第11話  明け方の霧

 一歩目を踏み出したことに、きっと、僕は後悔をしないだろう。



 いつもより早起きをした。

 目覚まし時計が鳴るより早い。

 本当なら僕が目覚めた2時間後に、3つの目覚まし時計が鳴る予定だった。ひとつずつ、5分おきに僕を起こす。初めはピピッピピッと小刻みに、遠慮気味に。次はじりりりりり。音は大きく荒々しい。それでもダメならと、最後にオーディオ機器に電源が入る。僕の大嫌いなロックバンドが、大音量で演奏を始めるのだ。不快感に、世間体を気にする小心さが手伝って、鳴り始めるのとほぼ同時に跳び起きるのだ。

 3つ目に到達する日は、いつだって不機嫌な朝を迎える。

 だけど、けたたましく僕の睡眠を妨げる彼らが、耳元で朝を告げる恋人のように思えるときがある。

 僕はきまって、ピピッと、じりりと、前奏もない雄叫びを同時に聞きながら、3つの時計を順番に見つめ、そして微笑んでしまうのだ。そんなとき、視線が最後にたどり着くのは、窓の景色。窓から見える港町の景色。

 この街は嫌いではない。

 歴史を前面に押し出した街並みだが、それほどの古さは感じさせない。早くに開かれた港にはたくさんの外国人がやって来て、この街を日本ではない場所にしてしまった。しかし、どこかの他の国になりきれるわけでもなく、障子戸を引いてテラスに出るような、そんな半端な場所にしてしまった。それを文化の融合だと言う人もいる。だけど僕には、ただ彷徨っているようにしか見えなかった。

 この街にいると、僕は僕自身を見せつけられているようだった。

 でも、この街は嫌いではない。

「今日もまた、ひどいな」

 いつもより、慎重にハンドルを握りながら白い街に入り込む。

 夏を迎えるその前に、わずかな期間のわずかな時間にだけこの街は真っ白な霧に包まれる。

 今日もまた、海の方からまるで波が押し寄せるように霧が流れ込むのだ。

 初めは、うっすら白く。

 瞬く間に、絡みつくほど濃く強く。

 侮るなかれ。一寸先は闇ならぬ、一寸先は霧。無灯火ならば前の車のバンパーを確認するのも難しい。

 きっと霧が世界を包み込んだのだ。

 もしくは僕だけが、霧の漂う別世界に迷い込んでしまったのか。

 どちらかなんて考えるまでもないと思いながら、心のどこかで、否定した選択肢こそが答えかもしれないと思っている。

 そんなまやかしのようなものを、たとえわずかであろうと信じてしまったのは、それはきっと、君に出会ったからなのだろう。



 珍しく目覚ましよりも早く起きたせいか。

 僕は厚い霧を駆け抜けるのでなく、最も重く色濃いところで車を止めて、白い街に足を踏み入れた。

 肌に降り注ぐ湿気。

 ひんやりと冷たい感触。

 ビルも道路も駅前の空き地も、誰かがいてもおかしくない時間帯なのに人気はなくて、ただただ白い。

 白い街を一人歩く。

 少し進んでは立ち止まり、後ろを振り返る。

 生まれた街によく似た霧の街を歩いて、立ち止まって、そして気がついたら目の前に君がいた。

 霧のように白い肌で、同じように白いワンピースを着て。真っ黒な髪で、真っ黒な瞳で、一本一本がはっきりとした睫毛で、まるで影絵のような様子で僕の前に突然現れた、君。

 僕はなぜだか、何のためらいもなく一緒に歩くことを選択した。

 白い街を白い君と歩く。

 君と僕だけが色を持つ。

『君は誰?』

 なんて無粋な質問は飲み込んで、僕は、そっと肘を上げてエスコート。

 薄手のジャケットを通しても、君の手のひらの冷たさがじんわり伝わってきて、油断をすれば白を失ってしまいそうで、僕は、なるべく僕ら以外のものには目を向けないよう努めた。



「この街は嫌いではない」

 小さい頃から、たくさんの街に住んだ。

 どの街にも馴染んだが、『この街は嫌いではない』などとあらためて意識したのは、この白い街が初めてだった。

 君は僕の言葉に特段の反応を見せることもなく、無言のままで隣を歩く。

「この街は嫌いではない。……まるで、自分に言い聞かせているみたいで、いやな言葉だ」

「そう」

 肯定とも否定ともつかない言葉で君は言う。

「不安なんだろうか。初めて長く住むことになりそうだから」

「そう」

「この街で仕事にもついて、そのせいか今年の霧は少し違う感じがして、だから戸惑っているのかな」

「そう」

「この街が嫌いなのではない。どこかに帰りたいわけでもない。どこかに行きたいわけでもない。だけど迷うんだ」

「そう」

 相づちにも足りない声。それでもその声にすがるほかなかった。

「僕はここにいたいのだろうか。ここにいて、いいのだろうか。いるべきなのだろうか」

 ずっと誰かに聞きたかったのかもしれない。

 だけど答えが怖くて聞けなかったのかもしれない。

 もしも望まぬ答えならば、君に街に、全ての白にとけて消えてしまえばいいと、そう期待して話してしまったのかもしれない。

 君がどんな顔をするかなんて考えもしないで。



 白い街を君と歩く。

 何も言わぬ、君と歩く。

 君はいつか霧にとけてしまうのではないかと気が気でなくて、一歩進むごとに君の体温を確認した。

 冷たい指先。白い肌。

 僕の腕にからみつく君の細い手に手を重ね、ポンポンと何度かたたいて。まるで幼子を寝かしつけるように、優しく君の手を打って。

 君は何も言わない。何も言ってくれない。

 僕の苛立ちを見抜いたかのように、街を包んでいた霧が動き出した。

 風に押され、僕の前を通り過ぎようとする。

 その動きに伴って君もかすかに揺らめいた。

 白い街に雑多な色彩が滲んできた。

 君の肌は白いまま。だけど触れているはずの手のひらが冷たさも湿り気も感じなくなってしまい、僕は、突然ながらもどこかで予想していた『終わり』の訪れに、焦燥よりもあきらめを感じた。

「今日は、ありがとう」

 何が有り難かったなんてわからない。だけど僕はそう言った。

 僕が立ち止まるよりも早く、君は歩みを止める。つないでいた腕がほどけて、僕らは2つになった。

 君は白いまま。

 僕のまわりの彩りが徐々に賑わいを取り戻そうとしても、君はただ白いまま。

 そっと開いた唇が、ようやく言葉らしい言葉を伝えた。

「きっと、また」

 君の白は白いままで、去り行く霧にとけていった。僕は追うこともせず、その場に立ちつくして君の言葉を繰り返す。

「また、か。来年もその次も、きっと。また」

 嘘のように霧は晴れいつもの街の表情になる。痕跡はなにもない。

 僕は何事もなかったように車に戻るのだ。

 僕は何事もなかったかのように日常に戻るのだ。

 だけどきっと、霧が街を包む日は君を探してその白の中に飛び込むだろう。

 その時にはきっと、君の笑顔が見られますように。

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