01 逃亡罪科(1)
「………………」
名無が眼を見開いた時、最初に眼に入ってきたのは緑豊かな木々が青空を背景に揺れる景色だった。
頬を撫でるように吹く柔らかなそよ風、鼻腔を擽るように漂う樹木特有の香り、耳に心地よく聞こえる草木が擦れる音。
つい先ほどまでいた戦場とは全くの正反対。
猛火に焼かれたことで漂っていた血と人の肉の焦げた異臭、銃撃と爆発音、悲鳴と怒声。そのどれもが存在しない森で、青年は呆けたような表情を浮かべ土の上に寝そべっていた。
『マスター、マスター・ナナキ? 身体に異常は無いようですが大丈夫ですか?』
「……ああ、問題ない。ただ、空を見ていただけだ」
自分が見慣れた紅い空や黒い煙雲とは似てもにつかない青い空、どこまでも澄み渡るその蒼空とそこに流れる白い雲を見たことが無いわけではない。それでも目の前に広がる何の変哲もない空を見て思ってしまったのだ。
空はこんなにも綺麗なものだったのか、と……。
青空を見つめる名無の色違いの瞳は、見ている空を眼に焼き付けようとしているかのように空を見つめたまま動かない。それどころかずっとこのまま、日が暮れてもその場から動く様子さえ感じさせない程に名無は見入っていた。
『マスター、まずは周囲の探索を。居場所を探知されないよう通信回線を閉じている分、ワタシの機能も大部分が制限されます……ここは少しでも早く現状確認に努めるべきだと進言します』
「すまない……少し気を抜きすぎたな」
逃亡に成功したとは言え、まだ身の安全が完全に保証されたわけではない。
武器は所持しているものの、着の身着のままと何ら変わらない。
まずは今、自分がどの国のどの地域にいるのか。そこから逃亡生活に必要な軍資金、徒歩以外での移動手段の確保。必要であれば仮住まいができる家屋の確保と情報屋などの協力者を捜し、可能な限り情報を得る。そこから追跡者の情報を得た場合、相手にせず逃げ切るか追ってこれないよう撃退するかを決める必要もある。
この状況下においてやらなくてはいけない事は山程ある、マクスウェルの言う通り少しでも早く行動を起こした方が良いのは確かだった。
名無は一度だけ深呼吸をし、その場から立ち上がる。
「マクスウェル、現時点でお前が使える機能は?」
『戦闘時では対輪外者用武器(ノーティス)の刀身構築、有効範囲半径二百メートル程の内臓型赤外線センサーの二つ。非戦闘時においては対象のフィジカル分析と大気観測。あとは言語翻訳と解析。現段階では以上の物が確実に使用可能です』
「なら、まずはセンサーで周囲を警戒してくれ。反応が人型である物を優先的に報告を頼む。俺はこのまま森の中を移動する」
『イエス、マスター。索敵を開始します』
周囲の警戒をマクスウェルに任せ、名無は気を引き締め森の中を歩き始めた。
名無は索敵を行っているマクスウェルの邪魔をしないよう一言も喋らず、索敵に集中している彼女も話すことはない。
神経を研ぎ澄ますそんな二人を、森は迎え入れるように優しく包み込む。
木々のすき間から零れる暖かな陽光が照らす森の中を進む二人。その姿は彼等の周りだけ時間の流れが切り取られたような、そんな錯覚が出来る程に穏やかな雰囲気が流れていた。
『…………マスター』
微かに聞こえる動物達の囀りと共にマクスウェルが名無に呼びかける。その声は戦場で名無の支援をする時と同じ、無機質な機械としての声音が強い声。
「敵か?」
名無もマクスウェルの声の質から戦闘準備の必要性を感じとり歩みを止め、些細な前兆も見逃さないよう五感を研ぎ澄ませる。
『まだ敵なのか判断できませんが、この先……約百八十メートルほど先に熱源反応を四つ確認しました。シルエットから人間だと判断します』
「四人一組(フォーマンセル)……俺を捕らえる為の刺客だとしたら少なすぎる」
戦闘時において二人、もしくは三人が攻撃役の前衛。残った側が後衛で支援に徹する隊列。
自分の能力を完全に把握しているのは関係者の中でもごく一部。とは言え、自分に対し有効性の高い能力を持った《輪外者》を差し向けるのなら最低でもその十倍は必要になる。その事が分かっていながら四人だけ……、拘束が目的でないのだとしたら自分の現在位置を把握するためか。
「四人は俺達に気づいているのか?」
『いえ、気づいてはいません。気づいていないと言うより、少し様子がおかしいようです』
「どういう事だ?」
『三人が一人を囲むように立っています。ワタシ達に気づいていないのは三人が、その一人に意識を集中しているからだと思われます』
「つまり俺達への追っ手ではなく、まったく関係のない事件性のある事態に俺達が遭遇しかけている……と言うことか」
『絶対に、とは言い切れませんが……どうしますか? ここは関わらない方が賢明な判断だと思いますが』
こうして森の中を歩いて移動している時でさえ、衛星を使って遙か上空から名無の居場所を突き止める事は可能である。その可能性を考え彼も目立たないようなるべく木陰に身を隠すように移動してきたのだから、ここで人目に付くような行動を無理に起こす必要はない。
更に言えばこちらの索敵機能の大部分が使用できない、それは自分達から打って出るには不利な要素だ。名無もマクスウェルの出した判断が高い正確性と、正当性を持っていることを分かっている。
その事もあって自分達に何の関係のない第三者達の争いにどう対処すべきか、名無は眼を瞑り沈思し、黙考する。しかし、ものの数秒で彼は答えを決めた。
「まず様子を見に行く。事態が悪い方へ向かうなら仲裁に入るぞ」
『罠の可能性も有りますが?』
「それでもだ、反対しているお前にはすまないと思ってる。だが――」
『行くと決めたのならワタシのことはお気になさらず。マスターのその意志を尊重します』
マクスウェルの警告を無碍にしてしまい名無は若干の後ろめたさを感じつつも、マクスウェルは名無が口にしようとした言葉が分かっているのか彼が言い終える前に同意する。
『ワタシは幼かった頃のマスターを手助けする為に作られた支援ユニットです。もっとも、今ではその必要性が殆ど無くなってしまいましたが』
「………………」
『結論を申し上げれば、マスターはもう自由の身。無数の選択肢を得たアナタに付いていくと決めたのはワタシ自身です……ですから、ワタシの事はお気になさらず。マスターの望むままに』
「そうか、すまない礼を言う」
自分の提案を受け入れてくれた事に感謝しながら、名無はマクスウェルに触れた。
「……行くぞ」
力強く踏み出した足は土を蹴り、名無は一気に森の中を駆け抜ける。
――森の中を軽快に走るその姿はまさに疾風。
名無が走っているのは当然のことながら人の手入れが行き届いていない森、足場が悪い場所もあれば草が生い茂りただ前に進むだけでも困難な地帯もある。だが、彼はそんな森の中を縦横無尽に駆ける。
足下が不安定なら地面に亀裂が入る程に踏み込み、視界が悪く前に進むのが困難なら頭上へ跳びあがり木々を撓らせ突き進む。人を超えたその身体能力も普通の人間と《輪外者》の違いの一つだった。
『出口です』
マクスウェルの言葉とほぼ同時に名無は最後の跳躍で森を抜け、開けた場所に出る。そして着地と同時に――
『マスター』
「ああ、来て正解だったようだ」
マクスウェルの呼び掛けに暗く沈んだ声を返す名無。
何故なら、名無の眼に飛び込んできたのは西洋の鎧を思わせる甲冑に身を包んだ三人の男達が一人の少女を地面に押し倒し、今にも襲いかかろうとしている醜く卑劣な光景だったからだ。
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