第四章 獅子宮さやかの推理
1
「ところで一郎君、事件が起こった場合、小説の名探偵ならまずなにをやるだろうね?」
薫はいきなり僕に振ってきた。
まあ、警察と違って、鑑識能力はたいしたことはないだろうし、聞き込みをするにしても人数が足りない。とはいえ、事情を聞く人間はこのホテルの中に限られるわけだから、やはりここにいる人間に話を聞くしかないだろう。
「アリバイ調査?」
「お、そうきたか。じゃあ、一郎君のたっての希望ということで、みなさんのアリバイを聞きたいと思いますがどうでしょうかね、さやかさん?」
薫が挑戦的にいう。
「はん、いいんじゃないのか? それはあたしもぜひ聞きたいところだね」
さやかさんは値踏みをするかのように、薫を見つめた。
「ということで、かんじんの犯行時刻だけど、銃声がしたのはちょうど七時半ころだと思うけど、異論のある人はいるかい?」
「ああ、そんなもんだったね」
「間違いありませんっ」
さやかさんとポチ子はすかさず答えたが、あとの人たちはざわざわするだけで意見が出ない。正確に覚えているのはこの三人だけらしい。正直、僕自身あいまいだったけど、たしかにだいたい七時半前後だったような気はする。
「しかも銃声の直前に、みんなが生きているポールを見ているし、銃声の直後にはボクたちが部屋の中に踏み込んだ。だから銃声が聞こえたときと、ポールが実際に撃たれたときが、ずれているってこともないはずだよ」
「そうだろうな。ダミーの銃声で、実際の犯行時間をごまかすようなトリックを使ったとは思えない。つまり、ポールが撃たれたのは七時半だ」
さやかさんが同意する。しかしそのあとすぐに苦悩の表情で続けた。
「しかしアリバイもなにも……、今さら聞くまでもなく、客たちは全員完璧なアリバイがあるじゃないか」
「それも……そうだね」
薫の顔も曇る。
まず銃声が聞こえたとき、ホールには僕に薫、さやかさんにポチ子、綾、それに島田さんがいた。展望レストランには洋子さんと高橋夫妻。ヨヨと美奈子さんは海に潜っていた。これは疑いようもない。
「じゃあ、ホテルの従業員たちは? ええと、あのとき、受付のお姉さんと売店のおばちゃんは、受付カウンターと売店にまちがいなくいたね」
薫がいうと、島田さんもそれを肯定した。
「あたしはあのとき、高橋夫妻とレストランにいたけど」
洋子さんが証言する。
「厨房にコックふたりいたよ。キッチンカウンターから丸見えだから間違いない。あと、メイドもふたりとも料理を取りにきてたよ。そうだよね、高橋さん?」
馬鹿ップルもうなずいた。
「そうです。あたしたちここに料理運んでました。覚えてますよね?」
メイドが心配そうに聞く。僕もそれは覚えていた。一瞬、双子を利用したアリバイ作りを考えたが、ふたり同時にいたと思う。
「そうだね。間違いなくいたよ、ふたりとも。ええっと、あと残ってるスタッフは?」
薫は島田さんを見る。
「ダイビングスタッフとプールのバーのバーテン、それに雑用のボーイですが」
「あたしたちが潜ったときは、みんなダイビングショップにいました」
美奈子さんが証言する。もっとも銃声は美奈子さんたちが潜ったあとだ。
しかしスタッフたちはお互いがその場を離れなかったことを証言した。仮にそれが示し合わせた嘘だとしても、あそこから僕たちの目を盗んでポールの部屋に入ったり、洋子さんたちに見られずに海から部屋に近づくことなど不可能としか思えない。
「ははは。つまり全員にアリバイがあるってことじゃないか」
薫のいう通り、全員にアリバイがあった。しかも疑う余地がない。
「結論は出ましたね」
島田さんがいった。
「つまりポールさんは自殺です。それ以外に考えられません」
「だが、さっきもいったが、室内に拳銃はなかった。それをどう説明する?」
さやかさんが反論する。
「理由はなぜかはわかりませんが、自分を撃ったあと、窓から銃を投げ捨てて、そのあとで窓に鍵をかけたんじゃないでしょうか? ポールさんにはそれができました。私たちが踏み込んだときは、まだ生きていたわけですから」
つじつまは合う。即死でなかった以上不可能ではない。なんのためにそんなことをするのかはさっぱりわからないが、とにかく物理的に可能だ。
心なしか、みなほっとしたような顔になる。それもそうだろう。自分が疑われるのも、殺人犯といっしょに一夜を過ごすのもまっぴらだろうから。
「まあ、いくらなんでも、それはないよね?」
薫が明らかに不満そうな顔でいった。
「だってそうだよね。それだと、ポールは銃口を自分に向けたあと、左手で銃口を押さえて、撃った。弾は左手を貫通したあと、喉を突き破って壁に撃ち込まれた。しかも弾は奇跡的に延髄を少し横にそれて、即死にはいたらなかった。そしてポールは最後の力を振り絞って窓から拳銃を捨てて、そのあと鍵をかけたっていうことになってしまうよ。いくらなんでも馬鹿げていると思う」
たしかに馬鹿げている。他になにかもっともらしい可能性があれば誰もそんなことを信じはしないだろう。
「それにそれだといくつもの謎が残るよ。たとえば、床に零れた海水、そこに浮かぶ鱗。ポールが自分で用意したってことになるんだけど、なんのために? それから死ぬ間際に人魚の絵を指差したのはなぜ? 極めつきは、洋子さんと高橋さんが見たラニの正体だよね」
誰も答えられない。
「そもそも撃ったあと、窓から拳銃を捨てたりすれば、洋子さんたちに見られたはずだよ?」
薫はそういって、洋子さんを見た。
「う~ん、それは正直いってわからないよ。銃声がしたときにはたしかに見たんだけど、そのあとはパニックになって、窓なんか見てなかったな。とにかくポールさんの部屋まで行こうとしてさ」
「あたしも見てない」
「僕もだ」
高橋夫妻も同意する。さらに話を聞くと厨房スタッフも同じだった。つまりポールが自分を撃った直後、窓から拳銃を捨てたとしても、誰もそれを確認できなかったということだ。
「だけど、薫ちゃん、なにか他に考えがあるんですか? たしかにポールが自殺したとはあたしにも考えにくいです。動機も考えられないし、不可解なことが多すぎますからね。だけどここにいる誰かが殺したっていうのはそれ以上に信じられませんね。やっぱり不可能ですよ」
ポチ子が絡んできた。どうもさやかさんと反目する薫が気に入らないらしい。
「この島には他に人間がいない以上、やっぱりポールの自殺なんじゃないですかね? 違うというならどうしてポールが死んだか、説明してほしいものです」
「ふ~ん。ポチ子君はそう思うんだ? じゃあ、自殺なら自殺でボクを納得させてほしいな。どうしてポールは自殺したの? どうして拳銃を窓から捨てたの? その他の謎は?」
「きっと動機は良心の呵責ですよ」
ポチ子は胸を張っていう。
「良心の呵責?」
「証拠はありませんが、ラニを殺したのはポールに決まってます」
ポチ子は断言した。他のみんなも内心そう思っているのか、口を挟まない。いや、ただひとり島田さんだけが反論した。
「だからあれは事故だったんです。地元の警察もそう判断しました。それともなにか事故でない根拠でもあるんですか?」
「だってそうじゃないですか。ラニっていうのは誰よりも泳ぎがうまかったはずです。それが溺れ死ぬなんて変じゃないですか? それにポールの昼間の態度もかなり変でしたしね」
「ラニは普通に海面を泳いでたんじゃありません。水深二十メートルくらいを素潜りしていたんですよ。いくら素潜りがうまいからといっても、事故は起こり得ます」
「でもラニはまるで棺に眠るようにサンゴの隙間の中に収まってたんですよね。事故でそんなこと起こりっこないですよ。まあ、じゃあ、なんで犯人がそんなことしたかっていわれても困りますけど」
なんだかんだいって、ポチ子たちはラニの事件のことを調べている。やはり薫がいったようにさやかさんとポチ子のふたりは誰かに依頼されてその事件を調べに来たんだろう。
「ルフィーよ」
いきなり話に割り込んだのは、双子のメイドだった。ふたりは口をそろえていう。
「ラニが死んだのは、事故か、殺人かわからないけど、ラニをサンゴの棺に寝かせたのはルフィーに決まってる。だってルフィーがラニをそのままにしておくはずがないもの」
「ルフィー?」
僕は聞き慣れない名前を聞き返す。
「イルカ。ラニが可愛がっていたイルカ」
メイドは悲しそうな顔でいった。
イルカが人間の葬列を真似て、そんなことをしたというのだろうか? それはそれで信じがたい。
「そうかもね。ルフィーは遺体が、流されたり、海の底に沈むのが嫌で、サンゴのくぼみに寝かせたのかもしれない。とにかく頭のいいイルカだったから」
それに同意したのは洋子さんだった。
島田さんはあまり信じているとは思えない顔で聞く。
「それはともかく、ポールさんはどうして彼女を殺さなければならないんです?」
ポチ子が一瞬言葉を詰まらせると、さやかさんが援護射撃する。
「殺すつもりはなかったのかもしれないな。たとえば水中で出会ったポールがついちょっかいを出して、その結果、事故で死んだとかさ」
「そ、そうです。さすがさやか様」
それはあり得るかもしれない。なにせ、ポールはさわやか二枚目風のくせに、初対面で薫のお尻を触ったスケベ野郎なのだから。
「仮にラニを殺したのがポールだったとして、それを悔いて自殺っていうのはどうなんだろう? それなら変な小細工なんかしないんじゃないのかな?」
薫が納得できないという顔をする。
ポチ子は自説を曲げなかった。力強く断言する。
「それはきっと懺悔です」
「は?」
「つまり、ポールは人魚の伝説と同じ死に方を演出したんですよ。本来は遺書でラニを殺したことを告白すべきなんでしょうけど、その勇気がなかったんです。だから伝説を見立てることで暗にラニを殺したことを告白し、懺悔しようとしたんです」
「ええ?」
薫は驚きの表情を浮かべた。
「殺人を告白する勇気がないから、あんな手間をかけて、人魚に殺された演出をしたっていうのかい? それだけのために左手まで撃ち抜いて、おまけに拳銃を外に捨てるために、わざわざ弾が延髄に当たって即死しないように少し斜めに喉を撃ち抜いた? そんなことあるわけないじゃないか」
「そ、そうですかね。い、いえ、きっとポールは精神的に追いつめられて奇行に走ったんです」
ポチ子はムキになった。
「でも星子さん、もしそうなら、あたしの見たラニはなんだっていうのさ? あたしだけじゃない。高橋さんだって見てるんだよ。ヨヨや綾ちゃんだって別のときに見てるしさ」
洋子さんが聞いた。
「あ、あれは錯覚といいたいところですけど、複数の人が見たのなら……、もう、幽霊ってことでいいじゃないですか」
「幽霊? やめてくれよ。その謎を解き明かそうと、こうしてあれこれ話し合ってるんじゃないか?」
薫は小馬鹿にするように笑った。
「そ、そんなにいうならあなたはどう思うんですか、薫ちゃん?」
「残念ながらまだわからないけど、幽霊のわけないよ」
「ほうら、えらそうなこといっても説明できないんですよ。やっぱり幽霊です、幽霊。この世の中にはそういう科学では説明の付かないことが……」
いきなりさやかさんがポチ子の頭を殴りつける。
「黙って聞いてれば調子に乗りやがって。あたしまで同類に思われるじゃないか」
ポチ子は明らかに不満げだったが、それ以上幽霊の仕業とはいい張らなかった。
その後、さやかさんは「う~む」と唸りながら、目をつぶり、腕を組んで考え込んだ。
「ラニの幽霊はともかく、自殺の動機は懺悔でないなら、こういうことではないでしょうか?」
ポチ子にかわって島田支配人が口を開いた。
「つまり、ポールさんは借金に追われて、保険金を誰か家族にあげる必要に迫られてたんですよ。自殺じゃ保険は下りないと思って、他殺に見せかけたんじゃないでしょうか? 人魚の仕業に見せかけたのも、そうすれば間違っても誰も自殺だと思わないし」
「う~ん、それはどうかな?」
薫は不満げだ。
「だって海に拳銃を投げ捨てたって、次の日にでも見つかると決まってるよ。そうなったとき指紋を調べればポールが自分で撃ったことがばれるじゃないか。仮に波にさらわれて拳銃が見つからなくても、死体の硝煙反応を調べればポールが自分で撃ったかどうかはすぐわかるし。今それを証明できないのは、警察の鑑識がいないってだけだよ」
「う、う~ん、たしかに……」
島田さんが黙り込む。
やはり自殺説はあり得そうで、現実には考えがたい。
「ふふん、そういうことか」
考え込んでいたさやかさんが、いきなりくわっと目を見開き、叫んだ。
「わ、わかったんですか、さやか様?」
ポチ子がわくわく顔でいう。
「当たり前だ。あたしを誰だと思っている。こう見えて名探偵獅子宮さやかとはあたしのことだ」
さやかさんは巨乳を揺らし、長い髪をたなびかせながら立ち上がった。きらりと光る瞳は、神々しいまでだ。その姿は正直、エロかっこいい。ちょっと惚れそうになった。
「ひゃああ。さっすがさやか様です。尊敬します」
ポチ子はうれしそうに飛び跳ねる。
「え、まさか、ほんとうに犯人がわかったの?」
薫は虚を突かれたらしい。明らかにびっくりした顔で聞く。
「はは、この程度の事件の解決は、あたしにとって小学生の算数程度だ」
さやかさんはふふんと鼻で笑う。
「きゃあああ、最高ですっ、さやか様」
「おもしろいね。たいした自信だ。じゃあ、ボクを納得させてもらおうか、さやかさん」
「いいだろう、聞いておどろくなよ」
さやかさんは薫を一瞥したあと、くるっと向きを変えた。
「犯人はおまえだ!」
さやかさんが勢い勇んで指差した先にいたのは美奈子さんだった。
「な、なんですって?」
美奈子さんは動揺したというよりも、驚愕していた。
無理もない。その時間、美奈子はダイビングをしていたのだから。疑われるとは夢にも思っていなかったのだろう。
さすがにそれは無理なんじゃないか?
名探偵でも何でもない僕が考えても、美奈子が犯人である可能性はゼロだと思う。
しかしさやかさんの顔は自信に満ち溢れていた。
2
「あたしがその時間ダイビングをしていたのは、ヨヨが証言してるし、洋子さんたちも展望レストランから見ていたわ。おまけに海から上がるときはあなたたち全員が見てたじゃないの」
美奈子さんはクールにいい放つ。
「たしかにそうだ。だがそれでもこの事件の犯人は、論理的にいってあんたしかあり得ない」
さやかさんはまったく動じなかった。
「あなた正気?」
美奈子の顔には困惑の表情が浮かぶ。この女、頭がどうかしたのかといわんばかりだ。
「いいか? ポールが自殺でない限り、誰かが撃ったんだ。しかしドアはあたしたちに見張られていて脱出不可能だ。バルコニーもだめ。そうなると、残るは窓しかない。しかし残念ながら窓は鍵が掛かっていた上に、人間が通れる大きさじゃない。つまり残された可能性としては、犯人は部屋に入らずに窓を通して撃ったとしか思えない」
「え、でもそれは最初にあたしがいったことじゃないですか」
ポチ子がちょっと不満げにいう。
「やかましい。おまえの思い付きの推理といっしょにするな。おまえは犯人がいつ、どこから撃ったか説明できないだろうが」
「す、すみません」
さやかの一括にポチ子はしゅんとなった。
「心配するな。あたしがきっちり説明してやる」
いや、だけどさやかさんはどう説明する気だろう? ポチ子の推理は洋子さんの証言であっさり却下されたのだから。
いったいいつどこから犯人は撃ったんだ?
「犯人はいったいどこから撃ったか? レストランからか? 違う。なぜならたとえばポールが窓を開けたときにレストランから撃った場合、弾はどこに飛ぶ? そのまま体を突きぬけて、反対側にある隣室との間仕切り壁に当たるはずだ。しかし実際はバルコニー側の壁に弾痕がある。弾が体を貫いたあと、直角に曲がって飛ぶわけがない」
まさにその通りだ。
「じゃあ、ダイビングショップからか? それも違う。あそこから撃っても別の場所に弾痕ができるはずだ。それならいったいどこからだ? 室外から撃つ限り、どこから撃ったってあんな場所には弾痕はできっこない。外壁に張りついて手だけ窓から入れて撃てば別だが、そんなことをすればレストランから丸見えだし、そもそも足場がいる。だからそれも不可能だ」
「つまり拳銃は室内で撃たれたってことでしょう?」
美奈子さんは冷たい声でいう。
「違う。あの弾痕はダミーだ。犯人があらかじめ付けておいたものだ。事件のときに付いたものじゃない。きっと音がしないように、サイレンサーを使うか、布団かなんかで銃をくるむかしたんだろう」
「なんですって? じゃあ、べつに本物の弾痕があるっていうの?」
美奈子さんは少し真剣になったようだ。
「そんなものを見逃すほどあたしは間抜けじゃないね。仮に見逃していたとしても、あとで鑑識が調べれば必ず見つかるし、発射場所だって限定される。すぐばれるようなトリックを使ったって意味はない。そう考えると、なぜか本物の弾痕は室内に付かなかった。そう考えるしかない。だがポールが室内にいて、犯人が外から撃った場合、必ず室内のどこかしらに弾は当たる。弾はポールの体を貫通しているんだからな」
しかしそれではさやかさんの前提条件が崩れる。弾が消えない限り。
「そうなると考えられることはただひとつ。あのとき、ポールは窓から顔を出し、下を見ていた。そのとき、真下から撃ったんだ。窓は内開きだからポールを貫いたあと、窓ガラスを割ることもない。まあ、ひょっとしたら外壁のどこかに当たってるのかもしれないが、今のあたしたちには確認のしようがない。それはあしたにでも警察が調べればわかることだ」
「だからわたしが犯人だっていうの?」
美奈子さんはもうさやかさんの考えを馬鹿になどしていない。顔面が蒼白になっている。
「そうだ。窓の真下は、海。入り江だ。あそこは水深五メートルくらいなんだろう? あんたはヨヨの見ていない隙をついて水面に浮上し、ポールを撃ったんだ」
「で、でもそれはおかしいよ」
異議を唱えたのは洋子さんだった。
「銃声が聞こえたとき、窓は閉まってたよ。ポールさんは顔なんか出してなかった。それにそんなに都合よく、窓から顔を出したりするのも変じゃない?」
「そうよ、洋子さんのいう通りだわ」
美奈子さんもそれに乗る。
「一発目は空に向かって撃った」
「え?」
「洋子さん、あんたはそれを聞いて室内で発砲があったと勘違いした。そしてパニックになった。あとは壁に注目することもなくポールの部屋に向かった。そうだったな?」
「うん、まあ、たしかに発砲のあとは慌ててポールさんの部屋に向かったよ。そのあとは壁なんか見てなかったけど」
「じつはあんたが目を離している間に、面白いことが起きていたんだ。ポールは銃声を不審に思い、窓を開け、身を乗り出して下を見た。そのとき、美奈子は二発目を撃った。今度はポールを殺すためにな。そのあと、拳銃を海に捨てたんだ」
「それはあり得ないよ。銃声は一発しか聞こえなかったし……。それに見たんだ。そのときガラスに血が飛ぶのを……」
「二発目はサイレンサーを使ったんだろう。銃声と共に血が飛んだように思えるのは錯覚だ。あとから知った事実が記憶を捻じ曲げたんだよ」
美奈子は必死になって否定した。
「馬鹿馬鹿しいわ。そんなことあるわけないでしょう? どうしてそのあとポールは窓の鍵を閉めたのよ? 第一、その推理ならわたしが犯人とは限らないわ。ヨヨにだってできるでしょう。どうしてわたしって決め付けるの?」
「な、なにをいうんだ、美奈子」
ヨヨが動揺の声を上げる。
「窓の鍵の件はおそらく深い意味はないだろう。たぶんポール自身が次の攻撃から身を守ろうとして反射的に鍵を掛けたんだろうな。窓ガラスの内側の返り血もそのときに飛んだんだよ。そしてやったのがヨヨかあんたかどっちかって話になれば、怪しいのはどう考えたってあんただ。あんたはガイドのヨヨのあとを付いて行ったんだろう? 短い間でもヨヨがいなくなれば、さすがにあんたは気づくはずだ」
「そ、それは……」
美奈子さんが動揺した。自分でもそう思ったのだろう。
「それにポールは死に際に人魚の絵を指差した」
「だ、だからなんだっていうの?」
「人魚は女だ。そしてダイバーを暗示している。つまりポールは海から女が撃ったといいたかったんだ」
おおおお。なんて鋭い推理なんだ。
僕は正直、さやかさんをセクシーな体と男ぽい性格をしてるだけの人と思っていたけど、ほんとうに名探偵らしい。
それほど、この推理は説得力があった。そう考えれば美奈子さんがこんな嵐の夜にナイトダイビングを決行したわけもわかる。やらざるを得なかったのだ。
「わたしが浮上したって、ヨヨは気付くはずよ。ガイドは常に客がどこにいるか気を配っているんだから」
美奈子さんは自分がやったと認めない。
「おそらくライトを水中に残したまま浮上したんだろうな。夜で、しかもしけのために水中は砂が舞っていたんじゃないのか? 視界が極端に悪くて、ライトさえ置いておけばそこにいると思われる。うねりで適当に揺れるからなおさら自然に見える。水面に上がっているとは思われない」
「そう。僕はライトの位置で、美奈子がいるところを確認してたね」
ヨヨがいった。自分が犯人にされては堪らないから、そう強弁しているとも取れなくもないが。
「いい考えだったな。アリバイは完璧だ。誰もその時間ダイビングやってるやつが犯人だとは思わねえ」
「すごい。さすがさやか様。天才です。その推理、まさに完璧です。非の打ち所がありません」
なぜかポチ子の目はハートマークだ。飛び跳ねて大はしゃぎしている。
「違う。わたしじゃない。わたしじゃないわよ」
「さやかさん、調子に乗ってるところ悪いんだけど、ちょっと聞きたいことがあるんだ。まず部屋の中の海水と鱗はなんなんだい?」
さやかさんの推理にけちをつけるものがでた。もちろん薫だった。
「あんなものは嫌がらせに決まってるだろう。あのふたりの間になにがあったか知らないが、美奈子はポールを憎悪したんだ。下世話な想像を働かせるなら、たぶん知らない間にいい仲になって、そのあとこじれたんだろう。だから殺す前にたっぷり嫌がらせをしたんだよ。人魚伝説を利用してね」
「じゃあ、ラニの幽霊は? 何人も見てるんだけど」
「すべて見間違いだ。ひとりが見たというから暗示が掛かってちょっとしたものが幽霊に見える。まあ、集団催眠ってやつだな。幽霊なんてそんなものだ」
さやかさんは断言した。
「待って。じゃあ、わたしでもヨヨでもない、第三者が同じことをした可能性は?」
美奈子さんは必死で疑いを晴らそうとする。
「そのラニの亡霊とかみんなが思ってる女こそが犯人なのよ。そいつはこっそり島内に潜伏して、みんなの目を盗んで、ライトも点けずに海に忍びこんだんだわ。ポールを射殺したあと、そのまま海を回り込んで、島のどっかに逃げたのよ」
さやかさんは可能性を検討したのか、一瞬だまりこんだあと、反論した。
「さすがに無理だろう。その女がもし実在するとしたら、裸かそれに近い格好だったってことだ。スクーバ器材すらつけず、この嵐の中、外海を回り込むことは不可能だ。そうだろう、洋子さん?」
「そうね。外から海を回り込もうと思ったら、潜ってきてもうねりにもみくちゃにされると思うよ。ましてや海面を泳いでくるなんて絶対に無理」
素人目にもそれは正しいと思えた。なにせ、海面には高い波が荒れ狂っている。しかもまわりは岩場。命がいくらあっても足りそうにない。
「かといって、ホテルの前から入って、ホテルの前から出た場合は、必ず誰かに見られるだろう?」
美奈子さんはそれ以上、反論できなかった。
「う~ん」
薫は納得しないようだ。腕を組み、ぶつぶついいながら歩き回っている。
「君はどう思うんだ、薫」
僕が聞くと、さやかさんに先を越されたのがよほど面白くないのか、不機嫌丸出しでいう。
「残念ながらいまのところ、他の可能性は考えつかないよ。だけど、まだ負けたわけじゃないからね。勝負は地元の警察が来るまでだよ。それまでに絶対覆してやるよ」
薫はよほど悔しいのか、眉をしかめながら挑戦的な台詞を吐くと、頬を膨らませている。
「ははは、なにか負け惜しみをいってますよ、さやか様。笑ってやりましょう」
「わたしの無実を信じるの?」
美奈子さんはポチ子の戯れ言を無視し、薫に問いかけた。
「べつに根拠があるわけじゃないけど、なんかさやかさんの推理は胡散臭いよ。きっともっと驚く真相がべつにあるんだよ」
そうはいっているが、たんにさやかさんに出し抜かれたことが許せないだけだろう。だがそのひと言で美奈子さんは少し落ち着いたようだ。
「それでどうしたらいいんですかね?」
島田さんがさやかさんにお伺いを立てた。
「まあ、とりあえず物的証拠もないし、とりあえず自分の部屋に入っててもらうっていうのはどうだ? ドアの外から楔でも打ち込ませてもらって、あした警察が来るまでは外出禁止。そうしときゃ他のものも安心して自分の部屋で休めるだろう?」
誰も反対しなかった。殺人犯かもしれない女と顔をつき合わせているのはいやに決まっている。
「わかったわ。みんながそう思っているなら、自主的に閉じこもるわよ」
当の美奈子も同意した。立ち上がると、自分の部屋のドアを開けた。
「おっと、念のため、中を調べさせてもらおうか」
「勝手にしたらいいわ」
さやかさんの言葉に、美奈子さんはふてくされたようにつぶやく。
結局、さやかさんとポチ子のほか、僕と薫、それに高橋夫妻が美奈子さんとともに部屋の中に入った。
美奈子さんの部屋はポールの部屋の隣で、二番目に入り口に近い。ちなみにその次がさやかさんとポチ子の部屋だ。
部屋の作りは基本的にポールの部屋と同じつくりだった。部屋はきれいに片付けられている。美奈子さんは不機嫌そうにいった。
「なにを見たいの、探偵さん」
「ふん、とりあえずなにもなさそうだな」
さやかさんは机の引き出しや、クローゼットを調べながらいう。
高橋夫妻は好奇心丸出しできょろきょろと部屋を見回っているし、薫も難しい顔をしながらバルコニーを部屋の中から眺めていた。
「がんばってわたしの無実を証明してね」
美奈子さんがそういうと、薫は肯いた。
「なにか、変わったことでも?」
ホールに残っていた島田さんが顔を出した。手にはハンマーと楔。それでドアを固定するつもりらしい。
「いや、とくに怪しいことはなにもない。引き上げよう」
さやかさんの号令で美奈子さん以外のものは部屋を出る。ホールには綾しか残っていなかった。スタッフは持ち場に帰したらしい。テーブルの上の食事も帰り際に片付けさせたらしく、きれいさっぱりとなくなっている。勤務時間が終わったのか、受付のお姉さんや売店のおばちゃんもいなくなっていた。
「島田さん、じゃあ、中から開かないようにしてくれ」
さやかさんの指示に肯くと、島田はハンマーで、美奈子さんの部屋のドア下のすき間に楔を打ち込んだ。
「バルコニーから逃げるんじゃないの?」
さっちゃんが不安そうにいう。
「バルコニーは一部屋ごとに独立している。けっこう距離もあるし、この雨と風じゃ隣のバルコニーに飛び移るのも無理だろう。まあ、念のため部屋に戻ったらサッシには鍵をかけるんだな」
たしかに彼女がバルコニーから隣の部屋に行くことは無理そうだ。もちろん嵐の海に逃げることは考えられない。
「念のため、あたしとポチ子が徹夜で見張る。休みたかったら自分の部屋に行くといい。ドアの鍵を閉めるのを忘れるなよ」
「え、徹夜ですか、さやか様?」
ポチ子がちょっと恨めしそうにさやかさんを見る。
「私もいっしょにいましょう。これでも大学のころはボクサーだったんですよ。アマチュアでしたけど、いいところまで行きました」
島田さんがみなを安心させようとしたのか、華麗なシャドーボクシングを披露した。たしかに様になっている。
「やるじゃないか、島田さん。ポチ子よりずっと頼りになりそうだな」
「ひ、ひどいですよ、さやか様。あたしだってこれでもいざとなったら戦えますからね」
ポチ子がほおを膨らませる。
結局、彼ら三人がホールに残り、他のものは各自の部屋に戻っていった。
3
僕は薫とともに部屋に戻ると、ドアの鍵をかけ、バルコニーのアルミサッシの鍵が掛かっていることを確認した。やはり、殺人犯と同じホテルにいると思うと不安は残る。
「お、さっそく鍵を掛けるなんてやる気満々じゃないか、一郎君」
「え?」
僕は本気で薫のいった意味がわからなかった。
「だってそうだろう? ボクとふたりっきりで同じ部屋になった途端、外部からの侵入を阻止したいってことだろ」
「そ、そんなこといってる場合かっ!」
そう。もはや薫とふたりっきりでどきどきなんて気持ちはどこにもない。はっきりいって忘れていた。外部からの侵入を阻止したいのは、薫を僕の毒牙から救うやつじゃなくて、殺人犯に決まっている。
「ぞれともボクに魅力がないとでも失礼なことを考えてるわけじゃないよね」
薫は両手を頭の後ろで組んで、腰をくねらせると、ウインクしてみる。
「そ、そこまでいうならなあ」
僕は薫の胸に手を伸ばす。もっとも本気じゃない。ただちょっと脅かしてみたかっただけだ。これ以上舐められないために。
「ぎゃああ」
あっという間に関節を極められ、そのまま床に転がされた。
「冗談だよ、一郎君。まあ、もっともそれくらいのバイタリティがあったほうが君のためという気もするんだけどね。でも二十億の違約金を忘れるなんて君らしくないな。まあ、今回のことは忘れてあげるよ。どうやら本気で襲ったわけでもないようだしね」
そういってぺろっと舌を出すと、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
僕は一気に脱力した。男の面目丸つぶれ。もうかっこつけようとかいう気にさえならない。
もっとも気を張りつめすぎるのもどうかと思うから、これくらいでちょうどいいのかもしれない。ひょっとして薫は薫なりに、僕を元気づけようとしてくれたのか?
いや、……まさかな。
なんにしろ、気を抜きっぱなしとはいかない。もし薫のいうとおり、美奈子さんが犯人でないのなら、一刻もはやく真犯人をつきとめる必要がある。そうじゃないととても安心できない
「なんだい、一郎君? なにか不安でもあるのかい? やけに深刻そうな顔をして。それともボクをものにできないのがそんなに悔しいのかな? ふふ、そんなに自分を責めるなよ。しょせん名探偵の助手が似合う男は、名探偵には逆立ちしたって敵わないんだからさ」
い、いってろ、この小悪魔め。
「……まあいいさ。じゃあ聞くけど、薫。君はやっぱり美奈子さんが犯人じゃないと思ってるのか?」
僕にはさやかさんの推理とは別の答えがあるとは思えなかった。なにしろ全員にアリバイがある以上、美奈子さんが入り江から撃ったということは唯一の可能性に思えたからだ。
「まあ、たしかにいかにももっともらしいよね。だけどよく考えたらやっぱり変だよ、一郎君。もし君が美奈子さんだとしたらあんな方法をとるかい?」
薫はベッドに大の字に寝っころがりながらいう。もっとも今度は僕を誘ったふりをしてからかうつもりはないらしい。顔が真剣だ。
「どうしてさ? あの方法のいったいなにがだめなんだよ?」
「だめだなあ、一郎君。すこしは考えてくれよ。だってこの嵐だよ。海面は波で揺れているし、雨で視界は悪いし、横殴りの強風だって吹いている。しかも夜で暗い。この状況で海面に浮かびながらポールを的確に撃つことができるかい?」
いわれてみればたしかにそうだ。海面から窓までは数メートルの距離がある。よくは知らないけど、ふつうの状況で撃ってもかならず当たるとはいえないような気がする。これだけ悪条件が重なれば外れる可能性のほうが大きいだろう。
「確かに僕には無理だけど、射撃訓練を積んでたんだよ、きっと」
「それにしたって無謀すぎるさ。もし外した場合、ポールは部屋に隠れて二度目のチャンスはないんだ。そればかりか犯人が自分であることがばれてしまうよ。だってあそこから撃てるのは美奈子さんしかいないって結論になるのは目に見えてるからね。第一、撃つ瞬間をレストランやダイビングショップから見られるかもしれないじゃないか? あまりにも危険な賭けだろ?」
薫のいうとおりだ。その方法は成功率が極めて低い上に、失敗した場合のリスクが高すぎる。たしかにおかしい。美奈子さんが犯人だとしても、もっと確実な方法がいくらでもあるだろう。
「たしかにそうだね。じゃあ、他に誰か真犯人がいるっての?」
「それがよくわからないんだ。だって全員のアリバイは完璧。可能性としては見知らぬ第三者が犯人で島のどこかに隠れているってことなんだけど……」
「え? でも、さっき洋子さんが海から近づくのは無理だって……」
「ま、それ以外にも可能性はあるじゃないか? プールのほうとか、建物の屋根とかにひそんでて、ポールが窓から顔を出したとき、横から撃ったとか、真上から撃ったとか。べつにポールは窓から下を見てたとは限らないんだし」
「なるほど。それならべつに犯人は見知らぬ第三者って可能性も……」
僕は思わず手を叩いた。
「だけど、それもどうかな?」
「なんで?」
「だってそうじゃないか? もし第三者が犯人ならなにもよりによってこんな嵐の日に殺すと思うかい? 別の日だったら殺したあと、こっそりとボートで逃げればいいのに。なにも逃げ場のなくなる日を選んで決行するわけがないじゃないか」
たしかにそうだ。この嵐では船で逃げ出すことは不可能。この嵐の中、島のどこかに隠れてているのは心理的にかなり苦しいだろう。
「それに外部の人間なら、スタッフに見られずにホテルに近づくことすら無理があるじゃないか? 第一ポールは昼間、外に散歩に出ていたのにわざわざ部屋に戻ってからやるなんて馬鹿げてるよ」
「じゃあ、どういうことなんだ?」
「わからないよ。まだね。でも真相はきっと他にあると思う。ただ、今回の真相は誰にも思いつかないような異様な形態をしてるのさ」
「異様な形態をした真相? なんだそりゃ?」
「それを今から考えるんじゃないか。ちょっと長考タイムに入るから、しばらく話しかけないでくれ」
薫はそういうと、口を開かなくなった。
こうなるとしばらくはなにもしゃべらないに違いない。
僕は風呂に入ることにした。
バスルームにバスタブはなくシャワーのみだ。フィリピンではこれが一般的らしいが、不満なことこのうえない。やはり日本人なら湯船にゆったりとつかって一日の疲れを癒したい。
バスルームに入ると、置いてある籠に脱いだ服を投げ入れ、シャワーのお湯を出した。
「ぎゃああああああああ」
お湯が体に降りかかったとき、僕は思わず叫び声を上げた。
熱かったからではない。降り注がれたシャワーのお湯は真っ赤な色をしていた。
まさに血の色。
しかもまだ熱くなく、かといって冷たいわけでもない。生ぬるく赤いお湯はまさに血としか思えない。
「なんだ、どうした?」
「なにごとだい、一郎君?」
さやかさんの叫び声と、薫の叫び声が二方向から同時に聞こえた。
「血だ。血のシャワーだ」
僕は全裸のまま叫ぶと思わずバスルームから飛び出した。
目の前には薫。さらに鍵が掛かっていたはずのドアが開き、さやかさんと島田さんが飛び込んできた。合い鍵を使ったらしい。
「ぎょえええええええええ!」
僕はもう一度絶叫する。全裸姿を薫とさやかさんに見られてしまった。
「なんだ、素チンを見られたくらいで大げさだな」
さやかさんはクールにいいはなつと、ドアに掛かっていたバスタオルを放る。僕は一心不乱にそれで体を隠した。
それにしても素チンですか? まったくもって興味もなさそうだし……。
「な、なんだよ、一郎君。だ、だらしないな」
意外にも薫が顔を真っ赤にして、そっぽを向いた。それを見てなおさら恥ずかしくなる。
「で、どうした?」
一方、なにごともなかったかのように、さやかは聞く。僕はシャワーを指差した。
お湯はまだ出ていたが、色はさっきよりも薄れている。
「血? いや違うな。血の匂いじゃない。絵の具だ」
さやかさんはそういうと、お湯を止め、シャワーの先端のノズルを外すと、僕の前に突き出した。中にはチューブからしぼり出した赤い絵の具が溶けかかった状態で残っていた。
「悪戯だ。ここを外して赤い絵の具を入れておいただけだ」
「悪戯? 薫、君なのか?」
思わず薫を睨みつける。
「冗談じゃないよ。ボクはそれほど暇人じゃない。事件を推理するのに忙しいんだ」
「じゃあ、いったい誰だ?」
「犯人に決まってるじゃないか」
薫はいい切った。
「なに?」
「だってほら、犯人からの警告が浮かんでいるじゃないか」
薫は鏡を指差す。お湯で曇った鏡には血のような真っ赤な字で『よけいなことをするな』と書かれていた。ところどころ垂れて、不気味なことこの上ない。情けないことに、今の今までこんなものが書かれていることに気づかなかった。
薫は鏡に顔を近づけ、くんくん匂いを嗅ぐと、「これも絵の具だね」とつまらなそうにいう。
「どういうことだ?」
さやかさんは叫ぶ。
「犯人は美奈子さんじゃないって、ボクが思ってるからだよ。真犯人を見つけ出そうなんてことは考えるなっていう警告ってところね」
「馬鹿な?」
さやかさんは吐き捨てるようにいった。
「こんなことをすれば逆効果だろうが? ほっときゃ、みんな美奈子が犯人だと思ってるはずだ。それとも犯人は馬鹿なのか?」
たしかにさやかさんのいうとおり。
「まあそうだけど、犯人も焦っててあと先考えなかったのかもね」
薫の説明に、さやかさんは納得のいかない表情だ。
「あたしの推理にけちをつけるために、おまえがやったんじゃないんだろうな?」
「冗談。ボクがそんな馬鹿なことをすもんか」
薫は心外だといわんばかりだ。
「そんなことより島田さん、ボクたちが美奈子さんの部屋に行ってる間、誰かが忍び込んだってことはないの? たしかドアには鍵は掛けてなかったはずだし」
薫が聞く。たしかにあのときはここには島田さんがいた。
「いえ。誰もそんなことはしていませんよ。それにあのとき、ここには私以外に、受付と売店のスタッフが残っていました。べつに薫さんたちの部屋のドアを見張ってたわけじゃありませんけど、誰かがエントランスホールから入ってくればすぐにわかります。同様に私たちが展望レストランに行ったときも、ここには現地スタッフが残ってましたし」
そういえばたしかにそうだ。じゃあ、他に誰がこんなことをできるんだ?
なんにしろ、バスタオル一枚で薫やさやかさんの前にこれ以上いるのは耐えられない。
僕はみながあれこれ考えている隙に、洗濯物入れのかごをもってバスルームの外に出ると、着替えた。そのとき、なにげなく外を見ると恐ろしいものを見てしまった。
何者かがバルコニーから中を覗いていた。
ほんの一瞬だったので、誰なのかはわからない。男なのか女なのかすら判断付きかねた。
しかし何者かが一瞬、中を覗いたのは間違いない。
覗いていた位置はけっして高くはない。子供でないとすれば、しゃがんでいたか、はいつくばっていたか。いずれにしろ普通に立ってはいなかった。
ま、まさか……。
僕は不覚にも、人魚が立つことができず、魚の下半身を床に投げ出しながら、部屋を覗いていることを想像してしまった。
じょ、冗談じゃない。た、確かめなきゃ……。
ふらふらとバルコニーに近づいていく。
「ちょっと、一郎君、なにする気だい?」
ちょうどバスルームから出てきた薫が不審げに聞く。
「なにかがいた。なにかがいたんだ」
僕はそういうと、バルコニーに出る引き戸を開け外に顔を出した。
外は相変わらずの嵐。雨が吹き込んでくる。
予想に反し、バルコニーにはなにもいなかった。しかし首を横に向けたとき、僕は恐ろしいものを見た。
一軒飛ばして向こうの部屋のバルコニー。美奈子さんの部屋のバルコニーだ。
そこにいた。
長い髪を嵐で振りかざした女が。
顔は良く見えない。暗い上に雨で視界が悪く、おまけに髪が顔に掛かっている。
下半身はバルコニーの手すりに隠れていた。この手すりは格子状になっていないので手すり越しには見ることはできない。やはりかがんでいるのか、上半身は肩しか見えなかったが、身になにもまとっていないような気がする。
裸の女が髪を振り乱し、バルコニーから美奈子さんの部屋の中を覗いている。
伝説では、人魚はバルコニーから主人とその新しい恋人を覗いていた。憎悪の念を込めながら。
ラニ?
反射的にそう思った。
その女の口元が見えた。
笑っている。たしかにその女の口は笑っていた。
「ぎゃあああああああああああああああああ!」
僕は三度目の絶叫をした。
「おい、今度はどうした?」
僕は部屋に入り、扉を閉めると、飛び込んできたさやかさんに向かって叫んだ。
「ラニ。ラニがいる。ラニがバルコニーから美奈子さんの部屋を覗いている」
「な、なんだと?」
さやかさん、それにつづいて薫がバルコニーに出た。
「なにもいないぞ」
そんな馬鹿な。間違いなくいた。
「今の叫び声で、手すりの陰に隠れたんじゃないのかい、一郎君?」
薫が至極もっともなことをいう。
さやかさんは舌打ちすると、部屋を飛び出した。僕たちもそれに続く。
「美奈子、いるのか、返事をしろ」
さやかさんは美奈子さんの部屋のドアを叩いた。
「きゃああああああああああああああ」
部屋の中から絶叫が聞こえた。恐怖と絶望が入り混じったような声だった。
その直後、美奈子さんの部屋から銃声が鳴り響いた。
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