第7話 花の道



 そして私は、うたを忘れた。



 おっきなおたまじゃくしが、ぽこぽこ、ぽこぽこ水面に顔を出す。あれは何ガエル? ピンポン玉ぐらいのおっきなおたまじゃくしが、水面に敷き詰められた蓮の葉の間からひょこっと顔を出していた。

 花と比べても見劣りしない大きさだ。

 だけど、みんなの目は花ばっかり見てる。

 朱塗りの橋の上から見つめる人は、ちょっとだけ淋しそうで、そしてちょっとだけ近寄りがたく、小さな橋なのに、みんな彼と距離をとって橋を渡っていく。彼はそんなこと気づきもせずに、欄干にもたれて、おたまじゃくしをじっと見ていた。

 彼と同じ欄干に寄りかかり、並んで立った。やはり他の人と同じようにちょっとだけ距離をあけた。

 彼の視線がせわしなく動いた。

 あちこちに現れるおたまじゃくしの動きを、一匹一匹、丁寧に追っているみたいだ。

 一匹が白い花の横に現れたとき、彼の口もとがほころんだ。

 見逃してしまうような、ほんのわずかな瞬間だった。彼はすぐに笑みを消した。

 彼は知っていたのだろうか?

 大きな沼の、小さな公園は晴天のせいもあり、親子連れやら、釣りに来た近所のおじちゃんやらでいつもより賑やかになっていた。むこうで子どもの泣き声が聞こえた。大きな声で泣いていた。どうやら転んだよう。お母さんが優しくあやしている。お父さんは苦笑いで隣りを歩く。

 やはり子どもの声が響く。

 今度は歓声か? 魚が跳ねたと言って大喜びだ。なんて魚か、だなんて気にしない。彼らにとって、魚が跳ねたことに意味がある。

 彼らにとって意味があること。

 私にとって意味があること。

 目の前の彼にとって意味があることは、一体どんなことだろう?



 そして私はうたを忘れた。



 ちょっとだけ、ううん、結構強く思った。

 彼に気づいて欲しい。

 さっきと変わらぬ距離で彼を見つめた。

 じっと見つめて、わざとらしいほどに見つめて、自分の存在をアピールする。でも彼はおたまじゃくしを見つめたままだった。

 そっと、手を差し出し、彼のジャケットの裾をつまむ。ようやく振り向いた彼は、何も言わず、私の顔を見た。私の手を振り払うこともせず、怪訝な顔をするでもなく、ただ私の顔を見る。

 彼の口元がわずかに動き、しかし、その後に言葉は続かなかった。

 彼は私の手を振り払わずに、そのまま歩き始めた。

 公園にふく風は、夏を待ち、ようやく暖かくなってきた。それでもまだ涼しさを連れてくる風。張り切りすぎたミニスカートではちょっと寒いなあ。

 寒さをまぎらわすように鼻歌をうたう。

 歌にはそうとう自信がある。その辺のアイドルなんて問題にならないくらい上手いと思うし、顔もスタイルも負けてない。なのに、彼は全然振り返ろうとしない。ひたすら歩いて、そして、次の橋で立ち止まった。

 橋を囲む蓮の花が、足もとにせまるよう。

 そう、それはまるで……

「花の道。君のこえに歓びこの先の季節を連れてくる」

 彼の声はとても素敵な声だった。どこにでもあるような、柔らかい声。低い声。時々かすれて、橋の上で待つその姿のように淋しそうに啼く。だけど、私の歌声がつまらないものに思えるくらい素敵で魅力的な声。誰にも聞こえないのかな? 彼の声に反応するのは私だけだった。

「ちがう……。この子たちも反応してるの」

 風に揺れるように右に左に肩を揺らす蓮の花たち。揺れては微笑み、私たちを迎える。

「何故、話しかけた?」

 彼の目が私を見つめた。

「なんでだろうね? よくわからない」

 首を傾げてみても、答えは浮かんでこなかった。だけど、気づいたら、声をかけたくてしょうがなくなっていた。

「君は不思議な子だ。君のこえも。おもしろい抑揚がある。細くなったり低くなったり。小さく弱く震えてみたり。ああ、なんておもしろいんだろう」

 また、ほんのわずかな瞬間だった。彼が微笑む。彼が微笑むと、なぜか蓮の花たちも微笑みを返しているように見えた。



 そして彼はうたを知った。



 彼の耳に入るのはうたではなく、こえだった。ただ単なるこえではなく、ちょっとだけ自分のこえとは違う不思議なこえ。けして《うた》とは呼ばない。

「知らないの?」

「そうではない。それを《うた》と認識していなかった。そうか、これが《うた》なのか。しかし、だとすると、これは今までで一番心地よい《うた》だ」

 彼は目を細め口元をゆるませた。さっきのとちょっと違う笑顔。しかも長めだ。

「じゃ、もしかしてうたったこと、ない?」

「別に必要のないことだから、特に気にも留めなかった」

 そう言いながら、彼の目は、みんなが距離をとって歩いていたときの淋しそうな目になっていた。

「必要なものは?」

 私の問いに彼は目を閉じた。

「見ること、聞くこと、話すこと、それから、愛しい人を守り抜くこと」

 そして彼は空を仰いだ。

「他にはなにかあったかな」

 空にはどんな形の雲もなく、ただ青い色が広がっていた。青なのに、どんな色よりもあたたかく、彼の目に映っていた。

「じゃあ私の《うた》をあげる」

「必要なもの意外のものを、この身は覚えてくれないんだ」

「覚えるんじゃない。私のをあげるんだ」

「無理だ。本当に、僕は何もできないのだよ。目の前にいる、とっても魅力的な子にアプローチすることもできない」

 彼はそう言って、はじめて笑い声を聞かせてくれた。その場を取り繕うように笑顔を見せる。だから私は彼の頬を両手で押さえた。彼の顔をまっすぐに見つめて額を寄せた。

 ああ、私の体はきっと知っていたんだ。彼にこのうたを受け渡すことを。だから引き寄せられたんだ。生きてくために、けして重要ではないけれど、だけどこの淋しそうな瞳がずっと欲しがっていた何かを教えてあげなさいって、そう、神様が言っていたんだ。

 花の横、また、おっきなおたまじゃくしが顔を出す。

「だから私の《うた》をあげる」

 なんの迷いもなく、私はそう告げた。

 結構強く思った。

 彼に、気づいて欲しい。

 それは、私の存在を……そういうわけじゃなく、きっとこの《うた》を知って欲しかったんだ。

 小さな頃から覚えてきたうたの中から、一番のお気に入りを口ずさんだ。これが私の《うた》。今、この瞬間に彼のものになる。

 彼は私の口元を真似、音を真似る。声を真似て、メロディーを覚えた。

「これが、《うた》?」

「そう、これが《うた》」

 二人の声が公園に響き、橋を渡る人たちに笑顔をもたらす。橋を縁取る蓮の花たちもよりいっそう笑顔になる。

 白い花、桃色の花、空の青をそのまま受け止めた水面に映え、うたごえに揺れた。

 彼のうた、聞きながら、やがて私の口元は音を失っていった。

 でもかまわない。いつか彼が、必要なものだけじゃなく、何もかもを拒絶せずに、みんなみんな楽しむことができるなら。



 そして私は、うたを忘れた。


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