アルクアラウンド/「巡礼者」篇②
「大変助かりました。あのまま野宿になるかと」
僕は目の前で煙をたゆたわせている老人に礼を言う。案内された家は古いものの手入れの行き届いている山小屋で、一人暮らしだという老人には少々広すぎるくらいの家だった。戸は開け放されていて、外から涼しげな風が入ってきている。土間の壁には農作業用具が立てかけられており、そのどれもに使い込んだ跡があった。
今僕たちは、通された居間であろう部屋に大きめのテーブルをはさんで先ほどの老人と対面している状態だった。用意してくれた食事が目の前にある。まだ口はつけていない。
老人はキセルをくわえて、恍惚の表情を浮かべている。おそらく部屋着である浴衣を豪快に着崩していて、その様子がとても絵になっていた。
「いやあ、とんでもございませんよ」老人は2,3個輪っか状の煙を浮かべて言う。「ここでそのままにしてしまっては、我らの神に申し訳が立ちませぬ。―どうぞ今晩は、ごゆるりと」
老人は再びキセルを口にする。とても大事なものなのか、まるで愛しい子に接するような丁寧な所作だった。
「本当に、ありがとうございました」僕は言う。「しかし、こんな森の奥で暮らすのは流石に大変じゃありませんか? 山岳信仰を重視する人だって、ここまで人里離れたところには―」
山や森といった、自然の中に暮らすという人は確かに多い。しかし、こんなけもの道を通らなければいけないようなところに住むという話はあまり聞いたことがなかった。いくら自然に近い場所を重視するといっても、生活を犠牲にするということはまずない。基本的には、自然に寄り添おうとする人たちで集落を作って、寄り合いのように生活するということが多い。遠野宮はそれが最も発展した形だと聞いている。
しかし、この老人の家の周りには何も見当たらない。
「自分で言うのもなんですが、数寄者なんですよ、あたしゃ」
老人はクツ、クツ、クツと奇妙な笑い方をした。
「連れ合いをなくして、子も独り立ち、戻ってくる様子もありゃしない。そうしたらですね、不思議なもので、信仰心というのはより強まるのですな。それはもう、ものすごく。何もなくなると、より人は神にすがりたくなる。だからこそ何もかもを忘れて森にこもりたくなったのですよ。それ以来はここで自給自足の日々を送っております。ああ、畑はもう少し奥のほうにあるのです。もし興味があれば、明日の朝にでもお見せしましょう」
「それは、興味がありますね。でも先を急いでいるので、またの機会にしておきます」
ここで僕は笑顔を作った。もううんざりするほどした表情だ。
「それは残念」老人は肩をすくめるような動作をした。「では、今日は早めにお休みになられた方がよろしいのでしょうな。旅の話を聞けないのも口惜しくはありますが―ああ、遠慮なくお召しになってくだされ。食べ終わりましたら寝床に案内いたしましょう」
「寝室まで、この家にはあるんですか」僕は言う。まだ料理には口をつけない。「本当に、立派なお宅だと思います。とても一人で住むにはもったいない」
「―それはありがとう。さあ、どうぞ召し上がって―」
老人は言う。表情一つ変えない。
僕は、老人の勧めを無視して立ち上がった。足もしびれ始めていたのでちょうどいい。
「せっかく用意してくれましたけど、大丈夫です」僕は老人を見下ろしてきっぱりといった。「あいにく、それほどお腹はすいていないんです。食料はそれなりにあったので。―とにかく今は、横になりたい」
「そうでしたか」そう言って、老人も立ち上がる。「いやはや、そも先に聞いておくべきでしたな。これは失敬。ではご案内させていただきましょう。どうかお疲れの体を癒してくだされ」
そういって、老人は開け放してあった廊下への戸に向かって歩き始めた。ここに来るまでの道中でも思ったが、とても老体とは思えない軽快な足取りだ。
「ぶしつけですみません」僕は、なるだけ申し訳のなさそうに言う。
老人は「いえいえ」とつぶやく。もう暗い廊下に出ようとしていた。
僕たちもそれに続く。
だがその前に、一つの疑問を口にした。
「おじいさん、ここはあなたが一人で暮らしている。そういいましたよね?」
「ええ、まさに」
「では、あのおもちゃ箱は?」
老人はふと、歩みを止めた。そして静かに振り向き、僕の指さす方を見た。
そこにはこの部屋に入ったときから気になっていた、ずいぶんと真新しいおもちゃの入った箱があるはずだった。全体的に農作業具の目立つこの家において、明らかに異彩を放っていた。
すると老人は一瞬の逡巡ののちに、なんともなげな顔でこう言った。
「はて、何のことでございましょうか?」
僕はすぐに振り向く。するとそこには何もなくなっていた。
「―やはりお疲れのようだ」僕が呆然としているところへ、老人は朗らかに言う。とても優しげな笑みを浮かべている。「すぐに眠れるようにいたしましょう。さあ、どうぞこちらへ―」
老人は歩みを再開した。僕は何も言わずにそのあとについていった。
「ずいぶんとあからさまねえ」、と姉さんはそう小さく独りごちた。
―
渡り廊下は薄暗い。ほんの少しの灯りがついているだけで、ほとんど前を進む老人の持つ「消えない火」を目印にして進むしかなかった。
老人は僕たちよりも4,5歩は先に進んでいる。老人は無言。廊下は吹きざらしになっているため、横から風が吹き付けていた。夜の深まりもあって流石に堪える。
「姉さん、あの老人は結局どうなんだろうね」、僕は小さな声で姉さんに尋ねた。「姉さんが見た感じはどうなんだ?」
「クロなのは間違いないわけだけど」姉さんは語る。「最後の動揺っぷり以外はいたって普通だったわね、あのおじいちゃん。すごく閉ざしているのがうまいっていうか。でも、あのおもちゃ箱には気づいてなかったのかしら」
「そうみたいだね。だいぶ目立っていたのだけど」
「じゃあ、ここはもともとあのおじいちゃんの家じゃないのかも。無断で使っちゃってるもんだから、元からいた人のものは処分するには忍びなかったとか。だから慌てて消しちゃった、手品か何かで」
姉さんはそういうが、目が笑っているのがよくわかった。
「まじめに考えてよ、姉さん。そもそもここに行こうっていったのは姉さんじゃないか」
僕はちょっと非難するような口ぶりになる。姉さんは言う。
「コウも同意したでしょう? いいじゃない、野宿なんてしたくないもの。―でも少なくとも、一人暮らしは嘘ね。この家、ほかに何人も潜んでるわよ」
僕はそう言われて、思わずあたりを見回す。しかし人影は見当たらない。
「―どこにいるんだい、そいつらは」僕は言う。ここで姉さんも嘘はつかないだろうから、誰かしらいるのは事実なのだろう。
「それがわからないのよ」姉さんは言う。だいぶ困っている感じの声がする。「他にいるのは確かなんだけど、それがどこにいるのかがさっぱり。いまいちはっきりしないのよね、ここ」
それは―どういうことだろう?
はっきりしない?
頭がうまく回らない。少し考える時間が欲しかった。どうやら体の疲れは思った以上に思考力を奪っているようだ。けれど老人はどんどん先へと進んでいく。一度休憩するという発想も特にないようだ。
それにしても―
「ずいぶんと長いな、この廊下」
僕はふと口にする。たぶん、歩いてかれこれ15分は経っている。とても森にこもるために作った家の広さではない。
「ええ、それなりの距離をいった気がするのだけど」姉さんも同意する。「どのくらい続くのかしらね」
廊下の先は、なんとまだ見えなかった。同じような道が淡々と続く。夜風がだんだんと激しくなってくる。夏の夜空にはきれいに星が輝いているが、それだけだ。
たまらず、僕は老人に声をかける。
「おじいさん、この道はどこまで―」
言いかけたところで、ふいに老人が歩みを止めた。
「大変お待たせしましたな。今夜はこの部屋をご自由にお使いくだされ」
老人はそう言って、目の前にあるふすまを指し示した。真新しい障子が張られた立派なふすまだ。
しかし、いつの間に?
いつの間に僕たちは部屋にたどり着いたんだ?
老人は朗らかな笑みでこちらを見る。僕は何も言わない。何も言えなかった。
「コウ」、姉さんが促す。そうだ、ここで立ち止まっていてもしょうがない。
僕はゆっくりと目の前にあるふすまに手を伸ばした。
すると、脇からすさまじい速さで腕をつかまれた。強い力で、振りほどくことはできそうもない。
つかんだ細腕の主は老人だった。
「「巡礼者」よ、開ける必要はないのです」老人はこちらをじっと見つめている。笑みは絶えない。「ただ待てばいい。この扉はこのまま開くのでございます」
ここでフッと、灯りが消えた。老人の持つ火でさえも。
周りは暗闇で包まれた―はずなのに、目の前にあるふすまはまだしっかりと認識できる。むしろ今は、この世界には僕たちとこのふすましか存在していないかのようにも思えた。しかし、腕にはまだつかまれている感覚がある。依然として力は強い。
「扉は開きます」老人の声がする。「今に。すぐに。そして、見せていただきたいのです―」
ふいにふすまが勢いよく開く。冷たい外気が身を包む―
―外気?
「―お前の瞳が、どんな「奇蹟」を映し出すのかを」
その言葉が聞こえたか聞こえないかのところで、周囲の風景が激変した。暗闇は晴れ、ふすまは跡形もなく消え去った。
代わりに現れたのはうっそうとした大森林と、とても堅気には思えない大勢の男たちだった。
男たちはみな手にクワや鎌、縄をもって、僕たちに明確な敵意を向けている。
しかも驚くべきことに、僕らはもう縄で強く縛られている状態だった。
「なるほどね」姉さんは言う。あろうことか、とても気楽な調子だ。「元から家なんてなかった。そりゃ、家のどこに誰がいるかなんてわからないわね」
「つまり、僕らは家にいるように見せかけられていたってこと?」僕は言う。僕のほうは、だいぶ声が緊迫していると思う。
「そうかもしれない。まだわからないことがちょっと多いもの」姉さんが続ける。「でもこの私でも人の気配がわからないのなら―」
「何かしらの「奇蹟」が起こった」
「そうなるわね」、姉さんは静かに同意した。「とにかく、見事にしてやられたわよコウ。ここからは―」
姉さんが何かを言おうとした刹那、目の前に人が飛んできた。それ以外の表現のしようがない。文字通り、周囲を取り囲む大勢の男たちの中から飛び跳ねてここまで来たのだ。
しかもそれはあの老人だった。
「驚かれましたかな?恐怖しましたかな?」老人は言う。「驚かせたことは謝りましょうーしかし、これも仕事なのです」
「ー仕事?」、僕は言う。極めて冷静に。
「そう、仕事。ビジネスです。自己紹介が遅れておりましたが、我々は拐(かどわ)かしを生業としておりまして。そして儂の名はカイ。以後、お見知り置きを」
カイ老人はそう言うと、うやうやしくお辞儀をした。なぜだかとても気品のある動作だった。
「ーしかしこうもうまくいってしまうとは」老人は言う。大げさに肩をすくめながら。「正直に言いますと、いささか拍子抜けなのです。その瞳は飾りですかな?「奇蹟」を持つ子供を狙うのは、何が起こるわからず大変にそそるのですが―この大所帯も、過剰な期待でしたかな」
老人の顔にはいまだに笑顔が張り付いている。しかし最初は優しさを感じた笑顔も、今では薄気味悪さを覚える。
「―まあそれでも、楽に仕事ができるにこしたことはない」
それにしても―「この瞳は飾りか」だって?
「では後程、ゆっくりとこれからのお話をいたしましょう―連れていきなさい」
お前はなにもわかっちゃいない。
老人の言葉を合図に、男たちが目前に迫る。僕たちを抱え上げようと手を伸ばしてくる。
その瞬間僕は、大声で叫んだ。
「約束だ!来てくれ!」
言い終わってからさほど時間はかからなかった。すぐしげみから飛び出してくれた彼らは目の前の男たちを蹴散らし、すぐ迫っていた男の手は千切れて飛んで行った。そして僕らを縛る縄を素早く嚙み切ってくれた。
僕はそのうちの一頭の頭を、感謝を込めて撫でた。とてもいい毛並みだ。
周囲の男たちは動揺している。カイ老人ですら笑顔が陰った。
それも詮無いだろう。
三匹の熊が、僕たちを守るように現れてきてくれたのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます