第7話 保育園にて
「……心太くん。心太くん」
何度も我の名を呼ぶ声にようやく気がつき、我は本から目を放した。顔をあげると保育士の女性の顔が視界いっぱいに広がる。
「もう。何度も呼んだんだからね!」
読書に集中していて気がつかなかったが、本当に何度も呼んでいたようで目の前の保育士は少し怒っているようだ。腰に手を当てて頬を膨らませている。
しかし、保育士の機嫌を取る暇はない。我はそれどころではなかった。読んでいた本がクライマックスに差し掛かっていたからだ。
今、我が読んでいる本は映画化し、今話題になっている魔法使いが活躍するファンタジー小説だ。同じ魔法使いとして彼らの活躍を見逃すわけにはいかない。当然、映画も見に行く予定だ。
映画、とは巨大なスクリーンと呼ばれる白い布に映像を映し出し、複数の人間が同時に物語を見ることができる設備のことだ。大画面で動く映像を見、他の人たちと感動や喜びを共有する素晴らしい試みである。
最近のマイブームは読書である。前世の国は印刷技術が低く、新聞、本といった活字がほとんど存在しなかった。それゆえ、娯楽小説というものに我は触れたことがなく、日本で読んではまってしまったのだ。自分が見たこともない世界を体感できるフィクション小説はとてもいいものだと我は思う。
話が脱線してしまった。今は目の前の保育士を対処して本の続きを読む必要があった。
「先生。何か御用ですか?」
「御用も何も、今は何の時間なのか、わかってる?」
「自由時間だと思っていますが、違いますか?」
我は周りを見渡した。周囲では四、五歳の幼児たちが猛獣のように声を張り上げている。我はこの理性なき、野生のままの声が嫌いだ。できればもっと静かなところで読書がしたかったのだが、昼間はここで過ごさなければならない、と母上に厳命されている。ここの幼児から手に入る情報など、ないに等しいのに……。
しかし、母上の命令は絶対である。我も素直に従うしかなかった。
「自由時間はみんなで仲良く遊ぶ時間よ。一人で本を読んでいてはだめよ」
「仲良く、ですか……」
視界の端で、鼻水をたらした幼児が積み木を組み立て、時計塔のような物を作っている。鼻水幼児は一人で遊んでいる。一人で読書をする我と何が違うのか、わからない。
すると、外でボール遊びをしていたやんちゃな幼児が積み木の時計塔に駆け寄り、にやりと笑った。
やんちゃな幼児が積み木を蹴り飛ばし、時計塔は簡単に崩れた。勢いよく蹴り上げられた積み木を鼻水幼児は呆然と眺める。しばらくして、ようやく鼻水幼児が怒る。
喧嘩が始まった。また声が一段と大きくなり、我は思わず顔をしかめた。
「止めなくてもいいんですか?」
「ケンカするほど仲がいい、と言うでしょ。彼らもああして成長するの」
成長するのか。ふと二人が喧嘩をしている様子を横目で見てみる。
幼児の喧嘩は体術も戦略も何もない。体格だけが全てだ。体が一回り大きいやんちゃな幼児が一方的に鼻水幼児の頭を叩いている。鼻水幼児は防戦一方だ。
鼻水幼児は頭を押さえ、泣きながらこらえている。
こうも一方的ではつまらない。我は助太刀をすることにした。目の前の保育士にばれないように積み木を風魔法で操る。やんちゃな幼児の頭に飛ばすことにした。
「いたい」
尖った積み木は見事に命中し、やんちゃな幼児は痛がる。積み木が飛んできた後ろを振り返るが誰もいない。やんちゃな幼児は不思議そうに首を傾げた。
それを見ていた、鼻水幼児は積み木を凶器に使うことを学習した。硬い積み木で殴ることでパンチの威力が上がる。そうすればやんちゃ幼児に対抗できることに気がついたのだ。
鼻水幼児が積み木を片手にやんちゃ幼児に殴りかかった。
武器を用いることで喧嘩は一気に鼻水幼児の優位に傾く。
「たしかに成長している」
「そうでしょう。だから、心太くんもみんなと遊びましょ。きっと楽しいわよ」
「お断りします。本を読んだ方が楽しいので」
ピキッと何かがひび割れた音がする。見上げると保育士の額に青筋が浮かんでいた。
「額の皺は取れにくいですから、お勧めできませんよ。今は若いからいいですが十年後にはシワシワになりますよ。老け顔と呼ばれるのはいやでしょう?」
「へ~。ご丁寧にありがとう、心太くん」
せっかくのアドバイスにもかかわらず、保育士の額の皺は変わらない。むしろより深くなった気もする。なぜだろう。
「お母さん」
「……」
我にとって聞き捨てできない単語が保育士から放たれた。どういう意図でそれを言ったのか、わからないが我は保育士を睨む。
「お母さんに言うわよ。心太くんは一人で本を読んでいて他の子供たちと馴染もうとしません。って」
「馴染むって難しい言葉。僕、よくわかんないなー。先生、簡単に言ってくださいよ」
「お母さんに言うわよ。心太くんは一人で本を読んでいて他の子供たちと馴染もうとしません。って」
保育士は表情を変えることなく同じ言葉をロボットのように繰り返した。なぜかはわからぬが、本気で怒っていることはわかった。前世の頃から女性のヒステリックは苦手であった。女性がこうなった時は触らずそっとしておくのが一番であるのだが、当事者である我が逃げても状況はあまり変わらないだろう。
仕方ないな。
はぁ。
ため息をついて、本を閉じる。バタンと綺麗な音が響く。
「どうやって遊べばいいんですか?」
「そうね。お馬さんごっことかはどう?」
保育士の視線の先には先ほどまで喧嘩をしていた二人組の末路があった。積み木を片手に威張る鼻水幼児がやんちゃ幼児に馬乗りになっている。やんちゃ幼児は半泣きになり、馬として四足歩行をしている。
馬役を自分からやろうと思う奴はまずいない。やんちゃ幼児は武力に屈し、奴隷となることになったのだろう。戦争において勝利した国が負けた国に略奪をする。そして人として扱わないことはよくあることだ。これも社会の縮図なのかもしれない。
そう考えると楽しそうに見える。遊んでみようと思わなくもない。
しかし、このまま保育士の言う通り従うのは癪に障る。
「この国にイムの顔も三度まで、という言葉がある」
「イム? 誰の事?」
イムのことさえ知らないとはこの保育士はしっかりとした教育を受けているのか。嘆かわしい。悟りを開いた聖者のことで名前からして死んだインド人か、何かだろう。
彼はとても清らかな心をしていてそう簡単には怒ったりしない。それゆえ、このようなことわざができたのだと推測できる。
「前回、母上の名を出したときはクッキーという美味しい食べ物に出会えたので、我はヌシを許した。しかし、今回はそうはいかない。イムが三度まで許すというのならば凡人である我は二度目で怒っていい、ということになる」
「え?」
「ここで四つん這いになれ」
我の声が聞こえないのか。意味を理解していないのか。ボーッとして一向に跪こうとしない。
だから、我は魔法を使ってみることにした。
「
魔法で作り出した見えない複数の手が保育士の身体を拘束する。これでもうこの保育士は我の許可なき、行動はできない。
この魔法は前世でもよく使っていた魔法で、それを日本風に名前を変えたものだ。この魔法の用途はいろいろあるがパーティでいけ好かない貴族に恥をかかせるために使ったりしていた。
今、考えてみればろくでもない使い方しかしていないな。少し反省しよう。
「え、なにこれ? どうなってるの?」
慌てる保育士に新たな命令を言う。
「お辞儀をするのだ、エリー」
すぐさま保育士は我に頭を下げる。このセリフは読んでいた小説に出てくるもので、エリーというのはこの保育士の本名が大沢絵里だからエリーだ。
小説で読んで以来、一度誰かに言ってみたかったのだ。
人前で、しかも人に対して魔法を使うのは逢坂心太として生まれて初めてのことだ。つい勢いで使ってしまったが、上手くいった。
絵里はどうして?なんで? など戸惑っているがお辞儀の姿勢を維持している。
ああ。これだ。
前世では人を思い通りに動かすことが日常茶飯事で気にしなかったが、今のは違う。何年かぶりに人に干渉する魔法を使う。久しぶりに人前で魔法を使い、何かが解放した気分になった。
すごく気持ちがいい。今、自分がとても興奮していることに気がついた。
口元が緩んでいることを感じるがもう止められない。
「そこに四つん這いになれ」
「いやよ」
声とは裏腹に絵里は馬のように四足歩行の形になる。我はそれにまたがろうとし、気づく。足が届かないのだ。絵里は大人で身長差があり、保育園児の我がまたがるには必死に這い上がらなければならない。しかし、それでは見栄えが悪く、馬に上手く跨がれない貴族など舐められてしまう。
他人の目を気にした我はさらに絵里に命じる。
「もっと低く。土下座をするように、だ」
命令通り、絵里は土下座をする姿勢になった。土下座、というのは両手両足と頭を地面につける謝罪の動作のことで、この国ではこの姿勢が一番屈辱的で相手へ最も誠意表す謝罪の仕方だそうだ。
たしかに不意打ちをするにしても土下座の姿勢からではワンテンポ遅れてしまい、だまし討ちはしにくい。そういうことも考えての謝罪の仕方なのだろう。
「どうして? 何で体が自由に動かないの?」
ペシペシ
我は絵里に乗り、背中を叩いた。
「おい。走れ」
キッと絵里が上に載った我を睨んでくる。体は我が操っているので全然怖くない。それどころか嗜虐心がそそられてしまう。
「走れ。と言ってるんだ……」
「わかりました」
「馬は人語を喋らん。馬語で答えろ」
「ヒヒーン」
「よろしい」
周りの幼児たちが不思議そうにしているが、構うものか。
今はこのおもちゃで遊ぶとしよう。読書を中断させられたのだから、それなりに楽しませてもらわなければ性に合わない。
この後、一時間ほど絵里は馬役を果たした。
馬役を終えた絵里はヘトヘトで終わるとすぐに倒れてしまった。
前世での我の馬は一日に千里をかけることができた。それと比べればふがいないものだ。最も我の馬は名馬であり、比べるのはかわいそうでもあるのだが。
この出来事以来、絵里は我が近づくとヒッと声をあげて逃げるようになった。絵里の言う通り、お馬さんごっこをしただけなのになぜここまで怖がられなければいけないのか。
理解できない。
ちょっとショックだが、読書の邪魔をする人がいなくなったので最終的にいいことなのだろう。
我はそう思うことにした。
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