第四章 酒場で修羅場



   1



 端午は気になっていた。

 きららが昼休み、スマホでなにか深刻そうな話をしていたからだ。

 なにげなく聞いてみると、中学のときの先輩、優子かららしい。

 その人のことは端午も知っていた。しょっちゅう面倒な話をきららに押しつける困った先輩である。

 電話の内容ははっきり教えてもらえなかったが、今回もなにか面倒ごとを押しつけられたに決まっている。

 めんどくせえな。せっかくここ一週間平和だったのに。

 それが率直な感想だった。

 ここ一週間、きららの同好会の練習が終わるのを待ち、こっそり帰り道をつけていたのだが、とくに変わったことはなにもなかった。あるいは、きららが探偵の真似事をして、自分を殴った相手を探ろうなどとするんじゃないかとも心配した。なにしろ、きららにどこでやられたと聞かれたとき、とっさに適当に答えてしまった。きららならそこで聞き込みくらいやりかねない。

 もっとも、探偵経験のないきららには、そこまで思いつかなかったらしい。まあ、不幸中のさいわいだ。

 だがきょうは動く。面倒ごとに首をつっこむ。元来きららはそういう性格なのだ。

 だから今、武道場の外できららが出てくるのをこっそり見張っている。なにか起きそうなら未然に防がないといけない。

 時計を確認する。そろそろ部活の終わるころだ。

 何分もたたずに、きららは武道場から出てきた。先輩から面倒なことを頼まれているので、浮かぬ顔をしてるかと思えば、むしろ鼻息荒く、楽しげにすら見える。

 ノリノリだな、あいつ。

 端午はきららの様子に内心呆れつつも、一定の距離を置いて、気づかれないように後をつけた。尾行もここ一週間でだいぶ上達したらしい。たまに後ろをふり返えられても、見つかるようなへまはしなかった。

 きららはしばらく歩くと、人気のない路地の「さぼーる」という喫茶店に入った。

 ここはガラス戸が歩道に面していて、外からも中をうかがえる。端午は店には入らず、歩道から見つからないようにこっそりきららを観察した。

 声は聞こえないが、ふたりの表情を見ると、やたら大げさそうな優子に対し、きららは怒りと興奮が入り交じったような顔をしている。

 たいしたことなさそうだな。

 きららが深刻そうでないので、端午は少し安心した。どうせ、くだらないことに決まってる。たぶん、きららがちょっと空手の技を使えば解決する程度のことだ。もし、手にあまるようだったら、こっそり手助けしてやればいい。

 しばらくするとふたりは外に出てきたので、端午は建物の陰に隠れる。

「なんか武器持ってきてるよね?」

 優子がぶっそうなことをきららに聞く。

「もっちろん。相手がやくざでもだいじょうぶです」

「乗って」

 ふたりは店の前に止めてあったスクーターに乗ると、そのまま発進した。

 はっきりいってこれは予想外だった。追うにも追いようがない。しかも、やくざだって? おまけに武器だ?

 ポケットからスマホを取りだすと、リンダに掛けた。

『リンダよ。なにかあった?』

「端午だ。きららがスクーターで移動した。きららのスマホから位置を追えるか?」

『ちょっと待って』

 しばしの沈黙のあと、リンダがいう。

『オッケー、とらえた』

「どこに向かってる?」

『たぶん繁華街の方向ね』

 なんとなくいやな予感がしてきた。まさかとは思うが、きららならほんとにやくざとも戦いかねない。

『なんかヤバいの?』

「まだなんともいえない。とりあえず、追うからそのまま位置を教えてくれ」

 リンダはふたりのスマホの電波から位置関係がわかる。リンダに聞けば、どう行けばいいか教えてくれるはず。

 端午は表通りまで走る。リンダにもらったクレジットカードがあるから、タクシーをひろっても財布の中身は減らない。

 だがそんなものは走ってなかった。

 いやな予感がどんどんふくれあがっていく。あいつ、まさか本気でやくざの事務所にでも乗りこむつもりじゃないだろうな?

 なんとなくありえそうだから困る。きららは突っ走るとき、ほんとに後先を考えないところがある。

 車道に身を乗り出したとき、バイクが急ブレーキでとまった。

「馬鹿野郎、死にてえのか、てめえ!」

 どなりつけたのは金髪のいかにも凶暴そうな男。ヘルメットもかぶらずに中型のバイクを転がしているいかれたやつだ。

 ただでさえいらついているときに、そんなやつがここぞとばかりに威嚇してくる。

 端午は反射的にそいつを殴り倒した。そのままバイクをうばう。

 アクセルを吹かして飛び出した。

「や、野郎。泥棒だ。泥棒だあ!」

 後ろからすっとんきょうな叫び声がひびく。

 だがそんなことは気にしていられない。今はきららが心配だ。

 それにリンダのいったことがほんとうなら、端午は日本の法律に縛られない。おまけにあの手の男は昔から大嫌いだったし、心も痛まなかった。

 そんなことより、今は一刻も早く、きららに追いつくことだ。

「リンダ。どっちに向かえばいい?」

 端午はしばらく耳から離していたスマホにどなりつける。

『まっすぐ行って、つぎの交差点、左』

 いわれるがままに、ハンドルを切る。

 繁華街のほうに入っていった。さらに表通りから細い路地へ。

『連れこんだビルがわかった。地下に「ゴッサム」って名前の店があるわ。かなりヤバそうなところ。たぶんそこよ。そのまままっすぐいって、コンビニの裏で右折……』

 リンダの指示にしたがって、そこに向かう。

 ゴッサム。なんとなく噂には聞いたことがある。素人の女が接待する秘密クラブ。もっとも信憑性に乏しく、都市伝説の一種かと思っていた。

 もしやつらがその関係者で、きららをどうにかしようというのなら、店ごとつぶしてやる。

 リンダにいわれるがままにバイクを走らせると、古びた店舗ビルの前に着いた。表にゴッサムの看板はない。

 このへんは夜遅くに開店する飲み屋街らしく、この時間は不気味なまでに人がほとんどいない。

 端午はスマホを切り、バイクを降りると、問題のビルの階段から地下に向かう。踊り場を折り返し、さらに下に行くと、ドアが見えた。その両側には男がふたり立っている。ともに大男で、黒いスーツを着た見るからに強そうなごついやつ。

「まだ、開店時間じゃない」

 右にいたスキンヘッドの男が威嚇的にいう。

「それにここは会員制でね。おまえのような普通のガキの来るところじゃない」

 もうひとりのドレッドヘアのやつは手で端午を追っ払おうとした。

 端午はその手首をつかむと、手前に強く引き、同時に前に踏み込みながら、体ごと縦拳を脇腹にたたき込む。

 CIAの施設で特訓した形意拳の崩拳だ。

「ほげえ?」

 情けない声を上げ、端午より二十センチは高そうな男が体をくの字に反らせ、その場に崩れ落ちた。

「舐めた真似すんじゃねえ!」

 スキンヘッドのほうは、隠し持っていた伸縮式の警棒をふりかざすと、一直線に端午の頭めがけて打ち下ろした。

 端午はそれをブロックしなかった。瞬時に間合いをつめ、相手の外に回り込むようにしてかわすと、左手で相手の首を後ろから押さえると同時に、右腕を顔に被せるようにして振る。

 スキンヘッドは首を支点にして、頭部がぐるりと後ろに向かった。

 そのまま、後頭部からコンクリートの床に落ちる。

 合気道の入り身投げ。

 ふたりが動かなくなったことを確認すると、ドアを開けようとする。しかし、とうぜんのように鍵が掛かっていた。

「ちくしょう。開けろ」

 もちろん、それで開けるはずもない。なにしろ中は犯罪現場なのだ。

 端午はドアが内開きであることを確認した。

 そのまま、階段を駆け上がると、表に止めてあったバイクにまたがる。

 エンジンを吹かすと、そのまま階段を駆け下りる。

 踊り場を折り返すと、さらにアクセルを全開に吹かす。

 端午は風のように疾走し、バイクでドアに突進した。



   2



 ロックがふっとんだらしく、ドアは開き、端午はバイクごと店の中に突入した。

「なんだ、貴様ぁ?」

 叫んだのは我が校の不良のボス、加藤だった。こいつがここの関係者だったとは。

 もっとも、この中には加藤の他、ろくでもなさそうな男どもがうす暗い中ひしめき合っている。ざっと見ても、その数、十人ほど。

 きららは?

 端午はそんなやつらは無視し、きららを探す。

「きららはどこだ!」

「よう、君はたしか、タンゴくんだったかな?」

 その声に、前のほうにいた不良たちは波が引くように、左右に分かれた。

 その奥から現れたのは、一見優等生っぽい雨園、きららと優子だった。

「雨園、貴様」

 端午はきららの姿を見て、憤慨した。

 きららは、制服はおろか下着までも脱がされ、小振りの胸や、淡い茂みの股間すら露わに、テーブルの上であお向けに横たわっていた。黒いテーブルのせいで白い肌がよけいに目立つ。しかもその目は閉じたまま。気を失っているらしい。となりには優子が同じような状態で寝ている。

「きららになにをしやがった!」

「なにをした? いや、これからするんだよ」

 雨園はへらへらとあざ笑う。

「だが、どうしてここがわかった?」

 馬鹿にしきっていた顔をした雨園の目つきが真剣になる。

「おい、こいつ警察に電話したんじゃないのか?」

 加藤がうろたえる。

「こいつのスマホを調べろ。一一〇番したなら記録が残ってるはずだ」

 雨園の口調がはげしくなる。

「心配するな。警察なんか呼んでいない。きさまらをぶちのせなくなるからな」

「信用できるか。つべこべいわずにさっさとスマホを出せ。きららをえぐるぞ」

 雨園はカウンターにあったアイスピックを、きららののど元に突きつける。

 端午はポケットから、リンダにもらったものではなく、もともと持っていたスマホを取り出すと、雨園に放った。

「ほんとうに電話してないようだな。馬鹿か、君は?」

 雨園は送信記録を調べると、そういって笑った。そのまま、端午のスマホを近くにあったウイスキー入りのグラスに投げ入れる。

「この女を取り戻す気なら、警察に電話するのが唯一にして最高の策だ。それをしなかった時点で君の負けだ。ひとりで僕たちに勝てるとでも思ったのか?」

 雨園のみならず、まわりの不良どもがいっせいに笑った。

「おっと、まだ最初の質問に答えてないよな? どうやってここがわかった?」

「CIAが教えてくれた」

「ふざけやがって。おい、ちょっと可愛がってやれ、おまえら。そのうち、いいたくてしょうがなくなるだろう」

 雨園はそういうとアイスピックをカウンターに置いた。今度はきららを人質にしないのは、警察がこないと知って余裕があるからだ。遊ぶつもりらしい。

 端午を取り囲んでいるやつらの目つきが変わった。

 加藤はとりあえず動かない。まず、まわりの雑魚どもがじりじりと四方からすり寄ってくる。

 バタフライナイフをちゃらちゃらとふりかざすやつ。

 べつのやつの伸縮式の特殊警棒がしゃきーんと伸びた。

 あるいは、ブラックジャックでぱしんぱしんと反対の手のひらを軽く叩いて威嚇する。

 メリケンサックをこれ見よがしに拳にはめるやつもいた。

 他にもアイスピック、ジャックナイフ、棍棒、よりどりみどりだ。

 木刀のような長ものや、ヌンチャク、チェーンのようにふりまわすものは使わない。そういうものは仲間に当たると考えてのことだとすると、こいつら大勢でひとりをやるのになれている。

 狭い室内でバイクにまたがったままだと小回りがきかないが、下手に下りようとすると隙を作ってしまう。やつらもそれを承知で、それを待っている。

 どいつもこいつも、血を見るのが心底楽しいとばかりに、にたにた下品な笑いを浮かべている。

 こいつら全員ぶちのめす。きららを裸にひんむいたことを許すわけにはいかない。

「おい、抵抗していいのか?」

 端午はまわりの連中に目もくれず、奥にいる雨園にいった。いきなりきららを人質に取られてはたまらない。

「してみろよ。できるものならな」

「了解」

 いつまでたっても端午がバイクから降りないので、しびれを切らしたやつらは、目配せをして、四方からいっせいに襲いかかってきた。

 右手のグリップで瞬間的にアクセルを開け、左手で握っていたクラッチを外した。

 やや前輪を浮かせながら飛び出したバイクは、四方からの攻撃を避けると同時に真ん前にいた体の大きいやつをはね飛ばした。そいつはブタのような鳴き声を上げると、三メートルも跳び、天井にめり込む。

 そのまま前輪をさらに上げ、踊るように百八十度ターンする。

 ナイフを持ったいかにもいかれてるやつにねらいを定めると、バイクを突進させる。自分自身は真後ろにジャンプし、バク転で着地した。

 無人のバイクはナイフ野郎に突撃。そのまま壁に突っこんだ。

 あまりのことに反応できず、そばで突っ立ったまんまになっていた警棒の男の手首をつかむと、そのまま体の手前でひねった。

 わけのわからない叫び声を上げ、空転し、床にたたき付けられる男。

 端午はそいつから警棒をうばうと、やはりそばで呆然としていたブラックジャックの男の手首に打ち下ろす。

 豚のような悲鳴。完全に骨の折れた感触。そいつはとうぜん、武器を落とす。

 端午はそのまま警棒をはね上げ、そいつの顔面にぶち当てた。

 ぎゃんと鳴くと、そいつは真後ろにそっくりかえった。

 気を取り直したジャックナイフの男が、大振りの刃の切っ先で端午の顔面を突く。

 端午はかわしつつその手首をつかむと、手前に引くと同時に自分は前に出た。体ごと突っこんで肘を、相手の開いた脇腹にたたき込む。明らかにあばらが砕けた。

 そいつはふっとびすらせず、その場でくずれおちる。

 もうこうなると、相手はただの烏合の衆だった。端午は近くで棒立ちになっている男をふたり、前蹴りと回し蹴りでぶちのめす。

 半ばやけくそで棍棒をふり下ろす男。端午は入り身でかわすと、警棒の先端で脇腹を突く。

 いきなり警棒を持っている右手をつかまれた。そいつはメリケンをはめた右の拳を打ち下ろしてくる。

 端午はそれを避けるように相手の裏側にまわりこみ、右足を軸に回転した。同時につかまれた腕をかつぐように振り上げ、体を反転させると、そのまま相手を真後ろに投げた。というより、後頭部から真下に落とした。

 さらに隙を見て突っこんできたやつを警棒でぶちのめす。

 気づくと、雑魚どもはみな、苦悶のうめき声を漏らしつつ、床にうずくまっていた。

 残るはバーテンと加藤、それに雨園の三人だけだ。

 端午は脳手術以来、徹底的に体に眠っている技を開拓していったが、ここまでのものとは自分でも思っていなかった。

 全身がかっかと燃える。自分の中の野生が解放されていくようだ。

「何者だ、おまえ?」

 加藤の口調には、かすかに怯えすら感じられた。

「ふん。合気道に空手、それに体ごと突っこんだ肘打ちは八極拳かな? なんにしろ君のようなやつが我が校にいるとは、まさに灯台もと暗しだな」

 雨園はむしろ楽しそうにすら見える。

「きららを返せ。そうすればこのまま帰る」

「だめだ。もちろん君もこのままでは返せない。そんなことをすれば、僕は身の破滅だからな」

 雨園は動じない。

「加藤、おまえがやれ。じゃないと、きららをやらんぞ」

「ふざけるな」

 端午がにらみつける。

「だまれ。相手してやる、こい」

 加藤は倒れている仲間を蹴り飛ばし、床にスペースを作ると構えた。

 左足を前、右足を後ろに大きく開き、やや中腰気味。手は顔をガードするというより、やや下げた状態で前に伸ばしている。拳は握っていない。こっちが殴りかかるのをむかえ撃って、組み討ちに持ち込みたいらしい。

 加藤は一九〇センチはあろうかという長身の上、筋骨隆々の巨体だ。少々の打撃など寄せ付けないだろうし、相手を捕まえてしまえばどうにでもできると思っているのがまるわかりだ。

 それに前に突きだした手は案外やっかいで、リーチが長い上に、グローブのような手で頭でもつかまれれば、握りつぶされないまでも気を失いかねない。かといって近づかなければ急所には攻撃できない。足をけったくらいじゃびくともしないだろう。

 端午は手にした警棒を捨てた。相手が素手だからといってこちらも素手になる義理など今さらないのだが、こういうやつには相手が自分よりもはるかに強いと思い知らせる必要がある。負けたのは武器を使われたせいだと思えば、つぎにまた襲ってくる。

「なんのまねだ?」

 加藤は武器を捨てたことが納得できないらしい。

「タイマンなら素手で十分だ」

 このひと言に加藤の目の色が変わった。舐められたと思ったようだ。

 だが怒りにまかせて突進してはこない。案外、慎重な性格らしい。

 すり足でじりじりとこっちに寄ってくる。どうやら壁に追いこみたいらしい。見かけによらず、頭を使って戦うタイプだ。他の雑魚どもとはひと味ちがう。

 端午は下がらず前に出た。

 といっても、まっすぐ突っこんだわけではなく、左斜め前に。

 加藤は左構えだったから、ある意味、加藤の真っ正面に入ったともいえる。それも一瞬の隙に、一足飛びに。そのとき端午の両拳は腰の位置。ノーガードだった。

 だが加藤に顔面を攻撃する隙を与えない。端午は突進したスピードに乗ったまま、両方の拳をアッパーの要領で突き上げ、顎をねらった。

 変則的なダブルアッパーに、加藤は攻撃よりもまず防御に走った。両方の手で端午の拳を上からブロックしようとする。

 しかし端午の拳は、加藤の両手の間をすり抜ける。

 だが、パンチは顎をとらえることはなかった。加藤はとっさにスエーでかわす。

 端午はそこで振り上げた手をひるがえし、加藤のガードを中から外へ弾く。

 加藤に向かって、さらに飛びこむと、無防備になった胸に両方の掌を打ち下ろした。

 加藤は真後ろに倒れると、そのまま胸を掻きむしる。

 中国拳法の掌打は、腕全体を鞭のようにしなやかにして手のひらによる打撃をたたき込む。表面を破壊するというより、内部に浸透するような打撃なのだ。

 今の場合、両掌で左右の肺を同時に打った。加藤は著しい呼吸困難に陥っているはず。

「今のはたしか、形意拳の十二形拳のうちの虎形拳だったかな? ますます君に興味が湧いたな。そんな技、じっさいに見たのは初めてだ」

 またしても雨園は技を見ぬいた。よほど古今東西の武道に精通しているらしい。

「ほんの気まぐれでこの女を拉致ったけど、おもしろい魚が食いついてきたようだ」

 雨園はそういうと、バーテンに向かって手を伸ばした。

 バーテンはカウンターの中からなにかを取り出すと、雨園に投げ渡す。

 それは日本刀だった。

 雨園は鞘を払うと、中段に構える。

「ちょっとハンデがあるけど、かまわないだろ? なにせ加藤を素手で倒すくらいなんだからな。それとも、この女を見すてて逃げるかい? 残念だけど外は仲間が固めてあるよ。君が戦ってる間にメールで呼んでおいた」

 雨園はにやりと笑った。



   3



 本気かこいつ?

 だが、剣を抜いたのが冗談とはとても思えない。

 切っ先をこちらに向けたまま、すこしずつ横に移動し、入り口を背にする。つまり、端午をびびらせて追い払うのが目的ではなく、逆に逃がすまいということだ。

「人斬ったことがあるのかよ?」

「まだない。だが、いつか斬ってみたいとは思っていた」

 それがハッタリには聞こえない。

 雨園の目つきは、脅えているというより異様に興奮している。優等生の仮面ははげ、不良というよりいかれ野郎という感じだった。

「俺が剣道でインターハイ優勝したことは知ってるだろう? だが、あんなものは遊びだ。防具をつけて竹刀で打ち合って、なにが剣道だ。ありゃ、棒で叩いてるだけだ。斬ってみたいんだよ、人間を。その首が血を噴き出しながら飛びちるのを想像すると、それだけでイキそうになるぜ」

「おい、あとのことを考えろよ。もし俺を殺したら、そのあとどうする気だ?」

「あとのこと? まさか、俺が自首するとでも思ってるわけじゃないだろうな? 死体を始末すればいい。そっちのほうが、おまえをこのまま帰すよりよっぽど安全だ。脅していうことを聞くようなやつじゃなさそうだしな」

 たしかに端午はきららを取りもどして脱出すれば、とうぜんこのことを警察にいうだろう。端午がいわなくてもきららがだまってるはずがない。雨園としては、それはどうやっても避けたいはずだ。

 つまり、雨園は本気で俺を殺す気だってことだな?

 端午は覚悟を決めた。殺される覚悟? いや、正確にいえば、殺し合う覚悟だ。

 パニックになるどころか、端午はむしろ落ちついてきた。ピンチになればなるほど、脳が、筋肉のみならず体全体をコントロールし、それが精神面にも影響を及ぼしてくるらしい。おそらくトムがそうだったのだ。呼吸や脈を無意識に支配し、恐れや焦り、よけいな思惑をねじ伏せるのだろう。

 とはいえ、いくらなんでも真剣相手に素手では分が悪い。リンダにもらった拳銃は自室の机に鍵をかけてしまってある。

 さっき捨てた警棒はすこし離れた床に転がっている。ジャックナイフはさらに遠い。

 だんと、はげしい音を立て、雨園が一歩近づいた。

 剣の切っ先が高速で伸びる。

 それは正確に端午ののど元を突いたが、間一髪首をかしげてかわす。

 しかし、雨園は瞬時に引くと、一瞬たりとも間をおかず、二檄目を見舞う。

 同様に喉元への突き。端午はそれすらもかわした。

 稲妻のような攻撃はとまらない。三檄目はみぞおちねらい。

 端午は一歩前に出ながら、入り身でかわす。そのまま手首をつかみ取ろうとすると、雨園は手首を返し、刀を横になぎ払った。

 身をかがめ、それをやり過ごす。

 今度は真上からふり下ろされた。端午は床に転がりつつそれをかわすと、落ちていた警棒を拾い上げた。

 ふたたび真上からの打ち下ろし。端午は今拾ったばかりの警棒でそれを受ける。

 力負けしそうになりつつ、左手で警棒の先端を支え、かろうじて持ちこたえた。

「くそっ」

 端午は反撃に出る。

 刀を受けたまま、警棒で刃を滑らせるようにしながら前に出る。懐に飛びこまないことには話にならない。

 だが、次の瞬間、端午ははね飛ばされた。

 雨園は体当たりの要領で、刀の柄の部分を端午にぶち当ててきたのだ。

 後ろに追いやられ、雨園が斬り捨てるに十分な間合いで、端午はバランスをくずすと、容赦なく刀は襲ってくる。

 ねらいは腰。端午は警棒でかろうじて受けた。

 雨園は刀を瞬時に引き、そのまま上段に。

 端午は危険を察知して後ろに飛び退いた。

「ふん。やるじゃないか?」

 雨園はあえて追いこもうとはせず、上段の構えのまま足を止める。

「だが、いつまでもそんな短い棒きれで防ぎきれると思うなよ」

 それは受けている端午自身が誰よりも感じていることだった。

 このままじゃ、やられる。こいつの剣は本物だ。

 合気道には相手の武器が刀であることを想定した技もある。空手でも刀に対抗する型はあるが、その技がこの男に通用する自信はない。演武ならではの一本調子の打ち込みではない。実戦ではフェイントを含む変幻自在の攻撃が襲ってくるのだ。

 いや、待てよ。ならば、こいつのできることを制限したらどうだ?

 端午はあることを思いついた。

 雨園は剣を振るった。上から下。右から左、あるいは左から右。

 端午は下がらざるを得ない。

 雨園は明らかに端午を追いつめようとしている。端午にもそれはわかった。しかし、あえてそれに乗る。

 端午は壁を背にした。それもコーナーだ。

「ふふん。てこずらせやがって。とうとう袋のネズミだ」

 雨園はそういいながら、剣を上段に構え、動きをとめた。

「ふん。なるほど、その位置なら横面が振れない。壁に当たるからな」

 それを当て込んで、ここに逃げたのだ。

「だがいいのか? その分、おまえは横と後ろに逃げられない。正面から脳天をかち割ってもいいが、それだと警棒で受けられるかもな。となると、答えはこうだ」

 雨園は上段に構えていた剣を下げ、切っ先をこっちに向ける。

「突いてやる。それも一撃必殺の突きはいらない。勢いあまって後ろの壁に突き刺さるかもしれんからな。ちくちくちくちく、浅い突きを何発もおみまいしてやろう。ボクシングのジャブみたいに」

 うすらわらいを浮かべ、雨園はそれを実行した。

 けっして前に踏み込まず、浅い突きを連発した。

 端午はそれをことごとく警棒ではじく。だが、雨園に焦りは見えない。こんなことをいつもでも持続できるはずもないからだ。わかっているから、遊んでいる。

 端午はその油断をついた。

 浅い突きが戻る瞬間、端午は警棒を捨て、両手で剣をはさんだ。

 いわゆる真剣白羽取りだ。さすがに雨園の剣のスピードでは、通常ならこんなことはできない。相手の剣がどこからくるかまるでわからないからだ。おまけに失敗したら、殺されてしまう。リスクが高すぎる。

 しかし、相手が突き限定で、しかもリズミカルで小さな動きしかしないなら、そんな超人的なことも可能になる。

 雨園は明らかに動揺した。剣を思い切り引いて外そうとする。

 しかし端午は渾身の力で、刀を左右の手で押さえつけた。

 雨園は振りかぶろうとする。端午はそれに合わせて腕を上げる。同時に前蹴りを柄に下からぶち込む。

 剣は雨園の手から離れ、ブーメランのように回転しながら飛ぶと、そのまま天井に突き刺さった。

 呆気にとられる雨園に対し、端午はぐんと足を一歩踏み込み、下からの肘打ちをみぞおちにぶち込もうとする。

 しかし、雨園はそれを両手で上から押さえつけた。

 すかさず、端午の後ろ足が弧を描き、雨園の頭部に炸裂。と思いきや、それすらもブロックした。

 そのまま、後ろに飛び退いて距離を取る。

「空手くらい俺だって使えるんだよ」

 雨園がほえる。

 剣さえうばえばそれで勝負が決まると思っていたが、それほど単純ではなかったらしい。

「おい、外の連中を呼べ」

 雨園はバーテンに向かってどなる。

 強がっては見たものの、剣を失った今、端午に勝つ自信はないようだ。

 バーテンがスマホで連絡を入れる。

 まずいな。

 端午は調子にのりすぎたことを後悔した。

 外に何人いるのか知らないが、さすがに体が疲れきっている。なにしろ技は達人級でも、体力は普通の高校生並み。いや、特訓のおかげで多少はましになっただろうか? だが、もうこれ以上の戦闘は無理そうだ。

「スマホがつながりません」

 だが意外なことをバーテンはいった。

「なんだと? そんなはずはねえ」

「誰も来ないわよ」

 入り口のドアから入ってきたのは、女がひとりだった。

「だ、誰だ、おまえ?」

 雨園の声が裏返る。

 無理もない。やってきたのは、白い女性用スーツをきた金髪の美女だったのだから。

 いうまでもなく、リンダだった。

「外のやつらは?」

「あたしが倒した」

 リンダはこともなげにいう。

「おまえが?」

 雨園は端午とリンダを交互に見る。

「彼女は連れて帰るわ。文句はないわね」

 リンダはそういうと、端午に目配せする。

 端午は雨園を無視し、未だ気を失っているきららのほうに行こうとする。

「動くな、貴様」

 雨園が端午につかみかかろうとしたとき、リンダが雨園にコルト・ガバメントを向けた。

「モデルガンか?」

 雨園がせせら笑った。

 だん、だんとはげしい炸裂音と同時に、雨園の真後ろのカウンターがはじける。体ぎりぎりに撃っているらしい。

「玩具じゃないってわかったでしょう? マグナムじゃないけど45口径。人を殺すには充分よ」

 リンダはにっこりとほほ笑んだ。

 かすかに余裕の残っていた雨園の顔は完全に凍りついた。

 端午はその隙に、きららの横たわっているテーブルまで行くと、学ランを脱いだ。それでくるむようにして、きららを両手で抱きかかえると、リンダのところまで歩いていった。

「おまえらいったい何者だ?」

 雨園が叫ぶ。

「さあね。だけど、あたしたちのことより、これからの自分のことを考えたら? 未成年といえど誘拐は見逃してくれないわよ。逃げたほうがいいんじゃないの?」

「その女の家には圧力をかける。俺のバックにはやくざがいるぜ。嘘じゃねえ。そいつの両親だって、娘がやくざがらみの組織に誘拐されて傷物になったなんて噂は立てられたくないだろうからな。それによけいなことをいうなら、おまえたちも殺す。タンゴ、おまえの家の住所だってすぐにわかる。夜中に火をつけられたくなかったら、口を閉ざすことだな」

「ふん。八頭蛇神会って組ね」

「なんで知ってるんだ?」

 雨園は目を見ひらいた。よほどおどろいたらしい。

「なんでも知ってるわよ。あんたがこの店をのっとって、そこに多額の上納金を上げてることとか。そこの若頭、蓮見と親交があるとかね。必要ならその八頭蛇神会からつぶしてあげる。戦争する気なら、やくざごときには絶対に負けないわよ。それにごちゃごちゃいうなら、今この場であんたを殺してこの店に火をつけるけど、どうする?」

 リンダはそういうと、銃口を雨園の頭部に向けた。

 まちがいなく本気だ。その気迫が伝わったのか、雨園も完全に怖じ気づいた。

「……わかった。手を引く。学校もやめる」

「それが利口よ」

 リンダはそのまま外に出ようとした。

「ちょっとまてよ。あいつは?」

 店にはもうひとり、優子が素っ裸のまま気を失ってる。

「ほっときなさい。もう雨園はあの子にかまってるひまもないわ。すぐに警察が来て保護してくれる」

 なるほどと納得すると、端午はリンダにつづいて表口から外に出た。

 建物の真ん前には高級セダンがとまっていた。さらに道ばたにはいかにも悪そうな連中が十数人、ごろごろと道ばたに寝っ転がったまま動かない。雨園が呼んだ連中だろう。

「あんたひとりでやったのか?」

「銃で脅しながらやったから、簡単よ」

 リンダはこともなげにいう。

「さあ、乗って。スマホで連絡できないように妨害電波をこの車から流してあるけど、公衆電話から警察に通報した人もいるかもしれないわ。引き時よ」

 リンダにつづいて、車の後部座席に抱きかかえたきららとも乗りこんだとき、「きゃあああ」ときららが叫んだ。

「落ちつけ、きらら、俺だ。端午だ」

「タ、タンゴ? あ、あたし……?」

「襲われたんだよ。加藤と雨園に」

 そう説明すると、きららはようやく納得いった顔をした。

「そ、そうよ。なんなのよ、あいつら? で、どうしてタンゴが?」

「どうしてって、助けたんだよ」

「どうやって?」

 きららは不思議そうな顔で車の外を見まわす。ぶっ倒れている不良どもに気づいたらしい。

「ま、まさかあれあんたがやったの?」

「え、え~っと……」

「あたしがやったのよ」

 運転席でリンダはそういうと、車を走らせた。

「あんた、誰?」

「端午君の親戚」

「え? タンゴ、あんたに外人の親戚いたの?」

 きららは目をまるくする。まあ、無理もないが。

「え、ああ……、じつは俺の血の四分の一はアメリカ人だ」

「そんな話、はじめて聞いたよ」

 あたりまえだ。たった今作ったでたらめだからな。

 きららにかけていた端午の学ランが滑り落ちる。そのとき、はじめて自分が裸であることに気づいたらしい。

「ぎゃあああああ」

「落ちつけ。やつらにはなにもされてない。その前に助けた」

「な、なにもされてないって……。あたし、裸じゃないの? タンゴ、あんた見たの?」

「え? しょ、しょうがないだろう。だって……」

「タンゴのエッチぃ」

 端午はきららにぶん殴られた。



   4



 端午とかいう男と、謎の白人女が人質の少女を連れ去ったあと、雨園はさっさと店から逃げだしていった。店に残ったのは、床にうずくまっている不良高校生たちと優子とかいう女子高生の他は無傷のパク……この店のバーテンだけだった。

 朴はスマホを取り出すと、番号を呼び出す。今度はつながった。

「朴です」

『どうした?』

「異常事態が起こりました」

 電話先の上司に報告を入れる。

「マークしていた八頭蛇神会の関係者、雨園がしくじりました。自分の学校の女を店にスカウトしようとしたあげく、そいつの仲間に尾行され、叩きのめされました。来たのは端午とかいうやつです。それと白人女。おそらくアメリカ人。コルト・ガバメントを持っていました」

『CIAか?』

「かもしれません。しかし、そうなると誘拐したあの女はなんなんでしょうね? ただの女子高生の誘拐にCIAなど出てくるわけもありませんが……」

『ふむ……、なにか変わった女か?』

「いえ。普通の女子高生のように思えましたが」

『顔と名前はわかるか?』

「はい、名前は綺羅きらら。高校一年生。顔は今メールします。ついでに端午というやつと、白人女も」

『よし送ってくれ。検索する』

 朴はいったん通話を切ると、スマホのファイルからきらら、端午、白人女のさっき隠し撮った写真を添付し、メールで送った。

 待つこと数十秒。向こうから電話がかかってきた。

『綺羅きららと黒猫端午からはなにも出ない。すくなくとも本人や家族が国家機密に関わっていたりはしないはずだ。白人女はCIAのリンダ・スタンスフィールドと思われる。ふむ、気になるな。きっとなにか裏がある。朴、ためしにそのきららという女子高生をつついてみろ。もしまたCIAがでてくるようなら、きっとなにか重大な意味がある。それを探るんだ』

「わかりました」

 朴はスマホを切った。

「あ、あんた、何者なんだ?」

 ふとわきを見ると、加藤が突っ立っていた。口からは血が滴っている。肺をやられているらしく、かなりつらそうだ。

 この大男の立ち聞きに気づかなかったのは不覚だった。ちょっと予想外なできごとに焦っていたのかもしれない。

「なんでもない。事態をオーナーに報告しただけだ」

「オーナーは雨園なんだろう? 第一、今CIAっていったぞ。しかも、あんた、朴って名乗った。日本人じゃなかったのかよ」

 ちっ。

 朴は心の中で舌打ちした。

 そもそもこの馬鹿が、綺羅きららを拉致しようだなんていいださなければ、こんなことにはならなかった。

 よけいな仕事を増やしやがって。

 だが、朴のいらだちとはうらはらに、加藤の目つきはとち狂っている。

 外からパトカーのサイレンが聞こえた。

「おい、警察が来たぞ。とっとと逃げろ」

「冗談じゃねえ。今外に出たら、そくパクられる。あんた落ちついてるな。他に逃げ道でもあるのか? 俺も連れていけ。じゃねえと、あんたのことばらすぞ。スパイかなんかなんだろう?」

 見かけによらず、なかなかするどい男だ。よけいなことに首を突っこまず、不良のボスで満足していれば、それなりに楽しい学校生活を送れただろうに。

「いいだろう」

 朴はそういうと、カウンターの奥から、ひらりと天板に飛びのった。そのとき、右足を天井に着くほど高々と上げながら。

 加藤は一瞬なにが起こったのか事態を把握できないようだ。

 朴は顔に着きそうなほどふり上げた脚を、ぶんといっきにふり下ろす。

 踵が加藤の脳天にめり込んだ。

 感触からいって、完全に頭蓋骨は陥没している。

 加藤はもはやひと言も発せずに、床にくずれおちると、はげしく痙攣した。二度と起きあがることはないだろう。

 どかどかと階段を駆け下りてくる音が外からする。警官がやってきたらしい。

 朴はふたたび、カウンターの中にはいると、棚を動かした。

 秘密の通路。といっても、ビルの裏側に通じているだけだが。

 朴はそこに入ると、ドアになっている棚を内側から閉めた。

 直後、叫び声が聞こえる。

「うわっ。中もこの有様だ。いったいどんな化け物なんだよ?」

「少女がひとり気を失ってる。保護しろ」

「こ、こいつ死んでる。頭をかち割られて」

「なに? 署に連絡しろ。俺たちは現場保持だ」

 朴は足音を立てないように注意し、抜け道を進む。すぐに聞き込みのための刑事だの、鑑識課だのがやってくる。長居は無用だ。

 すぐに建物の裏に出た。さいわいこっちにはまだ誰もいない。

 ひらりとブロック塀を乗りこえると、路地に出た。そのままなにごともなかったかのように遠ざかっていく。

 CIAの女も気になるが、あの端午ってやつはなんなんだ?

 朴は端午の使った技を頭の中で反芻する。

 自分と戦った場合、どちらが勝つかシミュレーションしてみた。

 まあ、負けはしまい。たしかにかなり使うようだが、技にすごみがない。殺気がないからだ。

 白人女はともかく、日本人の高校生がCIAのわけもない。しょせん、腕に覚えのある高校生だ。自分とはちがう。

 朝鮮労働党対外情報調査部の諜報員であるこの自分とは根本的にちがうのだ。

 朴は地獄の訓練の日々を思い出した。さらに、実戦で殺した敵の表情を。

 俺が負けるはずはない。

 世界一優秀な朝鮮民族が、劣等民族の日本人などに負けることは絶対に許されないのだ。


   *


「ふ~ん?」

 この一連の騒動を道路をはさんだビルの二階からながめている男がいた。

 毛紅龍マオ・フォンロン。二十二歳ではあるが、童顔で、ぱっと見にはまるで高校生のようだ。それも端午よりもあどけなく思えてしまう。

 まちがってもスパイになど見えるわけもない。

 だが、毛はノートパソコンを操作すると、デジカメで撮った白人女性と、いっしょにできてきた高校生の男女のデータを本部に送った。

 本部のデータベースを検索の上、出た結果、高校生は男女とも該当なし。白人女性はCIAの諜報部員、リンダ・スタンスフィールドであることがわかった。

「なんかおもしろいことになったな」

 毛は子供みたいな顔で舌なめずりする。

 もともと毛の監視対象は北朝鮮の工作員朴。どうも日本の八頭蛇神会というやくざに入りこもうとしているらしい。

 この任務に就いたのは、つい最近だが、あの店が弱みをにぎった高校生に強要した売春の巣であることはわかっている。それが北とどうつながるのかを探っているところだった。

 なにがあったのかはよくわからないが、これであの店は終わりだ。

 もっとも、なぜこんな事件にCIAが関与したのかはまるでわからない。

 推理できることとしては、なぜかあの誘拐された少女を救いたかったということだ。

 だが、データベース上はあくまでも普通の高校生。それをなぜ、CIAが?

 もちろん、本来それは毛の任務外のことだが、もし朴が関係あるのなら話は別だ。逃亡間際の朴の電話を盗聴した限り、朴はあの女子高生と接触を試みるようだ。

 北朝鮮の読みでは、あの少女はなにかとてつもない秘密を握っている。それも日本、またはアメリカという国家を揺るがすほどの。

 でなければ、CIAなどが動くはずもない。だからこそ北朝鮮も動いたのだ。

 ならば自分も動かねばなるまい。

 もともと殺し合いこそが自分の天職と信じて疑わない毛にとって、誰かの監視など退屈きわまりない仕事でしかないのだ。

 おもしろくなってきたぞ。

 CIAの女とやり合えるかもしれない。

 情報収集という名目で、あの少女を拷問にかけられるかもしれない。

 そう思うと、興奮で毛のサディスティックな血がたぎる。

 いったんこうなってしまうと、誰かを殺したくてしょうがなくなる。おとなしくデスクに座っていることなど不可能だ。

 毛は椅子から立ち上がると、ゆったりと太極拳の套路とうろ(型)をおこなった。こうすることによって、たぎった血がいくぶん落ちついていく。

「ふう」

 毛はようやく中国共産党国家安全部の上司、ホアンに、ことの顛末を電話した。

 国家安全部の中でも、格闘に関しては最強で「伝説の黄龍」と呼ばれている黄に。


   *


 ちくしょう。

 雨園は現場から走り去りながら、頭の中で呪詛をくり返した。

 これで闇にもぐるしかなくなった。裏ではやくざとつながりつつ、表ではエリート人生を歩むというもくろみがくずれさっていく。

 あとは八頭蛇神会を頼って、やくざになるしかないのか?

 クズだ。そんな人生はクズの生き方だ。

 それもあいつらのせいだ。あの謎の女。それに端午だ。あいつらは何者だ?

 只者じゃないことはすぐにわかる。とくにあの女は要注意だ。ハッタリなんかじゃなく、あのとき突っ張り通せば完全に撃ち殺されていた。

 八頭蛇神会とつながってる刑事を使って調べてもらおう。あの女が何者なのかを。ひょっとしたら、手が出せない大物なのかもしれない。

 だが、端午には落とし前をつけさせる。

 あいつだけは絶対に許せん。

 そうだ。きららだ。あいつを使っていたぶってやろう。

 端午の目の前で、きららをぼろぼろにしてやればいい。いったいどういう顔をするのか今から楽しみだ。

 そう思うと、どす黒い笑いがこみ上げてくる。

 雨園はそのまま八頭蛇神会の事務所に逃げ込んだ。

 頼るのは若頭の蓮見慎太郎はすみしんたろう。下っ端をいいように使える身分のくせに、喧嘩がなによりも好きな男。空手の達人で、普段陽気なくせに、一度戦い出せば死ぬほど残虐になれる男。

 雨園は一度、殺し合いといっていいほどの喧嘩でかろうじて勝ったあとなぜか気に入られた。今では大の親友なのだ。

 蓮見なら俺を匿うだけでなく、計画に乗ってくれるにちがいない。

 端午ときららを地獄に落とす計画に。

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