第9話 浜辺の砂
難しいことはわからん。
難しいことはよくわからん。ものごとを難しく考えるのは嫌いだ。だからいつもここに来る。職場の女の子に誘われたから、一週間連続でここに連れてきたら、最後の日に怒られた。
「あんたは海しか知らないのか」って。
去り際に《変人》とも言われた。
でもこの場所が好きだから、今日も来た。もうそろそろ長袖に替えないと寒いかもしれん。昼間はまだ半袖でも大丈夫なのに。面倒な季節になった。
最近は仕事が忙しいから、学生の頃のように昼間っから来るのは難しい。仕方ないから夜に来るようになったけど、夜の色もけっこう気に入ってしまった。
今の時期は沖のほうに漁火が見えて、昼の海よりきれいかもしれない。でもやっぱりあの青い色にはかなわないんだろうなあ。あの青に勝てる色はない。俺はそう思っている。
青を恋しく思いながら夜の海で我慢する。
我慢なんて言っちゃ失礼か。
罰が当たったのか、砂に足を取られ前のめりに倒れる。砂浜が鼻の先にせまったとき、誰かが体を支えた。
「イテッ!」
『ありがとう』より先に出た。確かに痛かった。こけた勢いが勢いだっただけに、つかまれた腕は根元からちぎれてしまうんじゃないかと思った。しかしその痛みのおかげで鼻を打たずにすんだ。
つかまれた腕から相手の体温が伝わってくる。ずいぶん冷たい。そして濡れている。
近くのパチンコ店のど派手なネオンに照らされているにもかかわらず、そいつの顔はやけに青かった。
「おい!」
他に言葉が見つからんかった。
この男、たった今、入水自殺に失敗したらしい。だからびしょ濡れ。寒いし情けないしでとりあえず浜辺を歩いていたら、派手に転ばんとしている俺と遭遇したというわけだ。
とにかく、濡れたままでは風邪をひく。かといって着替えはない。そいつの服を全部引っぺがし、かわりに俺がはいていたジーンズを貸してやった。俺は半袖のTシャツとパンツ。そいつは上半身裸にジーンズ。ま、別に問題はない。ちょっと寒いくらいだ。
「なんで死ぬ?」
答えはなかった。
黙ったままだったので殴った。
顔色のわりに体格がいいので、軽く殴っただけではびくともしなかった。殴られたのも気にしないで前を見据える。
「きれいだなあ」
見ているのは海か、漁火か? 視線が落ちて砂の上に止まる。
「僕等の足跡しかない」
月に照らされて白くはびこる砂たちを褒めているようだ。腰かけていたテトラポットから飛び降りて砂の上に着地する。俺もその後に続いた。靴を履いていても砂の柔らかさが伝わってくる。昼間の砂はこんなに柔らかかったっけ? 確かめるために靴を脱ぐ。
冷たい。そしてちょっとしめった砂が足を引き止める。
「歩いてたら海が恋しくなって、だから沖に向かっていった」
そして付け加える。
「自殺癖があるみたいだ」
当然のように笑うから、また殴った。
今度は少しよろけた。
「死ぬのは悪い? これは僕のからだだ」
「なんで死ぬ?」
そいつの言い分など聞かず、もう一度聞いた。そいつは笑う。
「少し歩こうか」
「あっちには行かないからな」
俺は沖の漁火を指差した。
一歩一歩、砂を踏みしめながら波と平行に歩いた。
話を聞くほど、腹立たしさが薄れていった。そいつも俺と同じで、他人には理解できない何かを持っているらしい。他人とは違う、普通じゃない、そんなことを言われ二十数年生きてきた。俺は気にしないで過ごしてきたが、そいつは常に思いつめ、常に死ぬことを考えていたのだ。こいつが「死にたい」と思うのと、俺が毎日海に来るのは、他人から見れば同じ種類のことなんだ。
「辛いな」
正直、辛いという気持ちはわからない。なにせ今まで辛いと思ったことがない。バカにされても、理解されなくても別にかまわなかったし、って言うか、たいてい気づかなかった。うん。だからわからん。でもきっとそいつは辛いんだと思った。
「俺も同じ。でも、俺は死なねえぞ」
そいつは怒るでもなく、落ち込むでもなく、にやけた表情で俺の隣を歩いていた。
「君は、ね。でも僕はまた死のうとするだろう。君が明日もまたここを訪れるように」
砂をしっかり踏みしめ立ち止まった。
「理解されようとは思わない。僕を理解してくれない人がたった一人増えるだけだから悲しくもない」
そいつは笑った。その顔はちょっと前に自殺しようとした人間とは思えなかった。
本当に俺と何もかわらない。別に理解して欲しいなんて思わないんだよな。だから誰かを理解したいとも思わない。そんな自分に何の疑問も抱かなかった。でも急に、疑問に思う。理解するって、なんかすごくおもしろそうだ。もし誰かのこと理解できるって言うなら、すごいおもしろいことじゃないか?
俺はほんの少しでもそいつのこと、わかりたいと思った。
「よし! あっち行くぞ!」
服を脱ぎ捨て素っ裸になった。
夜風の冷たさに身震いして、思い直す。でも飛び込みたい気分だ!
打ち寄せる波に逆らい沖へ出る。わかってたことだが、かなり冷たい。震えを抑えながら力いっぱいのクロールで前に進むと、だんだん気持ちよくなってきた。
まだ足がとどくことを確認して浜辺の方に顔を向けた。そいつは面食らって立ち尽くしてた。
「お前も来いよ!」
大声で呼んだ。そいつは俺がしたように着てたものを脱ぎ捨て海に入る。入水自殺しようとしてたくせに、泳ぐ様は力強く達者だ。
そいつが来るのを待ち、空を見た。
星はほとんど見えなかった。
代わりに黒く重たい雲があって、余計に寒そうな印象を与える。その奥に月が隠れているのはわかるんだ。だけど、一度隠れてしまったら、今晩はしばらく顔を出さないだろう。今は、月よりも漁火のほうが勝っている。
「そんだけ泳げりゃ、海で死ぬのは逆に難しいぞ」
「そうだね。気づかなかったよ」
そいつはまた笑った。
「何回失敗した?」
問いかけに、そいつは笑う。星を数えるような視線で過去の行為を数え、そいつは誇らしげな顔で「数えきれないなあ」と言った。
俺は夏の終わりの波に身を任せ、仰向けになって空を見上げた。まだ雲は晴れない。
「なあ、死ねなかったついでにさあ、俺と友達にならんか? いろいろ教えろよ!」
俺の問いに、一瞬そいつの余裕が消えたように感じた。声がなくなる。俺は慌てて姿勢をかえ、そいつを探した。
「君も、変なやつだね」
俺は言葉を返さず、そいつの顔に水をかけた。かけないと、そいつの顔を見てられなかった。泳いだせいとかじゃなく、そいつの頬が少し濡れていたんだ。気のせいじゃないだろう。そいつ自信が否定しても、月と漁火がきっと証人になってくれるさ。
「返事はしない」
なんとなく予想していた通りの答えだ。
「いらん。俺は毎日ここに来る。お前も来い。そうしたら会えるだろ。そうしたら友達だ」
俺は妙に自信たっぷりな気分だった。そいつと肩を組み、約束を交わす。承諾はしなかったけど、拒みもしなかったから問題ないだろう。それに、今日は特別だ。
月と漁火が俺の強い味方。
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