今、闇医者。昔、狩人。Ⅰ
「でね、まーくんてば昔の女の連絡先消してなかったんだよ!? 消したって言ってたのに!!」
帰途につくサラリーマンが多く行き交う、駅前の大通りから少し外れた通りにある雑居ビル。その半地下に開かれているクリニックの診察室から、泣きながら怒っている若い女の声が待合室にまで漏れ聞こえていた。
「私はね、別に昔の女の連絡先を消してなかったことに怒ってるんじゃないの! 消してないのに消したって嘘つかれたことに怒ってんの!」
流行のファッションに身を包み、診察椅子に座る女の名は
今は涙で化粧が崩れて容姿を売りにしているとは思えない顔になっているが、普段ならばすっぴんでもすれ違う人が道端の看板や電柱にぶつかるほどの美女である。
その向かいにいるのは、二十歳のリリよりもさらに若く見える女――と言うよりも白衣を着た高校生くらいの年頃に見える少女だ。だからといって、そう見えるだけで本物の女子高校生というわけではなく、
尭哉は、目鼻立ちが整った凛とした印象の容貌を呆れの色濃い表情に変え、分厚いバインダーやファイルが本立に並び、デスクトップパソコンが置かれた机に片肘を乗せて頬杖をついていた。
「それなのにっ、まーくん、消せばいいんだろって……! そーゆーこと言ってるんじゃないのにっ、なんで分かってくれないの……!!」
リリは鼻をすすりながら、延々と不毛な愚痴を吐き続ける。
体の調子が悪い時や、予防注射などで診察を受ける時にはちゃんと予約を入れるリリが、今日は夜になり診療時間が始まって早々飛び込んできた。
その時点でこうなるのではと何となく想像していたが、受付を済ませてしまっていては診ない訳にはいかず、予想通りになっている。
痴話喧嘩は犬も食わないとはよく言ったもので、どうせ今回も放っておけばいつの間にか元鞘に収まっているに違いないのに……。と、長いまつ毛に縁取られた尭哉のロンドンブルーの瞳が、憂いと嘆きを代弁しているようだった。
はぁー、と尭哉が深く溜息をつくと、リリの肩がびくりと跳ねた。これから言われることが分かっているようだった。
「あのね、雨宮さん。彼氏さんと喧嘩したのは気の毒だと思うわ。けれどここはクリニックであって、悩み事相談室でも愚痴聞き屋でもないの。どこも悪くないのに来るのは控えてって、ついこの間も言ったわよね?」
恋人と喧嘩するたびに来られてはたまったものではないと、尭哉は再度、リリに釘を刺す。するとリリはハンカチから顔を上げて、異議ありと高らかに訴えるように言い返した。
「悪いとこならあるもん! まー――」
「彼氏さんとの仲が悪い、とか言ったら本気で出禁にするわよ?」
まさにそう言おうと思っていたのか、被せられた尭哉の言葉に、リリが慌てて口を両手で塞いだ。けれども誤魔化し切れるものではなく、尭哉の乾いた視線にリリは晒されることになる。
他に何か言うことはないかと、視線を斜め上の方に泳がせて理由を探していたようだが、何も見つからなかったらしく、リリは強引ともいえる手段に出た。
「ちゃんと診察代払うんだからいいじゃない! もう! 何でそんな意地悪言うの!」
本来ならば医者に「診察代を払うから愚痴を聞いて」なんてことはまかり通らないのだが、このクリニックは昼間に営業している普通のクリニックとは違う一面を持っているため、リリの言い分はあながち間違ってはいなかったりする。
「そ、それにこんなこと相談できる友達、先生くらいしかいないし……」
「次の方どうぞー」
頬を赤らめて、涙と鼻水が染み込んだハンカチを持つ手をもじもじと動かすリリは、女優もこなすモデルなだけあって、破壊力は抜群だ。
しかし、同性の尭哉には可愛いなと思いこそすれ効果はない。間髪を入れずばっさりと切り捨てて、待合室に続く廊下に面した引き戸に向かって声をかけた。
「やぁだー、まだ終わってないのにー!」
リリの抗議を聞き流す。
尭哉とてリリが憎くてこんな仕打ちをしている訳ではない。相談に乗って欲しいと言われれば、時間はいくらでも作ってあげられるのだ。
けれどリリは診察代を払って愚痴を言いに来る。リリなりのけじめなのか線引きなのか分からないが、尭哉にはリリがあまり意味のない遠慮をしているだけのような気がしていた。
だからと言ってそれをわざわざ口頭で伝えることができるほど、尭哉のコミュニケーション力は高くはなかった。
話は終わりだと言う代わりに尭哉はリリと向き合うのをやめ、パソコンに向かいカルテに「引き続き経過観察」と入力した。さらさらと艷やかな黒髪が肩から前の方に流れるように垂れ、それを鬱陶しそうに白い指が耳に掛けた。
「話ぐらい聞いてよー……って、先生その首どうしたの?」
「ん? あぁ、咬まれたのよ」
リリが先程まで見えていなかったものに気付く。尭哉の首筋に、大判サイズの絆創膏が貼られていたのだ。凝ったネイルが施された指でリリが差すそれは、尭哉の細い首に対していささか大きく、それにより痛々しい印象を与えていた。
しかし指摘された本人はリリに言われたことで思い出したらしく、さも瑣末なことのように答えて絆創膏に手をやった。
「噛まれたって、……男に?」
「まぁ、男性ではあるわね」
男性ではある。それはどういうことなのだろうと、リリは続けてたずねた。
「えっ! 彼氏?」
「違うわ」
「んーと、じゃあー……」
知りあって数年目にして初めて聞いた尭哉の浮いた話だ。楽しそうにリリがなおも会話を続けようとしたその時だった。
扉をノックする硬い音がした。
「先生、入るよ」
そう言いながら引き戸を引いて、男が診察室に入ってきた。
高級そうな革靴に、光沢のある濃い灰色の三つ揃いを着込んだ、四十代くらいの長身の男だ。それだけならどこかの企業のお偉いさんか実業家といった体だったが、男は険のある顔に、シャープな印象の色の薄いサングラスをかけていた。そして男のまとう雰囲気は、一目で裏社会に生きる人間なのだと、相手に分からせる独特のものだった。
男の名は
「うげっ」
鏑木を見るなり、リリは心底嫌そうに顔をしかめた。鏑木もリリを見るやいなや、目をすっと細め、相手を萎縮させる低い声で言う。
「……お嬢ちゃん、また流しに来たのか?」
「ちっ、違うわよ! 薬はもうやめたんだから! それに、私のことお嬢ちゃんって言うのやめてって言ったじゃないですか! もう大人なんですよ、私!」
鏑木は意地が悪そうに口の端を吊り上げると、棘のある声で続けた。それは脅迫とからかいと悪意に満ちているように感じられた。
「大人、ねぇ……まぁそうだよな。アンタ、先生にケツ拭いて貰ったんだもんなぁ? またやるなんて馬鹿で恩知らずなこと、するわけないよなぁ、お嬢ちゃん」
鏑木の高身長で、サングラス越しの鋭い目に高圧的に見下されると、否応無しに心臓を鷲掴みにされたような、蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまう。
しかしリリはそれをぐっと抑え込むと、気丈にも鏑木を睨み返して口を開く。
「っ! だからもう――」
「鏑木さん、あまり雨宮さんをいじめないで。彼女はもう日向の人間なのよ」
尭哉が遮った。こんな意味のない応酬を聞く気もなかったし、このままではリリだけがヒートアップする一方だ。
ロンドンブルーの瞳が、鏑木を鋭く見つめ諌めていた。
「ほら、先生のお墨付き!」
「……先生がそう言うなら、そう言うことにしておくよ」
「だからさぁ! 私はもう、
「雨宮さん」
大袈裟に仕方なさそうする鏑木に苛立ったリリが、なおも喰い下がろうとしたが、尭哉に名前を呼ばれたことで気を削がれて、それ以上続けることが出来なくなってしまった。
語気が強められていることで、言外に帰れと言われているのだと察するも、鏑木が悪いのにと言いたげな、納得がいかなそうな表情で尭哉を見返す。
ほんの少しの間、二人は目で会話するように見つめ合っていたが、リリが溜息をついたことでその無言の会話に終止符が打たれた。
「……分かった。帰る。またね、先生」
「はい、お大事にどうぞ」
そうしてリリが引き戸に手をかけ診察室を出ようとしたとき、鏑木が声をかけた。
「お嬢ちゃん」
「……何よ」
また「お嬢ちゃん」呼ばわりされたことに腹が立ったが、尭哉に諌められたばかりなのを思い出し、冷静に装い振り返った。
リリと入れ替わるように診察椅子に座り、背中を向けていた鏑木が首だけ振り返り言う。
「顔、作り直さないと見れたもんじゃないぜ」
「っ――!! 死ね!」
鏑木のその台詞は、泣いた後の一番ブサイクな顔を見られていたことをリリに思い出させるには、これ以上ないくらいに効果は抜群だった。顔を真っ赤にして怒りながら吐いた捨て台詞と共に、乱暴に引き戸が閉められた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます