第17話 かりの探偵事務所
コーヒー一杯で何時間も居座る大胆な客になりたくない、という世間体を気にするヒカルの提案で喫茶店から場所を移すことになった。すでに店員相手に存在しない強盗犯がいると主張して変な目で見られているのに。
ヒカルに連れられて我はしばらく歩いた。そして歩いて十五分程度でとあるビルにやってきた。裏路地のような人気のない道に階段がある古びたビルだ。
五階建てのビルだが、外から見える窓はみな汚れで曇っていて天然の目隠しシートになっている。耐震偽装をしていそうで入ることをためらわせるようなビルだった。
「ここの三階よ」
「……エレベーターはないのか?」
「あると思う?」
ないと思う。自分から言っておいてなんだが、こんなボロボロのビルにあるエレベーターは閉じ込められそうで乗りたくない。だが、階段を上るのも嫌だった。
「保育園児に酷な運動をさせるな。幼児虐待で訴えるぞ」
「本当の幼児はそんなこと言わないわよ」
「それもそうだな」
などと話をしながら階段を上る。中の階段も蜘蛛の巣が張ってあったり、外で見た想像通りの中身になっている。
体格の大きく違うヒカルは我と歩くスピードが大きく異なり、我が二階に上がるころには三階に到着していた。
三階の階段の手すりから我を見下ろし、ヒカルは話す。
「いくらなんでも体力がなさすぎるんじゃない。普段から運動してないの?」
「運動は嫌いだ。筋肉痛になる。我は痛いのと意味もなく体を動かすのは嫌いなんだ」
前世から運動は嫌いだった。剣を振るうよりも部屋で魔法の本を読んでいた方が百倍役に立つと思っていた口だ。実際、役に立ったしな。
ヒカルは呆れたように我のほうを見ていたが我は無視する。
幼い体の我にとって三階まで階段で登るのはとても大変な作業だった。上りきったころには息切れを起こしていた。
「それよりもここが其方のアルバイト先か?」
目の前のドアには白い文字で『かりの探偵事務所』と書かれていた。文字を彩る塗装がところどころはがれていて、この事務所の歴史を感じさせた。ビル同様、この事務所も古くから存在しているようだ。
このビルの三階にはこの探偵事務所しかない。家賃よりも維持費のほうがかかりそうな寂しいビルだった。
「そう。かりの探偵事務所よ」
入りましょう、とヒカルはカバンから鍵を取り出し、事務所の扉を開いた。
探偵事務所の部屋は給湯室とトイレを覗けば一つだけ。ドアから入るだけで事務所を一望することができた。中にはたくさんのファイルや資料が納められた棚が並んでいる。奥には大きなスチール製の机が一つとシステムチェアーが置いてある。そして、部屋の真ん中には依頼人を迎えるためであろう大きなソファが二つ。向かい合うように置いてあった。
テレビや小説で見た探偵事務所のイメージがそのまま具現化したかのような作りになっていた。
「ほう」
部屋に入るとすぐに我はソファに座る。安物のソファなのか、弾力がなく、お尻には硬い感触が返ってきた。何度か飛び跳ねると埃が舞いあがり、我は顔をしかめた。
「掃除はしているのか?」
「週に一度は私がしてるわ。探偵事務所での私の仕事の一つだもの」
「探偵事務所のアルバイトなのだから、探偵の真似事だと思っていたのに。ハウスキーパーだったのか」
「違うわよ。仕事の一つなだけよ」
顔をしかめながらヒカルは事務所の窓を開いた。事務所内に漂っていたじめじめとした空気が新鮮なものに入れ替わる。
しかし、窓の外はやはりこのビルと似たような古びた灰色のビルだったのですがすがしい気分とは程遠い。景観に関してはノーコメントとしよう。
「お茶はまだか?」
「……厚かましいガキね」
「子供はわがままだぞ。其方もいずれ子を宿し、育てることになるのだから、これくらいのことは慣れておかねば、将来苦労するぞ」
「はいはい。お茶を持ってくるからちょっと待ってなさい」
そう言ってヒカルは給仕室へと向かう。その後姿に向かって我は声をかける。
「お茶請けはいらんぞ」
「ないから安心して」
親切のつもりで言ったのに逆にヒカルは機嫌を損ねてしまう。女心は秋の空。と昔の日本人は上手いこと言ったものだ。
ヒカルがお茶を持ってくるまで暇つぶしに事務所内を散策することにした。
「面白い物があるかもしれない」
棚の中のまとめられているファイルは昔の新聞記事などが多かった。殺人事件や事故の記事もあれば読者の投稿などのつまらないものまで何でも切り取られている。内容に一貫性がなく、ただ新聞記事を切り取ってそれっぽく見せかけただけに見えた。
次の狙いは大切なものが入っていそうな引き出しだ。我は部屋の奥にある机に近づいた。無機質でシンプルな机には三つの引き出しがある。探偵事務所の大切な物。好奇心が踊る。開けないわけにはいかない。
ガタガタ
「むっ」
引き出しには鍵がかかっていた。しかも、三つともだ。これは何か大事なものを隠しているに違いない。
当然、我は魔法を使うことにした。
「ストップ!」
「ん? お茶が沸いたのか? 今は忙しいから後にしてくれ」
急須をとコップを載せたお盆を持ったヒカルがこちらをじっと咎めるように見ている。
「何をしていて忙しいの?」
「この引き出しの鍵をこじ開けるようとしているのだ。見て分からないか?」
「見て、分かって、聞いてるのよ。あなた、魔法で無理やり開けようとしてるでしょ?」
我は少し感心する。
やはり、ヒカルは頭の柔軟性に優れている。魔法という現象を先ほど聞かされたばかりなのに、もう我が魔法を使えると信じていた。そして、魔法を使えば引き出しくらい簡単に開けられると予想している。
人間とは歳をとればとるほど保守的になる。より守りを固めようとする生き物だ。ヒカルは十九歳。大人と子供の境目だからこその柔軟性だと思う。
「ヒカルが引き出しの鍵を渡してくれるなら魔法は使わないぞ」
魔法でこじ開けるのが一番そそるのだが、鍵を使ったほうが手っ取り早いのは事実だ。面白みに欠けるが、ヒカルがくれるなら鍵で開けるつもりだ。
「私は鍵を持ってないから無理よ。それ以前に持ち主に内緒で勝手に引き出しを開けるなんて駄目。絶対駄目よ」
「……面白そうなのに」
後ろ髪を引かれる思いだったが、ヒカルが怒りそうなのでひとまず諦めることにする。
我がソファに座ると正面にヒカルが座った。どうぞ、と我の前にお茶が置かれた。暖かそうな湯気が漂っている。それを我は一口すする。
「茶請けをいらないとは言ったが、本当にないとはな。お客様に対する礼儀がなってないな」
「普通のお客様は勝手に鍵をこじ開けようなんて考えたりしません!」
打てば響く。このヒカルという娘をからかうのは中々楽しい。彼女を見ていると無性に意地悪がしたくなってくる。悪い悪いと思いながらもちょっかいをかけてしまう。好きな女の子に意地悪をする少年の感覚に近いのかもしれない。そう思うと自分も精神的に若返ったものだ。
精神に肉体が影響を及ぼしているのかもしれない。この内容のテーマで研究をしてみるのも面白いかもしれない。覚えておこう。
「喫茶店では聞けなかったけど、私の記憶だけ弄らなかったのはどうして? 強盗や喫茶店の人たちの様子からして貴方には人の記憶を操作する能力があったはず。私だけ弄らなかったのは変じゃない?」
「ふむ」
我は顎に手を当てて、少し黙る。何と答えていいのか困ったからだ。ヒカルの言う通り、我には人の記憶をいじる魔法がある。しかし、この魔法は使い勝手が悪く、最近の記憶しか操作できず、しかも、記憶に齟齬が生じると簡単に解除されてしまう魔法である。
強盗も含めてあの場にいた全員の記憶を操作した。もちろん意図的に記憶を思い出させるような質問をしなければ魔法が解除されることはないだろう。たとえ解除されたとしても犯人はすでに逮捕され、刑務所の中だ。警察に相談しても白昼夢だと判断されるはずだ。と我は思っている。
もちろん、母上とヒカルだけは弄っていない。母上には気絶している間に警察が来て確保した、などと言って適当に誤魔化した。
ヒカルの記憶をいじらなかったのは面白そうだから、と言う理由もあるが一番は。
「我を怖がらなかったから、だろうか?」
「怖がらなかった? 私は怖かったわよ。あの時の貴方。本当に私ごと強盗を殺しそうだったもの」
「しかし、今は我と普通に会話しているだろう? 畏怖の対象であれば我に関わろうと自ら接触してはこない」
「それは話の通じる相手だと思ったからよ。爪を持った獣と会話しようとは思わないでしょ」
少なくともヒカルの中では我は獣ではないらしい。合理的でありながら理知的ではないヒカルの回答は嫌いではない。
話をしているうちにヒカルの記憶を奪わなかった理由を思いついた。
「我は今、この日本について勉強中である。日本と前世の国では常識や考え方が全く異なる。日本人に順応しようと努力はしている。しかし、前世の記憶に引きずられやすく、常識外れの行動をしやすい。そこで我の事情を知り、注意してくれる存在が必要だと思ったのだ」
「それが私?」
「うむ。怒りに我を失った我を前にして怯むことなく、止めようとした姿は見事だった。だからこそ其方しかこの役目を果たせぬ、と我は思ったのだ。だから我はしばらく其方の傍で日本の常識について学ぼうと思う」
「それって私からするとはた迷惑な厄介ごとに思えるんだけど……」
「我がそばにいるということは其方の悩み事に協力できるかもしれない、ということだ。悪い条件ではないと思うが?」
具体的な内容はわからないが、日記を見る限りヒカルの悩み事は相当厄介なもののはずだ。しかも、我が魔法を使えると知り、ヒカルは我にその内容について相談しようともしていた。つまり、その悩み事は我の魔法で解決できる。もしくは魔法でどうにかする必要がある荒事の可能性が高い。
ヒカルにとってこの提案は渡りに船、のはずだ。
我の提案にヒカルは悩んでいる。我が信用できるのか、付きまとわれることのデメリットなどを考えているのだろう。
短い間だが、観察する限り、ヒカルは感情よりも理性を優先する、理知的な判断ができる女性である。しかも、喫茶店ですでに会話の主導権を握り、ヒカルに対して精神的優位にたっている。と、なればヒカルの返事は残されていない。
「わかったわ」ヒカルは顔をあげてこちらを見た。その眼には強い意思が宿っている。
「契約成立ね」
ヒカルが我に手を差し出す。握手の合図だ。
我はその手を握り返した。ヒカルの手は柔らかくすべすべの、女性的な手をしていた。近くによると少しいいにおいがする。香水でもつけているのだろうか。
我の手を握ったヒカルは苦笑いする。
「小さな手ね」
「六歳児だからな」
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