newborn Ⅱ


 ぺたぺたとスリッパの音が人気のない廊下に響く。非常灯によってぼんやりと緑色に染まった薄暗い廊下に影耿はいた。

 この数日間は毎日のように病室と検査室を往復するだけで、いい加減うんざりして病室を抜け出してきたのだ。

 看護師に見咎められると面倒なことになりそうなのは想像に難くなく、次の見回りの時間までには戻るつもりでいた。


 廊下を少し進んで角を曲がると、金属の冷たい硬さをもって静かに口を閉ざしているエレベーターがあった。

 その前へ行き、操作盤へと伸ばし掛けた手が止まる。影耿の視線の先の操作盤には、ただ一つ上へ行くためだけのボタンがその中央に埋め込まれていた。


「……ここ地下だったのかよ」


 だから窓がなかったのかと影耿の脳裏に浮かんだのは、本来窓があるべき場所も無機質な白い壁でしかない石室のような病室だった。


 病院の地下といえば霊安室がある印象が強い。人間だった抜け殻と同じフロアで寝起きしていたのかと思うと、薄気味悪さが影耿の背中をそっと撫で上げた。


 行き先が限定されているボタンを押すのは見えない何かに誘導されているようで少しばかり躊躇われたが、病室に戻りたくない以上、影耿はこのボタンを押すしかなかった。

 扉の向こうから段々と近付いて聞こえるモーター音は、人のいない廊下ではやけに大きく聞こえた。表示される階数が地下を表して止まり、薄暗い廊下に四角い空間が光の口を開ける。

 影耿はその中に足を踏み入れるとロビーがあるであろう一階のボタンを押し、端の方に身を寄せて立つ。ベッドごと運べる大きさの病院のエレベーターはがらんどうとしていて、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。


 エレベーターが昇り始める時の少しだけ重力が増したような感覚を覚えながら、影耿は扉の向こうに夜に沈んだ病院のロビーを想像していた。

 ロビーに行って何かをしたいわけじゃなかった。売店だってこの時間では営業していないだろうし、外に出ようにも勿論ドアは施錠されているだろう。

 ロビーに行くことが目的というよりも、単に閉塞感に満ちた病室とは違う景色を見て気分転換をしたかっただけだった。


 軽い眩暈にも似た浮遊感でエレベーターが止まったのだと分かった。

 しかし、段々と開く扉の隙間から入り込んできたのは、エレベーター内の光を吸収するような夜の静寂しじまではなくだった。


 薄明光線のように細かった光が徐々にその光量を増すにつれて、影耿の中に恐怖が生まれた。

 それは「刃に触れたら切れた」などの経験則に基づいたものではなく、生物が本能的に感じる類の恐怖だった。

 エレベーターの隅に張り付くようにして、段々と開きゆく扉を凝視した。心臓がまるで早くここから逃げろと急かすかのように拍動を速めた。

 今まで経験したことのない強い恐怖。けれども影耿は自分が一体何を恐れているのか判らないでいた。


 そして――聞く者の耳を鋭く切り裂く叫び声が、病院の廊下に響き渡った。


 扉の陰から太陽が姿を現し、朝日が影耿に襲い掛かる。光が容赦なく突き刺さり、炎で炙られているような激しい痛みが体中に押し寄せた。光に晒された皮膚が赤く焼け爛れ異臭のする煙を上げていた。

 絶叫がエレベーター内に反響し、ヒトのものとは思えない身の毛もよだつ聲となって響いた。


 その時、誰かがエレベーターに飛び込んできた。


「よりにもよって、何てことを……!!」


 焦燥の色濃い声の主は板倉だった。

 叩く勢いで閉扉ボタンを押すと急いで白衣を脱ぎ、痛みにのたうち回る影耿を光から庇うように白衣を被せた。


 影耿が意識を失う直前、閉まりつつあったエレベーターの扉の向こうに両親の姿が見えた。母親は影耿の状態を目の当たりにして泣き崩れ、それを父親が肩に手を添えて支えていた。

 顔を覆う手の指の隙間から影耿に向けられた母親の目は、忌むべきバケモノを見るような暗く苛烈なものだった。


          †


「何なんだよこれ!? 俺はっ、どうなってんだよ……!!」

「箕姫君! 落ち着きなさい!」


 治療室で目を覚ました影耿は包帯やガーゼに覆われた自分の身のあり様を見て完全にパニックに陥っていた。

 看護師や板倉が宥めるのも聞かずに、毟り取るように包帯を解きガーゼを剥がす。ベッドの周りは影耿が打ち捨てた血や組織液の付着した白い布が散乱していた。


「……何だよ、これ……」


 ガーゼの下に現れたのは、焼け爛れて溶け生々しい肉色を曝した皮膚だった。その下からは新しい綺麗な皮膚が上がってきており、ピンク色の斑模様を作っていたケロイドも影耿の目の前で見る見るうちになくなっていった。

 明らかに尋常ではない治癒スピードに理解が追い付かず、ただ呆然と見ていることしか出来ないでいた。


 影耿が落ち着きを取り戻して病室に戻ると、板倉が影耿の父親と母親を連れ立って現れた。

 板倉は影耿の右側、地上の病室なら窓がある方に影耿の両親を座らせ、自分はその反対側に立った。ベッドの上の影耿の体は焼け爛れていたのが嘘のように元通りに、いや、それ以上に綺麗に傷跡一つなく治っていた。

 影耿の父親は不安と戸惑いが混ざり合った複雑な表情だったが、母親はバッグを抱き締めるように抱え込んで俯きその表情は窺えない。この中でただ一人何も聞かされていない影耿は、板倉の口から何を告げられるのだろうかと顔を強ばらせていた。


「箕姫君、落ち着いて聞いて欲しいんだ。まず君に言っておきたいのは、ここにいる誰もが君を騙そうとしたり、ふざけたりしているわけではないということだ」


 続けて板倉は言った。


「君はね、吸血鬼になってしまったんだ」

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