第二章 超人への道


   1



「ぐあああ」

 端午は思わずうめき声を上げた。

 今、端午の両足は座った状態でほぼ百八十度に広げられ、背中を後ろから押しつけられている。いわゆる股割りである。

 そうでなくても、きのうあれだけ体を動かしたせいで、全身強度の筋肉痛が襲っている。その状態でこれは拷問に等しかった。

 きょうもきのうに引き続き、トレーニングルームの畳の上でリンダにしごかれているというわけだ。

「いくら体が技を覚えてるといっても、柔軟性と体力は君自身でなんとかしないとね」

 後ろからリンダの嫌味が聞こえる。

 もっともそれに反抗する余裕などなかった。

「でも案外柔らかいほうね。もっと固い体の人はいくらでもいるし」

 じっさい固い体のやつは、痛いとか痛くないと文句をいう以前に、脚がここまで開かない。つまり、端午はリンダのいうとおり、けっこうましなほうなのだろう。

「何キロあんだよ、あんた?」

 背中にリンダが腰かけてることに気づいて、端午は嫌味をいう。さっき、一気に押されたときよりは多少余裕ができたようだ。

「こいつめ~っ!」

 リンダはその状態で腰を上下させた。

「んぎゃああ」

 そのたびに情けない声が口から飛び出す。

「ま、あんまり無理しても体痛めるしね」

 そういうと、ようやく解放してくれた。

「これからは毎日自分でやることね。じゃないとハイキックのとき、脚が上がらないし」

 端午は思わず股関節が外れてないか確かめるため、あお向けの状態で脚をいろいろ動かしてみた。とりあえず、大ごとにはなっていないらしい。

「大げさねえ。とりあえずちゃんと座って」

 リンダの号令で、端午はようやく正座した。

「午前中、あたしが指示したことやってあるんでしょうね」

 リンダが正面に、やはり正座しながら聞く。

 はっきりいって、端午は朝から晩まで訓練漬けになるのだが、さすがにリンダがそれにずっとつき合うわけにもいかないらしい。その分宿題が出されている。

 朝、十キロのジョギング。これは建物内にランニングコースが設けられている。もっとも走り慣れていない端午にとって、たとえゆっくりとはいえ、それは無限に続く拷問に思えた。なにしろ、きのうのように体にしみこんだ技を確認する作業は、つらくもあるが楽しみのほうが大きかったりするが、基礎体力作りはひたすら苦しいだけ。

 さらにスクワットや腹筋などのウエイトトレーニング。これも同様につらい。

 それが終わると、ビデオを見ながらの独習。きょうは空手の動きを確認した。途中までは順調だったが、上段回し蹴りでつまづいた。要するに体が硬くて脚が上がらなかったのだ。

 さっきリンダに股割りの洗礼を受けたのも、それが原因である。空手が使いこなせるか確かめるためにリンダと自由組み手をやったが、脚が上がらないのがすぐにばれた。

「やってるって。生まれてこれ以上まじめになにかやったことはないくらいに」

「今までぐうたらに生きすぎてただけでしょ。人生それくらい必死になにかやったほうがいいのよ」

 リンダは涼しい顔でそんなことをいうが、正直端午はもう体力が限界だった。

「もう少し、組み手でもんであげようと思ったけど、なんかもう動きそうにないわね」

「じっさい動かん。きょうはもう終わりにしてくれ」

「そうもいかないわ。君だっていつまでもここで訓練を続けたくはないでしょう? 限られた時間でひととおり終わらせないと」

 リンダはちょっと考えたあげく、こう提案した。

「もっとも体力は限界に近そうだから、あまり疲れないやつをやろうか。とりあえず、道着から着替えて」

「……なにをやるんだ?」

「射撃」

 たしかにそっちのほうがまだ楽そうだった。正直、もう手足を振りまわしたり、畳にたたき付けられて起きあがったりするのはもう無理だ。

 端午はおとなしく更衣室に行くと、普段着に着替えた。


   *


 端午が連れていかれたところは、長い廊下にそって間仕切り壁に仕切られた個別のシューティング・レンジがいくつも並ぶ室内射撃場だった。奥のほうから銃声が聞こえる。先客がいるらしい。

「心配なのは格闘よりもむしろこっちのほうね」

 リンダが独り言のようにつぶやいた。

「格闘は体に染みついた技だけでもある程度戦えるわ。問題は体がついていくかどうかだけ。射撃のほうは知識だって必要だし、体が変わることで微妙な変化が生じるはずよ。かつてのトムと同じ精度で的に当たるとは思えない」

 たしかにそうなのかもしれない。しかし、べつにプロの殺し屋と撃ち合う必要はないんじゃないのか?

 端午はそう思ったが、とりあえず黙っておいた。

 今まで射撃には格闘ほどの興味はなかったが、それはじっさいに射撃をするチャンスが巡ってくるとは思えなかったこともあるのだろう。この場に立たされると、単純に撃ってみたいと思う。

「まあ、たいして期待してないし、必要もさほどないとは思うけど、最低限のことはできるようになってくれなきゃ困るしね」

「一応、一から教えてくれるんだろ? まさか、格闘と同じようにいきなり試してみるとかいうなよな」

「そのつもりだったけど、やっぱやめとく。正直ちょっと不安になってきた」

 それは銃のあつかいをまちがえて、とんでもない方向に弾を飛ばしたりされたら困るということだろう。なにせたとえ体が覚えていようが知識はゼロだ。ミスによっては誰かが死にかねない。

 リンダは入口付近にあった受付の職員から箱を受け取ると、端午に渡した。

 中央に取っ手のついた、ふたのないオープンなプラスティックトレイで、そこには二種類の銃と弾、それにヘッドフォンみたいなのと、眼鏡が置かれてあった。

「それ持って、こっちに来て」

 リンダは端午を連れて、仕切られた一角に入る。

 畳二畳分ほどのスペースで、脇には荷物置き場と思われる台があり、正面には広い空間が広がっている。天井にはレールが走っていて、そこから人の形を描いた的が数メートル先にぶら下がっていた。

「まず、それをここに置いて」

 リンダの指示で、端午は銃の入った箱を荷台に置く。

「拳銃にはリボルバーとオートマティックの二種類あることくらいは知ってるわね?」

「まあ、なんとなく」

「頼りないわね。まあ、日本人が銃にくわしくないってのは常識なんだけど」

 民間人がふつうに銃を持てるアメリカといっしょにされたくないと思ったが、口答えする気もない。

「まずリボルバーからはじめるわ。こっちのレンコンみたいな回転弾倉シリンダーがついたやつね」

 リンダはそういってふたつある銃のうち、ひとつを指さした。

 そのレンコンは今、銃から外にはみ出るようになっている。穴は六つ。とりあえず弾は入っていないようだ。

「今はスイングアウトしている。戻してみて」

 端午は手に取ると、シリンダーを元に戻してみた。かちりと小さな音がする。

「じゃあ、もう一度スイングアウトしてみて」

 どうやって? と聞く前に体が動いた。銃の左側、シリンダーのすぐそばにロックがあるのだ。無意識のうちに、右の親指でそれを外したらしい。同時に左手の指でシリンダーを外に押し出していた。

「ロックの外し方は、メーカーによってもことなるけど、S&W《スミス&ウエッソン》はロックを今みたいに手前に押す。コルトなら逆に引く。体が覚えてるはずだけど、頭でも理解しておいて」

「わかった」

「じゃあ、弾を込めてみて」

 台に乗った箱を見てみる。二種類の弾が並んでいた。

 試す気か? そう思ったが、勘で片方を選ぶ。理屈ではなく、そっちのほうがしっくり来ると感じたからだ。

「そう、そっち。ちなみに38口径。その銃はS&W・M10、覚えといて」

 端午は弾をシリンダーの穴に詰め込んでいく。やはり体が覚えているらしく、じつにスムーズに動く。あっという間に詰め終わると、シリンダーをかちりと戻した。

「オッケー。じゃあ、とりあえず撃ってみましょう。その前にイヤー・プロテクターとシューティング・グラスをして」

 リンダはそういうと、まず自分が率先して目と耳を保護した。端午はそれにならい、眼鏡とヘッドフォンみたいのを装着する。

「体が覚えてると思うけど、一応説明しとくわ。拳銃にはフロント・サイトとリア・サイトという照準があるわ。銃口の先に付いてる出っ張りがフロント・サイト。撃鉄のすぐそばにあるのがリア・サイト。わかる?」

 多少聞こえにくくなったが、リンダの声はもともと大きく、いってることはわかる。

 たしかにいわれるとおり、銃口の先と後ろには出っ張りがある。

「リアのほうは中央が門のように開いてるでしょう? 手を伸ばしたとき、リアのすき間にフロントがすっぽり入るように構えて。それが的に重なるように。とりあえず心臓をねらってみて」

 いわれて端午は前方にある的をねらう。無意識のうちに右手に左手をそえて、足は自然に開き、軽く前傾姿勢になる。

「撃鉄を起こして」

 いわれて、親指で撃鉄を起こす。シリンダーが弾一個分回転した。その動作でねらっていた照準がずれる。

「もう一回ねらって」

 ターゲットの心臓をねらう。

「撃って」

 引き金は軽く落ちた。派手な音とともに、火花が銃口、そして後ろのほうからも飛ぶ。衝撃は思ったほど強くはない。

 的に着弾したのがわかった。どうやらねらいはあまり外れていないようだ。

「続けて」

 端午はもう一度撃鉄を起こそうとする。

「今度は撃鉄を起こさず、そのまま撃って」

「え? できるのか?」

 リンダはうなずく。

 端午はねらいを定めると、引き金をしぼる。さっきよりも重い。

 ゆっくりと撃鉄が上がり、それから落ちた。

 手に心地よい反動が伝わるが、今度はねらいが少しずれた。

「ダブルアクションの場合は引き金のストロークが深くなるし、重くもなる」

「ダブルアクション?」

「いちいち撃鉄を起こさないと引き金を引けないのがシングルアクション。ダブルアクションならその必要はないわ。今の銃はどっちでも使える。ただしダブルアクションなら引き金を引く動作で、撃鉄を操作するから、その分重くなるわけ。その分、ねらいが外れやすくなる」

「だったらシングルアクションで撃ったほうがいいのか?」

「その必要はないわ。ダブルアクションの射撃も体が覚えているはず。数を撃てばすぐに勘を取りもどすはずよ。第一、いちいち撃つ度に撃鉄を起こしてるんじゃ、銃撃戦になったとき不利でしょう?」

 それはたしかにそうだ。手間もそうだが、撃鉄を起こす度にねらいがずれる。

「いい? S&Wのダブルアクションの場合、引き金を引く動作に、撃鉄を上げる前半と、落とす後半がはっきりと分かれてる。それは音や感触でわかるはずよ。上がりきったあとはシングルアクションと同じ。そこを見極めさえすればとまどうことはないわ」

 見極め? そんなこと俺にできるのか?

 一瞬そう考えたが、どうせ体が覚えているにちがいない。

「射撃を続けて」

 端午はふたたびターゲットをねらう。

 今度は引き金を引くときの感触に神経を集中させた。

 引き金を引きはじめる。「チッ」というかすかな音ととも感触が変わる。

 ここだ。ここで撃鉄が上がりきった。

 そう思った瞬間、端午は無意識に照準が的に合っているかを確認していた。

 指先にわずかな力を加えると、弾は的に向かって飛んでいく。

 今度はほぼねらった位置を貫いた。

「その調子。続けて」

 端午は今の感触を一発でものにした。いや、思い出した。

 だん、だん、だん、と心地よい発射音が響く。

 リンダが壁にあるスイッチを押すと、天井のレールに吊られたターゲットがするするとこっちに向かってくる。それを引きはがすと端午に突きつけた。

「二発目以外はまあまあね。だけどあの距離ならもっと精度を上げられるはずよ。トムの脳がとまどってる。自分の体と君の体の誤差を修正しきってないんだわ。でも予想よりはずっといい。これならなんとか使い物になりそうね」

「じゃあ、もっと撃つよ。そうすりゃ、もっとよくなるだろう?」

「そうね。まあ、まとめて撃つのはあとにして、その前にオートマティックについても説明しておくわ。リボルバーは置いて」

 端午がいうとおりにすると、リンダはオートマティックの銃を渡した。スライドが引いてある状態だ。

「リボルバーも撃ってもらったけど、本命はこっち。リボルバーは一度の弾ごめで六発までしか撃てないし、弾の詰め替えにも時間がかかる。一般市民が護身用に持つならそれで充分すぎるし、安全装置とかがない分まちがいないけど、銃撃戦を想定した場合、どうしたってオートマティックのほうが実戦的」

 たしかオートマティックってやつは、グリップのところに弾が入ったマガジンを入れて一瞬で弾ごめできる。それくらいは端午だって映画なんかで見て知っていた。

「これは君に渡したのと同じ、コルト・ガバメント。どうせなら同じ銃のほうがいいでしょ? 完成度が高く、コピーが出回ってる人気の銃よ。マグナム弾は撃てないけど45口径だから威力は充分だし、セフティーロックは親指で簡単に掛けたり外したりできる。実戦的だからこそ、古くからある型だけどトムが愛用してたのよ」

 端午は曖昧に肯くしかなかった。

「弾は入ってない。とりあえず、マガジンを外してみて」

 リンダに銃を手渡されると、端午は無意識のうちに、引き金のそばにあるボタンを親指で押した。グリップの底からマガジンがいきおいよく飛び出す。それを左手で受け取ると中を確認した。たしかに空だ。

「詰めて」

 またしても体が覚えているらしく、弾を手にすると慣れた手つきでマガジンに込めていった。

 詰め終わると、リンダに指示されるまでもなく、端午はそれをぱしっとグリップにつっこみ。スライドを一度奥に強く引くと、そのまま手を離した。ジャキッと音を立てて、スライドが戻る。

「これのセフティーはここ。親指でレバーを押し上げればオッケー。外すときは逆に押し下げればいい」

 いわれるがままにグリップを握ると、セフティーをいったん掛ける。もちろんその間引き金には手を掛けない。

「あとはリボルバーと基本的には同じね。ただし気をつけないといけないのは、オートマティックは撃ったとき、スライドがすごいいきおいで後ろに下がる。戻るときに手を挟んだしないように。それとリボルバーとちがって撃つ度に薬莢が飛び出すけど、かなり熱いわ。さわったりしないように」

 リンダはターゲットを挟むと、壁のスイッチを押して的を奥に送る。

「15ヤードにセットした。日本人にわかりやすくいうと、だいたい14メートルかな。じゃあ、撃ってみて」

 端午はセフティーロックを外して構えると、さっきよりも遠くに設定された的をねらう。

 引き金を引いた。軽い。もっとも手に来る反動はさっきよりも強かった。

 トムの好みの銃らしく。ほぼねらったところに穴が開く。

 二発目。ややずれた。

「リボルバーより引き金が軽い? いや、これダブルアクションなのか?」

「ううん。シングルアクション。あ、いいわすれたけど、オートマティックの場合、撃った反動でスライドが下がるから、そのときいっしょに撃鉄を起こしちゃうのよ。だからシングルアクションでもいちいち撃鉄を手で起こす必要がないから」

 なるほどと納得した。リボルバーよりもこっちのほうがずっと撃ちやすい。

「あとは数をこなして。トムだったらこの距離ならミリ単位で撃ち分ける」

 端午は引き金を引き続けた。

 おそらくトムの小脳が撃つ度に体のちがいによる誤差を修正していくのだろう。どんどんねらったところに近づいていく。

 撃ち尽くすと、マガジンを排出し、すかさず弾を込めていく。あらかじめ装填されたマガジンを使えないのがもどかしい。

 もっと撃ちたい。

 ぱしんとマガジンを装着すると、端午はふたたび的に向かった。



   2



 ここはどこ?

 きららは自分が台の上に固定されていることに気づいた。

 天井には手術で使うようなライトが光り輝いていて、まぶしいくらいだ。

 だが手で顔を覆うこともできない。大の字になって両手両足を固定されているのだ。しかもいつの間にか衣服はすべてはぎ取られ、全裸にされている。

 冗談じゃないよ、まったく。

 渾身の力をふりしぼって、枷を外そうと暴れるが、まったく無駄だった。金属製の拘束具は微動だにしないし、ロックが外れる様子もない。

「誰? 誰がこんなことを……」

 きららはようやく思い出した。自分はグレイを追い、そこに突然あらわれたUFOにさらわれてことを。

 ま、まさか、ほんとうに……。

 よけいなことに首をつっこんだことを心底後悔した。アダプテーションという単語が頭に浮かぶ。アメリカなどでよく聞く、UFOに誘拐され、体になにかを埋め込まれたりすること。

「ちょっと、冗談じゃないって。帰してよ。変なことしたらしょうちしないからね」

 声を限りにどなりちらした。

 まわりから笑い声とも動物の鳴き声ともいえないような不気味な声が響いた。

 そのとき、きららはここが円形の部屋で、ぐるりと窓がひとまわりしている。そこから例のグレイが何人も中をのぞき込んでいるのだ。

 薄ら寒くなった。人間とちがって、顔から感情が読み取れない。なにを考えてるのかまったくわからない。

 こんなやつらに怒鳴ったり、泣いたりしてみても意味はない。おそらく人間の感情などまったく理解できないのではないだろうか?

 天井からするするとなにかが下りてきた。歯医者で使うようなロボットアームのようなもの。それも数本。

「や、やめて。助けて。……雨園あまぞのさ~ん」

 きららはひそかに想っている上級生の名前を口にした。

 だがそんなことでとまるわけもない。アームの一本がちょうどきららの胸のあたりでとまる。その先端はなにかペンのような感じになっていた。

 そこからレーザー光線のようなものが発射される。それがきららの心臓のあたりに照射される。

「きゃああああああ」

 思わず叫んだが、痛みがあったわけじゃない。まったくの無感覚だった。

 だがその赤く細い直線的な光は確実にきららの皮膚と筋肉を切り裂いていった。

 血は……、血はなぜか一滴も流れない。

 な、なんで? なんで? どうしちゃったのよぉ?

 もはや叫び声さえ出なかった。

 喉はからから。口はぱくぱくするだけで、ひと言もしゃべれない。

 上から伸びてきたべつのアームが傷口を左右に広げる。

 きららの小振りの胸の間にぽっかりと穴が開いた。

 さらにべつのアームがなにか単三の乾電池みたいなものをその穴に押し入れる。

 た、助けてっ。……た、タンゴ!


 夢?

 きららは暗闇の中で目をさました。

 ここは自分の部屋。ベッドの上。いつもの日常空間。

 それでも不安になって、電気をつけるとパジャマの胸をはだけた。もちろんそこには一文字に切られた傷跡などはない。どんなに目をこらしても、ほんのわずかなくぼみや盛り上がり、あるいは色のちがいさえ見て取ることはできなかった。もちろん胸の中に異物感などない。

 それでも全身汗びっしょりになっている。

 きららはもともとUFOとか宇宙人にはすごく興味があるのだが、自分が誘拐されて、なにかを埋め込まれる夢なんていうものは今まで見たことがなかった。

 もちろん、最近、UFOや宇宙人を見たわけでもない。

 まさか、これはほんとうにあったことで、記憶を消されたんじゃ……。

 いやあ、ないない。

 一瞬、信じかけたが、さすがにそんなことをいえば、妄想が過ぎるといわれるだろう。

 すぐに気を落ちつけたが、夢の最後に自分が口にした名前、タンゴが気に掛かる。

 行方不明なのだ。

 最後にタンゴと顔を合わせたのはいつのことだったろう?

 家が隣同士の幼なじみで同じ高校だけども、いっしょに登校したりはしないし、学校でもあまり話をしなくなった。

 べつに嫌いになったわけじゃない。逆に異性として特別に意識しだしたせいでもない。

 なんとなくだった。なんとなく、それぞれがお互いにべつの交友関係を持ちだした。

 なんの屈託もなくいっしょに遊んだ小さいころが懐かしい気がする。

 いったいどこにいったのよ、タンゴ?

 生きてるんでしょうね?

 いまだにいっさいの手がかりはないらしい。あるいはなにかの事件に巻きこまれたのかも……。

 きららは最悪の想定を頭を振って追い払う。

 そのときスマホが鳴った。

 モニターを確認すると中学時代の友達、奈美からだ。

 なんだろう、こんな夜中に。

 正直、きららは内心むっとしながら出る。

『きらら? 奈美だけど……、二、三日のうちに会えないかな? うん、ちょっと、相談が……、いや、ごめん、忘れて』

 いきなり電話は切れた。

 きららは慌ててかけ直す。しかし奈美は出なかった。

 なんなのよ、この思わせぶりな電話は?

 なにかトラブルが起こっているのはまちがいない。気になる。

 だが今は頭の中がぐちゃぐちゃだった。なにも考えたくはない。

 あしたにでも電話してみよう。

 きららは眠りについた。



   3



 どこだ、ここは?

 端午は自分の置かれている状況が把握できなかった。

 しばらくの間、眠るか意識を失うかしていて、その間に何者かに連れ去られたようだ。

 なにも見えないのは、目隠しをされているからではなく、暗闇のせいらしい。

 とりあえず、体は自由だ。どこも拘束はされていない。着ているものはCIAの施設で普段着としてもらったジーンズにシャツ、それにスニーカーというあたりまえの恰好。

 誰のしわざか知らないが、目的がわからない以上安心はできない。

 神経がぴりぴりしてくる。

 端午は息をひそめ、あたりの気配をうかがった。

 とりあえず、足音、息づかいといったものは感じられない。すぐそばに人はいないらしい。

 端午は自分の体をまさぐってみた。なにか武器になるものがないか期待したのだ。

 なにもなかった。鍵やペンの類さえなかった。せいぜいベルトが使えるかとも思ったが、布ベルトなど相手の喉を絞めるくらいにしか使いようがない。それだったら素手で絞めてもたいしてちがいはない。

 まず、現在の状況を知る必要がある。

 目をこらすと、真っ暗闇だと思っていたが、外からかすかに光が入っているらしく、薄ぼんやりと様子がうかがえる。目が慣れてきたというのもあるのだろう。

 どうやら窓はあるようだ。

 端午は立ち上がると、壁に手を当て、慎重に窓のほうに向かって歩いた。ゆっくりと一歩ずつ確かめるように。真の暗闇ではないとはいえ、ほとんどなにも見えない以上、そうするしかない。

 それでもたいした広さではないらしく、すぐに窓のところまでたどり着いた。

 驚いたことに格子などはなく、それどころかガラスさえもはまっていなかった。

 正確にいうと、アルミサッシすらは取りつけられていない。

 ようするにコンクリートの壁に、開口部が開いているだけなのだ。

 建設中のビル?

 その考えはおそらくまちがいないだろう。窓と思われた開口部は足もとまで開いていた。一歩外に出る。たぶんバルコニーになっているのだろう。コンクリートの床のさらに先にはコンクリートの手すりがついていた。たぶん、これは施工中のマンションかなにかなんだろう。

 端午は手すりに手を掛け、さらにその先に手を伸ばすと、なにかにさわった。金属の細い棒。さらに板のようなものもある。

 仮説足場だ。よくは知らないが、工事現場を外から見たことはある。鋼製の枠組み、板、筋交い。たしかこんな感じのものが建物のまわりを覆っていたはずだ。光がほとんどはいってこないのは、おそらく外部にシートが掛けられているからだ。それでもシートは細かい網目状になっているらしく、顔を近づけると外の明かりがかすかに見えた。

 誰がなんのためにこんなところに端午を運んだのかは知らないが、閉じこめられているわけではないらしい。

 だったら逃げるまでだ。

 このまま足場を伝って下りることも考えたが、この鋼製の足場じゃ歩くだけで、がちゃがちゃとけっこぅな足音がするだろう。自分をここに連れてきたやつの一味が近くにいないという保証はない。

 コンクリートの床なら、ゆっくり歩けばほとんど足音はしないはずだ。

 端午は外部足場ではなく、作りかけの建物の階段を使うことにした。まだ窓もドアもついていない状態なら、ふつうに部屋の外に行けるはず。

 バルコニーから中に入ると、この部屋の玄関ドアを探す。

 壁に手をつけながら歩くと、玄関はすぐに見つかった。床が一段下がっているからたぶんまちがいない。そしてちょうど背の高さよりすこし大きいくらいの開口部が壁にある。端午はそこをくぐった。

 外からかすかに入る光で見える光景から判断すると、外部の共用廊下に出たらしい。片側に手すりのある長い廊下がつながっている。

 端午は手すりに手を掛けながら前に進み、階段を探した。

 前方にうすらぼんやりとなにかが見える。たぶんそれが外部階段なんだと思った。

 足もとに注意しつつも、歩くスピードが上がっていく。

 ふと、なにかいやな予感が走る。

 ちりちりと肌を焼くような感触。それは前方からなにか見えない炎でも照射されているかのようだ。

 端午はそれが殺気というものではないかと、瞬間的に理解した。

 案の定、階段と思われるところの手すりの影からなにかが飛び出した。

 端午は反射的に動く。手すり側から壁側に一足飛びに移動した。

 くぐもった銃声らしき音とともに、すぐそばの空気を切りさく感触。

 まちがいない。何者かが自分をねらってる。おそらくサイレンサー付きの拳銃で。

 来る。

 またちりちりした感触を肌に感じる。

 とにかく動いた。とまっていればたんなる的に過ぎない。

 今度は手すりのほうに。ただし前に進む。後ろには引かない。

 こっちは素手。向こうは拳銃。背を向けて逃げれば撃たれるだけ。

 また弾丸が飛んでくる。顔のすぐそばを通った。

 前にダッシュ。

 感じる殺気。

 動く。ジグザグに。とにかく前に。

 もう敵はすぐそこだ。

 撃ったときのマズルフラッシュで敵の姿が一瞬映る。

 端午は瞬時に間合いをつめ、敵の銃を持った手首を掴んだ。

 反対の腕のパンチが飛んでくる。

 端午は華麗な足裁きで、銃を制したまま相手の腕をくぐり背後にもぐり込んだ。相手はその動きにパンチを合わせることができない。

 端午は無意識に銃を持った相手の肘を折り曲げ、手首を返す。銃口は相手の顔面に向いた。

 そのまま引き金を引いた。

 いや、殺すつもりはなかった。ただ一連の流れの中で、反射的に指が動いてしまったのだ。

 崩れ落ちる敵。

 頭が真っ白になった。

 殺した。だけどしょうがない。殺らなきゃ殺られてた。

 いや、ちがう。やったのはトムの小脳だ。俺の肉体は操られた。俺のせいじゃねえ!

 ……くそ。くそ。くそ。冗談じゃねえ。なんでこんなことに……。

 普通ならパニックになって、ゲロのひとつで吐いておかしくない。なのに、息も上がらず、鼓動も正常、汗もかかない。手足の震えもなし。おそらくトムの小脳が体をコントロールしている。

 焦るな。こいつが誰だか知らないが、後始末はリンダに頼めばいい。違法な行為ももみ消すといったのはリンダだ。それを証明してもらう。

 下で物音がした。

 まだいる。こいつのことを考えるのはあとだ。とにかく生き残らなくては話にならない。

 端午は頭を切り換えた。

 とにかく襲ってくる謎の敵を皆殺しにするモードに。悩むのはそのあとでいい。

 今から俺はトムだ。端午であることは忘れる。余計なことは考えない。小脳の反射行動に体を任せろ。撃つ前に迷うな。撃ったあと惑うな。じゃないと死ぬ。

 さいわい、敵の銃を一挺奪えた。手触りからセフティーロックの位置や形を探ると、コルト・ガバメントらしい。この一週間、徹底的に撃ちこなした銃。好都合だ。

 もはや敵は正体を隠す必要がないと感じたのか、下からどかどかと足音が響く。複数だ。複数のやつらが上がってくる。おそらく全員武装して。

 引くか?

 だがこう暗くては他の階段を探すのも大変だ。探してる間にやられかねない。

 端午は階段を駆け下りた。

 見えない。だが感覚でなんとなくわかる。

 危機に瀕して、端午の五感は異様なまでに高められていた。いや、視覚が頼りにならない分、他の感覚が研ぎ澄まされたというべきか?

 踊り場を折り返したとき、下から殺気。

 ふたりだ。

 端午はいち早く殺気を放ったほうに銃を向けると、引き金を引いた。

 同時に身をかがめる。

 もうひとりから放たれた殺気が胸をねらっていることに気づいたからだ。

 そいつが二発目を撃つ前に、端午のほうが先に撃った。

 敵の殺気が消えたことをいいことに、端午はさらに下に向かう。

 とりあえず、下のほうから人の気配は感じられない。ひょっとしてお終いか? そう期待しつつも用心を怠るつもりはない。

 階段の形はどの階も同じ。見えなくても体が覚えてしまったらしい。知らず知らずのうちに端午は走っていた。

 なんか変だ。

 階段を駆け下りながら、端午は疑問を抱く。

 相手の目的がわからない。自分をここに連れてきたのは、あいつらなのだろう? 殺す気ならどうして気を失っているうちにやらなかった?

 なにか裏がある。

 そうは思ったが、それがなにかなのまではわからない。だが今それを悠長に推理しているひまもなかった。いつ次の敵が襲ってくるかわからないのだから。

 さいわいにして、端午が下に降りるまで、さらなる襲撃はこなかった。

 だが端午は油断をしない。ある程度慣れてきた目で慎重にまわりを観察した。

 建物のまわりは外部足場でぐるっと囲まれている。そのまわりには網状のシートが全面に貼られていて、それを外さないと出れない。

 もちろん作業員用の出入り口は設けられているはずだ。そこだけほのかに明るいから場所の見当はつく。通り抜けられるようにシートがかかっていないから外の明かりが入ってくるんだろう。しかし、そこから出るのはためらわれた。

 もし自分が敵だとすると、とうぜんそこに待ち伏せているからだ。

 端午は全神経を外部足場の外側に向ける。息づかいも、不穏な空気も、ちりちりした肌の痒みのようなものも感じられない。

 とはいえ、遠くからライフルのようなものでねらっている可能性だってないわけじゃない。

 慎重に、慎重に。

 端午は足音を殺し、息をひそめながらゲート状に開かれた外部足場の通り抜け口をくぐろうとする。

 かしん。金属の足場が揺れるかすかな音。

 同時に真上から殺気を感じた。

 端午は反射的に銃口を真上の鋼製布板に向ける。

 だが撃つ前に背中に衝撃を感じた。弾丸を受けたものではなく、人がぶつかってきたような。

 馬鹿な。後ろには誰もいなかったはず。

 一瞬、困惑したが、謎はすぐに解けた。

 こいつは上から来た。

 そのまま端午の腰にタックルしてきたのだ。

 もっともそれがわかったとき、端午はすでに地に倒されていた。

 そいつに銃口を向ける。

 手刀で叩き落とされた。

「くそっ」

 あお向けの端午の上に、敵は馬乗りになった状態だ。そいつは拳を振り上げる。

 まずい。

 格闘技の試合なら絶体絶命だ。だがこれは殺し合い。この状態で攻撃できる箇所はある。ここ一週間のうちに学習したことだ。たとえば金的。

 端午は敵の股間の下に右手を滑り込ませる。

 そのまま握りつぶすつもりだった。

 ない? 女?

 敵の打ち下ろしのパンチが顔面に炸裂。重い。

 冗談じゃねえ。

 金的がないなら、肛門に指を突っ込んでやろうかとも思った。だが、案外ぱつんぱつんのズボンを履いているせいでそれができない。

 敵の二発目を顔面で受ける。気を失いそうだ。

 端午は左手で敵の襟首を掴むと、そのままブリッジして敵をはね上げる。同時に左手を引き、股間の下の右手を持ち上げた。

 体重のあまりない女であることがさいわいして、敵は前に転げ落ちた。

 すかさず立ち上がる端午。しかしその段階で敵は向かってきていた。

 地を這うような低い体勢ですべるように襲ってくる敵。あっという間にタックルされた。

 倒されそうになるのを、近くにあった足場の建枠を掴むことで凌いだ。残った手で敵の首筋に手刀を打ち下ろす。

 相手の力が緩む。すかさず膝を相手の腹めがけてけり上げる。

 二発目をぶち込もうとしたとき、敵は離脱すると三メートルほどの間合いを保った。

 その姿は闇に溶け込むが、位置はわかる。敵の息づかいが荒れているおかげだ。

 端午は追わなかった。敵は建物の内側。銃は持っていないようだし、追うより逃げるほうがいい。そもそも今は足場につかまることでしのげたが、この暗闇の中追っていけば、また地面に転がされてやられるかもしれない。おそらくそれをねらっているはず。

 そう考えたとき、足もとにさっき打ち払われた拳銃が転がっていることに気づいた。

 相手との間合いを考え、隙を見せないように注意しつつ、それを拾った。

 逃げてもいいが、相手の目的を聞き出したかった。

「終わりだ。なぜ俺を襲う?」

 銃口を荒い息づかいに向けつつ、端午は聞いた。

 その瞬間、敵は左右にはげしくステップを踏み、端午を幻惑する。

 暗闇をいいことにまたタックルしてくる気だ。

 こっちからは見えないが、外を背にしている敵にはこっちのシルエットが見えるのだろう。

 しかし端午にはもはや敵の位置がはっきりとわかった。

 見えはしないが、息づかい、足音、空気の流れ。それが明確に敵の動きを教えてくれる。

 ジグザグのステップの末、一直線に向かってくる。

 女とはいえ、端午は躊躇しなかった。手加減すればやられるのは自分のほうだとわかりきっている。

 引き金を引く。

 二発。三発。相手がとまるまで撃った。

「合格ね」

 死んだはずの女がいきなり口を開く。

「リンダ?」

 その声には聞き覚えがあった。

 女は懐中電灯の明かりをつけると、まず自分の顔を照らした。

 大げさなゴーグルのようなものをしている。

「暗視ゴーグルよ」

 そういってそれを外す。そこに現れたのはまちがいなくリンダの顔だった。

 暗視ゴーグル? そんなものを使っていたからこっちの動きが筒抜けだったのか?

 ……いや、問題はそんなことじゃねえ。

「どういうことだ?」

 リンダの体は今撃った弾痕による血でまみれている。だがとうぜんのように平然としていた。

「ペイント弾?」

「そう。気づくのが遅いわね」

「訓練。これは訓練だったのか?」

 それで合点がいった。というか、冷静に考えるならそうとしか考えられない。

 第三者がCIAの施設から自分を誘拐などできるはずがないのだ。

 さらに殺せるときに殺さず、意識を取り戻したあとで襲ってくる。それはこれが訓練ならばこそ。

「ひでえ!」

 思わず文句をいう。

「ごめんね。でもほんとうに実戦で使えるかどうか判断するには、こうするのが一番。訓練ではそれなりのことができても、実戦でびびって動けなかったり、敵を殺せないと、殺されるだけ。それじゃあ、きららを安心して預けられないからね」

 いわれてみれば、端午は本気で敵を殺したつもりだった。ひとりめは反射的に撃っただけだが、ふたりめを撃つときは、体の動きに任せたとはいえ、はっきり自覚して引き金を引いた。にも関わらず、次の瞬間にはそれを忘れ、次の敵を倒すことに頭を切り換えていた。でなければ、今ごろ体にペイント弾の染みを作っていたことだろう。

 しかも、このとき端午は相手が死んでいないことにほっとしたという実感がない。最初のやつを撃ったときこそ動揺したが、ふたりめからはすでにそうでもなかった。自分はやるべきことをやったのだ。それをなかったことにされたから、喜ぶなんて馬鹿馬鹿しい。

 ひょっとして自分は人殺しのハードルを越えてしまったのだろうか?

「夜が明けたら、家に戻ってもらうわ。まあ、両親や警察に聞かれたとき、つじつまを合わせるために、いろいろ覚えてもらわなきゃならないけど」

 この一週間、つらくもあったがじつは楽しくもあった。

 なにせ自分が超人化していくのが肌で感じられたのだから。

 とはいえ、これで戻れる。重大な責任を背負うことにもなるわけだが。

「しっかりがんばるのよ。きららはもとより、日本とアメリカの将来は君にかかってるんだからね」

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