newborn Ⅰ

 少年は不意に目覚めた。

 泡が水面に浮上するようなゆったりとしたものではなく、体が突として落下するような感覚で目覚めるのに近い唐突さと心地悪さが印象的な目覚めだった。


 目が覚めたことを認識した直後に思ったことは、ここはどこなのだろうかということだ。


 何もかもがいつもと違かった。

 体を包む掛け布団の重さ、横たわる敷布団の硬さ、頭の下の枕の感触、呼吸する部屋の匂い、見上げた天井の色。

 何もかもが少年――箕姫みひめ影耿かげあきにとって馴染のないものだった。


 体を起こして辺りを見回した。

 気怠さはあったが、そんなことが気にならないくらい影耿は自分の置かれた状況を把握することを求めていた。

 左側には天井のレールから吊り下げられた薄い緑色のカーテンがあり、その向こうから温かみのあるダウンライトの光が透けていた。白い壁に窓はなく、床はフローリング模様のリノリウム。

 着ている服は私服から水色の病衣に変わっており、どうやらどこかの病院の一室にいるようだった。


 その時、扉が引かれる音がして誰かが部屋に入ってきた。カーテンの向こうから現れたのは女性の看護師だった。

 看護師は影耿が起き上がっていることに気が付いて目が合うと驚きに目を見張り、慌てたように踵を返して廊下へと顔を出してどこかに向かって叫んだ。


「っ、先生! 箕姫さんが目を覚ましました!!」


 看護師に呼ばれあまり軽やかでない走り方で病室にやって来たのは、小柄で白髪頭の老年の医者だった。


「こんにちは。私は板倉いたくら三四二みよじといいます」

「……箕姫、影耿です」

「はい、よろしくね」


 板倉は好々爺然とした容貌の中に、老成した品の良さを感じさせる柔和な雰囲気をまとっていた。


「どこか痛みがあったり違和感があったりするかね?」

「……いえ、特には」

「じゃあ酷い喉の渇きとかは?」

「それも特には……少し渇いているような気もしますけど、今すぐ何か飲みたいって程じゃないです」

「ふむ、飢えてはいないわけだね?」

「う、飢え? まぁ、今の所お腹は空いてないです」

「そうか……」


 妙なことを聞くなと思った。

 板倉は影耿に聴診器を当てたり脈を測ったりと簡単に診察すると、あれやこれやと質問をした。問診と言えるものもあったが、意図が良く分からない質問もあった。


「ところで、君はどこまで覚えてるの?」


 板倉は開いたクリップホルダーに目を落として何かを書き込みながら言った。


「え、どこって……ここで目が覚めるまでってことですか?」

「うん、そう」

「えーと……昼間友達が引っ越しを手伝ってくれて、その後一人で遅くまで片付けして、小腹が空いたからコンビニ行って、帰る途中で車に轢かれて――」


 そこまで口にして影耿は気が付いた。

 自分は身動きができないほどの重傷を負っていたはずなのに、体には掠り傷一つ見当たらなかった。痛みを感じる所もなく不具合があるようにも感じられない。体中を触り五体がちゃんと揃っていることも確認した。


「どうやら、その後のことは覚えていないようだね」

「……はい……」

「そうか……。明日から検査とか始めるから、今日はゆっくり休みなさい。些細なことでもいいから、何かあったらすぐにナースコールするんだよ。いいね」

「……はい」


 板倉と看護師が退室して一人きりになった病室で、影耿はベッドに仰向けになり天井を見つめた。

 今でも思い出せる生々しい事故の感触。死んでしまっていたかもしれないのだと想像し背筋に氷を当てられたように身震いした。

 思っていたほど酷い怪我はしていなかったのかもしれないが、事故に遭って全くの無傷なんてことがあるのかと釈然としない気持ちがあった。

 それに板倉の言っていた「その後のこと」という言葉も気になった。

 事故の直後の記憶がないことは良くあることのようだし、板倉も特別意味を込めて言ったのではないかもしれない。けれども妙に引っかかった。

 あの医者は何か知っているのか? 影耿は無意識にその手を胸の辺りに当てていた。


          †


 板倉が言っていた通り、影耿は次の日から様々な検査を受けることになった。

 採血に始まり、脳波を取ったり運動負荷試験をしたり CT を撮ったりと、こんなことまでするのかと思わないでもなかった。しかし、これまで病院と縁遠い生活を送ってきた影耿には勝手が分からず、こんなものなのだろうとただ板倉の言う通りに従っていた。


 けれどいくら入院生活に馴染みがなかったとしても、これはおかしいと思うことはあった。

 それは影耿が両親に連絡したいと板倉に申し出た時だった。


 目が覚めた次の日には財布とスマートフォンを返してもらっていたのだが、スマートフォンは画面が割れていて壊れてしまっているのかバッテリーが切れているのか判断できない状態だった。

 充電器を借りられないかと看護師に聞いても「病院は携帯電話類は禁止ですよ」と、当たり前といえば当たり前な返事を貰ってしまった。

 ならばと影耿は検査の合間に直接板倉に尋ねた。


「あの、親と連絡取りたいんですけど……」

「あぁ、もうしてあるから気にしないでいいよ」


 板倉は何でもないようにそう言った。いつもと変わりない淡々とした穏やかな口調が返って影耿に少しばかりの空恐ろしさと不安を抱かせた。


「――え? ……じゃ、じゃあ何で、父さんも母さんも来ないんですか?」

「検査が終わるまで来ないで下さいって言ってあるからね。こちらから来て下さいって言わない限り来ないと思うよ」

「何で、俺何かの病気なんですか……?」

「病気ではないけど、免疫力が低下してるんだよ。人間は雑菌だらけだからね。検査が終わるまでは外界との接触は禁止だよ」


 何とも胡散臭い言い分だったが、医者にそう言い切られてしまえば二の句が継げるはずもなかった。


 簡素なデザインの壁掛け時計の針の音が病室にやけに響く。

 毎日見るのは板倉と数人の看護師と同じ顔ばかり。窓のない異様な病室というのも、気分を憂鬱にさせる大きな要因だった。

 影耿が自分の状況などを尋ねても、板倉も看護師達も暖簾に腕押しではぐらかしてばかり。特に板倉の場合はあの雰囲気に絡め取られていつの間にか話自体が終わっているのだ。


 閉塞感で息が詰まりそうだった。

 恐らく自分は隔離されているのだと、この入院生活が始まった頃から薄っすらと感じていたものを影耿は確信に変えていた。

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