第38話 腕の傷。
「被害者の名前は野間晴海。殺された彼女の兄は野間洋平。今は『かりの探偵事務所』で探偵をしているわ」
それはある意味予想通り、そして、考える限り最悪の答えだった。ヒカルにしてみれば絶望的な真実だ。
「野間洋平は突然、会社を退社し、このかりの探偵事務所を始めた。その理由は妹の居場所を犯人に教えた探偵を探すため、と言ったところか。探偵を探すために探偵になるとは……」
我の推測にヒカルは頷いた。
「たぶん。ね」
野間洋平は探偵を恨んでいて、犯罪を犯した探偵を調査していた。それだけならいいが、野間洋平の調べた資料の中には【探偵斬り】の被害者の名前がピックアップされていた。
これをただの偶然だと切り捨てることはできない。動機があり、被害者を調査した痕跡もある。
「野間洋平は【探偵斬り】である。ヒカルはそう結論づけて我に【探偵斬り】を捕まえてくれ、と依頼したわけだ」
「確定したわけじゃないわ。ただ、その可能性は高いと思っている」
「おまけに昨日、【探偵斬り】の被害に遭った大山勝也もその資料に載っていたのであろう?」
「……」
ヒカルは無言で頷いた。状況証拠的には完全に黒である。
野間洋平は【探偵斬り】だ。
ヒカルが隠しておきたくなる気持ちはわかる。まさか好きな人が妹の敵とはいえ、通り魔行為を行っているのだから。そんな大ごとをあまり知らない我に話すことはできない。それに、万が一にもヒカルの勘違い、という可能性もある。ヒカルとしてはそちらに賭けていたのだろう。
だから、大山勝也をつけることにした。だが、結果としてヒカルは賭けには負け、野間洋平の容疑がほぼ確定したわけなのだが。
「ようやくヒカルが【探偵斬り】を単独で捕まえようと馬鹿な真似をしようとした理由がわかった」
ヒカルは頭のいい、というのが我の評価である。そんなヒカルが通り魔に一人で立ち向かっていこうとする姿を想像できず、昨日は遅れをとってしまった。ヒカルがどうして危険な真似をしたのか、不思議でならなかった。だが、【探偵斬り】の正体が野間洋平ならば道理が通る。
「【探偵斬り】の姿の野間洋平と会話して言い逃れのできない状況で自首を勧めるつもりだったんだな」
「……失敗したけどね」
自嘲気味にヒカルは口の端を曲げる。
「顔見知りの私が相手なら傷つけられることもないと思ってたんだけど。……あの時、貴方がいなければ殺されてたのかもしれない」
あの時、【探偵斬り】は確実にヒカルをナイフで斬ろうとしていた。ヘルメットは外れていたので深夜の暗闇とはいえ顔見知りであるヒカルだと気づくことができたはずだ。
つまり、【探偵斬り】はヒカルだと認識したうえで斬りつけたことになる。その事実が一層ヒカルの心を傷つけていたようだ。
「それで、どうする? 【探偵斬り】を捕まえるのか?」
「え?」
「【探偵斬り】を捕まえるという契約はまだ有効だ」
「けど、私は隠し事をしていたし。それに散々迷惑もかけたから」
「ふん。我を馬鹿にするな。女性の嘘の一つや二つ。可愛いモノだ。前世の時には情事の際に殺しに来た妾が二人もいたぞ。それに比べればヒカルの隠し事など軽い」
「妾、情事……」
意味に気がついたヒカルはすぐに顔を赤くして我を睨む。
「顔が赤いぞ。熱か? お茶でも飲め」
「熱ではありません!」
とは言いつつヒカルはようやく手に持っていたお茶を飲む。ずっと話していたので喉が渇いていたのだろう。お茶を一気に飲み干してしまい、空のコップを机に叩きつけるように勢いよく置いた。
「これから、かりの探偵事務所に乗り込んで野間洋平に自首を勧めればいい。我もついて行ってやる。我がいれば万が一の時も安全だろう?」
「いいの?」
「構わぬさ。晩御飯までに戻れるならな」
「【探偵斬り】の相手をするより明日の晩御飯がカレーになる方が怖いの?」
「うむ」
正確にはカレーを残そうとしたときの母上が怖いのだ。
「相変わらず基準がおかしいわね」
と、ヒカルはくすくすと笑った。
「そうと決まれば早く行くぞ。魔法を使えば事務所まで一瞬でつける」
「乗り気なところ悪いんだけど今日は洋平さんは事務所にはいないわ。定休日なの」
「ではいついるのだ?」
「明日は一日中、事務所にいるって言ってたわ。明日は午後から受講している講義がないから私は昼からならいつでもいけるわよ」
「我も明日は昼までだ」
明日は母上が昼には保育園に迎えに来るので十三時以降は時間に余裕がある。我がまたヒカルのところに遊びに行く、と言えば迷惑だから駄目だと言われるだろうが、ヒカルから母上に話してくれれば簡単に時間が取れるだろう。
「たしかヒカルは十九時には母上と料理を教えてもらう約束もあったな。母上との約束を破るわけにはいかないから昼過ぎにはすぐに行くとしよう」
「わかったわ」
こうして明日の昼過ぎにかりの探偵事務所に行くことになった。
***
予定通り、昼間に合流した我々はかりの探偵事務所の前まで来た。のだが、ヒカルの足が突然止まった。ドアをノックする一歩手前の状態でヒカルは立ち往生している。
事務所の中からは人の動く気配がする。かりの探偵事務所に自由に出入りできるのは野間洋平とヒカルの二人だけなので中に洋平がいることは間違いない。
「どうしたのだ?」
見上げてヒカルを見ると彼女は血の気の引いた顔をしていて今にも倒れそうだった。
「もし、もし洋平さんが【探偵斬り】じゃない場合はどうするの? 私たちが持っているのは状況証拠だけで洋平さんが【探偵斬り】だという完璧な証拠はない。私の勘違いかもしれない」
まだそんなことを言っているのか。と言おうとしたが、止めておく。たしかにヒカルの言う通り偶然、洋平が調べていた探偵が偶然【探偵斬り】に襲われた可能性もないわけではない。昨日の戦闘でも【探偵斬り】のフードの中身を見ることができなかった。
偶然が重なった可能性もないわけではない。ヒカルとしてもこれが最後の悪あがきだとしても最後まで洋平を信じていたいのだろう。
「昨日の戦闘で我は【探偵斬り】の右腕をへし折った。骨折を一日で直すような技術はこの世界にはないはずだ。もし、洋平の腕に異常があればそれが洋平が【探偵斬り】である証拠になる」
もしくはそれをきっかけに追求すればいい。腕の傷と引き出しの中のファイルを証拠に話せば洋平も自白するしかなくなるだろう。もし逆上して攻撃してきても我がいるのだから問題ない。魔法の使えない一般人などヒカルに触れさせることなく、返り討ちにできる。
「……わかった」
我の説得に意思を固めたヒカルはドアをノックした。
「はい。どうぞ」
洋平の声が聞こえる。普段と変わらない少しのんびりした低い声だ。
それに対してヒカルは酷く緊張した様子で中に入った。
「失礼します」
顔を強張らせたヒカルと後ろから入ってくる我の二人を見て洋平は首を傾げた。
「いつもと雰囲気が違うね。何かあった?」
我とヒカルは顔を見合わせた。【探偵斬り】は昨日の夜に我々の顔を見ている。洋平が【探偵斬り】であれば我々に対して何らかのアクションを起こしていてもおかしくはない。しかし、洋平の様子は普段通りであり、特にいつもと違う様子は見られなかった。
演技をしているだけか、それとも本当に【探偵斬り】ではないのか。もし、これが演技であるならば洋平は相当の役者であると言わざるを得ない。それくらい洋平の反応は至極普通であった。
まずは右腕の怪我を確認する必要がある。今、洋平は事務所の奥にある椅子に座っていて机に隠れて腕が見えない。
さて、話の流れで自然に右腕を見せてもらえるように誘導するか。
我はヒカルにアイコンタクトを取る。しかし、ヒカルはその交信を受け取ることなく、ズシズシと洋平に接近していく。
ヒカルは洋平の正面に立ち、机に両手をバンッと叩きつけた。
「洋平さん。右腕を見せてください!」
「ぶっ」
ド直球だった。思わず我は噴き出してしまう。
突然右腕を見せてくれ、と迫られた洋平も唖然として口を開いた状態でヒカルを見ている。
「どうしたんですか? 見せられないんですか? 見せられない理由があるんですか?」
「いや、別にそんなことはないけど、ヒカルちゃん大丈夫? なんかおかしくない?」
「大丈夫です! 私はいつもこんな感じです!」
「そうなんだ」
明らかにヒカルの様子がおかしい。眼が据わっている。そんな視線を受け、洋平は頬を掻いた。右手で。
「え?」と、ヒカル言った。
「ん? どうかしたの?」
「ちょっと失礼します」
洋平の問いに答えることなく、ヒカルは洋平の右腕を掴んで机に固定した。突然のことに洋平は驚いてなすがままになっている。
そして、ヒカルは洋平の右腕の裾をめくり、右腕の全体をペタペタと触りまくる。
机にはりつけにされた洋平の右腕は我からでもはっきりとくまなく見ることができた。
そして、野間洋平の腕は無傷であり、損傷の跡がないということが確認できた。
念のために、とヒカルは左腕も検査する。しかし、洋平の左腕にも異常はなく、傷一つついていない綺麗な腕だった。
しばらく腕を触り続けたヒカルは満足したのか、ようやく手を放した。
よろけるようにしてボロボロのソファにヒカルは座った。
「「「……」」」
無言が事務所を包み込む。
「よかったぁ~」
ようやくヒカルが安堵の声を上げた。
「洋平さんの右腕に何の異常もなかったわ」
そう言ってヒカルは目の端をぬぐった。
本当に安心したのだろう。緊張が解けたヒカルはだらけたようにソファに体重を預ける。普段のヒカルではありえないだらしない行為だ。
「僕の右腕に何かついてたの?」
「いえ、何もなかったので安心したんです」
ヒカルの答えに洋平は首を傾げる、が何もなければそれでいい、と無理やり納得するように頷いた。
「今日のヒカルちゃんはちょっと疲れてるみたいだから、帰っても大丈夫だよ」
「大丈夫です。今日は絶好調です」
ヒカルは胸の前でガッツポーズを見せる。と、そこでダンスをするかのように綺麗に一回転して後ろの我のほうを向いた。
「シンタ君。というわけだから、帰っていいわよ」
「……」
洋平に聞こえないように我に近づき、ヒカルは耳打ちする。
「洋平さんは【探偵斬り】じゃなかった。腕に傷がなかったのがその証拠よ」
「たしかに傷はなかった。しかし、事前に被害者のことを調べていたことはどうする? 怪しいことに変わりはないぞ。ひょっとすると協力者がいるのかもしれない」
現代日本において犯罪の共犯者は極めて合理性に賭けている。基本的に人間は信用できない。共犯はどちらか片方が裏切れば一巻の終わりである。通り魔はリスクが高いが大金を得られるというメリットもない。
野間洋平の家族が共犯という可能性も考えられたが、妹の死後、不幸がた手続きに怒り、母親はうつ病になり自殺。父親も後を追うように病気で死んでいる。ストーカーによる事件の跡、野間洋平は天涯孤独になっている。
共通の動機を持つ場合にしても犯罪を犯した探偵という特定の人物ではない存在に対する攻撃は曖昧で憎しみの相手にしてはぼやけている。だから、共犯は難しい。
我とヒカルは話し合いの末、【探偵斬り】も野間洋平の単独犯である可能性が高い、と踏んでいた。
だが、ここに来て腕に何の傷もないことから洋平は【探偵斬り】ではないことが確定する。
つまり、これまでの全ては我とヒカルの取り越し苦労ということとなった。洋平のことを疑ったのはヒカルの思い込み。ひょっとするとファイルの中身もヒカルの勘違いである可能性もある。
念のために協力者の話をだしたが、おそらくないだろう、と我も思っている。
「大丈夫よ。洋平さんは【探偵斬り】ではない。その事実が大事なのよ。協力者、もしくは共犯者がいないことはこの間も話をしたでしょ」
「……本当に大丈夫か?」
「ええ」ヒカルは力強く頷いた。「それに貴方がいない方が【探偵斬り】に聞きやすいの。私がそれとなく机の中のファイルについて聞いてみるわ。それですべて解決よ」
そう言ったヒカルの顔はつきものが取れたように晴れやかなものだった。洋平が【探偵斬り】ではないと判明したので、これ以上は何も言う必要がないだろう、と判断する。
というか何を言っても今のヒカルには馬耳東風だろう。
「結局、ヒカルの思い込みによる暴走だったわけだ」
「うっ……。その通りです」
「我に余計な手間をかけさせた礼はしてもらうぞ」
「何がいいの?」
「我はパフェを要求する」
「わかったわ。今度喫茶店で奢ってあげる」
こうしてスイーツの約束をした我は家に帰ることにした。
それにしても洋平ではないとすると【探偵斬り】は一体誰なのか。その疑問だけが胸の中にもやもやとして残るのだった。
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