第10話 遣らずの雨
『遣らずの雨』
そんな趣のある言葉を知り、何かの機会に使ってみたいと考えるけれど、私の日常にはそんな日はなかなか訪れず、今日もその願いはかなわない。
仕事を終えて、帰路を急いだ。
ついていない。
突然の雨に、少し早足になった。まだ小降りだが、やむような気配はない。これ以上降られる前に家にたどり着けるだろうか。
見上げれば足元とかわらない色の空が広がっている。雨の粒も次第に大きくなり、衣服を湿らす程度だった雨が、いつの間にか、肌に当たるようになっていた。
自分の身だけならばこのまま走って帰っても、なんら問題なかった。しかし、今日は大事な書類を持ち帰ってきている。市販の茶封筒では、この雨はしのげないだろう。
仕方なく、商店の軒先を借りた。この街に昔から続く商店だ。置いてある物も、それらの値段も、スーパーなんかには負けてしまう。少し先にコンビニができてからは、余計に客の出入りがなくなった。それでもかろうじて残ったこの店。いつも店の奥で、椅子に腰掛けたおばあちゃんがうとうとしている。私もコンビニの恩恵にあずかっていて、このような店とは無縁だが、何故かこの道を通るとき、必ず店の中を覘いてしまうのだ。もちろん覘くだけ。入ったことは一度もなかった。
店先で軒を借りても、店主は何も言ってこなかった。
店主を気にしながら、空を見上げる。
気のせいか、雨粒が大きくなり、風も出てきたような気がした。
アスファルトを叩く音も強くなってきた。
気になるほど晴天が続いたわけではない。本当にいらない雨だ。
ハンカチで雨粒をふき取り、空を見上げた。いつもなら夕焼けに朱く染まっている頃合いだ。しかし、厚く張った雲に朱は映えず、ただただ、黒く重たい夜を連れてくるのだ。
濡れた体に、わずかに身震いをした。
この時期の雨は街を湿らせ、おまけに夏の終わりを知らせていた。つい先日まで感じていた蒸すような感覚はない。代わりに冷えた風が、足もとから這うように私の体を撫でまわす。
気づくと、同じ軒下にもう一人の客が現れていた。
私と同じくらいの年齢だろうか。顔は幼く見えるが、しぐさや表情がどこか大人びて見えた。彼は手のひらでスーツについた雨粒を払いながら、鼻歌をうたっていた。軽やかな旋律を奏で、嫌な顔一つしないのだ。
最後に手を振って水滴を振り落とす。
そうしてから横目で店の中をチラッと覘いた。何故そうしたのかわからなかった。だが、その顔は満足そうで、ひょっとしたら私と似たような理由なのかもしれないと思った。
店の中に向けていた視線を曇り空へと戻す途中、彼の目は確かに私の目をとらえた。
鼻歌を止め、優しく会釈する。
私もそれにならって会釈した。
「嬉しそうですね」
戸惑いながら、何故か声をかけていた。
「嬉しくなさそうですね」
応えとしては相応しくない言葉が返ってくる。
「嬉しいのかな? こんな日は亡くなった大切な人を思い出す。この空の色は、あのときの僕の心と同じ色をしているんだ」
彼の言葉に、私は空を見上げた。
朱は映えず、ただただ黒く重たい。
「私はこの街の色と同じ」
黒くはなかった。
「彼が……亡くした大切な人が最後にくれたポストカードの色なの」
本当を言うと少し違う。彼が残した色はもっと輝いていて、もっとまぶしかった。
「じゃあ」
彼は雨音に負けないように声を少しだけ張った。
「白だね」
彼の目に白が映る。
煙る水しぶき、街を染める白は霞のような、夢幻を宿したような悲しい白。雲が押し寄せるこの空のように重たい色のはずなのに、吹けば瞬く間に消えていってしまうような儚い色だった。
「二人にとって大切な色が、同時に存在している。こんな日は、亡くした人が帰ってきてくれそうだ」
彼の声に笑みが混じった。
「そう思うと、鼻歌をうたいたくなります」
彼の声に笑みを返し、大切な人の歌声を思い出した。
大切な人、ずっとずっと年上で、だけど子供のように感動を知っている人だった。花が咲けば喜び名前をたずねてくる。雨が降ったと騒いだり、雪が積もると必ず教えてくれた。その喜びのすべてを、悲しみのすべてを、体と心で感じるすべての想いを私だけに教えてくれた。
きっと、こんな日にも彼はそ知らぬふりで目の前に現れて、その日見たものを一つ一つ教えてくれるのだろう。
雨はやみそうになかった。
彼は『すぐにやむよ』と言っているが、そう言ったとたんに雨が強くなった気もしないでもない。雲のせいで気づかなかったが、いつのまにか陽はすっかり落ちていたようだ。なにか見なければいけなかったテレビ番組はなかったかと思い返していると、彼が隣りで頭を下げた。
「雨、やまないかもしれない」
彼の言葉に、私は何も言わずに首をかしげた。さっきとは正反対のことを言っているのだ。いまいちよくわからない。
「僕が雨を望んでいたのかもしれないんだ」
彼は言った。その顔が少し照れていたように見えた。
彼はきっと年下だろう。だけど、年上にも見える。それは時折見せる顔が、私の大切な人と似て見えるからだ。私よりも無邪気に笑い、そして次の瞬間には私を優しく包んでくれる。
目の前の彼には何故か懐かしさを感じた。
この店のように覘きたくなるのだ。
彼は空を見上げて優しく微笑んだ。
「亡くした人が、ここにいるような気がしてさ」
「だからやまないほうがいい?」
「そう。彼女らを足止めできるかなって思ったら、この雨がやまなければいいと、ちょっとだけ望んでいた」
彼の言葉に私は笑みをこぼしていた。彼が足止めしようとしていた人の中には、どうやら私の大切な人も含まれているらしい。
「そうですね、この雨はきっとやまない。あなたもだけど、私もやまなければいいと思ってしまいましたから」
私たちは小さく笑って、同じタイミングで雨粒を落とし続ける黒い雲を見上げた。
雨はしばらくやまなかった。
店の中からおばあちゃんが声をかけてきた。三十分以上はそこにいたので、気を遣ってくれたのかもしれない。いや、もしかしたら邪魔に思ったのかもしれない。冷えてきたし、中で休んだらどうだと、いつもと変わらぬ表情で言ってくれたが、私たちは笑顔を返しただけで、そのまま軒先に居座った。この場でなければ大切な人たちと一緒にいられないような気がしたのだ。
「こんな雨を待っていたんだろうな」
彼が言うまですっかり忘れていた。
「そうだ。ちょっと違うような気もするけれど、きっとこういう雨を待っていたのよ」
誰かと一緒にいたいから、この雨が降り続けばいいと願う。そんな風に思える自分を、そんな風に思える人を探していた。だからあの言葉に憧れていたんだ。
「遣らずの雨」
「遣らずの雨」
二人とも同じことを望んでいた。
二人の願いが届いていればいいと思った。そして、この店の軒先を借りているのが私たち二人だけではなく、あと二人、見守るようにたたずんでいればと思った。
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