黒の美鬼(2)


「………………」


「ナ……ナナキさん」


 空から降り注ぐ日の光を浴びて水面を煌めかせる湖、その畔に佇む黒の妖花は注ぐ光すら吸い込む漆黒を纏ってなお美しい佇まいを崩さない。そんな美女を前して名無は眼を細め、いきなり抱き抱えられ混乱していたレラもナナキの肌に触れ心色を読み只ならぬ状況に陥ったのだと察知する。


(見た瞬間、寒気が奔った……それに何だ、この違和感は?)


 名無は抱えていたレラを自分の後ろに隠し、大刀を握る手に力を込め……そして緩めるという行動を何度も繰り返していた。

 自分達の前に姿を見せた女性に警戒心を抱いているというのに、それとは裏腹に敵意が萎え身体から力が抜けていくような奇妙な感覚。だが同時に、ここで武器を手放してはならない。

 多くの死線をくぐり抜け培われ、磨き抜かれた名無の第六感が警鐘を鳴らしていた。

 ――目の前にいる人物は只者では無い、と。


「そう怖い顔をしないでちょうだい。と言うより、初対面の相手にそんな無粋な物を……」


 警戒を緩めない名無に微笑みを向けていた美女だったが、不意にその笑みが驚きの色を宿す。


「風変わりの……に、その左眼…………。そう、貴男が…………」


「………………」


 何かに驚いたと思えば、今度は艶やかな笑みを強める美女。いったい彼女が何を考えているのか分からず、名無は鋭い眼光を向け臨戦態勢を維持し続ける。


「あら、ごめんなさいね。貴男を笑ったわけではないの……それに、このまま睨み合っていても時間が勿体ないわ」


 少しもぶれること無く大刀を構える名無を前に、美女は流れるような所作でスカートをつまみ優雅に頭を垂れる。


「私の名はエルマリア・ノイン・ヴァルファール、魔族の中で長生きだけが取り柄のしがない吸血鬼よ」


「吸血鬼…………っ」


 ――取るべき対応を間違えた。

 焦りと動揺こそ顔に出さなかったものの、名無は条件反射と言えど自分が取ってしまった行動があまりに軽率だったと後悔した。だが、名無が対処を間違えてしまったのも無理はない。

 何故ならレラと同じ魔族で有る吸血鬼と名乗りながら、エルマリアにそれらしい特徴が見られなかったからだ。

 名無の世界において吸血鬼はあくまで空想上の生物。

 髪や瞳の色も金色や赤などで無くどちらも黒く、肌も病的なまでに白くは無くむしろ健康的な肌色で耳も尖っておらず、その姿は人間と何ら変わらない。

 吸血鬼のイメージとして共通しているとすれば、性別や年齢に関係なく誰もが敬い讃える類い希無い美貌を持っているという点だけ……。しかし、それは外見の話である。

 彼女自身、長生きだけが取り柄と口にしいていたが、全く力みを感じない自然体。すきだらけに見えて一分の隙の無い佇まい、色気と共にひしひしと漏れ出ている強者としての存在感が突発的に名無を戦闘状態へと移行させたのだ。


(どうする、すでに俺は敵だと認識されてしまったはずだ。武器を手放して敵意は無いと示すか? いや、武器を手放した所で他にも戦う方法はある。俺の行動が彼女の油断を誘う為のものだと取られてしまったら余計に事態をこじらせかねないか)


 流れた時間はもう戻る事は無い。

 名無はエルマリアに対し何が最善の行動となるのか目まぐるしく思考し続ける、その時間は数秒程度のものだったが今の彼にはそれ以上の時間に感じた。


「私は貴方達に危害を加えるつもりは無かったのだけれど……許してくれないかしら?」


 しかし、緊張に身を強ばらせていた名無とレラに向かってエルマリアの方が先に頭を下げた。状況からして彼女が謝る理由は無い、むしろ彼女の姿を見ただけで過剰とも言える反応をした名無が謝らなければならないのだが……。

 二人はエルマリアの謝罪に戸惑いの表情を浮かべる。


「何故、貴女が謝る?」


「見たところ私の――吸血鬼の事を知らないみたいだけど、本能的に私を危険だと感じ取ったのでしょう? それに今も背中で隠している女の子を護ろうとしている、誰が見ても私が不用意に貴男を警戒させていると分かるわ」


「……出会い頭に不躾な真似をしてしまってすまなかった、俺も貴女と戦う気は無い」


「なら、お互いに誤解が解けたと言う事で良いでしょう。それより、早く湖から上がった方が良いわ。暖かいと言っても濡れた服のままだと風邪をひいてしまうわ」


「ああ、そうしよう……レラもすまなかった」


「あ、謝らないでください。私も吸血鬼の方を見るのは初めてで……力になれなくて、ごめんなさい」


「君が謝る必要は無いと思うんだが……まあ、今は湖から上がろう」


 対輪外者武器を治め岸に上がってレラに手を差し出す名無。レラも差し出された手を握って湖から無事上がる。

 勢いよく飛び込みはしたものの、濡れているのは足下のあたりだけで幸い被害は少ないようだ。


「あまり濡れては無いようだけど、魔法で乾かすことは出来る?」


「それなりに加減は出来る、これくらいなら問題ない」


「そう、なら良かったわ。でも、こうなった原因は私なのだから……うん、お詫びにこの先の街にある私の屋敷に招待しましょう!」


「いや、服が濡れたくらいでそこまでして貰う訳には……」


「安心して、勿論無理強いはしないわ。けれど、休める時に休むのは旅人の鉄則なのではなくて? 他にも入り様な物も揃えなければいけないでしょ、遠慮は要らないわよ」


「………………」


 無理強いはしないと言ってはいても、旅を続ける身としては安易に無視できない事を聞かされては断り辛い。だが、浮かべる笑みと柔らかな声音からは本当に自分達の意志を尊重する気概が窺える。

 名無はエルマリアの提案を断るべきか迷うも、旅には食糧の補充と情報収集が必須。何より可能な限り体調を整えることも求められてくる。何から何まで手を焼いて貰うわけにはいかないが、ゆっくりと身体を休める宿を確保できるのならこれを逃がすてはない。


「貴女の言う通り、これからの事を考えても休めるに越したことは無い。ここは貴女の申し出をありがたく受けさせてもらおう」


「話は決まりね。そちらの……レラちゃんも良いかしら? ナナキ君は受けてくれるようだけど」


「は、はい! 私もエルマリアさんのご厚意に甘えさせて頂きます!」


 慌ててレラもエルマリアの問いかけに答え、深々と頭を下げた。二人とも滞在を選んだことが余程嬉しかったのだろうか、エルマリアは胸の前で手を叩き満面の笑みを浮かべた。


「そうと決まれば早速向かいましょう。此処から少し歩かなくてはいけないけど、山の麓に家の者達を待たせてあるの」


「移動手段は?」


「優に六人は乗り込める馬車よ。貴方達が連れてる子は従者の一人に乗って貰うようにするから、二人は私と一緒に乗ってちょうだい」


「わかった、それで滞在期日は何日まで許してもらえる?」


「私は街の領主もしているの、割と融通が利くから特に期限を決めるつもりは無いわ。それに街にいる魔族は私だけでね、自分以外の魔族の子と話すのはとても久しぶりなの。レラちゃんとは同じ女同士だから、尚更ゆっくりしていってくれると嬉しいわ」


「……待ってくれ、今のはどういう事なんだ?」


「今のは、と言うと?」


 名無の質問の意味が分からなかったのか、エルマリアは眼をパチパチとさせる。


「これから向かうのは魔族の街では無いのか? 話の流れからして他の住人がいるのは確かだ、なのに貴女は魔族は自分だけと言った」


「ああ、その事ね。何も難しく考えなくて良いわ」


 エルマリアは辻褄の合わない言動を指摘されながら、悪意では無い悪戯心の様な物がにじむ妖艶な笑みを浮かべて見せた。





「私が治めている街『シャルア』は、私を除いた街の住人全員が人間、と言うだけの事よ」




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