白い影との再会Ⅰ

「――はぁ……やめよう」


 影耿は溜息をつくと意識的に考えるのを止めてカメラをバッグにしまった。己の身の上は何度も嘆いたし、嘆いたところで何も変わらないのだと、どうしようもないのだと、もう見切りをつけたのだ。

 しかし、そう思ってはいても、胸のもやくやはそう簡単に晴れはしない。見上げた夜空はまだまだ暗く、日の出にもまだ時間があった。

 このまま帰っても簡単に眠れそうになかった。ならば気分転換をしてから帰ろうと、影耿は近くの公園へ足を向けた。


 その公園は市街地にあるとは思えないほど緑が豊かで、周辺住民からも評判の場所だった。フランス式庭園やイギリス式庭園、メタセコイアの並木道や芝生が敷かれた広大な広場などがあり、公園の中央には大きな池もあった。その池はそのまま「大池」と呼ばれ、時間によってさまざまな表情を見せる噴水が訪れる人々の目を楽しませていた。

 朝は犬の散歩や公園を一周するように舗装されたジョギングコースを走る人で賑わい、日中は家族連れが子供を遊ばせに来ていたり、昼食を持参してピクニックに来たりしていた。夕方になればカップルが一時ひとときのデートを楽しむなどして、雰囲気の良さから人の絶えない公園だった。

 ところが夜になると一転、昼間の賑わいが嘘のように訪れる人がほとんどいなくなるため、影耿はその静けさを気に入っていた。


 影耿は池のほとりにある東屋のベンチに腰を下ろした。

 横に置いたバッグから手探りで白い蓋のオレンジ色の容器を取り出すと、薄い赤色の錠剤を一粒摘んで口に放り噛み砕く。決して美味しいとはいえない味が口の中に広がった。それを飲み込むと二粒、三粒……と、ラムネ菓子のようにぽりぽりと食べていく。

 本来ならば一日に数粒を水で飲むだけというモノをそのまま食べているのははっきり言って異常なのだが、癖のようになってしまっていて中々やめられないでいる。

 深夜の大池は、水の踊らない水面に外灯の光とそれに照らされた木々が映り込み上下対称の景色を作り出していた。時たまその水鏡を魚が揺らして波紋を広げていくさまを、取り留めも無いことをつらつらと考えながらぼんやりと眺めていた時だった。


「良い夜だね」


 突然、声が聞こえた。幽かに闇を感じさせる、艶のある端正な甘い声だ。

 急に現実に引き戻されたことに驚いて影耿が声の方に振り向くと、そこにいたのは、この世のモノとは思えないほどの美しい男だった。

 公園の外灯に照らされたその姿はまるで、本の中から迷い出た貴族のようだった。背が高く、細身だが均整の取れた体に気品の感じられる白いフロックコートを纏い、銀の細工が施された黒檀の杖を携え、腰まで伸びた白い髪を緩く編んで垂らしていた。

 大仰で古めかしく現代離れした衣装は一歩間違えばコスプレと揶揄されてもおかしくないのに、違和感を覚えないのはその出で立ちが板についているからだろう。

 透き通るような白い肌は無機質で冷たい人形を連想させるが、この世の最高の美で造形されたような容貌と相まって、正に『美貌』と呼ぶに相応しかった


 影耿の吸血鬼としての感知能力を持ってしても、男がいつ現れたのか分からなかった。それだけでも警戒する理由には事足りるというのに、影耿は突然現れたその男を警戒するどころか、その姿に見惚れてしまっていた。


「こんばんは。久しぶりだね、僕のこと覚えてるかな?」


 最初、この白ずくめの男が誰なのか影耿は分かっていなかった。

 しかし男の赤い瞳を見たその瞬間、次々と焚かれるストロボのように事故に遭った後の記憶がフラッシュバックし、影耿は嫌でも自分が吸血鬼になった時のことを思い出した。

 目の前にいるこの男に血を吸われ、何かをことを。


「――お前っ……!!」


 勢い良くベンチから立ち上がった。吸血鬼になったことで味わった、これまでの苦痛を思い出して頭に血が上る。男を睨み付ける眼が仄かに赤みを強めていった。


「お前のせいで、俺は……!」


 昼夜が逆になった生活を送らなければならなくなったことで、様々なことがままならなくなった。太陽へ対する吸血鬼の本能としての忌避感と、また痛い思いをするのではないかとの恐怖を影耿自身が感じているのに、吸血鬼になる前の感覚で太陽が堪らなく恋しくなることがあった。

 吸血鬼になったことで親に拒絶され、生活時間帯が真逆の友人達に連絡を取るわけにも、吸血鬼になったとも言えず、孤独の中でこの半年間を過ごしてきたのだ。


「……何を言ってるの? 死にたくないって君が言ったんだよ? 望んだのは君だ。僕のせいにしないでよ」


 影耿が自分へ向ける憎悪の色濃い目に、男が不快そうに眉を顰めた。その直後、影耿の心臓が大きく拍動し、全身から汗が噴き出した。


「!?」


 体を巨大な手で押さえ付けられているような、重力が何倍にも増したような圧力。影耿の意思とは反対に、膝を地につけこうべを垂れそうになる体に必死で抗う。


「あれ、結構強めに威圧してるんだけど平気なんだ? ……まぁ、力尽くで跪かせればいいだけなんだけどね」


 男は頑なに膝を折ろうとしない影耿を意外そうに見た後、どこかへ目配せした。すると、どこからともなく黒ずくめの者達が五人現れた。男の後ろに二人が控え、二人が影耿の腕を掴んで拘束し、残りの一人が膝裏を蹴って跪かせた。

 黒ずくめ達は皆一様に純黒の外套に身を包み、性別や体付きなどを隠して個々を消している。分かるものと言えば身長ぐらいで、目深に被るフードの中は影が濃く、顔も判別できそうになかった。


「このっ、放せよ!!」


 影耿は黒ずくめ達によって王の前に引っ立てられた罪人のように跪かされていた。拘束から抜け出そうと身を捩るが、思うように振り解けない。

 本来ならば吸血鬼である影耿がに力負けするはずがない。黒ずくめ達は何らかの方法で吸血鬼を押さえ込めるほどの力を得ているようだった。


「いい時代になったものだね。狩られる恐怖に怯えることもなく、逆に崇拝者までいるんだから」


 そんな様子を見て昔を思い出しているのだろう、男は感慨深そうに言った。


「お前何なんだ!? 俺に一体を入れたっ……!」


 影耿に問われ、男は一瞬表情を消した。そして、それがいらえだとでも言うかのように薄っすらと笑んだ。不気味になる一歩手前の、背筋が凍るほどの最高に美しい笑みだった。


 かつん、かつん、と夜気に冷えたアスファルトに男の靴音が響く。男が一歩近付くたびに、得も言われぬ恐怖が影耿の中に湧き上がった。


「くっ、来るな……」


 夜の公園は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれる。遠くに聞こえていた人の生活音や車が走る音はいつの間にか消え去り、ありとあらゆる気配が暗闇からじっと男の動向を窺っていた。動植物や小さな虫ですら、冷たく重い空気に息を潜めているようだった。


 男は影耿の前で足を止めると、姫を迎えに来た騎士のように片膝をついた。影耿を見つめる眼差しはあの夜のように真剣そのものだった。

 しかしその眼差しは錯覚だったかのように一瞬で掻き消え、危うさを孕んだ笑みに変わる。


「――さあ、《彼女》を返してもらおうか」


 男の手が影耿へと伸ばされる。血のように赤く狂気的な輝きを宿した目は最早、影耿のことなど眼中にないようだった。


「っ、やめ……」


 黒ずくめ達を振り解こうと影耿は激しく抵抗するが、先ほどと同じく効き目はない。

 そうこうしているうちに男の指先が影耿の胸に触れ、あの時と同じように沈む瞬間――、


「やめろぉぉぉぉ!!」


 影耿の叫びと共に空間が軋んだ。一瞬ひやりとした空気の流れを肌に感じたかと思うと、影耿を拘束していた黒ずくめ達が瞬く間に氷に飲み込まれ、回避行動を取ろうとした男も、男の後ろに控えていた黒ずくめ達も、同じようにあっという間に氷の中に囚われてしまった。

 それは収まることを知らず、気温は急激に下がり続ける。池の水や草木、アスファルトでさえも、辺り一面及ぶところ全てが凍り始めた。木の上で眠っていた鳥がそのままの形で落下し砕け散り、微かに空気が動いただけでも木の葉が粉々になった。

 そして目に見える一通りのものが氷結すると、夜の公園に静寂が戻った。


 それは異能だった。本来ならば真祖や純血種、もしくは長い時を生き力を強めた吸血鬼しか持たないはずの力で、半年ほど前に吸血鬼になったばかりの影耿が持つはずのない力だった。

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