第13話 餞の風花



 おきまりの合唱曲でボロボロに涙流して、この3年間は本当に素晴らしい日々だったって、そう誰もが自分に言い聞かせる今日のこの日。

 卒業式。

 まだ泣けない。

 まだ振り返らない。

 だって、まだやり残したことがあるから。



「またね」

「すぐ会えるよ」

「忘れないでね」

「離れても、ずっと友だちだよ」

 そんな言葉たちを心の中で揶揄しながら、黙々と廊下を進む。

 いつもと同じ廊下。

 いつもとは違う廊下。

 見慣れた景色のそこかしこに、祝福のメッセージやら花飾りやらが貼られていて、歩きながらどこか別の場所に迷い込んだんじゃないかと錯覚した。

 それは高揚を連れて来るのではなく、心細さを押しつけた。

 それでも進む。急ぐ。

 違和感だらけの廊下に、クラスメイトたちがたむろする。話しかけられれば返しはするけど、自分から声をかけたりしないし、立ち止まる時間ももったいない。

 今日のこの日。

 残された時間はすべて、あの人のために使いたいんだ。

 高鳴る胸で、はずむ呼吸で足を急がせれば、肺まで入り込むのは来賓たちの化粧品の匂い。いつか自分もあんな風に着飾って、顔を塗って唇を真っ赤にして、そうしてそれが当たり前になるのかと期待半分、不安半分。そんな姿をあの人に笑われたりしないかと思い浮かべれば、不安の方が割合を増した。

 特別仲の良い友人たちが玄関で私を待ち構えていた。みんなが私の決心を知っている。少し心配そうな様子もあったが、どの笑顔も私の背中を押してくれる。

 私は彼女らに笑顔を返した。

 ともに校舎を飛び出す。その先に。

 卒業生とその父母を見送る教員たちの列の中に彼はいた。

 いつもは、体育教師でもないのにジャージ姿で、それを理由に年配の先生たちに叱られることもあって、それでもいつもジャージ姿で私たちの前に立つ。どこまで本気なのかわからないが、「ジャージは僕の正装です」と言ったこともあった。

 それなのに、今日のこの日に彼はおろし立てのような濃紺の新しいスーツを着ていた。

 彼は私に気がついて「おう」と声をかけた。

 先客が彼の前から立ち去ったら、いよいよ私の番。友たちも、出番をさとってスクラムを組む。私が彼と話している間、他の生徒も教師も割り入ってこないようにと、小規模ながら強靱な人垣を作ってくれた。

 友人たちは知っている。私の決心を。

「先生。今までありがとね」

 感謝のひとつひとつを、思い出のひとつひとつを余さず話したかった。だけどぐっとこらえて、言葉のあとに笑顔だけを付け加えた。

 彼は知っている。

 この1年、私の学生生活は悲しいことや苦しいことだらけだったことを。どんな顔をして学校に来ていたかを。それでもなんとか授業を受けて、明日に不安を抱えながら帰路につく、そんな毎日を送っていたことを。

 くずおれそうになった時、彼はいつも笑顔をくれた。

 今もそう。

 続く言葉を遮るように嗚咽がもれそうになった私に、彼は優しい笑顔をくれる。

「時々、遊びに、きます」

「うん。いつでもおいで」

「高校行ってもがんばります」

「楽しいこと、たくさん見つけるんだよ」

「私……」

 言葉につまる。

 言いたい言葉があふれる。

 気持ちがあふれそうになる。

 からだのうちから熱がわき起こり、収拾がつかなくなりそうで、制服の裾をぎゅっと握ることしか出来なかった。

 素知らぬふりをしながらも、無言で背中を押してくれる友人たち。

『苦しかったけど、こんなに素敵な仲間も出来ました。それもあなたのおかげです』

 そんな言葉も伝えたかったけれど、うまく声にはならないのだ。

 どうしたらいい?

 どう言えばいい?

 なんて言えばいい?

 見つけたいのは、今伝えるべき言葉なのに、浮かんでくるのは彼との思い出ばかり。

 初めて会った日、交わした言葉。毎日のように通った理科室の匂いと彼の口癖。男子生徒とふざける姿。それを他の教師に注意されているときに目が合って、ばつが悪そうに笑う顔。「大丈夫?」とたずねる声。「大丈夫」と勇気を分けてくれる声。

 毎日の何気ないことから、特別な一瞬まで。

 思い出が多すぎる。

 思い出そうとしなくても、次から次へと溢れてくる。

 目頭が熱くなって、もうこらえ切れないと思った。

 涙がにじんで、ついにこぼれ落ちそうになったとき、頬にそっと触れた、雪。

 空を見上げた。

 暖かい陽射しの中にふうわりと舞う、風花。

 青空のどこから生まれたのか。

 その名の通り、風に運ばれた花弁のようにふうわりふわりと揺られて、うわついて。時々陽射しに照らされてキラッと輝くけれど、あくまでもそれは、淡い彩りでふうわりふわりと頼りなくて。

 彼に私に降り注ぎ、肌や制服、一張羅の背広にたどり着いては瞬く間に消えてしまう。

 そのひとつが私のまつげにすとんと乗って、瞬きに白い花が付き添った。

 彼は笑顔のまま。ただちに溶けたまぶたの雪を指先で拭った。ひんやりとにじむ。だけどそれは冷たいだけでなく、目尻には熱いくらいの温もりもあった。

 春の雪がもたらした光景に、私は笑った。

 息苦しさはもう無い。

 声が、言葉がすんなり喉を通るのを確認して、私は言った。

「きっと、叶えます。あなたのような先生になって、また学校に戻ってきます。だから、……だからその時も、」

「大丈夫だよ」

 もうわかっているよと彼は笑う。涙に変わりそうな声を無理に絞り出さなくても良いと彼は笑顔を送り続ける。

 私は声を飲み込む。

 震える声を飲み込んで、1度咳き込んで、そうしてから真っ直ぐな声で言った。校門の前、毎朝彼がそうしてくれたように、高らかな調子で言葉を投げた。

「先生! 私、頑張るから。だから、だから今度会うときも、きっと笑って下さいね!」

 大きな声だった。

 まわりの視線もあって、彼は一瞬目を丸くしたが、そのあとにはいっそうの笑顔を見せてくれた。

「卒業、おめでとう」

 そう言って彼が差し出した手をぎゅっと握り返した。その温もりは絶対に忘れないだろう。



 最後までこらえたかった。

 彼がそうしてくれたように、最後までたくさんの笑顔を返したかった。

 だから、ふうわりふわりと舞う雪片の群れの中を、うつむかず、振り向かず。涙が流れないようにと、青空と風花を見上げながら校門を抜けた。

 まだ、もう少し。

 彼から見えなくなるまで、もう少し。

 校門を出て左に折れて、心の中で十数えたら、驚くくらいに涙があふれ出た。

 よく頑張ったねって、友人たちが代わる代わる私の頭をなでる。その手が彼の手に負けないくらい温かくて、涙の量を増やして彼女らを困らせた。

 こんな姿を見たら彼は心配するだろうか。

 ……いや、きっといつにもまして晴れやかな笑顔を見せるだろう。そしてこう言うのだ。「卒業、おめでとう」と。

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