白い影との再会Ⅱ

「……何だよこれ……俺がやったのか……?」


 恐る恐る目を開けた影耿が見たのは驚くべきものだった。

 目の前には飛び退く瞬間のような体勢の男と二人の黒ずくめが、すぐ後ろには影耿を捉えていた三人の黒ずくめが驚きに一歩引いた格好のまま、それぞれ氷漬けになって沈黙していた。

 もし黒ずくめ達が異変を感じて手を離していなければ、自分も一緒に氷漬けになっていたのかもしれないと想像して影耿は寒さのせいではなく体を震わせた。


 一変した景色に戸惑いつつ所在なげに辺りを見回すも、動いているのは影耿一人だけのようだった。


「……帰っていいの、か?」


 誰に聞いているのか影耿自身よく分かっていない問いに、返ってくるのは当然ながら沈黙だけだ。

 大学はモラトリアム期間ではないので明日も普通に講義がある。もしこのままなのであれば、誰かに見咎められる前に帰って眠りたいと言うのが正直なところであった。

 影耿は音をなるべく立てないようにして立ち上がると、氷で歩きにくくなっている足元に気を付けながら東屋に戻りバッグを肩にかけた。公園の出口に向かうには男と黒ずくめ達の横を通らなければならないのが嫌だったが、転ばない程度に足を速める。

 氷に封入された男の横顔は、やはり美しかった。


 何事もなく通り抜け、ほっと詰めていた息を吐き出した時だ。


 ――ぱき、


 音が聞こえた。それは氷が割れる音に似ていた。その音が耳に届いた直後、影耿の背後が爆発的に明るくなり、公園内を白々と照らした。

 実際に爆発があったわけではないのに、あまりにもその光量が多かったために衝撃を感じたような気さえするほどだった。


「なっ……!」


 影耿が振り返ろうとした瞬間、いつの間にか首に薄刃が添えられていた。それは音もなく、まるで初めからそこにあったかのように存在していた。

 首に感じる違和感は、刃物が急所に添えられているというプレッシャーではなく、出血するかしないかの絶妙な深さで薄皮一枚だけ切られていたからだ。

 ごくりと生唾を飲む。ゆっくりと両手を上げて振り返ると、男と黒ずくめ達を包み込んでいた真珠色の炎が丁度消えるところだった。黒ずくめ達は氷に閉ざされ炎に包まれたのが嘘のように平然とし、凍りついた全てのものがこの一瞬で元に戻っていた。

 影耿の首に掛かっている薄刃は、男が携えていた黒檀の杖に炎を纏わせて形作られた、男の背丈よりも大きな鎌だった。


「随分と相性が良かったみたいだね」


 男は面白くなさそうに言った。喜ぶべきなのに素直に喜べない、そんな雰囲気を滲ませていた。

 影耿は男に聞いた。


「……マリアンって誰だ? お前が俺に入れた石の名前なのか?」

「どうして君に言わなきゃいけないの?」

「アレをお前に返すと俺はどうなる?」

「さぁ……死ぬんじゃない?」


 男はこともなげに言う。


「死ぬって、何で……」

「別に何だっていいじゃない、どうせ君はあの後死んでいたんだから。あの時死のうが、今死のうが、たかが半年くらい大差ないでしょ」

「大差ないって……! お前ふざけんなよ!!」


 確かに影耿はあの事故の後、男が現れなければあのまま死んでいただろう。だからこそ男が現れた時に死にたくないと強く思いそう言った。他人のせいで生を奪われたくなどなかったからだ。

 そして代償のように吸血鬼になったことで、生は奪われはしなかったものの「人としての生」を失った。

 けれども生きてさえいるのだから僥倖なのだと自分を納得させ、吸血鬼である事も少しずつだが受け入れ始めていた。それなのに、今度は自分を生かした男によって、また生を奪われようとしている。否、男の言い方ではならない。

 また、他人のせいで生を奪われようとしているのだ。


 影耿は首に鎌が掛かっているのも忘れ、激昂に任せて掌を前に突き出して叫ぶ。


「凍れ!」


 だが先程とは違い、何も起こらなかった。

 咄嗟に身構えた黒ずくめ達は肩透かしを食らったように戸惑い、お互いの顔を見合う。

 男はそうなることが分かっていたのか、得物を向ける価値もないと大鎌を形作っていた炎を消し杖を元のように携えた。


「なんでっ、凍れよ!」

「……君は矛盾しているね。あんなに死にたそうな顔をしていたくせに、死ぬと分かると怒りだす」


 凍れと焦るように叫ぶ影耿を、男はただ静かに見据えていた。影耿に聞かせているような、それでいて独り言とも思える口調だった。


「凍――あ、れ……?」


 突然、影耿の足元がふらついた。視界が歪み、立ったままでいることが出来ずに膝が崩れた。

 体が鉛のように重く、力が入らない。影耿は重力のままに倒れ伏し、泥の沼に引き込まれるように意識が遠退いて行った。

 暗くなっていく視界の中で見たのは、吸血鬼になったあの夜と同じ白い影だった。



「そんな簡単に使いこなせるわけないじゃない」


 倒れた影耿の側に男は屈み込んだ。影耿の目元に乱れかかる髪を除けると、何を考えているのか分からない表情で見下ろしていた。


「ヴァイス様、まもなく日が昇ります。お戻り下さい」

「あ、もうそんな時間? じゃあ彼を――」

「なっ!?」

「いつの間に……!」

「……まだ逃げる余裕あったんだ……」


 黒ずくめに言われ、男――ヴァイスが黒ずくめに向けた視線を影耿に戻すと、そこに倒れていたはずの姿がなくなっていた。

 黒ずくめ達は姿を消した影耿を探すように周囲を慌ただしく見回し、ヴァイスも一瞬驚いた表情を見せたが、東の方から微かに白み始めている空を見やり、まあいいかと立ち上がった。


「ただいま追手を……!」

「んー、いいよ。どうせ最後は僕のモノだ」


 ヴァイスは黒ずくめの申し出をやんわりと制した。今ここで逃したところで後でどうにでもなるという確信や余裕の現れのようだった。


「ねぇそれよりさ! 彼女はいつ来るんだい? 僕もう待ちきれなくて!」


 ヴァイスは空を見ていた身をくるりと反転させると、もう影耿のことなど頭にないといった様子で目を輝かせ、弾んだ声で黒ずくめに尋ねた。黒ずくめは話の突然の変わりように少し戸惑いながらも、聞かれたことに答えるべく口を開く。


「も、申し訳ありません。あちら側でまだ調整に手間取っているようで……」

「そっか……」


 帰ってきた歯切れの悪い答えはヴァイスの意に添うようなものではなく、残念そうに肩を落とす。けれどもすぐに期待に胸を躍らせるような明るい表情を見せて言った。


「あぁ、早くマリアンに会いたいなぁ!」


 西の空には、日の出から逃れるように蝙蝠の群れが飛んでいた。

 ヴァイスは差し出された外套を羽織るとフードを目深に被り、黒ずくめ達と共に公園を去っていった。

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