二章 慕情結句
02ー00 今は、その悪癖さえ・・・・・・
吐く吐息が白く浮かび上がり、身震いしてしまう冷気が漂う夜。
月が無い夜空に数多の星々が輝き並び、その身から溢れ出る光で地上を優しく照らす。
「……今日の星空は、特別綺麗だ」
「ええ、本当に。今まで見てきた中で一番かもしれないわ」
星の光が照らす空の下、なだらかな山々から伸びる河川に隣接するように文明の開化を感じさせる赤煉瓦造りの建物が建ち並ぶ街。日が沈んでいなければ、落ち着いた朱い街並みは柔らかな日差しを受け入れ住人達の活気ある生活を鮮やかに彩っていただろう。
「君と初めて出会ったから、どれくらい経ったかな」
「あら、いきなりどうしたの? 私はそんな事を考える暇も無いくらい充実した日々だったのだけど、あなたはそうでもなかったのかしら」
「そんな事は無い、僕も君と同じ想いだ」
風光明媚な光景を思わせる街を一望できる郊外の小高い丘。その上に佇む一際大きな外観を持つ洋館の庭園で、造りの良い緋色のスーツを着こなす老人と寒空には不釣り合いなタイタンに背中が開いた黒のドレスに身を包む佳麗な少女の姿があった。
老人は少女の膝に頭を乗せ、少女も老人の顔を柔らかな微笑を浮かべ見つめている。
語り合おう言葉と向け合う笑み、そして互いの身を寄せ合うその姿からは二人が確かな信頼とそれ以上の不快絆を育んだ間柄であることを感じさせた。
「こうしている今の今まで時間は流れるものなのだという自然の摂理すら忘れてしまう程に、君と一緒にいる時間は幸福に満ち足りたものだった。けれど……それもここまでだ」
優しく、温かで、永遠に続くと思えた幸せな日々を思い返す老人。
だが、何事にも、何者にも必ず終わりが来る、来てしまう。誰もが分かりきった時の終着地点を声に出した時、老人の笑みに陰りが差し、少女の微笑みにも哀しみが滲み出る。
「ありがとう、君を残して逝ってしまう僕の我が儘を叶えてくれて」
「本当に苦労させられたわ……こんな事にならないようにする事も出来たのにさせてくれなかったんだから」
「後悔、させてしまったよね?」
「後悔しているに決まっているじゃない。あなたの我が儘を聞かなければ、もっと一緒にいる事が出来たんですもの」
「僕の事を恨んでる?」
「ええ、恨んでいるわ。同じ終わりを迎えることが出来ないと分かっていても、この道を選ばされてしまったのだから」
「……なら、愛想を尽かされてしまったかな?」
「その問いかけは愚問だわ」
老人と言葉を交わす度に悲哀を深めていった少女は、きっぱりと否定の言葉を口にした。
「どれだけ時が経とうと、それだけは絶対にあり得ない。あなたと出会い語り合った言葉、見た世界、刻んできた時間と想い……その全てが愛しくてたまらない」
噛みしめるように紡ぐ言葉は甘く熱い吐息と共に奏でられ、潤んだ瞳は隠すことなど出来ない愛に満ちている。
「初めての恋を、唯一の愛を捧げられたのがあなたで良かった。あなたの妻になる事が出来た、あなたという伴侶を得られることが出来た。あなたは私の何物にも代えがたい宝物……それだけは絶対に変わらない」
「そこまで言って貰えるなんて僕は幸せ者だよ、これなら……あと一回くらい我が儘を言っても大丈夫そうだ」
「言ってごらんなさい、聞くかどうかは貴男の態度次第よ」
「それじゃ、そんな慈悲深いお言葉に甘えて我が儘を言わせて貰おうかな」
少女の――妻の限りない愛の囁きに老人は意地の悪い笑みを浮かべ軽口を返すも、彼女も彼の反応に気を悪くするどころか同じような笑みを浮かべた。
年の違う二人だったが、似た者同士なのだろう。
「と言っても、そう大したことじゃ無い。ちょっとした、お願いなんだけどね――――」
本当に言った通り、さして重要な事では無かったのか二度三度と口を動かし苦笑を浮かべる老人に少女は小首を傾げた。
「本当にそんな事で良いの? 最後のお願いしては呆気ない様な気がするのだけど……」
「そんな事で良いのさ、君にはいっぱい苦労を掛けてきたからね。最後くらいはあっさりとした方が僕も気が楽だ」
「そう、なら今度は私の番と言う事で良いかしら」
「おや? 動く事もままならない死にかけの老人に何をお願いするんだい?」
実際、横たわっている老人が動かせていたのは首から上のみ。まさかそんな状態の自分に彼女が何か求めるとは思っていなかった。妻の提案が意外だったのか、彼は驚きに眼を見開く。
「最後最後と自分で言っているのだから私が言わなくても、何を求めているのか分かっているでしょうに」
「う~ん……思い当たる物が多すぎてね、教えてくれないかい?」
「勿体ぶるのはあなたの悪い癖よ」
彼女は察しの悪い夫に責めるような声を浴びせる、もちろん声音にそんな響は感じられない。
「良い? 私のお願いは私がうんざりしてしまう程に貴男が聞かせてくれた言葉を聞かせて欲しい、ただ……それだけ」
「ははっ、それ位なら今の僕にも……出来、る」
身震いする空気に身を置いていても言い淀むことの無かった老人の声が、次第に辿々しい物になっていく。星空と伴侶たる少女を映す瞳も少しずつ虚ろんでいた。
「でも、その前に……僕も君の口からそれを聞きたいな」
「私はもう言ったわ」
「それでも、だよ。もう一度、聞きたいんだ……君の声で、その言葉を……」
「……はあ」
自身の願いよりも、夫が自分に向けるか弱い羨望の眼差しに折れ少女は溜め息を吐き……
「――愛しているわ、ユタ。私はあなたを愛してる、世界中の誰よりも」
息を飲む程に甘美な音を、身悶えせざるおえない寵愛を、儚くも美しい微笑みと共に響かせた。
「……………………………………………………」
「…………勿体ぶるのは悪い癖だって、そう言ったじゃない」
少女はいまわの際に経った夫の願いを、惜しげも無い愛の告白で答え叶えて見せた。だが、少女がうんざりしてしまう程と口にしていた夫からの言葉は、もう一度聞きたいと願った想いは、輝く星のよるが開けても返ってくる事は無かった…………
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