第35話 ヒカルの危機。
「ふわぁ~」
嶋野ヒカルが大きなあくびをし、すぐにそのはしたなさに気がついて口を閉じた。できる限り首を動かさず、周囲の反応を窺うが、特にこちらを見ている人もいないようだ。
今は大学の講義中。この授業の講師は厳しいことで有名で講義の最中に私語をする者がいればすぐに追い出されてしまう。もうすぐ試験の時期である。これは事前にSNSで仕入れた情報でこの講師は毎年、中間試験を行う。
本命の試験はまだ先だが、この中間試験と呼べるものを落とせば本命に入るまでなく、単位がもらえない。これを落とせば半年の時間が無駄になるのだ。それだけは避けなければならないので、みんな集中して講師の話を聞いていた。
私も集中しなければいけない。とヒカルは気を引き締めなおしていると背中から突かれた。感触からしてシャーペンの背のようでその行為に悪意はない。
大学の講義に席順はなく、皆自由に座っている。後ろを振り返ると友人である真耶がにやりと笑っていた。
一番見られたくない相手に見られてしまった。
後悔するがもう遅かった。
***
「ヒカル、眠いの?」
講義が終わり、昼休憩になったので、空いている教室で真耶とヒカルはお弁当をつついていた。
真耶の弁当は母親が作ったお弁当でヒカルは手作りの物だ。と言っても昨日の夕食の残りを詰め込んだ物と禁断の技である冷凍食品である。冷凍食品は電子レンジでチンするだけでできる。昔はあまりおいしいものではなかったが、今は技術も進歩し、簡単であり、味も美味しい。だからこそ、冷凍食品に頼ってしまえば怠惰な生活になる気がしてヒカルは嫌いだった。しかし、今朝はわざわざ朝早く起きて料理を作る気力がなかった。
「ちょっと夜更かしを……」
「へー。ヒカルにしては珍しいね。ひょっとして彼氏でもできた?」
「どうしてそうなるの?」
「だってヒカルは一人暮らしなんでしょ?」
ヒカルは首を傾げた。真耶とは時々、話が合わない時がある。真耶の話は突然、飛躍するのだ。過程を省き、結論に飛ぶから理解するのに時間がかかる。
しかし、話が噛み合わなくてもそのまま続ける。
真耶とヒカルの付き合いは高校時代にさかのぼるが、吹奏楽部関係の知り合い程度なので浅いものだった。しかし、同じ大学の同じ学部に偶然入ったという共通点からすぐに仲良くなった。今では大学では一番の友達と言ってもいいほどである。
「夜更かしはお肌の大敵だよ~」
そう言って真耶はヒカルの頬をさする。ヒカルが真耶に文句があるとすれば時折ある過度なスキンシップくらいである。あいさつ代わりのハグは当たり前で、隣に座る時も異様に距離が近い気がするのはヒカルの気の所為ではない。
人付き合いがそれほど得意ではないヒカルがパーソナルスペースが広い。それに対して真耶はそのスペースにすんなりと侵入することができた。だからこそ、二人は仲良くなれたのだ。
「大丈夫。まだ若いから」
「そんなこと言ってると二十代後半になってから後悔する羽目になるわよ。あ、ちょっとクマができてるよ」
「え、嘘」
真耶に指摘され、ヒカルはカバンから鏡を取り出して、自分の顔を確認する。あまりにもひどいものであれば化粧で誤魔化す必要が出てくる。化粧は落とす手間がかかるうえ、着替えるときに服にファンデーションがついたりするので苦手であった。それに化粧という行為自体にヒカルは面倒くささを感じていた。
幸いなことにクマはよく見れば気づく程度で気にするほどではない。これならわざわざ化粧を塗りなおす必要はなさそうだ。
「あれ? ブレスレット?」
真耶はヒカルの鏡を持つ左手に見慣れぬ腕輪がついていることに気がついた。とっさにヒカルは隠そうとが、もう遅い。真耶の視線は腕輪に釘づけである。
「ヒカルってアクセとか嫌いだったよね」
前に真耶と買い物に行ったときにそんな話をしたことがある。指輪は邪魔だし、ピアスは怖い。イヤリングはすぐに落としそう。と言っていたことを真耶は覚えていたのだ。
今までは身に着けるのは腕時計くらいだったのだが、シンタに渡された腕輪も嵌めるようになっていた。
ヒカルは手首を軽く持ちあがた。
その拍子に揺れた腕輪は光を反射させて人を魅了するようなキラキラと不思議な光を放つ。
この腕輪は継ぎ目がなく、外すことができないのでヒカルは困っていた。いや、正確には困っていると思いこんでいた。
本当はヒカルが望めば腕輪は簡単に外れるように魔法をかけられている。シンタは意地悪のつもりでそのことを話していないので、ヒカルはそれを知らない。
「これは彼氏のプレゼント?」
「違う」
ヒカルははっきりと否定する。そして、ミートボールに箸を突き刺した。
「そうなんだ? 綺麗ね。ヒカルに似合ってると思うよ」
絶対にこれがビー玉だとは言えないし、言わない。そうヒカルは心に誓った。真耶に言われた通り、この腕輪の外観は子供のお小遣いで購入できるほどの原価でありながら、六歳児が作ったとは思えない出来栄えだ。
ビー玉の中にはプラネタリウムを圧縮したかのように錯覚するほど神秘的な光があり、それでいて、よく見ないとそれに気づかない細工がされている。
派手な装飾を嫌うヒカルのことを考えてシンプルな見た目に作られていた。ヒカルとしてもシンタには決して言わないが、腕輪のことを気に入っていた。だかた、似合っていると言われ、ヒカルは嬉しくなる。
「---隙あり」
このままでは顔が緩みそうになるので、照れ隠しにヒカルは真耶のおかずであったプチトマトを奪う。真耶の非難の声を無視して、ヒカルは口に含んだ。
口の中にトマト特有のプチプチとした感触と共に酸っぱい味がヒカルの表情を引き締めてくれたのだった。
***
その日の夜。時間は零時を過ぎた頃である。
ヒカルは暗闇の中を一人、歩いていた。ハンチング帽を深くかぶり、黒縁の眼鏡をかけている。ヒカルの視力は悪くない。これは度が入っていない伊達眼鏡である。
知り合いにばれないためとはいえ、ハンチング帽を選んだあたりは推理小説好きのあの生意気な子供の影響を受けたのかもしれない。そう思うとヒカルは苦々しい気分になる。
ある目的のためにヒカルはこんな真夜中に出歩いていた。
真夜中に年頃の女性が一人で出歩く。過保護と呼ばれる一歩手前のヒカルの両親が知れば卒倒するであろう行為だ。
しかし、そんな危険な行為であろうとヒカルはしなければいけなかった。
それはとある人物を尾行するためである。
尾行の対象は大山勝也。28歳。
Q市にある調査会社に勤めている。世間一般で言う探偵である。
大山勝也は奥さんから浮気調査の依頼を受け、夫の不貞の証拠を手に入れておきながら放置し、調査期間の延長と料金の追加を要求。そして、その証拠を使って夫を脅迫。
他にも余罪は多く、暴力団関係者が背後にある調査会社という立場を利用し、様々な強請りや脅迫を行っている。ヒカルが知っただけでも罪の数は両手では数え切れず、被害額も一般サラリーマンの年収を軽く超える額になっている。
悪人だ。ヒカルは大山勝也をそう断言できる。
―――そして、【探偵斬り】の次の被害者になるであろう男である。
尾行を始めて三日ほどになる。調査会社という職業の影響もあり、大山の生活リズムは不規則で夜間に外出することも多い。だからそれを尾行するヒカルの睡眠時間も削られていく。
【探偵斬り】は現れるのか。現れないのか。現れればこの尾行生活から解放され、楽になれる。しかし、ヒカルは【探偵斬り】に出てきてほしくなかった。
この想像が勘違いであって欲しかった。
だが、ヒカルの思いは無残にも砕かれる。
尾行するヒカルの横を走りぬける人が現れる。彼、もしくは彼女はそのまま一直線にヒカルが尾行していた大山の元へと迫る。
ヒカルは本能的に感じた。あれは【探偵斬り】だ。
【探偵斬り】の右手にきらりと光る何かが目に入った。ナイフで間違いない。みるみる接近してくる【探偵斬り】に大山は気づかない。
このままではいけない。ヒカルは反射的に叫んだ。
「逃げて!」
その声に気がついた大山は後ろを振り返ろうとする。が、【探偵斬り】のほうが早かった。
【探偵斬り】と大山の影が重なる。それは一瞬のことだった。
大山は声をあげる隙さえなく、刺された。
すぐに【探偵斬り】は大山から離れる。【探偵斬り】のナイフから赤い血がこぼれているのがヒカルにも分かった。
ナイフに刺された大山は何が起こったのかも分からないまま、気を失い、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
まるでドラマの一コマのような場面だが、これは現実であり、演技ではない。その証拠に大山の周りには血の池ができはじめていた。
目的が済んだ【探偵斬り】は声を出したヒカルを一瞥することもなく、走りだす。
「落ち着け。私は大丈夫」ヒカルは大きく深呼吸する。「【探偵斬り】を捕まえて、この事件を終わりにする。」
人が刺された現場を目撃したヒカルの心臓はいまだかつてないほど、大きな振動をしている。想定していたとはいえ、実際に見るのとイメージは違う。恐怖に駆られて足がすくみそうになる。
震える足を叩き、ヒカルは叫んだ。
「待ちなさい!」
【探偵斬り】に呼びかけることで自分に追いかけなければいけない、と暗示をかけたのだ。
すぐにヒカルは逃げる【探偵斬り】を追いかける。
追いかける途中に出会った男に声をかけ、そこにナイフで刺された男がいること。救急車が必要なことを伝え、追跡を再開する。
ヒカルの運動神経はいい。同年代の女性の中では高い方だと自負している。しかし、相手が男だと別だ。走ることを想定して運動靴を履いているが、追いつけない可能性が高い。だから、ヒカルは別の手を用意していた。
大山の行動パターンはこの三日間で把握していた。だから、深夜に大山がどこを通り、どこが人通りの少ない場所なのか。【探偵斬り】の狙う場所はどこなのか。ヒカルは予想し、バイクをあらかじめ用意していたのだ。
自慢のバイクのエンジン音を鳴らし、ヒカルは【探偵斬り】の逃げた方向へ向かう。
【探偵斬り】の服装は覚えている。灰色のヨットパーカーを着て、背にあるフードを被っていた。ズボンは普通のジーンズ。
目立つ格好ではないが、深夜なので人通りも少なく、ヒカルは走っている人を見つけるだけでよかった。
「見つけた」
バイクのライトが走って逃げる【探偵斬り】の背中を捉えた。ライトに照らされたことに気づいた【探偵斬り】は一瞬、振り返る動きを見せてから、再び走る。
だが、人力ではバイクを振り払うことはできない。
ヒカルには幸運なことに、ここ周辺にはバイクが通れないような細い道はなく、それがバイクによる追跡を容易にしていた。
見る見るうちに【探偵斬り】との距離は近づく。しかし、相手は凶器を持っている犯罪者。対するヒカルは格闘経験のない普通の女子大生である。尾行はできても捕まえることはできない。
ヒカルは必要以上の接近はせず、このまま尾行を続けて【探偵斬り】の息切れを待つつもりだった。
一定の距離を保ったまま【探偵斬り】が折れるまで尾行し続ける。そして、自首を勧める。それがヒカルの作戦だ。
【探偵斬り】をバイクでしばらく追跡したが、細い路地に差し掛かり【探偵斬り】は角を曲がった。それを追うヒカルも見失わないように急いで角を曲がる。待ち伏せを警戒して角を大回りに回ることをヒカルは忘れない。
すぐに曲がった先を見る。
「消えた? 嘘でしょ?!」
【探偵斬り】の姿がない。すぐにヒカルは角に立っている電信柱の影を見る。しかし、【探偵斬り】はいない。一体どこに行ったのか。
ヒカルは視界を広げるためにヘルメットのシールドを持ち上げた。
そして、気がついた。
【探偵斬り】はヒカルの視界の上、電信柱の中腹で腕の力だけで体を支えていた。
ヒカルは慌てて離れようとするが、それを待ってくれるほど【探偵斬り】は甘くない。
電信柱を足場にして、飛んだ【探偵斬り】はその勢いのままヒカルを蹴り飛ばす。
たまらずヒカルは転がり、どこかの家の塀に背中からぶつかった。蹴られた衝撃でヘルメットも飛んで行ってしまった。
頭を強く打ち、意識がもうろうとする中、ヒカルの視界には倒れたバイクが見えた。自慢のバイクもミラーがぽっきりと折れている。
修理代、高いんだろうなぁ。とヒカルはどうでもいいことを考えてしまう。
脳震盪でも起こしたのか、視界がくらくらして、ヒカルはすぐに立ち上がることができない。
そして、なぜか声をあげることもできない。声を出そうとすると喉が締まり、呼吸が難しくなる。視界もぼやけ、今にも気を失ってしまいそうだった。
そんなヒカルの様子に気づいているのか、【探偵斬り】はゆっくりと歩いてヒカルに近づく。
その手には月の光を反射させたナイフがあった。
「あっ……」
【探偵斬り】はヒカルを刺そうとしている。ひょっとすると殺そうとしているのかもしれない。しかし、体は力が出ず、立ち上がることも身動き一つとることもできなかった。
【探偵斬り】は深くフードを被っているので顔を見ることはできない。中肉中背で道に付けられた電灯だけが頼りの視界では男か女かも判別することはできなかった。
ただ、フードの奥に歪に光る眼だけを感じ取ることはできた。【探偵斬り】はヒカルに危害を加えようとしている。それだけは認識できる。
怖い。怖い。怖い。
恐怖がヒカルの思考を麻痺させる。
震える視界にヒカルは自分の左腕が目に入った。銀色に光るシンタがくれた腕輪。祈れば守り神が現れる、とシンタが言っていた魔法の腕輪。
ヒカルの頭にシンタの顔が浮かぶ。少年というよりは幼児に近い容姿をしていながらその心は大人であり、魔法を自在に操る頼れる存在。
シンタはどうでもいいことでヒカルをよくからかうが、こういうことで嘘はつかない。
ヒカルは祈った。
「助けて……」
ヒカルの祈りは【探偵斬り】に言ったわけではない。シンタへの声だ。しかし、【探偵斬り】からすると命乞いの懇願にも聞こえる。だが、当然、【探偵斬り】がそんな懇願を聞くわけがない。【探偵斬り】はヒカルの声を聴いてなお、淡々と業務をこなす作業員のようにナイフを振り上げた。
ナイフが振り下ろされ、ヒカルに達しようとした瞬間。
「ッ―――」
ヒカルの危機に反応するように腕輪が光を放つ。目もくらむような光にヒカルは思わず目を塞ぐ。
光が収まり、数秒ほど過ぎてもヒカルの身体に異変はない。【探偵斬り】による攻撃もなかった。
何が起きたのか。ヒカルは恐る恐る目を開いた。
そこには小さくも、とても頼りになりそうな背中があった。
「現在、午前一時。我はとてもオネムで機嫌が悪い!」
少年は高らかに叫んだ。
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