花嫁の心臓
夜の始まり
戸惑いと不安から始まった大学生活にも慣れ、盲目的に課題に取り組んだ夏休みが終わった九月下旬。影耿はその日の講義を聴き終わり、一人暮らしをしているアパートへの帰路を歩いていた。
ショルダーバッグのポケットからスマートフォンを取り出して時刻を確認すると、丁度午前三時を過ぎたばかりだ。
草木もとうに眠り、魔物が跳梁する
影耿と同じように帰途に就く者もいれば、恐らく駅周辺の繁華街から流れて来たのだろう、まだまだ遊び足りないと言わんばかりに騒ぐグループも見受けられた。
影耿はスマートフォンをバッグに仕舞うと、代わりにカメラを取り出した。
街を行く人々の営みや煌びやかに飾り付けられたショーウィンドウ、街灯の光を受けて深緑に透ける街路樹などを、気の向くままにレンズを向けてはシャッターを切っていく。
影耿の趣味は写真を撮る事だ。
と言っても一眼レフを使うような本格的なものではなく、インターネットのショッピングサイトでカメラを探していた際に、薦められるままに「まぁ、これでいいか」と買ってしまったコンパクトデジタルカメラで好き勝手に撮影しているだけである。
美しい風景を求めてさすらったり遠出したりすることはなく、身の回りのものや日常的な風景が主な被写体だった。
ふと、道の反対側を歩くカップルに目が留まる。すらりと背の高い整った容姿をした男性と、その男性に腕を絡ませて歩く可愛らしい女性のカップルだ。二人は何かを話しながら歩いていて、男性が笑顔を見せると女性が頬を赤らめながらも幸せそうに微笑む――そんな、一見どこにでもあるような光景だった。
そのどこにでもいるようなカップルに影耿はおもむろにカメラを向け、シャッターを切る。そうして撮った写真を液晶モニターで確認すると、そこには女性ただ一人だけが映っていた。
影耿が女性だけを狙って撮ったわけではなく、たまたま男性が見切れてしまったわけでもなく、勿論カメラの故障や不具合などでもない。
何度彼らを撮ったところで、どうやっても男性は写らないのだ。
独り、何もない空中で不自然に腕を上げ、何もない所へ幸せそうに微笑みを向ける女性の写真を影耿は遣る瀬無げな複雑な表情で見ていたが、モニターを操作して削除ボタンを押した。
誰かが足りない写真は何度見ても見馴れなかったが、撮る事には随分前に慣れてしまったように思う。そして同じように写真を確認しては、何人かの写らない人物がいる写真を消していった。
「っ……」
ぴた、と画面を操作する影耿の手が止まる。夜を映すばかりであったモニターに、一転して昼間の景色が表示されたのだ。
そしてそれは、影耿の実家の庭の写真だった。
ガーデニングが趣味の母親の好みが全面に押し出されたイングリッシュガーデンで、淡いピンク色のクラシックローズが自慢だと話していたのを覚えている。
エクステリアにも凝っていて、毎週のようにホームセンターへ行く足として父親が使われていた。
今思えばなかなか絵になる庭だったが、この頃の影耿にとっては手に入れたばかりのカメラを使いたくて、物は試しと辺り構わず撮影したモノの一つにすぎなかった。
塀の上の猫や近所の犬。
青空と電線、変な形の雲。
良く行ったコンビニ、笑顔でじゃれ合う友達。
夕方の通学路、長く伸びた自分の影。
リビングのソファーに座り、広げたファッション雑誌で顔を隠しながらピースをしている妹。
台所に立つ母親は不意打ちで撮ったせいか目が半開きで、新聞紙を広げて足の爪を切っている父親は大口を開けてあくびをしていた。
そして最後に映し出されたのは、このカメラで一番初めに撮った写真だった。
それは十数年間を共にし、影耿のこれまでの人生を過ごした実家の影耿の部屋だった。
小学校へあがる時に買ってもらった本棚付きの学習机や、漫画やライトノベルが詰め込まれた本棚。壁際のベッドの下には当時ハマっていたカードゲームなど、捨てるに捨てられない思い出達が詰め込まれていた。
大学へ入ってから一度も帰っていないが、今でも鮮明に思い出す事が出来る。
写真の中には、当たり前に享受していた日常があった。影耿にはもう二度と手に入らない風景だった。
堪らずにカメラの電源を切ると、レンズが音を立てて収納された。
電源の落ちた液晶モニターは只々暗く、本来なら影耿の顔が映り込んでいなければならないのに、そこには何も映りはしない。
暗くなったモニターを見ていると、
「……何で、俺が」
ぽつり、と呟いた。
それはこうなってしまってから、何度も何度も口にした言葉だった。
闇の世界を明るく見せる目。
ヒトにはない発達した牙。
陽の
そして、血を欲さないではいられない。
――箕姫影耿は『
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