第8話 揺れる雲


 彼女の隣りでうなだれる。

 無力な自分が情けなくて、彼女の願いをかなえられなくて、全てを謝罪するために来たはずなのに、彼女の笑顔に迎えられた。彼女が笑ったのは嬉しかったが、反面、酷く辛かった。彼女の笑顔を引き出したのではなく、彼女をムリに笑わせている。また彼女に気を遣わせてしまったんだ。



 病室という場所はどうしても好きになれなかった。

 消毒液などの薬品の匂いは気にならなかったが、病人の匂いと言うのか。人の匂いがイヤだった。

 それでも最低でも週に一度、多いときだと三日間連続で通った。退院を待つという手もあるのかもしれない。馬鹿みたいに病院に通い続ける姿を見て、大声で笑う奴もいた。

 気にならないわけではなかったが、何を言われても病院に赴くことはやめなかった。

 手ぶらで病室を訪ねては、誰かが持ってきたお見舞いの果物を頂戴する。

 今日はバナナだ。

 運動の前にはいい腹ごしらえになる。二本目に手を伸ばしたとき、彼女がため息をついた。

「そんなに餓えてるんかい?」

 呆れた口調と言ってもよかった。

 バナナをほお張る顔を、彼女の瞳がじっと見つめている。反論を急ぎ、噛み砕けないままのバナナのかたまりを、無理やり喉に流し込んだ。本当に無理やりだ。奥の方でちょっと詰まった。反論するために急いだはずなのに、呼吸すら危うくなっている。これは失敗した。

 敵役の彼女が救いの手を差し伸べる。

 渡された缶ジュースに救われると、反論などどうでもよくなってしまった。

 彼女はまたため息をついた。

「それ、食い終わったら行くんでしょ?」

 抑揚のない声に思わず顔を上げた。

 悲しい顔でもしているのかと思ったら、そんな素振りは微塵もなく、逆に、喜びの表情にさえ見えた。なんともおもしろくない。

「大会が近いから」

 場をつくろうように缶を傾ける。

「そっか。大会って、やっぱアレだよね?」

 彼女の声が少し曇ったように聞こえた。

「そ。バスケ」

「そうか。やっぱりなあ」

 彼女が笑う。だけど、その笑顔が苦渋に満ちたものであることは百も承知していた。彼女が望んだのはバスケットボールを手にしている姿などではなく、この指が、鍵盤の上を踊る姿なのだ。

「あの、靴の音、キライ」

「きゅっ、きゅっ、って音?」

「そ。何のメロディーも奏でない。天才が生み出す音とは思えないなあ」

 彼女はそう言って鼻歌をうたう。

 それは僕等のメロディー。



 二人の指を見て、彼女が笑う。

 二人とも、どこかで失くした左手の薬指。「結婚指輪、必要ないね。安上がりだ」

 彼女は冗談のように言った。

 先に指を失くしたのは彼女の方だった。傷口もなく、まるでもとからそこに薬指がなかったかのように、本当に自然で。もしかしたら、他のどんな存在よりも自然にその場に溶け込んでいるのではと思うほどで、彼女自身にも、周りの人間にも、涙はなかった。

 悲しいはずだった。

 僕の記憶の中で、彼女の指はいつでも白黒の鍵盤を優しく撫でていた。僕の髪を撫でるように、僕の背中を慈しむように、鍵盤の上を這う十の指。その指が奏でる音は、他の誰のものでもない。僕だけのものだ。

 その音が、たった一本の指を欠いただけで、まったく知らない音になってしまった。

 だから、彼女はもうピアノを弾かない。

 弾けないことはない。

 そのへんのうさんくさい音楽家なんかより、ずっとずっと人を魅了できる。だけど弾かない。それは僕のための音楽を用意できないからだ。

 彼女が音楽から離れてしまってから、代わりに僕が音楽を奏でた。

 僕はきっと天才だった。

 彼女の思い描く夢を、すべて音に変えた。

 彼女の夢を代わりにかなえられるはずだった。だけど、彼女と同じように、突然に消えていった僕の薬指。左手の薬指。



「ね、お願い。これが最後でもいい。一曲、弾いてよ」

 彼女が差し出したのは、二人の腕には不似合いな、一つのおもちゃの鍵盤。グランドピアノの前に座り、拍手喝采を浴びていた僕等は、視線を合わせ、二人とも苦笑を浮かべた。

 それでも、鍵盤に指を置くと懐かしい感触が伝わってくる。

 無意識のうちに鍵盤を叩いていた。

 昔、彼女が聞かせてくれた音とは程遠い、ちっぽけな音で彼女の作った曲を演奏する。曲とともに病室に温かな風が流れた。二人がもっとも大切にしている季節だ。穏やかな風が、その大切な季節を連れてくる。

「いいよ。そろそろ目を閉じて」

 彼女の声に、奏でる指の動きが鈍った。

「はやく」

 そう言われ、仕方なく目を閉じる。

 僕がピアノを弾かない理由。

 僕たちのための曲を弾けないからじゃない。他の奴らに負けない自信もある。

 弾かない理由は、目を閉じたあとに広がるこの景色のせいだ。

「見えてるよ。あんたの景色。いつもの空だ。あんたの大好きな、この季節の空」

 目を閉じている僕には確認の仕様がない。しかし、僕が曲を奏でることで、なぜかそこは空色に染まってしまう。僕が目を閉じ、ピアノを弾いている間だけ、現実がなくなってしまうのだ。

 彼女の解説だと、そこにはただ青い空が広がり、風が吹けば消えてしまいそうな雲がうっすらとはり、儚げに揺れているのだという。他に現れるものといえば、時折、鳥がさえずり、ピアノに合わせて歌う程度。あるのは空色と、揺れる雲と、僕等の季節。

 彼女が声を上げて笑った。

 ちょっときらいな下品な笑い声だ。

「これ、気持ちいいよねー。やっぱり好きだよ、あんたのピアノ」

「ピアノじゃなくて、見える風景だろ」

 彼女の好きな景色が消えないように、目を閉じたまま鍵盤を叩く。

 これがあるから、僕はピアノを弾くことをあきらめた。あきらめた? そう、あきらめた。薬指を失ったから、それだけじゃない。指一本なくたって上手く弾ける。手本になれる。だけど、目を閉じれないんじゃ、ピアニストにはなれやしない。彼女の夢を代わりに叶えることもできない。

「だけどね」



 薬指を失ってから、ピアノを弾くたびに彼女が僕を抱きしめてくれた。背中を覆うようにやさしく抱きしめてくれた。

「私、ちょっとだけ安心したんだ」

「安心?」

「そ。あんたの薬指がなくなって、目を閉じれば青空が広がるようになって、あんたは世界のピアニストにはなれなくなった」

「そうだね」

 そして、彼女の夢を叶えられなくなった。けれど、彼女はそのことを一度も責めたことはなかった。だから責められると思った。でも彼女の声はまだ穏やかで、僕を抱きしめる腕も赤子を抱えるようだった。

「だけど、だからこそ、私だけのピアニストになってくれた。本当はね、ずっとね、独り占め、したかったんだ、きっと」

 彼女の声の調子は、どんなときよりも機嫌が良くて、おそらく最高の笑顔をしているだろう。ただ、その表情を見るために目を開けられないんだ。

 目を開けたとたん、病室から消えた青空に、途端に彼女に罵声を浴びせられるだろうから。

 でも、二度と見られないだろう笑顔のためなら、それも悪くないかもしれない。

「こらっ! 目、開けちゃダメだってば!」


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