第二章 物語は次の段階へ

第13話 新たな出会い

 保育園に入園し、いくつかの季節が巡り、春になった。今年、我は六歳になる。来年は七歳。来年にはこの保育園を卒業し、小学校と言う場所に通うことになる。小学校には受験という幼稚園児同士の争いがあるらしく、幾人かの保護者の表情には焦りが見られた。


 母親同士が集まる井戸端会議では相手がどの私立小学校を受験するのか、などの腹の探り合いが行われている。顔は微笑んでいるが、目は笑っていない。そんな顔をよく目にする今日この頃。

 日本は学歴社会である。高校・大学と有名な学校を出れば就職もしやすく、高給取りにもなれる。そしてそのためには小学校の頃から勉強ができる環境を整えることが大切だと考える親も多い。その影響なのだろう。


 この手の血が流れぬ戦いは前世でも嫌というほど経験しており、慣れている。しかし、見ていて気持ちのいいものではなく、人の欲望を目の当たりにして気分が悪くなる。


 我はというと母上の教育方針で小・中学校までは地元の公立の学校に通い、高校から私立を視野に入れるということになっている。そんなわけで受験戦争に巻き込まれることなく、意気揚々と日々を過ごすことができた。


「シンちゃん。帰ろうか」

「はい」


 保育園の玄関から母上の声が聞こえる。我の耳はどんなに騒がしい場でも母上の声を聴き分けることができる。これはカクテルパーティー現象などという下らぬ理論ではなく、魂のなせる技だ。

 母上が保育園に迎えに来た。だから、我はカバンを持ち、帽子をかぶってから急いで母上の元に向かう。


「ほら、お友達にバイバイしなさい」

「トモちゃん。タクヤくん。また明日」


 母上に言われた通り、二人に手を振る。受験戦争に巻き込まれている最中のタクヤは青い顔で手を振り返す。隣で絵本を読んでいるトモは我を見て珍獣を見るような変な顔をしている。帰り際になるといつも彼女はそんな顔をする。

 なぜだろう。


「心太くんってお母さんの前だと別人みたいじゃない?」


 などと話しているのが聞こえてきたが我は聞かなかったことにした。



***


 保育園を出るとすぐに近所のスーパーに買い物に行く。これは毎日のルーティンである。

 買い物を終えれば小さなスーパーの袋を持つのが我の仕事だ。最初は断られたが、何度も手伝わせてくれ、と我がせがむので考えた末、母上は我の小さな体でも楽に持てるよう、小さな袋を渡される。肉体の強化、もしくは荷物の重量変動の魔法を使えばどんなに重たい物でも持てるのだが、母上の前では魔法を見せるわけにはいかないので仕方がない。これでも母上の助けにはなっているはずだ。


 ふと横を歩く母上の持つ袋が目に入る。袋の中にはジャガイモとお肉。ニンジンとタマネギ。ここまでならまだいい。肉じゃがの可能性もある。しかし、他にはリンゴそれにナスが入っていた。

 この材料はまさか……。


「……母上」

「お母さんでしょ?」


 動揺したせいで言い方を間違えてしまう。母上は頬をぷくっと膨らませ、怒っている。母上は母上と呼ばれることを嫌っているからだ。


「お母さん」

「はい。何ですか?」


「今日の晩御飯はまさか、とは思いますけど。……あれですか?」

「お母さんはシンちゃんの心は読めないので、あれ、が何なのかわかりません。けどたぶん、シンちゃんの考えは正解です」


「……ああ。カレーなんですね」


 我は絶望を知った。生きる気力を失い、項垂れて俯くと母上はよしよし、と我の頭をなでた。


「シンちゃんがカレーが嫌いなのは知っています」

「それならば、なぜ……」


 カレーなのですか。別の料理でもいいではありませんか。

 そう言おうとした我の言葉は途中で遮られた。


「けど、お母さんは好き嫌いをするのはよくないと思います。シンちゃんには何でもおいしく食べれるような子に育ってほしいと思い、心に鬼にして今日はカレーにします」

「……わかりました」



 前世では王になってからは毒見の時間があり、我の元に食事が届くころにはどんなおいしい料理でも冷めてしまっている。しかも、大半は一人でたくさんの使用人に囲まれての落ち着かない食事であり、食事は栄養摂取の時間でしかなかった。

 しかし、この日本に生まれ、その認識が大きく変わった。

  我は母上の作った料理は何でもおいしいと思っている。日本に生まれて様々な料理を食べた。ほとんどは見たことがない材料や調味料で作られたものですべてが新鮮であり、最初は恐怖もあった。しかし、慣れとはすごいものですぐに順応し、今では食べられない物はない、と言っても過言ではない。

 そして、何より誰かと一緒に食事をするという楽しさを我は覚えた。


 しかし、カレーは駄目だ。カレーだけは口に合わない。

 この料理は元々日本の料理ではなく、インドが発祥の地らしい。インドから輸入したカレーの文化を独自に改造し、別の物へと昇華させたのが日本のカレーだ。

 本当にインドは余計なことをしてくれたものだ。

 恨むぞ。インド。許さぬぞ。インド。

 ついでに名前も似ているインドネシアも我は許さない。


 前世での我の国は土地や気候の問題から香辛料と甘味料がほとんど手に入らなかった。だから、その大半を輸入に頼っていた。そのため流入量が少なく、高価であった。時期が悪ければ金よりも高い時もある。それくらい貴重なものとされており、我は辛い物をほとんど食べたことがない。それゆえ、日本のカレーの辛さに対する耐性が全くない。

 子供用の甘口カレールーを食べたこともあるが、辛い物は辛い。

 甘口だろうと辛口だろうと我にしてみれば一緒だ。


「今日はシンちゃん、お母さんのお手伝いをよく頑張ってくれたから。喫茶店でも行こうか?」


 我の重たい表情に気づいた母上は心配するように我の顔をのぞきこむ。母上に心配させるとは我は子供失格である。我は顔に精一杯の笑みを浮かべて母上を安心させようとする。


「喫茶店。やったー。僕、嬉しいな」


 喫茶店とは何だ? どこのことだ?

 知らないが母上が連れて行ってくれるところだ。きっといいところなのだろう。

 とりあえず喜んでおくことにした。



***


「す、すごい。喫茶店。すごい」


 店の外には『マウンテン』と書かれた看板が置かれていた。喫茶店と呼ばれる店はこじんまりとしており、店内は二十人ほど人が入れば満員になる程度の広さだ。若い女とお年寄りの夫婦らの三人しか店員しかいなかった。定員が少ないのでこの三人でも店は回るのだろう。

 お客さんも少なく、今は五人しかいない。この様子を見た時、我は喫茶店に対してあまり期待はしていなかった。とりあえず母上が勧めるので喜んだフリでもしておこうか、と失礼なことを考えていた。

 しかし、若い女に案内され、席に着き、メニューを見た瞬間、その考えはひっくり返った。


「ぱ、ぱふぇ、だと……」


 メニューに書かれたパフェと呼ばれる商品。その写真を見た瞬間、我は戦慄を覚える。透明な大きなガラスの容器の中には生クリーム、アイスクリーム、コーンフレークが入っている。それにイチゴやチョコレート、なんか食べられそうな棒がデコレーションされている。

 我の好きな物が全て盛り合わせたような夢のような食べ物だ。

 

「これは食べられるものですか?」


 感動に震える手を押さえながら我はメニューの中のパフェを指さす。ひょっとすると声も震えていたのかもしれない。それくらい我は興奮していた。


「ええ。もちろん食べられるわ。食べたいのなら頼んでいいわよ。シンちゃんは本当に甘いものが好きね」


 と、母上はにこやかに笑う。それはまるで天使のような微笑みだった。いや、神だ。女神の微笑みに違いない。

 素晴らしい。実に素晴らしい。 

 我は迷うことなくパフェを注文することにした。


「ただし、パフェを食べても、今日のカレーもしっかり食べること。それはお母さんとの約束よ」

「もちろんです」


 当然、即答だった。



***



 待つこと数分、パフェが届くのを今か、今かと待っていると店内にベルの音が響いた。

 隣にいたコーヒーを飲んでいたお客が帰ると同時に新しい客が入ってきたからだ。店の入り口は我の座っている位置の背側になるので見えないが、若い女の給仕が「いらっしゃいませ」とその客を案内する声が聞こえる。 

 すると、母上が立ち上がる。その視線は新たな客に向かっていた。


「ヒカルちゃん。ヒカルちゃんじゃない?」

 

 我が振り返るとそこには一人の女性が立っていた。




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