地雷娘は気まぐれな風

南野海

第一章 地雷娘と脳移植男


   1



 UFOによる誘拐事件も、CIAによる宇宙人の隠匿も、黒猫端午くろねこたんごは人並みに信じちゃいなかった。もっとも高校生にもなってそんなことをフィクションだと思ってないやつは、ほとんどいないわけだが。

「ほんと夢がないよね、タンゴは」

 今、端午の横を歩いている幼なじみのクラスメイト、綺羅きらきららは、どうやらそうは考えていないらしい。端午の宇宙人否定説を聞くなり、馬鹿にしたような顔つきで見つめる。

 そんなことをいうと、まるで見てくれにこだわらないSFオタクの少女版を想像するかもしれないが、すくなくともきららの外見はすこぶるつきの美少女だ。

 十五歳の女の子としてもチビで、童顔のため子供みたいだけど、天真爛漫な笑顔がとにかく魅力的。さらさらつやつやした黒髪はポニーテールにしていて、小学生のころから伸ばしているから腰までとどく。強い風なんか吹いた日には、それが天使の羽衣のように舞う。さらりふんわりしゃらら~んと。

 今は学校帰りだから、とうぜん制服を着ている。端午たちの高校はセーラー服だ。もちろん、季節に合わせて白の半袖。まあ、ちょっと古いタイプの制服かもしれないけど、昔とちがってスカートは短い。

 ちなみに男子は学ランで、この時期は上着を脱いでワイシャツ姿になってもいいが、端午は学ランを着たままだ。なんかそういう中途半端な服装はかっこ悪いと思っている。男なら真夏でも学ラン、それがかっこいい。そう信じている。べつに応援団でもないわけだけど。

 中身はそれにふさわしい男くさい容姿かというと、ぜんぜんそうじゃなかった。きららよりすこし背が高いだけ。とりわけ筋肉質でもない。というか、すこし痩せ気味だ。おまけに、きららに負けないくらいの童顔でもある。

 もっともそれがコンプレックスになっていて、その裏返しでそういう恰好を好むのかもしれない。さらに舐められたくないという気持ちが外に出すぎるのか、どうも不良連中からは生意気なやつという目で見られがちだ。

 武道や格闘技にかなり興味があったりするのも、人一倍スーパーマン願望が強いせいだろう。もっとも知識だけ豊富で、じっさいに稽古しているわけではないので、喧嘩は弱かったりする。

「いい、タンゴ? 世界は謎と陰謀で満ちあふれているのよ。その黒幕は異星人。そう考えたほうが楽しいじゃない」

 きららはくりっとした目を輝かせていう。

 まったくこいつは子供のころからそうだった。

 端午は今さらあきれない。慣れている。むしろ、そういうところがけっこう好きですらある。

 なにせ物心着いたころからおとなり同士で、振りまわされ続けているうちにそうなってしまったのだろう。

 もっとも、きららはべつに端午の恋人というわけではなく、きょうだって帰り道がいっしょになったのは、たまたま最寄りの駅で顔を合わせたからにすぎなかった。

「変な人見っけ」

 きららはいきなりすっとんきょうな声を上げ、指さした。

 そっちのほうを見ると、たしかに変な男がいた。

 もう夏に入ろうとしているのに、黒いスーツ姿で、手には皮の手袋までしている。黒い帽子を目深にかぶり、顔には風邪用の白いマスク、ついでにサングラス。明らかに怪しすぎだ。しかも、端午がそっちを見ると、あからさまに顔をそむけた。

 そいつはすたすたと立ち去り、表通りから路地に入っていく。

「つけるよ、タンゴ」

「え、なんで?」

 思わず聞いた。たしかにめちゃくちゃ怪しいやつだけど、はっきりいって関わるべきじゃない。

「だってあいつグレイみたいな顔してたもん」

「グレイ?」

「知らないの? グレイよ、グレイ。頭でっかちで、目が三角で黒いんだよ」

 いわれてなんとなく頭に浮かんだ。テレビなんかでたまに見る宇宙人だ。見たって人の証言から定着している宇宙人像といいかえたほうがいいかもしれない。

「さっき、あのサングラスをちょっとずらしてこっちを見てたのよ。あの目はまさにグレイね。それにあの肌の色、人間のものじゃなかったでしょう?」

 そういわれれば、みょうに青白かったような気がする。

 きららはもう端午のとなりにはいなかった。さっき、そいつが入っていった路地に向かって走り出している。

「ま、待てよ」

 端午はあわててきららを追った。

 内心冗談じゃないと思いつつ、きららを放っておくのはまずいと感じた。

 まさかほんとに宇宙人のわけはないけど、怪しい男であることには変わりない。ゴムのマスクでもしているのかもしれない。だとすると、いたずらじゃないなら、犯罪のにおいがする。

 端午が路地に入りこんだとき、きららはすでに十メートルは先に行っていた。立ち止まってきょろきょろあたりを見まわしている。

 夕方とはいえ、まだ暗くはなかったが、人通りはほとんどない小さな道だ。変な男を追って、女子高生が立ち入るにはまずい場所だ。

「きらら、ほっとけ。変なことに首突っこむな」

「冗談でしょ? こんなおもしろそうなこと、二度と起きないかも」

 きららはそういうと、さらに細かい路地に突っこんでいった。たぶん、勘にまかせるままに。

 端午がその路地に入ったとき、きららは背を向けて立ち止まっていた。

 どうやらそこは行き止まりらしく、民家のブロック塀が三方を囲む中、追いつめられた男がきららと向かい合っている。

「覚悟しなさい、グレイ」

 きららはそう叫ぶと、いきなり首のあたりにハイキックをぶちかました。じつは子供のころから空手を習っていて、知識だけの端午とはちがう。

 男は腰のあたりを中心に、まるで風車のように一回転して倒れた。

「ん? 軽すぎ」

 きららが不思議そうにいう。たしかにいくらきららの蹴りがするどくても、大のおとなが小娘のキックであんなにふっとぶのは変だ。

「おわっ?」

 端午は思わず叫ぶ。

 なにしろ地面にはいつくばって男の帽子やかつら、サングラスが今のキックでふっとばされていたからだ。

 そこから現れた素顔をは、まさにグレイ。つるっぱげで、でかくて三角の目。肌の色だって青白くて人間のものじゃない。

「わお、正体現したよ、グレイ」

 きららの声ははずんでいる。ふつう、そんなものに遭遇すれば、もっと脅えるはずなんだけど。

「グワッガガガババ」

 グレイは起きあがりつつ人間には発せられないような声を出した。

「きらら、逃げるぞ」

 端午は後ろからきららの手をつかみ、引っぱる。

「なんでよ。これからがいいところじゃないの」

 きららはみょうに興奮していた。まあ、グレイをハイキック一発でぶったおした世界でただひとりの人間になったんだからしょうがない。ほとんど「タイマンの邪魔すんな」といってるヤンキーと変わらない。

 たしかにグレイって、素手で戦えばそんなに強そうには見えないけど、もしほんとうに宇宙人ならなんかすごい武器を持ってるにちがいない。

 とつぜん、異変が起こった。まだ明るいはずなのに、まわりがいきなり闇に包まれた。しかもスポットライトのような灯りが真上からきららだけを照らしている。

「な、なんだ……こりゃ?」

 端午は上を見て死ぬほどおどろいた。

 天空には巨大な円盤が浮かんでいた。どう見てもUFOだ。しかもスポットライトはその中心から真下に発せられている。

 きららの体がふわりと浮かんだ。端午はそれを必死で止めようとする。

「きらら」

「タンゴ」

 ものすごい力で引っぱられ、ついに端午は手をはなさざるを得なかった。

 きららはUFOに吸い込まれていくように光の道を上っていく。

 さらわれる。きららが宇宙人にさらわれる。

 ついさっきまでそんなこと絶対にありえないと信じていたことが、現実に起こりつつある。

「くそ。やめさせろ。きららを返せ」

 端午は恐怖も忘れ、グレイの胸ぐらをつかんだ。そんなことをしたのは生まれてこの方はじめてだった。

「グギャギャギャ」

 威嚇とも笑い声とも取れる声をグレイが発する。

 とたんに端午はものすごい頭痛を感じると同時に立っていられなくなった。全身が痺れ、なにひとつ自由にならなくなると、人形のように地べたにはいつくばるしかなかった。

 殺される。

 グレイがなにをしたのかはわからなかった。人間にはない超能力なのか、あるいは人類のそれをはるかに超えた科学兵器なのか? いずれにしろ勝ち目はない。

 そのとき、銃声が鳴りひびいた。

 しかも何発も。その度に、グレイの体がダンスでも踊っているようにゆれる。

 誰かが、グレイを撃っている?

「だいじょうぶか?」

 端午の耳に、男のどなり声が聞こえる。

 誰かがこっちに走ってくる。スーツ姿の金髪の若い男。白人だ。それも体格のいい色男。手には拳銃を持っている。

 誰?

 いきなりその男の額に穴が開いた。なにかまっすぐな光の筋が男の頭を貫通していく。

 レーザーガン?

 なんにしろ、その男はばたりと倒れた。額から血を流しつつ。

 端午はそのまま意識を失った。



   2



 白い天井が見えた。

 どうやらベッドで寝ているらしい。

 上体を起こすと、いつの間にか見知らぬジャージに着替えさせられている。さらに頭に包帯が巻かれているのに気づいた。

 ここはどこだ?

 端午は自分になにが起こったのか、すぐには把握できなかった。

 グレイ? ……そうだ。グレイだ。

 しばらくしてようやくグレイとUFOを目撃したことを思い出す。

 俺は急に体が動かなくなった。そして……。

 きららがUFOに吸い込まれ、自分を助けようとした謎の白人が額を撃ち抜かれて倒れた。

「きらら。……きららは?」

 誰にともなく叫んでいた。

 返事はない。端午はあたりを見まわす。とにかくここがどこなのかわからないことには話にならない。

 いかにも病院のような白い壁、白い天井。明るい色のリノリウムの床。窓はない。

 なにか不自然な感じがした。

 ま、まさか……、ここは?

 端午は自分がきらら同様、UFOにさらわれたのではないかとまず疑った。

 なんのゆれも感じず、これが飛んでいる物体の中だとはとても思えないが、そういう乗り心地なのかもしれない。なにせ、飛行機やヘリコプターではなくUFOなのだから。

 だがベッドの他にテレビや机があるあたり、UFOというよりふつうの建物の中という可能性のほうが高い気もした。

 端午はふとドアを見た。ここがどこにしろ、閉じこめられているのではないかと思ったからだ。

 顔のあたりにガラス板がはめられた普通の開き戸。内側にはドアノブがついている。特別頑丈そうでもない。

 とにかく外の様子を探ってみようと思い、床に足をつけたとき、ドアノブががちゃりとまわった。

 思わず、身構える。

 とっさに武器になるものを探したが、あたりにはなにもなかった。

 中に入ってきたのは、二十五歳前後の若い女性だった。しかし医者でないのはまちがいない。白衣を着ていないからだ。

 ベージュの女性用スーツ。下は黒のミニスカートで絶妙な曲線美を見せつける。長身できゅっとくびれた腰。メロンのように飛び出した胸は、上のほうのボタンを外したブラウスのすき間から魅惑的な谷間を晒す。そのくせ髪は男のようにショートで金髪。きりっとした目の中には青い瞳が浮かび、鼻は高いが大きいというより、つんとした感じだ。いくぶんふっくらした唇がみょうに色っぽい。肌はうすく赤みを帯びた白。ようするにものすごい美人で色っぽい白人だ。

 なんにしろ宇宙人ではなく、人間なのはまちがいない。

「……誰?」

 端午は恐る恐る聞いた。

 彼女は質問に答えず、つかつかと端午の真ん前までやってくる。

 日本語がわからないのかと思い、必死で英語での質問を頭の中で組み立てた。

「フ、フーアー……」

「リンダ・スタンスフィールドよ」

 リンダと名乗った白人のお姉さんはぶっきらぼうにいった。しっかり日本人っぽい発音で。

「リンダさん? あの……」

「リンダでいいわ。敬語もべつに必要なし」

 リンダはそういって、にっこりとほほ笑んだかと思うと、突然、端午の顔面に向かって右手を突き出した。

 というより、Vの字にした人差し指と中指で端午の目をねらった。

 端午の左手が勝手に動いた。

 まさに指先が目に突き刺さらんとしたとき、端午の左手はリンダの右手を下から弾くように払う。

 同時に右足が勝手にはね上がり、リンダの下腹部をねらう。端午のつま先が、リンダのベルト下あたりに突き刺さろうとしたとき、リンダは膝を上げてブロックした。

「な?」

 あまりのことに絶句する端午。

 リンダがいきなり襲ってきたこともわけがわからないが、それ以上に、自分の体が反射的に動いたことが不思議だった。まるで空手の達人になった気分だ。

 とにかく、端午はベッドに座ったままリンダの奇襲攻撃をかわし、今、ベッドから跳びはね、床の上に立っている。しかも、左足を前にし、右足はやや後ろ、左手を前に伸ばし、右手はやや下に構えていた。それもごく自然に。

 リンダはそれを見て、攻撃の第二波を仕掛けてくることはなかった。それどころか棒立ちになり、目には涙を浮かべている。

「トム」

 リンダは端午を見て、そうつぶやいた。

 人違い? いや、日本人ならともかく、トムなんていう外人とまちがうはずもない。

 しかもさっき攻撃したかと思うと、今涙ぐんでるのは、どう考えても支離滅裂だ。

 ひょっとしてこの人、ちょっと頭が……。

 そう思ったとき、リンダは涙をふき、はっきりした口調でつげる。

「ごめんなさい。ちょっと確認したくて……」

 確認? なにを?

「すわっていいわ。もう、襲ったりしないから」

 まったくわけがわからなかったが、なんとなく信用していいような気がした。一応、警戒心を解かずに、ベッドに腰かける。

 リンダは近くにあったパイプ椅子を二メートルほど距離を置いて床に置き、そこにすわった。端午を真っ正面から見すえるような感じで。

 すこし離れてすわったのは、また襲ってくるかもしれないとこっちが警戒しないようにという配慮なのだろう。

「いろいろ聞きたいことがあるだろうけど、ひと言ですますことはできないわ。だから、とりあえずあたしの説明を聞いて。質問はそれから。いい?」

 リンダは知的な顔をくずさず、青い瞳で端午をのぞき込むようにしていった。

 端午はだまってうなずく。頭がぐちゃぐちゃで、なにから聞いていいのかすらわからなかったからだ。

「まず、あたしが何者かということだけど、CIAのエージェント。あなたに危害を加える気はないから、安心して」

「CIAだって?」

 端午はあまりの展開に開いた口がふさがらなかったが、よく考えれば宇宙人とUFOが現れた以上、CIAが出てきても不思議はない。

「それとここはCIAの施設。主に医療と研究のためのものだけど、各種トレーニング施設も兼ねているわ。ま、もっとも表向きはCIAとは関係のない民間企業の研究施設ってことになってるんだけど」

 つまり、端午はここで治療されたということなのだろう。

「それと、きららちゃんだっけ。君のお友達? 彼女は無事よ、とりあえず」

「とりあえず?」

「まあね。べつに瀕死の重傷だとか、あと何年か後に病気で死ぬとか、誰かに命をねらわれてるとかってこともないわ。とりあえず」

「それはどういう……」

「ま、その前に君の見た宇宙人の話をするわ」

 リンダはきっぱりといった。

「あの、グレイか?」

「そう。まあグレイっていうのは俗称だけど、彼らはまぎれもなく宇宙人。もっとはっきりいうと侵略者ね」

「つまり危険なやつらってことか? じゃあ、きららをさらったのは?」

 とたんに不安になった。とりあえずは無事らしいから、人体解剖とかされたわけじゃないらしい。だけど、それならいったいなにを……。

「彼らは彼女の体内にあるものを埋め込んだのよ」

「あるもの?」

「爆弾」

「なんだって?」

「何度もいわせないで。爆弾よ。それも超小型なのに、きわめて膨大な威力を持った爆弾。現在の地球の科学力じゃ作れないしろものよ」

「取り出せないのか?」

「無理ね。ちょっと調べてみたけど、爆弾から伸びている数種類の有機体が神経と同化していて、下手に手術で取り出そうとしてそれを切れば、とたんに爆発する恐れがあるわ」

「それが、もし爆発したら……」

「日本の大半はふっとぶわ。そうなったら大津波が起きて、中国や朝鮮半島、東南アジアはもとより、アメリカの西海岸だって無事では済まない」

「そんな馬鹿な」

 端午は必死にそれをただの冗談だと思いこもうとした。しかし、リンダの顔は真剣だった。

「ど、どうなれば、爆発するんだよ?」

「とりあえず、遠隔装置や時限装置によるスイッチの起動はないと思っていいわ。ただ、彼女が死んだ場合、おそらく爆破する」

「死んだ場合って、仮になにもなくたって、いつかは……」

「それはだいじょうぶ。爆弾は三年で無力化する」

「え、どうして?」

「くわしい説明をしてもわからないと思うけど、……っていうか、はっきりいうと、あたし自身説明聞いてもさっぱり理解できなかったけど、とにかくそういうものなの。もちろん、そのあとは彼女もなんの支障もなく生きていけるわ」

 なんだかよくわからないが、すこしは安心した。健康な女子高生が三年で死ぬ確率はゼロに近い。そしてその三年さえ乗り切れば、すべては解決するらしい。

「CIAは三年間、彼女を隔離してぜったいに死なないようにすることも考えた。だけどそれは賢明ではないとわかったの」

 三年間隔離? そんなことをさせてたまるもんかとも思ったが、その理由が気になった。

「爆破装置の起動は彼女が死ぬことだけじゃない。彼女の精神状態も起爆装置になりうることがわかったのよ」

「精神状態?」

「そう。極度の鬱や、絶望、恐怖。他人に殺意を抱くほどの憎悪、常軌を逸した怒り、ぜんぶ危険だわ。さらに脳の平静を保とうと薬物を使っても反応する恐れがある。ならばなにも知らせず、そのまま日常生活を送らせるほうがはるかに安全だわ」

「そ、その、侵略者とかってのは、なんのためにそんなことを?」

「きっと実験なんだと思う。そういう実験体をあたしたちに返し、どのくらいまで謎を解明できるか? 解明できた場合、どう対処するか? 侵略者たちはそれによって、地球人の知的レベルと行動原理を分析しようとしている。あたしたちはそう判断した」

 とても信じがたい話だった。しかしそれがほんとうだとすると、きららは少なくとも三年間は、お気楽で危険やストレスとは無縁の生活をしなくてはならないらしい。

「じゃ、じゃあ、CIAが三年間、こっそり護衛するってことか?」

「それも考えたわ。だけどそれは、かえって危険かもしれない」

「どうして?」

「考えてもみなさい。彼女の秘密を知っているのはCIAのごく一部以外は君だけよ。なのに、四六時中彼女のまわりにCIAのエージェントが張りついたらどうなると思う?」

「どうなるんだ?」

「日本はスパイ天国よ。ロシア、中国、北朝鮮、その他いろんな国のスパイが暗躍している。そいつらはとうぜんCIAの動きには敏感だわ。いかに秘密裏にとはいえ、四六時中彼女に監視をつけていれば、いずれどこかの国のスパイにかぎつけるのはまちがいない。そうなった場合、どう思うか? あの少女はなにかとんでもない秘密を握っているにちがいないって考えるにちがいないわ。もし、そいつらが彼女を誘拐し、殺さないまでも拷問なんかしてみなさい、大惨事よ」

「じゃあ、なにもしないで、三年間、見守るんだな。そのほうがたしかに安全かも……」

「そんなわけにいくもんですか。もし、爆発した場合、アメリカにも津波が襲ってくるだけの話じゃないのよ。日本という国家がいきなり消滅したら、経済的、国家戦略的にアメリカの受けるダメージは計り知れない」

 リンダには日本人のことはどうでもいいらしい。あくまでもアメリカの都合で日本を守ると……。

「そこで君の出番よ」

「は?」

「君が彼女を守るのよ。あらゆる危険や、ストレスから」

「はあああ? だ、だって、今はきららをねらってるやつなんて誰もいないんだろう?」

「スパイがねらってないってだけよ。生徒間のトラブルでだって十分爆破装置は起動することはありえるわ。いじめだの、不良やセクハラ教師にねらわれるだの、通り魔に襲われるだの、いろいろあるでしょう? それと性的エクスタシーでも爆破装置が起動する可能性があるわ。彼女にセックスをさせちゃだめ。恋人ができそうなら邪魔をして。理想は君が恋人になること。だけど、セックスをせがまれたら拒むこと。キスまでなら許すわ」

「そんなむちゃくちゃな」

「なにがむちゃくちゃよ。日本の未来が君にかかってるんだから。それくらいやってよね。君だって彼女のことが好きなんでしょう? 安心して、彼女も君を憎からず思ってるはずよ」

 きららが好き? そうなのか?

 端午は自問自答する。はっきりいってよくわからなかった。大事な存在であるのはまちがいないが、すくなくとも異性としては普段それほど意識していないような気がする。きららにいたっては、なおさらそうにちがいない。

「そ、そっちのほうはともかく、いきなり不良だの変質者に襲われたりした場合はどうするんだよ。俺じゃなにもできないぞ」

 いいながら、そっちはかなりあり得る話だと思った。なにせ、きららは正義感や好奇心が強く、自分から危ないことに首をつっこんで回るところがある。

「心配いらない。君はプロの殺し屋やスパイならともかく、そこらの不良や通り魔ごときにはぜったい負けないから。さっきの動きがそれを証明したでしょう?」

 さっきの動き? そうだ。あれはなんだったんだ? 体が勝手に動いた。

「俺の体になにをした?」

「誤解しないで。あたしたちは君の命を救ったのよ。グレイに襲われたとき、体が痺れて動かなかったでしょう? あれはあいつらの攻撃よ。特殊な波動のようなものを発生させる装置で小脳を麻痺させ、そのまま破壊する。君の小脳は壊されたの。だけどちょうどそのとき、エージェントのトムも撃たれた。覚えてるでしょう?」

 忘れるわけもない。人間が殺されるところなんてはじめて見た。

 え、トム? そういえば、さっきリンダは俺を見てトムといったような……。

 端午はつい先ほどのことを必死で思い出す。

「トムは大脳を撃たれた。助けようがなかったわ。だけど小脳は無事だった。小脳は運動を司る部分よ。もう、わかるでしょう? 君の小脳はトムのもの。記憶や性格、感情などは君のままだけど、体に染みついた運動の記憶はトムのもの。たとえば、一度自転車に乗れるようになれば、生涯体がそれを覚えてる。そのいわゆる体が覚えてるっていうのは、正確には的確な体の動かし方を小脳が記憶するってこと。つまり、CIAの特殊訓練を受け、格闘、射撃、運転などの記憶が君の体には染みついている」

「嘘だろ? よく知らないけど、そういうのって拒否反応を起こしたり……」

「そう、ふつうはね。ところが君とトムの体は不思議にもマッチングしたのよ。君の体も、トムの小脳もお互いを拒絶しなかった。なんの薬も使わなかったのにね。奇蹟だわ。君は選ばれたのよ、神に」

 そんな馬鹿な。

「だからこそ、君には協力してもらうわ。もちろん、必要とあらばCIAがバックアップはするから。とにかく日本の将来は君にかかってるのよ」

 端午は絶句しながら、リンダの説明を聞き流した。

「それからこれを渡しておくわ」

 リンダはプラスチックのカードを渡した。

「クレジットカード?」

 有名なクレジット会社の黒いカードだった。

「本来なら金持ち階級しか持てない限度額なしのカードよ。それでなんでも買える。もっともそれは君の報酬じゃなくて、彼女を守るために必要なら使っていいってだけ。ま、すこしくらいなら君の買いたいものに使っても黙認するけど」

「きららを守るため? なんでそれに大金が……」

「もしトラブルに巻きこまれて、金で解決できることなら解決すればいいのよ。やくざがらみのトラブルならたいていそれで片がつくわ。それ以外にも、彼女を尾行するのにタクシー使うとか、レストランやホテルに潜入するとか、場合によっては車やバイクを買うとかね」

「そんなもの運転できない」

「体が覚えてるわ。免許も気にしなくていいわよ」

 リンダは二枚の運転免許を手渡した。一枚は普通自動車、もうひとつは二輪の限定解除。ただし生年月日はごまかしてあり、十八歳になっている。

「偽造免許?」

「心配ないわ。もし警官が調べてもパスするから。それと君がもし法律を犯して逮捕されても、圧力を掛けてすぐに出してあげる」

 それはきららを守るという名目なら、好きなだけ金を使えて、おまけに違法なことをしてもつかまらない、というか、つかまってもすぐに出れるということか?

「なに、鳩が豆鉄砲を食ったような顔してんの? それくらいとうぜんの権力よ。日本とアメリカ、というより世界の平和は君の肩に掛かってんだから」

 リンダはにっこり笑った。

「ただ、なにに使ったかはまるわかりだから、変なことに無駄づかいしたらあとで締めるわよ」

 もっとも財布に一万円以上持ったことがない端午にしてみれば、好きなだけ使えるといわれても、なにに使っていいのかまるでぴんとこない。

「それとこれも渡しておくわ」

 リンダはスマホをハンドバッグから取りだした。

「中にはあたしのスマホの直通番号が入ってる。なにかあった場合はいつでも電話して。他にもまあ、CIAの収集した情報を引き出せるようになってるから。それはおいおい教える。それと……」

 リンダはハンドバッグからべつのものを取り出す。

「な? これは……」

 拳銃だった。それもアクション映画に使うようなオートマティック銃。

「コルト・ガバメント。45ACP弾がマガジンに八発、チャンバーに一発で計九発装填できるわ。44マグナムほどの威力はないけど人間相手には充分な殺傷力があるから。特別軽い銃でもないけど、これくらいは使えるはずよ」

 リンダが意味不明な説明をする。

「使い方は体が覚えているはずだからだいじょうぶ。トムは拳銃ならなんでも扱えたけど、これが一番の好みだったのよ。ま、普段持って歩く必要はないけど、いざってとき、あったほうがいいでしょう?」

「いや、だけど、これは……」

「ロックできるケースをいっしょに渡しておくから、普段はそれにしまってどこかに隠しておきなさい」

 困惑する端午を尻目に、リンダは平然といい放った。

 もし外国のスパイがきららをねらうんじゃないとしたら、いったいどういう事態を想定しているんだろう?

 日本にはそれほど強盗や変質者が溢れているわけじゃないのに。

「べつに二十四時間見張る必要はないわ。夜はべつに護衛を彼女の家のそばに付けておくから」

「外国のスパイが動くとヤバいから、表だった護衛はしないんじゃないのか?」

「だいじょうぶ。CIAと直接つながりのない私立探偵を使うから。ま、そっちにはくわしいことは話さないけどね。ストーカーから彼女を守るという名目で、もちろん直接の依頼人は第三者を間にはさんでるから、CIAの依頼だとは知らない」

「じゃあ、俺は……」

「君は主に学校にいる間だけ彼女を守ればいいから」

 だとすると、なおさら拳銃なんかいらないような気が……。

「それと、きららちゃんはもうなにごともなくうちに帰ってるけど、宇宙人にさらわれたり、ここでいろいろ検査した記憶は消してあるから、よけいなことはしゃべっちゃだめよ」

「記憶を消した?」

「もちろん宇宙人による誘拐に関しては彼らが記憶を消したんだけど、こっちでもいろいろ調べたからね。そっちは催眠によって記憶を操作しているから」

 平然というリンダに反発を覚えもしたが、よく考えれば宇宙人に爆弾を埋められたなんてことをきららに知られるわけにはいかない。やむを得ないことなのだろう。

「きららの護衛を引きうければ、俺は帰れるのか?」

「その前にここで一週間ほど特訓してもらうわ。念のためにね」

 なにかいやな予感がした。

「ついてきて」

 リンダはにっこりと笑うと、背を向けドアに向かった。



   3



 リンダに連れてこられたのは渡り廊下でつながった別館の中にある一室だった。

 ドアをくぐると体育館のようなところの一部に畳が広がっている。よく見ると脇にはウエイトトレーニング用の器材やサンドバッグ、パンチングマシーンなど。さらにはビデオ、モニターなどのAV器機。それにDVDや書籍が入った棚などが並んでいる。ただし神棚の類はない。日本人の端午の感覚だと、武道場というよりトレーニングルームといった感じだ。

 CIAのエージェントらしい男たちが床の間、畳上をふくめて数組が乱取りをしている。空手だったり柔道だったり、さまざまだ。よく見ると奥のほうにはボクシングのリングまであり、とうぜんのようにスパーリングがおこなわれていた。

 奇声や畳に投げつけられる音が、あちこちからやかましいぐらいに響いてくる。

 リンダは奥の更衣室に端午を連れて入る。

「これに着替えて」

 リンダは壁に掛かった道着のうちのひとつをぽーんと放った。そして自分はいきなり上着やスカートを脱ぎはじめる。

「ちょ、ちょっと……」

 もっともリンダは下着姿を晒したわけではなく、あらかじめ下にレオタードを着込んでいた。といってもかなり切れ込みのはげしいきわどいやつだったのだが。

「なに? 心配しなくても高校生を誘惑なんてしないわよ」

 そういって、いたずらっぽい笑みを浮かべると、道着の上だけ羽織って帯を締める。黒帯だった。

 レオタードが道着の裾に隠れて、まるで下にはなにもはいてないように見える。

 こ、この恰好のリンダと組み合うのか?

 正直、端午はいろんな意味で躊躇した。

「ちょ、ちょっとまて。そんなことしなくても、体が覚えてるんだろ?」

「まあね。だけど不安じゃないの? いざというとき、自分の体がどんな動きをするのかわからないんじゃ。第一、技だけじゃ片手間なのよ。じっさいに体を動かして筋肉や心肺機能も鍛えないと強いやつには勝てないわ」

「そ、それは……」

 不安がないといえば、もちろん嘘だ。だがそんな強敵と戦うようなことはまず起きないはず。あくまでもこれは最悪の場合に備えた、念のためなのだ。

「ぐだぐだいわず、着替える。男でしょ?」

 抵抗しても無駄だと悟り、端午はその場で着替えた。道着など着たこともないはずなのに、帯をきゅっと締め、びしっと着こなした。これも体が覚えてるってことなんだろう。

 更衣室から出ながら、端午は聞く。

「で、俺の頭に入ってるトムはどんな格闘技をやってたんだ?」

「柔道、剣道、空手、合気道。まあ、日本の武道全般ね。それと中国拳法も研究してたわ。逆にボクシングやレスリングには興味がなかったみたい。まあ、東洋武術に心酔していたのね」

 たしかにリンダと出会ったとき、とっさに出たのも空手の動きだった。

「で、どうするわけ? リンダさんが基礎から教えてくれるのか?」

「残念ながら、あたしにはトムのできることがぜんぶできるわけじゃないわ。だから、DVDを貸すからそういうのは自分で学習してね。今、あたしとここでやるのは実践練習。組み手を何度もくり返して、自分になにができるかひとつずつ確かめていくの」

 リンダはそういいながら、畳の上に立った。

「来なさい」

「ルールは? っていうか、じっさいに当てるわけ? 俺、まだ安静にしてたほうがいいんじゃないのか?」

「心配しなくても、頭の傷はほとんど治ってるわよ。でも一応顔面への打撃と投げはしないでおいてあげる。あたしにはなにをやってもいいわよ」

「余裕だな。ひょっとしてリンダのほうが、そのトムより強かったのか?」

「いいえ。あたしは一度も勝てなかった。なにしろCIAエージェントの中でも、こと格闘と射撃に関しては十年にひとりの天才といわれてたわけだしね。でも今の君になら勝てるはずよ。体がなまくらだし、本能だけじゃ有効に戦えない。勝つには作戦とか、相手の技の知識とかも必要なのよ」

 いわれてみれば、端午はリンダがどんな技を使うのかも知らない。ぎゃくにリンダのほうはよく知っているのだろう。それに端午はトムほど大きな体もしていなければ、筋力も弱いだろう。第一、小脳による指令に体の筋肉がどれくらい適応できるのかだって未知数だ。

 だけどトムってのは、そこまで強かったのかよ。俺はそれに近づけるのか?

 端午自身、それを確認してみたくなった。畳の上でリンダに向かい合って立つ。

「まずは難度の低い技からいくから受けてみなさい。体がどう反応するのか確かめるのよ。もっとも体が勝手に動くようなら反撃してもいいわ」

 いうやいやな、リンダは正拳中段突きを放った。

 端午は左手でそれを外に向けて払うと、一歩踏み込みながら同様に右拳でリンダの顔面をねらう。それは反射的な行動だった。

 リンダはそれを軽々とブロックした。

「やっぱりスピードがぜんぜんね。体が技についていっていないのよ」

 リンダは挑発するようにいった。

 しょうがないだろう。こっちは生まれてこの方こんな動きをしたことがないんだから。

 そう思いつつも、体が覚えてる技を繰り出すのは楽しくもあった。もともと格闘技にすごく興味だけはあるのだ。今まで自分がそういう動きをするのを想像して楽しむことはあったが、じっさいにそれができたためしはなかった。

 リンダが繰り出す、パンチ、キックに体が瞬時に反応し、さばいていく。それだけで、自分がとてつもないヒーローになった気がしてきた。

 自然とこっちからも手が出る。

 直線的で単純なパンチはぜんぶリンダに叩き落とされた。

 だが端午は顔面突きでリンダの注意を上に引きつけ、右のローキックで左足をねらう。

 リンダは足を上げてカットした。

 すかさず、左の中段回し蹴りでリンダの腹をねらった。

 リンダは瞬時に前に出て、間合いをつぶす。こうなると回し蹴りはきかない。

 端午の体はすかさず反応した。フックのように横回転の肘打ちがリンダの顔面に炸裂する。

 と思いきや、リンダは寸前で頭を下げ、端午の足を取った。

 とたんに、しりもちをつく。

 リンダはさらにつかんだ足を端午の頭のほうに押しつけながら、体を被せてきた。

 なんとなくリンダがレスリングの寝技に持ち込もうとしているのがわかった。

 端午は腕をとると、両足をリンダの首に下からからめる。

 それが柔道の三角締めという技なのは、知識として知っていた。もちろん、端午は今、自分の知識でそれをおこなっているわけではなく、体が勝手に動いているのだ。

 リンダは取られた腕の肘関節を極められることなく、強引に力で引っこ抜いた。女にもかかわらず、単純な筋力では端午よりも上らしい。

 さらにリンダはそのまま畳の上を横にごろごろと転がる。とうぜん、端午もそれに引きずりこまれた。

 知らない間にからめた両足が解けていた。リンダはそれ以上、執拗に寝技で攻めることをせず、立ち上がると距離を置く。そのままかまえを解いたので、自然と端午も棒立ちになる。攻め込もうにも、すでに息も絶え絶えで、脚がかすかに震えている。おまけに全身汗びっしょりだ。

「やっぱり技だけじゃだめね」

 そういうリンダは軽く息を弾ませているだけだった。

「体力が決定的になさすぎる。今のままじゃ、三分も戦えないわ」

 悔しいがそれは真実だろう。すでに端午は立っているのがやっとだ。

「それと力がない。だから関節を極めようとしても外される。それに打撃ひとつひとつにスピードがない」

 リンダは手厳しい。

「打撃に重さがないのは、力というより、むしろ体重が軽いせいね。まあ、これは仕方がないわ。君とトムじゃ体格がちがいすぎる」

 たしかに自分を助けたあの白人は体が大きかった。端午はクラスでも平均以下の身長しかないし、どちらかというと痩せているほうだ。

「でも、トムの技の中には体重のなさをカバーして強力な打撃を生む技もある。いわゆる中国拳法の発勁ね」

「発勁?」

 いや、もちろん知ってはいた。なにせ興味だけはあるのだから。だが、そんなものがほんとうに使えるのかどうか、はっきりいって半信半疑だった。

「そう、発勁。といっても日本じゃほとんど超能力のようにすごい破壊力をもつ技と誤解されてるけど、そういうものでもないらしいわ。トムの受け入りだけど、ようは効果的に強い打撃を撃つ秘訣よ。体全体の動きを連動させて一カ所にパワーを集中させる。それと体全体で打ち込むことによって打撃に自分の体重を効果的に乗せることができる。そういうことを、中国拳法流におこなうことが発勁らしいわ」

「トムにはそれができたのか?」

「もちろん。というか、発勁に興味を持ったからこそ中国拳法を研究したのよ。もちろん体が大きいほうがより強い勁力を得られるらしいけど、人間を倒すには君くらいの体があれば十分みたいよ」

 端午はそれを聞いて、わくわくした。話に聞くだけでじっさいに見たこともない発勁。それが今自分の体の中に宿っている。それは知識と興味だけ豊富な格闘オタクにとっては夢のようなことだ。

「ちょっとやってみる?」

「え?」

「ちょうどサンドバッグもあるし、ほんとうなら自習してもらおうと思ってたビデオがあるから、試してみるのもいいかもね。あたしもちょっと見てみたいし」

「ああ」

 興味なさそうなそぶりをしたが、内心端午は試してみたくてしょうがなかった。そもそも、今のペースでリンダとのスパーリングを続ければぶっ倒れてしまう。

 リンダは部屋の片隅に置かれてあったモニターとDVDプレーヤーのところまで行くと、DVDをセットした。

「君にわかるように、日本語のやつを用意しといたから」

 端午がモニターの前までいくと、リンダは恩着せがましくいう。

「細かい説明は抜きで。どうせ体が覚えてるから。そうね、これなんかどう?」

 リンダはリモコンで適当な画像を選択した。

 モニターに流れたのは形意拳だった。

 あまりくわしくはないが、たしか、太極拳や八卦掌と並ぶ、内家拳のひとつで、このみっつの中ではもっとも直線的な剛健。基本の技に加え、動物の動きを真似た技がある拳法。その程度の知識はあった。

『次、五行拳のひとつ、崩拳』

 画面の中で拳法着の拳士がいった。そして型を見せる。

 その拳士は左手を前に出した左半身のかまえから、左足を一歩踏み込むと、左手を手前に強く引き、同時に右足を前に送り、右拳を突き出した。

 拳は縦拳で、高さは中段。とくになんてことのない地味な技だ。

 さらに防具をつけたパートナーを使って、じっさいにどう使うかを演じ始める。

 さっきの拳士は、もうひとりの拳士の左手を左手でつかみ、手前に引く。そしてさっきの要領で、相手の脇腹に拳をたたき込んだ。まさに体ごとたたき込むパンチで、腕を伸ばしきったとき、相手の体はふっとんでいた。

「やってみて」

 リンダはビデオを止めると、サンドバッグを指さした。

 端午はサンドバッグの前に立つと、今の映像を思い出した。

「深く考えすぎないで、今の動きをイメージできたら、あとは体の記憶にまかせるよ」

 リンダがアドバイスする。

 見よう見まねでビデオどおりのかまえをすると、ぴたりと決まった。

 やはり無意識ながら、体が覚えている。そう考えると、気が楽になった。

 すうっと息を吸うと、前に出した左足を滑らせるように前に出す。

 直後、後ろにあった右足が前に飛ぶ。

 右足は左足のやや後ろで床につくと、端午は無意識に腰の重心を下に落とした。

 同時に、左手は後ろに引き、腰に置いていた右拳は前に突き出された。

 ひゅん。

 明らかに右拳の風を切りさく音がした。

 右拳に重い圧力が加わり、サンドバッグが「く」の字に曲がった。

 あまりの威力に、端午自身が愕然とした。これが人間相手なら、相手の肋骨はまちがいなくへし折れている。

 これが体全体を使って打つってことなのか?

「おみごと」

 リンダが拍手をする。お世辞ではなく、ほんとうに感心しているようだ。

 とてつもないものを手に入れた実感が、溢れんばかりに湧いてくる。

 もっとだ。もっとこの感じを……。

「他のもやらせろ」

 端午はリンダからリモコンをうばうと、さっきのDVDをかたっぱしから再生する。

 ほんの数時間のうちに、端午は他の五行拳のよっつの拳。そして十二の動物の動きを真似たといわれる十二形拳を試す。

 いずれもものすごい破壊力だった。しかも、一度ビデオの動きを見ただけで完璧にマスターできる。自分がとてつもない天才にでもなった気分だ。

 拳をひとつ繰り出す度に、自分があこがれ続けていた達人に近づいていくのが実感できる。それはとてつもない快感だった。

 いつのまにか、汗が床に水たまりのようになっている。

 時間を忘れ、ここまでなにかに夢中になったのは生まれて初めてだ。

 ようやく自分が疲れきっていることに気づいた。完全に膝が笑っている。

「きょうはここまでにしておきましょう。倒れるわよ」

 リンダにそういわれ、ほんとうに倒れそうになった。

「ここにいる間、寝泊まりはさっきの部屋でしてもらうわ。あの部屋にもモニターはあるから」

 リンダは同じようなDVDの山を手渡した。

「これは宿題。太極拳、八卦掌、八極拳、それに柔道と空手、合気道の教則ビデオよ。今と同じような感じで、一週間でマスターして」

 普通ならぜったいに不可能な注文なのだが、端午の場合、一度見ればできるのだ。しかも完璧に。

 端午はやってやると思った。たしかに死ぬほど大変そうだ。しかし、なんだかんだいいつつ、妄想でしかなかった、自分が格闘の天才になることが、夢ではなくなったのだから。

「とりあえずこれから一週間、あたしがいろいろお相手してあげるから。もちろん、最低限戦える体にするためにね」

 リンダは楽しそうに笑うと、さらに付け加える。

「食事は運ぶように手配しておくわ。その前にシャワーでも浴びるのね。汗まみれもいいところだわ」

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