第43話 慰めはいらない。
我はヒカルの部屋の前に来ていた。我の住むマンションの部屋の真下の場所なので歩いて五分もかからない距離だが、我にはとても長く気が進まない道のりだった。
あの日。洋平が去ってからすでに三日経過している。洋平がいなくなった後、我の魔法でヒカルを家まで送って以来、ヒカルの姿を我は一度も見ていなかった。
母上も心配しており、たびたびヒカルの部屋のインターホンを鳴らすのだが、反応はなかったようだ。居留守をしているのか、それとも本当にいないのか。それはわからないが、ヒカルは大学生であり、大人への一歩を進んだばかり。それに頭もよく、しっかりしているので母上はそれ以上の干渉をしないことに決めた。
インターホンを押すとピンポーンと我の部屋と同じ機械の音が鳴った。その音は部屋の中にも聞こえているはずだ。しかし、いつまで待っても反応はない。
留守なのだろうか。
我は魔法を発動させて部屋の中の生命反応を調べた。その結果、一人の人間が潜んでいるという反応が返ってきた。
居留守確定だ。
我はもう一度インターホンを押して、部屋の中にいるヒカルに聞こえるように声を出した。
「十秒待つ。それでもドアが開かなければ勝手にはいるぞ」
勝手な宣言だ。
そして、重病が経過してもドアが動くことはなかったので我は宣言通り、ヒカルの部屋に不法侵入することにした。
ドアの向こうに空間を超えて繋ぐ扉を作り出し、それをくぐることで我は部屋に入った。
今は昼間だというのにヒカルの部屋は真っ暗だった。カーテンで太陽の光が部屋に入ってこない。中にいるだけで陰鬱な気分になりそうだ。
生命反応があったのは前に入ることを拒否されたヒカルの寝室だ。
我はその部屋の前に立った。
「ヒカル。中にいるんだろう? 母上が心配している。出てきたらどうだ?」
ドア越しに衣が擦れた音が聞こえる。ヒカルがここにいるのはわかっている。このままヒカルの反応を待つこともできるが、そんなことをするほど我は大人でもなく気が長くもない。
「入るぞ」
そう言って我はヒカルの寝室に入る。ドアには鍵がかかっていたので先ほどと同じく魔法で侵入する。
ヒカルの寝室は部屋と同様にカーテンで閉め切られていて真っ暗だった。質素な部屋でベッド以外にほとんど家具がない。小さな本棚と小さなテレビがあるくらいだ。テレビの電源がついていてそれだけが暗い寝室の光源になっていた。
テレビ画面では面白くない芸人のコントが行われ、観客の笑い声だけが響いている。
そんな中、ベッドの上に毛布にくるまった塊が一つある。ヒカルだ。こんなに小さかっただろうか。六歳児である我にとっては身長が高いヒカルは見上げなければ顔が見えない存在で、その小さく、華奢な体に我は驚く。
我がベッドに座るとその塊はびくりと反応し、また動かなくなった。
「帰ってくれない?」
「そうはいかない。母上が心配しているからな。ヒカルにはこの引きこもり生活を止めて、元気な姿を見せつけてもらわねば」
「別にあと数日もすれば大丈夫よ。元気になるわ。だから、帰りなさい」
「元気、と言っても虚勢では意味がないのだよ。だから、帰らない」
「……帰って」
「断る。我がわがままなのは貴様もよく知っているだろう。我はこのままでは帰らないぞ」
「帰って、って言ってるでしょ!」
怒ったヒカルは手を振り上げた。そして、我に頬をぶった。
スナップの利いたビンタはパチンと、いい音が鳴る。そして、我の頬にほのかな痛みと熱さを残した。
「どうして……?」
てっきり魔法で防がれると思っていたのだろう。無抵抗に我が殴られたのを見て、ヒカルは目を丸くして驚いている。
反射的に我から離れようとするヒカルの手首をつかみ、我は自分の元にヒカルを引き寄せた。
「そんな顔をした女性を一人で放っておくことができるわけなかろう」
間近で見るヒカルの顔はひどかった。ずっと寝ていないのか、眼が真っ赤で目の下は影ができて黒くなっている。食事もろくに取っていないのだろう。頬はやせこけている。元気なヒカルを知る者ならば病気を疑うレベルだ。
毛布で頭を隠そうとするヒカルの手首を強く握りしめ、我はヒカルが逃れることを許さない。
せめてもの抵抗、とヒカルは顔だけ背けて落ち着いた。
「どういうつもり? 可哀想な私を慰めてくれるってわけ?」
「慰める? 可哀想? 何か勘違いしているようだな」
前世において王という立場であった我にとって誰か一人に肩入れすることは厳禁である。そんなことをすれば国が傾く。そんな我にとって同情の二文字はない。そんな感情はとうに捨てた。
「話を聞いてやる」
我は言った。
「ヒカルが何を感じ、何を考え、何をしたかったのか。そして今、どうしたいのか。全てを我は聞いてやる。そして、受け入れよう」
「まるで王様みたいね」
これでも元王様だからな。相談することはできないが、相談されることはよくあったのだよ。
嘆願書の山に埋められたこともある。
「我はこれから抱き枕になろう」
「ん? 急に意味が分からなくなった」
「何も言わないし、何の反応も示さない。ただの抱き枕だ。話を聞くだけで誰にも話したりしない。その方がヒカルも気楽だろう?」
童話の王様の耳はロバの耳を母上が昔、聞かせてくれた。
野間洋平が通り魔の犯人である【探偵斬り】である。そして、それに付随する話を誰かに話すことはできない。ヒカルはこれから一生その秘密を抱え込むのだ。その話をして発散することができる相手は我しかいない。その井戸になろう、と考えたが、現代日本は水道ぎじゅうつが発達しており、井戸がほとんどない。日本人にはなじみがないのでヒカルにもピンとこないのではないか、と思う。だから、今はベッドにいるので抱き枕になることを思いついたのだ。
母上が我を抱きしめていると落ち着く、と言っていたので我にはそのような鎮静効果があるのかもしれない。
「その発想に至る君の頭は凄いと思うわ」
ここでようやくヒカルは微笑んだ。
***
しばらくの沈黙後、ヒカルはぽつぽつと語り始めた。
洋平がいなくなった後、自宅に戻ったヒカルは一日中毛布にくるまり、ニュースを見ていた。洋平が復讐を成し遂げたことを知るためだ。ひょっとすると洋平の姿がちらりと見れるかもしれない、と希望もあった。
今話題の【探偵斬り】のニュースはすぐに報道された。通り魔が探偵の男性を刺した。しかも、今度は真昼間に発生した事件。当然、目撃者の期待も高まり、犯人の逮捕が期待される、と報道があった。
被害男性は重傷で病院に搬送されて治療中。
それと同時に【探偵斬り】が狙う探偵に対する共通点の報道も始まる。探偵たちはいずれも犯罪すれすれの脅迫、もしくは完全な犯罪行為をしており、【探偵斬り】が狙った動機は怨恨関係が高い、とキャスターが言う。
一度こんな話が報道されれば世間が動くのは早い。すぐに特集が組まれて今まで被害者として手堅い安全地帯にいた探偵たちはその犯した罪を白日の下にさらされ、記者たちに問い詰められる映像が流れ始める。
どのチャンネルにしても被害者であった探偵たちがカメラを持った複数の報道陣に詰問されて汗を流していた。
新情報はないか、と一日中テレビにしがみついていると夜になり、新たなニュースが流れた。昼間に刺された被害者の探偵が命の危機から脱したそうだ。
もちろんこの男も叩かれれば埃が出る探偵であり、死んだ方がよかったと思えるほどこれから吊るしあがられるわけである。
しかし、ここで重要なのは探偵の安否などではない。
報道の最後に現場にいるキャスターが呟いていた言葉がヒカルの耳に入る。
「昼間に行われた事件でありますが、犯人の痕跡はほとんどなく、警察は周辺に設置されている防犯カメラを調べて犯人の特定を急ぐとのことです。そして、なぜか刺されて倒れた被害者の足元には大量の灰が置かれていたようです。これは【探偵斬り】のメッセージなのでしょうか?」
悪魔に魂を喰われた宿主は最後、灰になる。つまり、野間洋平は死んだのだ。目的を果たした瞬間、死んだのだ、とヒカルは理解する。
だが、命を懸けてなお、野間洋平は敵の探偵を殺すことはできなかった。
【探偵斬り】は【探偵殺し】にはならなかった。
「その瞬間、私は洋平さんが人殺しにならなくてよかった、と思ったの」
テレビ画面が変わり、意識を取り戻した被害者の探偵がインタビューを受けている。本来は面会謝絶のはずだが、今回の被害者は別の犯罪の加害者でもある。話題になるなら何でもいい、と報道の自由をかざし、記者たちはハイエナの様に食い散らかすのだ。
「けど、同時にどうしてこの男が生きていて洋平さんが死んだのか。この男が死ねばよかったのに、と思ったの」
ヒカルは毛布で顔を隠した。
ヒカルの中でまだ感情が渦巻き、整理できていなかった。理知的なヒカルにしてはおかしい、文章にはならない独白が続く。
「私と初めて会った時の事、貴方は覚えてる?」
我は無言で頷いた。あの時、ヒカルが勇気をもって我の前に飛び出さなければあの哀れな強盗二人は死んでいた。
「人を殺そうとした貴方を許さない、と言った私が今度は死ねばいい、と願ったのよ」
ヒカルは天井を見上げた。
この部屋には鏡がない。それはきっとよかっただろう。なぜなら今のヒカルはとてもひどい顔をしていたから。
「大学生になり、一人暮らしを始めた私は大人になった、と思い込んでいた。大人になれば何でもできると思ってた。気が大きくなってた。だから、洋平さんを説得しようと無茶なことをしたりして、貴方にも迷惑をかけた」
「私は最低だ。自分勝手に人を助けようとして悦になり、自分勝手に人の死を願う。考えがコロコロと変わる最低の人間だ。そう考えると何もする気ができなくなったの」
「洋平さんが死んだことは辛いし、悲しい。けどそれ以上に自分のことがわからなくなった。自分のことを気持ち悪い人間だと思うようになった」
「好きな人が死んだことよりもその後の自分から湧き出る感情のことを気にする。そんな私がわからない。気持ち悪い」
ヒカルの独白は終わった。
一気にまくし立てたヒカルは肺の中の空気を出し切ってしまったかのように大きな深呼吸をする。
そして、我が話すのを息をのんで待っていた。
我は無言でヒカルの頭を抱きしめる。急に何をするのか、とヒカルが抗議しようとするのを遮り、我は話す。
「赤ん坊が母親に抱かれて泣き止むのは心音を聞いているからだそうだ。人の心臓の鼓動を聞くことで人は落ち着くことができる。それは大人も子供関係ない」
大人の心を持ちながら子供の身体をしている我。
大人になった思い込み、失敗をした大人になりかけの少女。
どちらも関係がない。みな人が恋しいのは変わらない。それは事実だ。
「ヒカルの疑問だが、ヒカルの考えていることなどわからないし、好きな人を亡くした気持ちもわからない。だが、これだけは言える」
我はヒカルの頭をぎゅっと抱きしめた。それに反応するかのように我の身体に回されたヒカルの腕も力が籠る。
「自分勝手でいいではないか? 自分ことを考えない人間などいない。立場が違えば考えも変わる。それが当たり前だ。万の敵に立ち向かう勇者も敵となれば魔王と呼ばれる。たとえ同じ人間であろうとも、な。世界とはそんなものだ」
「それでも……私は」
「とある人は言った。旅をすれば人生の価値観が変わる、と。つまり、人の価値観などその程度しかない。たった一度の旅、経験で考えがころりと変わる」
我はヒカルの髪をなでた。ヒカルの髪はサラサラとしていて指の間をするりとすり抜けて、気持ちがいい。
「ヒカルにはまだ大人になるまで時間がある。自分を知る時間があるのだ。ゆっくりと悩むがいい。悩んだ末にヒカルがどんな答えにたどり着くのか。それはわからない。だが、言えることはヒカルがどんな答えを出したとしても、我はヒカルを受け入れるよ」
我はテレビの電源を切った。ヒカルの考える時間を邪魔されたくはなかったからだ。
ヒカルもそのようで、我を抱きしめたまま動かない。
だから、我はしばらく抱き枕の役割を徹することにした。
***
「【探偵斬り】の行動に一つ謎が残っているのを覚えているか?」
「……抱き枕は喋らないわよ」
さっきまで散々会話しておきながら、どうでもいいことで細かい娘である。
「最新の抱き枕は抱きしめると音を出すのだよ」
ぶーぶークッションとかそんな感じだ。
ヒカルはぎゅっと我の身体に回していた腕に力を込める。突然のことに我は間抜けな声を出していしまう。
「ぐえっ」
「ホントだ。カエルみたい」
この小娘め。いたずらができるほどの余裕が出てきたようである。我の胸の中でヒカルが笑っているのを感じた。
「話は戻すが、【探偵斬り】の行動に謎が残っているのを覚えているか?」
「そんなのあったっけ?」
「【探偵斬り】が最後に事件を起こしたのは三月。それから一か月以上事件は発生しなかった」
「それは通り魔事件に警戒して警察のパトロールが多かったからじゃない? 犯行の発覚を恐れて期間を置いたのよ」
「悪魔は良くも悪くも欲望に忠実だ。ヒカルも【探偵斬り】を見たのだからわかるだろう。悪魔は子供の様に純粋で残虐だ。魔法で事件の隠蔽を行っても事件自体をやめることはない」
「それならなぜ、一か月以上も事件が起こらなかった?」
「原因は野間洋平にあると考えられる」
「洋平さんに?」
うむ。と我は頷いた。
「悪魔は心の闇を糧として成長する。しかし、その闇が埋まるようなことがあれば悪魔の活動もできなくなる」
「?」
「ここまで言ってまだ気づかぬのか。ヒカルは鈍いな。三月に野間洋平の周辺で起こった大きな出来事。それはヒカルが『かりの探偵事務所』にアルバイトとして入ったことだ」
我は奇跡を嫌う。そんな曖昧なものに頼ることはできない。希望的観測も嫌いだ。そんな考えをしていてはいつか足元をすくわれるからだ。
だから、我は事実しか言わない。
「―――ヒカルと一緒に生活をすることで野間洋平は満たされていたのだろう」
ヒカルと同い年であった妹の面影を思い出していたのか、それとも別の何かがあるのか。それはわからないが野間洋平の心は満たされていた。それは悪魔を封じ込めるほど強力なものだった。
ただ、不幸だったのは野間洋平が妹の敵とも呼べる探偵を見つけてしまったことだ。そうして心の闇は再び開かれて悪魔に完全に乗っ取られてしまった。
突然だが我はifが嫌いである。もし~ならば、とありもしないことを考えていては前に進むことはできないからだ。
しかし、今使おう。もし洋平が敵の探偵を見つけることがなければ今もヒカルは笑っていられたのではないか。と想像してしまう。
「ずるいよ。そんなことを今言う貴方はずるい」
我が説明を終えるとヒカルは涙をこぼしていた。その大きな眼からポトポトと大粒の涙が零れ落ちていき、ベッドのシーツを濡らしていく。
女性はよく泣く生き物である。前世での我の経験からの考えだ。しかし、我はヒカルが泣くのを初めて見た。涙をためて泣きそうになることは何度もあったが、実際に泣くのを見るのは初めてだ。
今まで我慢していたのが決壊し、ダムのようにあふれ出す。
ヒカルはしがみつき、顔を我の胸に押し付けるようにして嗚咽する。
我は黙ってヒカルの頭を撫で続けた。
ヒカルが泣き止むまで、
その涙を枯らすまでずっとずっと我はヒカルの傍にいた。
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