。

『つまり、事態は最悪の方向に転がってるってことね』

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