偽空の下で(2)




 宿屋を後にした名無とレラはラウエルと外界を隔てる城塞だけで無く、街の至る箇所に使われている薄い灰色の煉瓦を加工して造られた細やかな石畳の道を黙々と歩き続ける。

 目的地は第二区画と第三区画を隔てる検問所を抜けた先にある飲食店。

 すでに検問所は通り抜け後は昼食を取る店に辿り着くだけ。

 ……たったそれだけの外出ではあったが一言も喋らない二人の表情は――特にレラの表情が硬い。


(何処を見ても人間しかいない、人間の街なのだから当たり前だが……やはり何か話をして彼女の気を紛らわせてやる事も難しいな)


 できる限り平静を保ち動揺と不安を表に出さないようにしているようだが、周囲から向けられる好奇の視線にレラの胸の中で不安が渦巻いていることが陰りのある面持ちから伝わってくる。


「………………っ」


 此処までの道中でも滅多に不安を見せなかったレラだったが、やはり名無が傍に居るとは言え人間達が数多く往来する中を歩き必然的に集まってしまう視線が堪えているようだ。外出するにあたってレラも承諾してくれたとは言え、魔族にとって最悪の環境。

 本物の奴隷でも無ければ身を置くことが無い状況は、レラも自身が予想していたものよりも厳しい状況だと実感しているのだろう。

 名無としてもレラを励ます言葉を掛けたいのだが、周囲の眼がある以上は迂闊に声を掛けることもできない。


(もうそろそろ見えるはずだが……………………良し、あったぞ)


 隠しきれていない緊張を漂わせるレラを思い少しでも早く目的地へと焦る名無の思いが天に届いたのか、名無の眼に目的地である店が映り込み程なくして店の前まで辿り着く。

 店の中には、やはり大勢の人間達がいるのだろう。店の扉がしまっていても賑やかな声が聞こえてくる。比率としては野太い声が良く響いていることを考えると主な客層は男達のようだ。


「中は騒がしいようだが今日の昼食は此処で取る、何が起きても余計な真似はするな。お前は黙って着いてくれば良い……良いな?」


「……はいっ」


「『身体劣化』解除………行くぞ」


 レラの身に危険が迫る前に対処出来るよう『身体劣化』を解き、銀の双眸を携え店の中へと足を踏み入れる名無。

 二人の眼に映ったのは大人数で集まることが出来るよう拵えられた幅のある長机から数人で囲う事が出来る大樽を利用した机、店主と顔をつきあわせることが出来るカウンター席。

 文字で綴られたメニューは無く代わりに店の壁に掛かるのは荒っぽくも的確に描かれた取り扱っているお手製の絵表や、客に好みに合わせて揃えられたであろう酒瓶の数々。

 店内の様子は店の外にまで聞こえてきた喧噪に似合う大衆酒場、客層も筋骨隆々とした者や顔に幾つも傷を付けた者。中には四肢の一つを欠損した者もいる、少なからず女性の姿もあるが男達に負けず劣らずと言った雰囲気を漂わせていた。


(第三区画は冒険者達に割り当てられた区域。此処に彼等がいるのは何も変な事じゃ無いが……ざっと三十人近く、荒くれ者の集まりなのは確かなようだ)


 堅い木で作られたエールが入ったジョッキを遠慮無くぶつけ合い口から溢れるのも構わず喉を鳴らして飲む男達、周りの目もマナーも関係ないと言わんばかりに注文した料理を次々と平らげていく女達。

 各々の酒と料理を楽しむ姿は実に野性的、これなら自分達が少しくらいマナー違反をしたところで誰も気にも止めないだろう。気に止めたとしても精々、注文を聞いて回るウエイトレス達が訝しげるくらいか。


「……おい、あれ……」


「ああ、検問所で見た上玉の……」


「若いけど良い面構えじゃないか、活きも良さそうだねえ……それはそれで問題あるけど」


「ええ、あっちの方も達者でお盛んらしいわよ。魔族とは言え同じ女としては気が済むまで何て言われたら……」


 店の酒を煽るように飲み、出される料理にかぶり付いているところに別の客が姿を現す。

 これといって変わった光景ではないものの、検問所での一芝居が尾を引いているのか男達はレラを、女達は名無を……それぞれの思惑と全くの誤解を囁き隠すことも無く視線を二人に向けていた。

 そんな中を名無はレラを連れ怖じ気づく事無く突き進み、店内の客と同様にカウンター席を挟み自分達に眼を向ける店主へ歩み寄る。


「食事がしたい、この店は奴隷連れでも構わないと聞いた」


「へ、へえ……別にかまいませんでさあ。何を喰うか決まってましたかい?」


「肉料理で食べやすいものを、連れている奴隷も同じだ」


「ど、奴隷にも同じもんをくわせるんですかいっ!」


「そうだ、魔族の奴隷の中でもブルーリッドは希少で手に入りにくい。所有者として管理に気を遣うのは当たり前だ、何か問題でもあるのか?」



「め、滅相もねえですよ! すぐに準備しますんで、ちっとばかっし待っててくだせ!!」


「ああ、俺達は其所の席を使わせてもらうぞ」


「どうぞどうぞ」


 そう言って名無が指定した席はカウンターのすぐ近く、店の奧側にある二人で座る対面式のテーブル席。店主の了解を得た名無はレラと一緒に椅子に腰を下ろした。


(ここまでは順調だ。後は何事も無く食事を終わらせて宿屋に戻れば少しは気を抜ける……んだが、そこまでが長そうだ)


 店に入っても周りの視線が自分達に突き刺さる。

 興味がある相手に気付かれず様子を窺う、普通は視線を泳がせ僅かな時間だけ眼を止めるものだと思うのだが店内にいる客はその例に当てはまらない。

 男も女も横目で自分達を見るのでは無く堂々と顔を向け、中には身体ごと向けている者達もいる。


「………………」


 その視線にレラは緊張と不安に顔を俯かせ何も喋らずに耐えていた。外を歩いていた時よりも視線の数は少ないが密室空間では視線の圧力と言えば良いのか、より一層見られている感覚を強く感じる。こうもあからさまに視線を向けられて声を掛けるどころか、それらしいニュアンスを目線で伝える事もままならない。


(料理が出てくるまで時間が掛かる、ここは一旦外に出た方が良いか? いや、それだと不自然すぎる)


 狭くはないとはいえ一つの建物に大勢の人間が集まっている、そんな場所でじっとしているよりも外で物珍しそうな眼を向けられる方が幾分か楽だろうか。しかし、入店して料理の注文をしても滞在時間はほんの数分。なのに外で待とうとすれば余計に他の客達の意識を集めかねない。


(無理に外出せず手持ちで残っている保存食で食事を済ませた方が良かったか……今度からはこういう些細な事も相談したほうが良いな)


 エルマリアのお陰でこの世界の常識を学ぶことが出来たとは言っても所詮は本当の意味で身につききっていない付け焼き刃、レラと同じ食事を取ると決めた事も店主の様子からして普通はあり得ない事なのだろう。

 咄嗟に、と言うほど焦ってはいなかったが口から出した出任せは、それなりに傲慢な主人らしい説得力が効いた台詞だったはずだ。店主には悪いことをしたが、この場で他の客達に嘗められるわけにはいかない。


(兎に角、これから先も互いに主従を演じる上で気を付けなければならない事にまた一つ気付くことが出来た。今回の失敗を次にいかせるようにしなくては……)


 料理が運ばれてくるのを待つ中、レラに掛ける負担の大きさと自身の迂闊に沈痛な面持ちを浮かべる名無。


「おい、坊主! 随分と辛気くさい面してんじゃねえか、そんな面して居られたんじゃ折角の酒が不味くなっちまうぜ!!」


「……何か用か?」


 騒がしい酒場の中で別空間に隔離されたのかと思えてしまうほど森閑とした雰囲気に包まれる名無とレラ。そんな二人の元へ酒を片手に意気揚々と近づいてくる男が一人。


「さっきも言ったろ? そんな仏頂面で座ってる奴がいたら嫌でも目につくからな、少しばっかし人生の先達が世話を焼きに来てやったんだよ」


「………………」


 名無達に声を掛けたのは背が二メートルはあるだろう体格の良い大男だった。

 上半身は殆ど裸、左肩に付けている肩当てが申し訳程度についているような格好で筋肉の鎧を惜しげも無く晒している。場所が場所なだけあって武器は持っていないようだが、丸太を思わせる太い腕はそれだけで凶器だと判断して良い。

 そんな大男が気安い笑みを浮かべる見ず知らずの自分に声を掛ける、善意から声を掛けたかもしれないが柔やか細められた眼は自分よりもレラに向けられている……レラが自分の方を向いてくれていて良かったと思える下卑た眼だ。


(……これも俺のミスだな)


 だが、大男の狙いが分かり易いのは正直助かったとも言える。自分の身を守る以上に他の誰かを守るのは困難を極める、とりわけ敵の狙いが分からないのは特に。今回は魔族の中でもとりわけ希少なブルーリッドであるレラを狙っている、男だけが絡んできた点を考えても下衆なものだろう。

 名無は慌てること無く冷静に大男の目的を理解し小さく溜め息を吐いた。


「赤の他人に世話を焼かれるほど困ってなどいない、話が終わったなら自分の席に戻ると良い」


「何強がってんだ、ここ最近碌な稼ぎが無かったんだろ? だったら俺の話は素直に聞くのが吉ってもんだ」


「成る程、検問所で俺達の話を聞いていたのか……近くにはいなかったと思うが見た目に似合わず気が回るようだ」


「言ってくれるじゃねえか、坊主。だが、俺の話を聞いた方が得だって分かったろ? 単刀直入に言うとだな、この近くでお宝が眠ってるかもしれねえ場所を幾つか教えてやる、その代わり――」


「断る」


「おいおい、人の話は最後まで聞けよ。お互いそう損はしねえ取引なんだぞ?」


「取引? 確かな確証もない情報を材料に持ちかける話を俺は取引とは思わないな」


 取引とは互いに利益を得られるよう交渉することだ。

 有るかも分からない財宝の所在を教える代わりにレラを渡せ、と持ちかけられても余程の考え無しで無くては飛びつくことなどあり得ない詐欺同然の話だ。この世界において情報がどれだけ重要な物なのかは分かっているがそんな話をされたところで意味は無い。

 そもそも自分とレラは主従関係などでは無い。この場で話す事は出来ないがレラは本当自分を救ってくれた恩人、そんな彼女を欲塗れの男に渡す選択肢など最初から存在しないのだから。


「用が済んだならもう放っておいてくれ、暫く歩きづめで疲れているんだ」


「ったく、物わかりの悪い若造は痛い思いしなきゃ分からんらしい」


 まだ中身の入っているジョッキを投げ捨て名無を威嚇するように指の骨を慣らし笑みを浮かべる大男、そんな彼の後ろには冒険者として活動を共にしているであろう男が四人。皆が皆、名無よりも体格の良い者達ばかりだ。

 そんな名無達の様子を窺っていた周りの客達は男女関係なく名無達をけしかけるように野次を飛ばす、中にはどちらが勝つかと賭けを始めた者達までいた。


「俺も元魔法騎士でな、『豪腕』の二つ名を持った異名騎士だったんだ。安心しろ、半殺しくらいですませてやる」


 その言葉に大男達の勝ちに賭けていた客から歓声があがり、名無に賭けていた数少ない者達は勝敗は決したと肩を落とす。確かに見た目で判断すれば強そうなのは一目瞭然、まして元異名騎士ともなれば一層力の差があると思うだろう。


「じっとしていろ、すぐに終わらせる」


「わ、分かりました」


 名無は椅子から立ち上がりレラを下がらせ五人の前に立つ。

「馬鹿な奴だ、大人しく奴隷を置いて逃げりゃあ良かったのによ。二つ名持ちの俺を相手に坊主みたいな新米が勝てるわけ――」


 無い、と大男が口にするよりも早く店の喧噪を塗り潰す鈍い音が響く。それは大男の腹部からあがり、そこには右腕を突き出した名無の姿があった。


「ふぐっ、うっぷ……!?」


 己の反応速度を簡単に超えてきた名無の一撃に、大男は自分の腹を抱え脂汗と苦悶の表情と共に前屈みになる。


「仕掛けてきたのはそっちだ、不意打ちだの卑怯だ言ってくれるなよ」


 交渉は決裂、実力行使の相対。

 お互いに何時手を出してもおかしくない状態でゆうゆうと喋っていた大男を前に先に動いたのは名無だった。一触即発の中で始まりの合図などある筈がないのだが、のちのち妙な言いがかりを付けられては切りが無い。

 小さくも場に通る声で釘を刺すと同時に、名無は自分の目の前まで下がってきた大男の顔を振り払うように右の裏拳をめり込ませ店の出入り口へと殴り飛ばす。

 殴り飛ばされた大男は店の出入り口にぶつかって止まるどころか、そのまま道を挟んで建つ家屋の壁に激突。崩れ落ちる灰色の瓦礫と共に地面へとずり落ち動く事は無かった。


「加減はした、死にはしないだろう」


「「「「「………………」」」」」


 その光景に仲間の四人と観客と化していた冒険者達は何が起きたのかと唖然としていた――訳では無い。

 店の奥で調理に勤しむ店主と料理人、ホールで忙しく歩き回っていたウエイトレス達を除いた冒険者全ての喉元に火、水、風、土――一小節の詠唱も無く放たれた四属性の小剣が突きつけられていた。


「お――」


「これ以上手間を掛けさせないでくれ。何も喋るな、指一本動かすな、何もせずそこに建っていろ。俺が何を求めているのか分からないというのなら加減は無しだ」


 静かに語りかける名無の声に殺意は篭もっていない、それは冒険者達に突きつけている魔法の刃も同様だ。しかし、鋭く細められた銀の双眸が放つ有無をも言わせぬ冷たい重圧に、その場の誰もが哀れなほどに身を震わせている。

 無様とは言え、名無が放つ威圧を受けずに済んだのだから店の外で気を失っている男は有る意味幸運だったと言えるだろう。


「店主はいるか?」


「へ、へえ! ここにいまさあっ!!」


 名無の呼び掛けに店の奥の厨房にいた店主が姿を見せる。

 それもカウンター席を飛び越えて真っ直ぐに、殺気では無くとも名無に当てられた威圧に怯え切っていることが分かる。それはホールにいるウエイトレス達も同じで部屋の隅で縮こまっていた。


「頼んでおいた料理だが可能ならそれを包んで欲くれ、見ての通り此処ではもうゆっくりと食事が出来そうに無いからな」


「わ、わかりやした。あと五分もすりゃだせると思うんで」


「分かった……あと、これを受け取れ」


 名無は腰に下げている通貨入れの一つをそのまま店主に手渡し、ずっしりと手に掛かった重さに店主が眼を点にする。


「全部で一万リッド、料理の代金の他に壊してしまった店の修理代と迷惑料も入っている」


 第二区画への滞在を許される自分達は料金の支払いは発生しないとの事だったが、自分の要求に対して応えてくれた対価はきっちりと払う準備はしてきた。加えてこの騒ぎだ、主な原因は無理矢理でもレラを奪おうとした男達にあるのだが態度の悪さからして壊してしまった店の修理代を向こうに請求して置くように言っておいても払うことは無いだろう。

 脅せば出すかも知れないが、自分達から揉め事の種をまきたくは無い。出なければ外で伸びている男だけで無く、この場にいる冒険者達に忠告した意味が無くなる。

 しかし、店側からすれば予定外の出費だ。それを出さざる終えなくしてしまったのは間違いなく自分、金銭の支払いをしなくて良いとしても弁償くらいはしておかなくては気の毒だ。


「悪いがこれ以上は出せない、足りない分はお前達の方で受け持て」


「めめめ、滅相もありやせん!? 足りないどころか多すぎでさあ!!」


 これだけ貰えれば充分だと袋から必要な分だけ取り出し、殆ど重さが変わっていない袋を名無に返した。


「て、店長! 頼まれた物が出来ましたよっ!」


「でかした! お客人、出来たもんを持ってきますんで帰らんで待っててくだせえよ!」


 分かったと名無が返事を返す前に店主は又もやカウンター席を軽快に飛び越え声が掛かった厨房へと駆け込む。あと五分で出来るといっていたが、その五分も経たずに作ってくれたようだ。そしてすぐに悪いことをしてしまったなと思う名無の元へと店長が戻ってくる。

 名無が注文した料理が包まれているこし布袋を絶対に落とすまいと鬼気迫る形相を浮かべながら大事に抱えて。


「宿に帰るころには冷めちまってるでしょうが味は保証しますんで安心してくだせえ」


「そうか、では次の機会があればまた来る事にする」


「あ、ありがてえこってす! そん時は精一杯持てなさせてもらいまさあ!!」


「期待しておこう……行くぞ、レラ」


「は、はい!」


 名無は冒険者達に向けていた魔法をかき消し店主から渡された昼食になるはずだった料理を手に、レラは何一つ悪いことはしていなかったがぺこぺこと頭を下げて店を後にする。

 そんな二人の姿に身の危険を感じる要素は何もなかったが、それでも名無が見せつけた圧倒的な実力差と冷たい重圧の余韻が酒場を包み、二人がいなくなってもしばらくの間酒場に騒がしい喧噪が戻る事はなかった。





















「…………すまない」


「? な、何がですか??」


 酒場での騒ぎを収め宿屋へと戻る途中、名無は声量を絞りすぐ後ろを歩くレラに謝罪の言葉を掛ける。まだまだ人の行き来は多いものの、それに比例して店での買い物や世間話に話を咲かせる声も多い。

 余程近い距離で聞き耳を立てられない限り、名無の声は聞こえない。現に名無の声に反応して見せたのはレラだけだった。


「いくら君の了解を得たとは言っても外に出るべきじゃ無かった、それと演技でも君を物のように扱ってしまっていることも………………本当にすまない」


 人間だけの街に滞在するのは今回が初めて、それだけでもレラは緊張状態を強いられてしまうと言うのに自分の配慮の足りなさが更に負担に拍車を掛けている。

 シャルアに滞在していた時とは勝手が違うと分かっていながらも、ほんの少しの気遣いと言った所で後手に回ってしまう。そのせいで酒場では他の客に絡まれ、その場を納めたとは言っても結局昼食を取ること無くこうして宿屋へと戻っている……一言で言えば選択を間違えたと言えるが、これはそんな優しい物ではない。

 自分の傍にいてくれさえすればレラを護れるという奢り、レラが自分の意見に賛成してくれたことで出来てしまった気の緩み。その積み重ねがたった一時間程の時間でどれだけレラの負担になった事か。

 こうして考える時間を得られたことでよく分かる、冷静に判断を下し対処出来ていたという考えが酷い思い違いだったと。レラの心労を考えれば常に二手三手先を見据えて動かなくては意味が無い事も。


「大丈夫です」


「レラ……?」


「乱暴に話しかけられても、物扱いされても全然平気ですよ。だって、ナナキさんが声を掛けてくれると安心できます」


「それは、どうしてだ?」


 成るべく高圧的に成らないよう努めているとは言え、それでも自分のレラへの言葉は余り褒められた物では無い。だと言うのに何故レラが安心するのか分からない名無。


「だって私に話しかけてくれのは。それだけ私の事を気に掛けてくれてるって事ですから。それに……ナナキさんが優しい人なのは知ってます」


 名無達がこのラウエルで人の眼を完全に避けることが出来るのは宿屋で借り受けた一室のみ、それ以外は人の眼があろうとなかろうと名無は奴隷の所有者としてレラに乱暴な言葉を言い並べなくては成らない。

 しかし、名無が変わらず自分の事を気遣っている事をレラはちゃんと分かっていた。

 今さっきも強い物言いも、宿屋で給仕と言葉を交わしている時も高圧的に振る舞われても……それでもレラは名無の胸の内を理解していた。

 言葉を交わすことが出来なくても、肌に触れ心の色を見ることが出来なくても。

 周りからは見下すように視線を向けているように見えてもその実、自分を映す双眸が優しく。「何が起きても心配はいらない」と、真摯に訴えていた事を。


「だから大丈夫です、私もナナキさんの傍にいれば私が安全だって……分かってますから」


「………………」


 そして、自分が自分の為に名無の傍にいると言う二人の間でしか伝わることの無い意味合いを持つ建前(かんしや)を自然に口にするレラの声が、足を引きずるように重く沈んでいた名無の心を温かく包み込む。


「……まだ暫く続くが、よろしく頼む」


「はい、こちらこそ……です」


 閑か行われた囁き声の密話は本当に誰にも気付かれること無く終わりを迎える。どちらも前を見て歩いているために互いの顔を見る事はできなかったが、二人の口元には硬い表情を装っても尚ほんのわずか僅かに溢れ出た笑みが浮かんでいた。


『マスター、レラ様……第二区画の検問所へ向かう最短距離を確定しました。宜しければそちらを通ってはどうでしょうか』


 そんな二人の気を引き締めるように宿屋から沈黙を守っていたマクスウェルが、レラの首元で機械水晶を微かに輝かせる。


『日の光が入りにくく幾つか細い路地が入り組んではいますが、そこでなら気を緩めても問題無いかと』


「そうだな、少しでも早く食事に有り付くためにもそうしよう」


「そ、そうですね」


『では、そこの裏路地に入ってすぐの十字路を左に曲がってください。そこから暫くしてまた十字路になりますので、次を右に……そこから道なりに真っ直ぐ進めば検問所の前に出ます』


 今回、マクスウェルが黙っていたのは人前で喋ることを禁じられていたわけでも自制していたわけでもない。ラウエル到着後からずっと穴喰い状態ではあったが、ラウエル全体とは言えないものの街のマッピング作業に集中していたのだ。

 チョーカーという小さい見た目ではあるが半径二百メートル、直径四百メートルの範囲を感知できる高性能赤外線センサーを内蔵している。しかし、直径十キロを越えるラウエル全体をカバーすることは出来ない。

 だが、何もせず名無達の周囲ばかり警戒するだけでなく、僅かでも名無達がラウエルの地理を把握出来るよう名無達が行動している間もずっと地道に貢献してのだ。その事に気付き名無は特に反論すること無くマクスウェルの言う通りに影が覆う路地へと足を進める。

 表の街路と違い暗く狭くはあったが、ゴミが散乱し悪臭が漂うような光景は無い。こちらの文明レベルは中世ヨーロッパに近いと考えていた名無は、決して汚れてはいないとは言えないが意外にも手入れの行き届いた通路に感心するのだった。


(衛生的に見れば充分に清掃されている、余り酷いようなら引き返すことも考えてはいたが助かったな……尤も、これも弱者の反乱を防ぐ目的があるのだろうが)


 こう言った裏路地は悪事を働いた者達の逃走経路になりやすい。この街を管理、支配している側もその事を分かっているのだろう。道にゴミが転がってはおらず、有るのは精々ゴミを入れておく箱ぐらいである。

 走りやすくとも隠れる場所が殆ど無いのでは反抗の気概を見せるのも難しい。


(しかし、管理が行き届いてるお陰で早く宿屋へと戻れそうだ)


 裏道一つとってもラウエルの内情を汲み取れる事に軽くなった心がまた重くなり始めるが、もう引きずるまいと周囲に気を配り直す名無。

 最初の十字路も見えてきた、そこを右に次の十字路を左に曲がって後は真っ直ぐ歩き続ければ検問所まですぐ――


『前方、右方向から生体反応。ゆっくりとですがこちらに進んできています』


 そう考えた名無の思考に割り込むマクスウェルの声が裏路地に反響する。


『数は一、熱源のシルエットから子供だと思われます』


「他に反応は?」


『今の所ありません。裏路地の利用、武器の不所持、これらの事から地元住民であると考えられます。このまま進めばタイミング的に接触する可能性大かと』


「なら少し此処で待とう、ぶつかるのもそうだが不審者扱いされるのも不味いからな」

「はい」


『イエス、マスター』


 少しでも早く戻ろうとしているのは確かだが、子供一人通り過ぎるのを待てないほど急を要してはいない。仮にぶつかったとして不意の接触で転倒して怪我をさせてしまったりした方が時間を取られてしまう。

 只待つだけで小さな問題でも未然に回避できるならそれに越したことは無い。

 名無達は足を止め、自分達の方へと向かってくる子供が通り過ぎるのを待つ。

 しかし、


「……っ、……っく…………ぅぅ……」


 名無達は自分達の前に姿を見せた子供の状態に眼を見張った。

 無造作に伸びたオレンジ色の髪は乾いた泥と血に汚れ、小さな身体と身体を包んでいるローブも血に染まり酷い有様だった。


「ファ……ねぇっ……」


 誰かに襲われたのか、それとも事故なのか、、どうやってここまで歩いてきたのか、そもそも動ける状態なのか。考える事が有りすぎる中、血まみれの子供は掠れた声を漏らし煉瓦道に倒れ込んだ。


「だ、大丈夫ですかっ!?」


 この可笑しな状況で何の疑いも抱かず力なく横たわる子供の元へ駆け寄ったレラ、着ている服が血で汚れるのも気に掛けず子供を抱き上げる。

「マクスウェル、索敵を」


『イエス、マスター』


 一瞬遅れて二人を庇うように子供が歩いてきた通路に立つ名無、ローブからしたたり落ちたであろう血の痕跡が伸びる最奥まで鋭い視線を飛ばしマクスウェルへ周囲を探らせる。

『数は全部で十、この十字路から延びる全通路から迷いの無い足取りでこちらへと向かってくる熱源反応を確認』


「状況は分からないが、どうやら追われているようだな」


『その様です。あちらも警戒しながら動いているようですが、どうなさいますか?』


「不安要素は幾つもあるが今はその子を連れて此処を離れる、レラ、」


「は、はい!」


 傷の状態を確認しておきたいが状況がそれを許さない、名無は可能な限り身体に触らぬよう子供を抱き抱えレラに背を向けた。


「レラは俺の背中に、腕を首元で組んでくれればしっかりと掴む。落ちる心配はしなくて良い」


「は、はい。お願いします!」


 緊急事態である為、名無に抱きつく恥ずかしさを押し殺し名無の背中におぶさるレラ。


「この子の追っ手が検問所で待ち伏せしている可能性が高い。マクスウェルは身を隠してゆっくり治療が出来る場所を索敵、見つけたらすぐに誘導してくれ」


『イエス、マスター』


「これから建物の屋根まで跳んで移動する、恐いかも知れないが我慢してほしい」

「私の事は気にしないでください、それより落ち着いてその子の手当てが出来る所に行きましょう!」


「分かった、手は掴んでいるがしっかりしがみついてくれ……『霧隠不思(ネーベル・ストラーノ)』」


 『身体劣化』を解除した事で空いた枠を使用して名無が発動させたのは光や風といった、自分の周囲に漂う大気の状態を歪曲させ自分の姿を不可視化する能力である。

 そこにレラと子供も入っているため歪曲する範囲が大きいため必然的に負担大きくなってしまうが、これなら血塗れの子供を抱き抱えて移動していても誰の眼にとまる心配は無い。

 名無はレラが自分にしっかりとしがみつくと同時に地面を蹴り、裏路地を作る建造物の屋上へ。未だ状況を整理しきれない中でも、見過ごすことの出来なかった難題を抱える名無の足は止まることは無かった。





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