Night Holic
砂原
序
Good night
――こんなにも呆気ないものなのかと思った。
人間とはこんなにも簡単に死ぬのかと、少年は冷たいアスファルトに身を横たえながら思った。
勉強に追われながらも楽しかった高校を卒業し、第一志望だった大学にも無事に合格して、今日から独り暮らしを始めたばかりだった。
引っ越しを手伝いに来てくれた高校の友人達も地元へ帰って行き、
車が来ていたことは分かっていたが、歩行者信号が青なのだから当然止まるだろうと呑気に考えてしまったのがいけなかったのだろう。少年は横断歩道の途中で信号無視の乗用車に撥ね飛ばされた。
食べかけの肉まんが具を撒き散らしながら湯気の尾を引いて舞い、少年の体も冗談のように宙に上がって落ちた。
物凄い衝撃だったが痛かったのは一瞬で、体の感覚は今はもうなかった。内蔵も駄目になったのかもしれない。体が正常に生命活動をしていないことが少年にもなんとなくだが分かった。
落ちた際に縁石に後頭部を強打し、何か失ってはいけない温かいものが流れ出ていくのを感じながら自分を轢いた車が逃げ去る慌ただしい音を聞いていた。
深夜の住宅街に人気はない。電柱に取り付けられた防犯灯が
あぁ、死ぬんだ。
漠然と、確信に近い予感があった。
だからかもしれない。信号を信じきって迂闊に横断歩道を渡った自分への罵倒も、信号無視をして人を轢いておきながら逃げ去る運転者への怒りも、どことなく薄っぺらくて他人事のようだった。
今際の際には走馬灯が流れるとよく聞くが、少年の目には蛍光灯の光を吸い込む夜の空がぼんやりと見えているだけだった。数時間前に友人達と大騒ぎしながらお好み焼きを作って食べたことが、もう何年も前のことのように感じられた。
そんな時にふと、視界の端に白い影が映った。それは蛍光灯が明滅した一瞬の間に現れたように見えた。
その白い影は大時代の貴族のような白いフロックコートを纏い、腰まで伸びた白い髪を緩く編んで垂らしていた。だが事故の負傷のせいで視界がはっきりしない少年には、髪も肌も服も白い、全身白ずくめの人物なのだということぐらいしか分からなかった。
けれども「もしかしたら助かるかもしれない」と思ってしまうにはそれだけで十分だった。
砂時計の砂が落ち切るのをただ眺めているだけのように放棄していた思考の中に、生への執着が生まれるのは自然なことだった。
「……た、すけ……」
この時、自分が一体何に助けを求めてしまったのか少年が知っていたなら、助けを請うことはなかったかもしれない。
だがこの時は自分を助けてくれるのなら誰でもよかった。何でもよかった。ただただ死にたくないという思いしか少年の中にはなかった。
「死に……た、くな……」
自分の可能性を広げるため、やりたいことを見つけるために進学すると自分で決めた。
夏休みは友達の誘いを断って様々な大学のオープンキャンパスに行き、予備校の夏期講習に通った。欲しかったマンガや小説やゲームを我慢して参考書を買い、夜遅くまで勉強した。
色々なことを我慢してまで好きでもない勉強を必死にして少年は大学合格を勝ち取ったのだ。
「死っ、たくな……い……!」
これから新しい生活が始まるはずだった。楽しいことや辛いこと、自分の人生を彩ってくれる沢山のことが起こるはずだった。
それなのにこんな所でこんな風に、ましてや他人のせいで人生が終わることなど到底納得できるはずもなかった。
白い影は少年をじっと見下ろしていた。
「――そう、死にたくないんだ」
艶のある端正な男の声だった。シルエットが細身だったため女性に見えたがそうではなかったようだ。
男は少年の傍に屈み込むと、アスファルトに滲んで広がる血を人差し指で掬い取って舐めた。味を見るように目を閉じ、こくん、と飲み込むと横たわる少年の上に跨った。男は鼻同士が触れそうな距離で少年の顔を覗き込む。
「相性も良さそうだし、君にするよ」
男の血のように赤い瞳に見つめられて、少年は目を逸らすことが出来なくなった。
そして、男が笑みを浮かべたその口元にはヒトにはないものがあった。
本来なら犬歯が生えている場所にあるそれが牙なのだと少年が認識した直後、ぶつり、と皮膚を突き破ったような音が耳元でした。
「……っ……な、にを……」
少年は一瞬自分が何をされているのか分からなかった。
視界の端に見えている白い髪と首の付け根あたりの冷たい違和感、男が何かを飲む音でようやく咬まれて血を啜られているのだと分かった。
――吸血鬼。
そう思い至るのに然程時間はかからなかった。
「っ!」
深く咬まれるたびに痺れるような痛みが走った。
自分の血を啜るこの男が、漫画や小説などのフィクションに出てくるキャラクターでも、伝説上の怪物でもなく、現実に存在する生身のバケモノなのだと理解し慄然とした。
どうにかして逃げなければと思ったが、体は重く思うように動かせず、糸の切れた人形のように無造作にアスファルトに打ち捨てられたままだ。少年の脳裏に、翌朝体中の血液を吸い尽されてミイラのように乾涸びた姿で発見される自分が浮かんだ。
さぞかし怪死として話題になるだろうが、そんなマスコミの餌食になるようなことは死んでも御免だった。
だが、少年が想像していたようなことにはならなかった。
男は程なくして咬みつくのをやめ、血を吸い尽すようなことはしなかったのだ。
男は体を起こし、唇に付いた血を舌で舐め取ると、少年の目を見ながら静かに話しだした。
その真剣な眼差しは、ただの捕食対象を見るようなものではなかった。
男が手を差し出すと突として掌に炎が灯った。それは白と言うよりも炎の揺らめきによりさまざまな色味を見せる真珠色の炎だった。
その炎が霧散すると、中から鳥の卵ほどの大きさの結晶が現れた。
男の掌の上に浮かぶその結晶は貴石のように見えた。濃い赤紫色で透明感があり、妖輝な光を内側から放っていた。視線が自然と吸い寄せられ、引き込まれるような、ずっと見ていたくなるような不思議な魅力があった。
「いいかい、これは僕にとってとても大切なものなんだ」
男はその結晶を心底大切なものを見るような、それでいて少しだけ悲しそうな表情で見ていた。
「だけどね、訳あって誰かにしまっておかなくちゃいけなくなったんだ。だから君に貸してあげる」
そう言うと男は結晶を両手で包み込み、短く唇を押し当てた。その姿は祈りの姿に似ていた。
「《動かないで》ね」
男の目が少年を見据える。一瞬妖しく輝いたかと思うと、何かに縛られたように少年の体が動かなくなった。
事故の直後の頭と体の繋がりが切れているような感じではなく、それとは別の不可思議な強制力で脳の原始的な部分が男に従っているようだった。
次の瞬間、ずぶ、と結晶を持つ男の手が少年の胸に沈んだ。
体腔に鉛を落とし込まれたような重圧のすぐ後に、肋骨を叩くように心臓が大きく拍動した。
「!!」
引き抜かれた男の手に結晶はなかった。
「っぐ……がっ……!」
それはまるで、血管の一本一本、細胞の一つひとつを裏返しにされているような、体を何か別のものに作り替えられているような
少年の爪は野獣のように鋭くなり、犬歯が肉食獣の牙のように発達し、感覚は鋭敏になった。男を睨みつける眼の瞳孔は爬虫類のように縦に切れ、虹彩は血のように赤く変色していた。
ひたすらに襲い来る不快感から逃れようと、檻の中の狂った獣のように牙を剥き出しにして威嚇し少年は暴れたが、男の影から伸びた闇色の荊棘を模した
「咬んだぐらいじゃ駄目か……」
少年の様子を見ていた男が呟き、右袖をたくし上げると手首に牙を立てて咬み切った。袖の下から現れた真冬の新雪のように白い腕に赤い血が伝う。
「飲んで」
男はその血の滴る手首を少年の口許へ持っていった。しかし唇に落ちる血の生臭さに不快感を露わにした少年は顔を背け身を捩り、なかなか男が思うように血を飲まなかった。
「飲んでよ。もう君を
苛立たしげに男はそう言い、手首に口を付けて血を溜めると少年の顎を掴んで己の口で塞いだ。
「っ!?」
舌が差し入れられ、少年の口の中にどろりと血が流れ込む。その血は生温いのに妙に冷たく感じられた。
他人の血液を口内に入れられた嫌悪感で吐き気がする。忌むべき行為に抗いたくとも少年の体に自由はなかった。
飲み込むまいと堪えていても吐き出せない以上限界は来るもので、ついに少年は口の中のモノを飲み下してしまった。
すると獣が人に戻るように、凶暴的だった少年が徐々に落ち着き始めた。
呼吸は落ち着き、爪は縮んで牙も短くなり、瞳孔は縦に切れたままだったが血のように赤かった虹彩は赤みがかった黒色になっていた。
男はそれを確認すると立ち上がり少年から離れた。
「次会うときにそれは返してもらうから。――それじゃあ、良い夜を」
白い影は蝙蝠の群れに姿を変えて夜の闇に溶けるように去り、少年の意識は眼前に黒い幕が降りるように急速に遠退いて行った。
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