02-01 黒の美鬼(1)
なだらかな稜線を描く山の中腹。
その身より流れでる水を吐き出す滝口の一つ、その麓には緑鮮やかな木々に囲まれた小さくも美しい湖があった。澄み切った水は山の頂より遙か頭上にある雲一つ無い青空を、まるで鏡のように映す程に透きとおっている。
そんな絵画を思わせる風景が広がる中、湖の片隅で静かに佇む一糸纏わぬ目麗しい少女の姿があった。
「…………っ! ふぅ……気持ち良いです」
肩に掛かる濡れた烏羽根色の髪は温かな陽光を受け眩く輝き、丸い果実を思わせる豊かな胸、無駄なく引き締まった腰回り。そして、快晴の空にまったく劣らない蒼い肌も水滴という自然の宝石で着飾られたその鮮麗な姿は眼にした誰もが息をする事を忘れ見惚れてしまうだろう。
「――レラ、水は冷たくないか?」
扇情的な欲望よりも先に美的な欲求を感じざるおえない程の魅力を放つ蒼肌の少女――レラのすぐ近く、湖の畔にある大きな岩の向こうから男の声が上がる。
「気温は暖かいとは言え辛いようなら言ってくれ、粗末なものになってしまうが魔法を使えば簡単な風呂くらいなら準備できる」
「あ、ありがとうございます、ナナキさん。でも、さっきまで歩いてたので身体の方は火照ってて……その、今は冷たい水でも大丈夫ですから」
岩の向こうで自分の水浴びが終わるのを待っている名無の声に、レラは咄嗟に水面の中に身体を沈める。
二人が旅を始めてから一週間と二日、まだ始まったばかりの宛らしい宛の無い旅。
その最初の目的地は村の薬師である《妖精猫》グノーが昔訪ねた事があるという街だった。彼の情報を頼りに名無達は広大な草原を無理なく歩き進め、草原を隔てるように聳える山中で休息を取っていた。
グノーの話の通り、二つ目の山の山中で湖を見付けた二人。この湖は山の動物達だけで無く、時折山を越えようとする人間達も一息入れる憩いの場らしい。
名無はともかくとして、レラが彼等の目にとまれば襲われてしまうのは容易に想像が付く。グノーの忠告に従って名無は水浴びを迅速に済ませ、レラが気兼ねなく身体を浄められるよう当たりを監視している……という現状だった。
「君が大丈夫なら良いんだ、邪魔をしてしまってすまない。俺の事は気にせずゆっくり水浴びを続けてくれ」
「は、はい……」
名無の気遣いの言葉にぎこちなく声を返すレラ。
それもそうだろう。彼女と名無を隔てているのは二人の視界を遮る程の大きさの岩だが、名無がその気になれば飛び越える事も退かす事も出来る。だが、名無がそんな不謹慎極まりない行為に出るとはレラも思っていない。
しかし、着ていた服を脱ぎ生まれたままの姿でいる状態で異性が近くにいる状態では気を張らずにはいられないのもまた事実。
『レラ様、ご安心を。なにかしろ不測の事態でも起きなければ、マスターがレラ様の裸体を眼にする可能性は無いと思われます』
「マクスウェルさん」
『本来であればマスターもレラ様が安心して水浴が出来るようこの場を離れるでしょう。ですが、今は旅の途中。何が起こるか分かりません、これもレラ様の安全を考慮しての事ですのでご容赦を』
口に出せない気恥ずかしさに晒されているレラの懸念を拭いさろうと、彼女の首元でその身の機械水晶を輝かせる白銀のチョーカー――戦闘支援型自律AI『マクスウェル』は主である名無に聞こえない音量で杞憂である事をレラに申し立てる。
「ナ、ナナキさんを疑ってるわけじゃ無いんですよ? でも、その、声が聞こえると近くいるんだなって……す、少し恥ずかしいだけですから」
『いえ、こう言った状況であればレラ様の様な態度が正しい反応です。マスターにもそう言った感性が無いわけではないと思うのですが……考え方が少々ずれているようです』
「そ、そんな事は無いと思いますよ」
『お気遣い感謝します。ですが、歴とした事実ですので』
現にこうして話している今も、名無がレラの水浴びを覗こうとしていない事を内蔵している赤外線センサーで感知しているマクスウェル。
如何に己の欲望を律する事が出来る人物であっても、レラの様な目麗しい少女が自身の身近でその魅惑的な裸体を晒しているとなれば理性が揺れ動くものだ。だと言うのに、名無にはそれが無い。
もちろん名無にそう言った感情が無いわけでは無い。が、少しくらいは曝け出すべきだろうと機械水晶の輝きを弱め、気落ちしたような声音を響かせるマクスウェル。
『とにかく、マスターはレラ様に邪な感情は抱いていません。周囲の警戒はワタシも担当していますので、今は今後の行動について考えを巡らせていると思われます』
「変な心配をさせてしまってごめんなさい、マクスウェルさん」
『お気になさらず、先程も言いましたがソレが普通なのですから……はあ』
「そ、そうですね」
また小さな溜め息と共に名無に対するささやかな不満を溢してしまうマクスウェルに、レラは苦笑いを返すしかなかった。
そんな二人の気も知らず、名無はマクスウェルの予想通りこれから先の事について思考していた。
(グノーさんの話だと今いる山を下りれば、街まであと数時間。日が暮れる前に到着することが出来るが……いったいどちらの街なのかが問題だな)
ルクイ村と同じく魔族達が住んでいるのなら、レラに周辺地域の情報収集と食糧の調達を頼む事が出来る。それに用心の為に、マクスウェルをレラの補佐に付ける事も可能だ。人間の街であるなら逆に自分が率先して動けば良い。
もっともグノーが一度訪れた事があるのだから魔族側の街だと考えるのが妥当だが、どちらか分からないと忠告してくれた事を考えると、安易に動くのは危険と言える……出来る事ならレラを安全な場所で待たせ、先行して街の現状を確かめるのが最善策である。
(だが、先行して別行動を取った後が気がかりだ)
一時的に能力を解放しても詳細な座標設定が必要になる『転移操者(ポイント・オーダー)』では、もしもの場合にレラが待たせている場所から動いたら合流が困難になる。マリス達と戦う直前、影を使って自分とガロ達の位置を入れ替えた『影引置換(エクスチェンジ・シェード)』も、対象者であるレラとの距離が空きすぎても使えない。
レラを護るという一点に絞れば一緒に行動するのが一番良いのだが……魔法に対する知識が十分で無いのでは護りきる事が出来ない可能性も充分にある。
ここはレラ達の考えも聞いて、とれる選択肢を増やすべきかもしれない。そう考えた名無は無難にレラの水浴びが終わるのを待つ事にした。
『――索敵範囲に熱源を感知』
その時、マクスウェルが二人の元に接近する反応を感知する。彼女の知らせに名無は地面から腰をあげる。
「数と性別は?」
『数は一、熱源のシルエットから女性だと思われます。人間か魔族かは判断できませんが、接近する方角からするとおそらくワタシ達が目的地としている街の住人、もしくは街に出入りする方ではないかと……真っ直ぐこちらに向かって来ています』
「どちらにせよ好都合だ、危険を冒さずに情報を得られるかも知れない。レラ、彼女がこっちに到着する前に湖からあがってきてくれないか?」
「はい、すぐに」
「すまない」
水浴びを楽しんでいたレラには悪いが、思いがけず得られた情報収集の機会をみすみす手放すような真似はしたくない。
それに相手は女性である、男である自分だけでは要らぬ誤解を与えてしまうかもしれない。以前レラを助けた事で逆に誤解を招いてしまったという経験がある。
その時の経験も加え人間だろうと魔族だろうと、女性であればこんな人気のない場所で男と鉢合わせしてしまえば要らない警戒に繋がるのも体験済み。名無が今まで以上に相手に配慮した行動を考えざる終えないのは当然だ。
『熱源反応、ゆっくりと接近中。レラ様、慌てずに着替えてください。時間的猶予は充分にありますので』
「は、はい!」
とは言っても、相手を気遣う意識の仕方がまだ戦闘よりなのだろう。
間に大岩があるとは言え、岩の向こう側から聞こえてくる衣擦れの音に少しくらい意識を向けても良さそうなものだが名無の表情に変化はなかった。
「お、お待たせしました。マクスウェルさんをお返ししますね」
誰かが来ると言う事もあって、急がなくても良いと言われても急いで着替えたのか、レラの服装は僅かに乱れたものだった。髪に残っている拭いきれなかった水滴は彼女の烏羽根色の髪をより鮮やかに浮かび上がらせ、肌に残る水気が服を肌に貼り付けさせ華奢でありながら起伏ある身体をありありと際立たせている。
ある意味、裸体よりも色気を纏っていると言っても過言ではない姿だ。
「いや、まだ君が持っていてくれ。出会いがてら荒事にならないとは限らない、マクスウェルと一緒なら俺がいなくても姿を隠したり逃げたりするのにも力になってくれる」
だがすでに思考が戦闘よりになっているせいか、そんなレラの魅力的な出で立ちを眼にする事はなかった。
「マクスウェル、対象との距離は?」
『もう間もなく姿が見えるはずです、相手は一人ですが警戒は怠らないように。ワタシ達にとって情報提供者になり得るとは言え、味方であるとは言い切れません』
「ああ、レラも少しだけ気を張っていてくれ」
「は、はい」
すでに三人に浮ついた空気はなく、それでいて殺伐としたものでもない。あるのはできる限りの自然体、自分達が警戒していれば必然的にその空気は相手にも伝染してしまう。あくまで道すがら、今の場合は身体を休めている途中に出くわした……そう振る舞わなければならないのだから。
『視認まであと十秒……八秒……五秒、四、三…………』
十秒でカウントを数え、残り数秒で声を絞り相対に備えるマクスウェル。
「――――――ッ!」
「――――――きゃっ!?」
しかし、そこで名無が思わぬ行動に出た。
それはこの場にいた誰もが予想もせず、何の前触れも予告も指示もない突然の行動。
マクスウェルのカウントダウンと共に姿を見せた来訪者。そんな彼女の姿を眼で捕らえた瞬間に、名無はレラを左腕で抱き抱えて湖へと跳びずさり、対輪外者武器を手に取る。その動きにマクスウェルももはや条件反射の如く刀身を構築し主の出方を待つしか無かった。
「先客がいないとは思っていなかったのだけれ……不思議な事があるものね」
「………………」
無言で応える名無の視線の先にいたのは目麗しい一人の麗人。
暗い色でありながら高貴さを宿す艶やかな黒髪と深い黒の瞳、細身でありながら胸から腰回りに掛けて妖艶な曲線美を晒し、雪のように白い背中を大胆に見せる漆黒のドレスを纏う美女。
「私を見た途端に剣を向けてくる人がいるなんて、ちょっと驚きだわ」
レラとは異なる美貌は絶世の美女という言葉を思い浮かばせる。そんな黒を纏った魅了の権化が、怪しくも美しい微笑を溢す。
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