第三章 人魚の伝説


   1


 僕たちはそろってホールに戻る。設置されたテーブルの上には料理がのったままになっていた。

「警察はやはりあしたの朝以降しかこれませんね」

 警察に連絡を取るために残っていた島田さんがみなに説明する。

「まあ、食事をする気分ではないと思いますが、もし食べられるのでしたら遠慮なさらずにどうぞ」

 そういわれても、当然食欲などまったくない。

「なにをつったってるんだい、一郎君。食べようじゃないか」

 薫はそういって席に座ると、皿に取っておいた魚料理をむしゃむしゃと食べはじめた。

 うわっ、信じらんない、こいつ。

 さやかさんもどかっと座ると、張り合うようにばくばくと食べ始めた。いや、ほんとうに張り合ってるのかもしれない。

「うわあ。おいしそうですねぇ」

 そういって、ポチ子も続く。どうもこのへんは一般人とは頭のねじのゆるみ具合がちがうらしい。

 いずれにしろ立っていてもしょうがないので、僕も席に着く。さすがの高橋夫妻もこのノリにはついていけないらしく、あきれ顔で座った。

「島田さん、洋子さん、あんたらも突っ立ってないで座ったら」

 さやかさんがふたりにいう。

「いや、ここはお客様の席ですから」

 島田さんの言葉に、さやかさんは「気にするなよ」と返した。

「そんなこといってる場合じゃないさ。いろいろ聞きたいことがある。長くなりそうだ。いや、座る前にホテルのスタッフ全員呼んできてくれないか?」

「事情聴取ですか?」

「まあね。……いや、あたしに捜査権がないのは重々承知してるけど、とりあえずあした現地の警察が来るまで誰かがまとめる必要があるしね。本来、支配人のあんたの役かもしれないけど、こんな経験はないだろう? あたしはこれでも警察に立ち会ってこういう事件に関わったことがあるんだ」

「そうしてください。私の手にはあまります」

 薫がここでしゃしゃり出ないかと思ったけど、お手並み拝見といわんばかりの顔で沈黙を貫いた。案外、仕切るのは面倒なのかもしれない。

「じゃあ、みんなあたしのいうとおりにしてもらおう。こんな小さい島で殺人事件が起こったんだ。誰が犯人かは知らないが、いずれにしろ近くにいるはずだ。ひとりにならないほうがいい。全員集めよう。あんたの娘にも来てもらおうか。ひとりで部屋に閉じこもってるのはかえって危険だからね」

「わかりました。洋子さん、みんなを集めてくれ」

 島田さんは洋子さんに命ずると、自分は綾の部屋に向かった。

「ポチ子は洋子さんについていってやれ」

「はいっ」

 ポチ子は警官のようにびっと敬礼すると、洋子さんと一緒に出て行った。

 さやかさんはそれを確認すると、ふたたび食べはじめる。薫もそれを見て、負けじと口につめこんだ。

 緊張感のないふたりだが、僕の鼓動は明らかに高鳴ってきた。たしかによく考えれば、さやかさんのいうとおり、殺人犯が身近にいるのだ。少なくともこの小さな島の中に。最悪の場合、今この部屋の中になに喰わぬ顔をしている。

 じょ、冗談じゃないぞ。なんで、僕がこんな目に?

「どうしたんだい、一郎君。まるで事件に巻きこまれた不幸を嘆くような顔をして。ほんとうはわくわくしてるくせに」

「不謹慎なことをいうな!」

 薫は僕の一喝を受け流し、ほんとうにわくわくした顔でにやついている。

 まもなくすると、島田さんが綾を連れてきた。肩にはチンパンジーのオサルが乗っている。少し遅れて、洋さん子がスタッフを連れてくる。例の双子のメイド、ヨヨ、それに料理人二名、プールのバーのスタッフ、ダイビングのスタッフ二名、雑用のボーイ、それにはじめからここにいる受付のお姉さんと売店のおばちゃん。

 美奈子さんはビキニの水着のまま、器材を入れたダイビングバッグを担いで入ってきた。

「ちょっと待って、すぐ来る」

 そういい残し、そのまま自分の部屋にいったん戻ると、手軽になって出てきた。

「これで全員か?」

 さやかさんが確認すると、島田さんがうなずいた。

「よし、席に着いてくれ」

 さやかさんがいうと、現地スタッフたちは適当に椅子を準備して、少し離れたところにまとまって座った。島田親子と洋子さんも客の中に同席した。

「まずなにが起こったかまだ知らない者もいるので、それから説明する。日本語のわからないスタッフには、わかる者が教えてやってほしい」

 さやかさんが厳かな顔でいう。

「ポールが自分の部屋で射殺された」

 とたんにざわめいた。とくに現地スタッフたちが自国語でなにやら話し出す。

「ちょ、ちょっと、いったいどういうことなの?」

 はじめて事実を知った美奈子さんは、青ざめた顔でさやかさんに食ってかかる。

 さやかさんが発見時の状況をくわしく説明すると、騒ぎが大きくなった。

「伝説の人魚、ラニの呪い……」

 双子のメイドが声をそろえて、恐ろしげな顔でつぶやく。

「ちょっと待て。女子高生、君もさっきなんかいってたな? その伝説では人魚はどんな事件を起こすんだ?」

 さやかさんが挑戦的な目で薫を見る。

「ふふふ、ようやく君の出番だよ、一郎君。もちろん宿題は終わってるよね」

「あ、ああ。ちょっと待ってて」

 僕は部屋に戻ると、薫が拾った日記と、訳文を書いたノートを持ってきた。

「さあ、それを読むんだよ、一郎君」

 薫の顔は期待に満ちあふれている。いや、どうやら自分で英文を読んで内容は知ってるはずだから、僕がどう立ち回るのかをおもしろがってるのかもしれない。

 これでも僕はミステリー作家志望の端くれだ。この訳もちょっと小説風に訳している。

「じゃ、じゃあ、この日記にどんなことが書かれていたか、発表します」

 僕は咳払いをひとつすると、訳文を読み始めた。


   2


 あなたは人魚というものをご存知でしょうか? そう、下半身は魚で、上半身は女の姿をしているといわれている生き物です。もちろん、あなたはそんなものは実在しないと思っておられるでしょう。しかしそれは間違いです。今はともかく少なくとも過去には存在しました。あなたはそんな馬鹿なとおっしゃるかもしれません。しかし私は見てしまったのです。人魚の姿を。

 私はとある島に住んでいました。ホテルが一軒あるだけの小さな島です。

 私はそこで働いていました。そんな小さな島にホテルが一軒だけあってどうなるのだとお思いになるかもしれませんが、そこは自然に恵まれ、とくに海の豊かさでは群を抜いていました。海の水は澄み、一年中暖かく、島の周りにはそれこそ足の踏み場などまったくない一面の珊瑚礁、そして色とりどりの魚たち。それはそれは宝石のような海だったのです。そしてイルカの楽園でもありました。島からそれこそ飽きるほど毎日、イルカが飛び跳ねるのが見えたものです。ですからそういうものを求めてくるお金持ちのお客様は少なくありませんでした。

 当時は今のようなダイビング器材などというものはありませんでしたが、私もその頃はまだ若く、仕事の合間によくイルカといっしょに泳いだものでした。

 ある頃から私たち従業員の間である噂が流れ始めました。イルカの中に人魚が紛れているというのです。見たという者の数は日に日に増えていきました。ある者はイルカとともに水面をジャンプしていたといい、ある者は泳いでいると水中で顔を合わせたといい、ある者は海面を何気なく眺めると海中を移動する姿を見たといいました。もちろん私は半信半疑でした。なぜなら私自身は一度も見ることがなかったからです。

 きっと錯覚だろう。人魚人魚と思うからイルカが人魚に見えたのだ。

 そう思っていました。常識的な人間ならばそう思うのが当然でしょう。私もその例に漏れなかったのです。

 しかしある夜、もう深夜といってもいい時間でしたが、私は寝付かれず、部屋を抜け出してなにげなく外を散歩していると、海辺の岩の上に人影を見たのです。はじめは従業員の女かと思いました。しかし良く考えてみると変です。いったいなぜこんな夜に海に入っているのか? そんな酔狂な女がいるとは思えませんでした。逢い引きにしては男の姿がありませんでしたし、そもそも海の中で逢い引きなどしないでしょう。

 いったい誰なのか確かめようと、見つからないようにこっそりと近づいてみました。

 見たこともない女でした。まだ十七、八の若い女です。しかしなんといいましょうか、妖しいまでに美しいというのがこれほどまでに当てはまる女がいることを、私は今まで知りませんでした。さらりとした長い髪、愛らしい瞳、高い鼻筋、ふっくらとした唇、そして魅惑的な胸の膨らみを月明かりの下に晒していたのです。

 そう、女は裸でした。私は当時血気盛んな年頃の男。女神のような美しさの裸女に興奮しないわけがありません。

 胸が高鳴りました。どうしてこんなところにこのような美女がいるのかということには気にならず、ただただその美しさに魅了されるばかりでした。

 しかし私は視線を下半身に落としたとき、とんでもないことに気付きました。そうです。その女の下半身は人間のものではなかったのです。

 そんな馬鹿な?

 信じていなかった人魚がここにいる。その衝撃に私は頭を殴られたような気さえしました。声を出さなかったのが不思議なくらいです。まさに魅入っていたのでしょう。今までみなほんの一瞬しか見ていない人魚の姿を、そのままずっと眺めていたいと思ったのです。

 見れば見るほど美しいと思いました。なぜか恐ろしいとは思いませんでした。そのアンバランスな体が匂い立つような官能と同時に妖気を放っているというのに。

 やがて人魚は振り向いて、私の方を見たのです。その美しい顔に一瞬、当惑の表情が浮かびましたが、すぐにそれは悪戯っぽい笑みに変わりました。そしてまるで私を誘うかのように海の中に帰っていきました。私は一瞬、ついていきたいと思いました。しかしわずかに残った理性がかろうじてそれを押さえたのです。なにせ相手は魔物、たとえどんなに魅力的であろうとも魔物なのです。いや、だからこそあのように美しいのでしょう。そんな魔物を追って夜の海に入るのはあまりにも無謀というものです。私は誘惑を断ち切るように自分の部屋に逃げ帰りました。

 その夜、私は人魚の夢を見ました。あの官能的な人魚と夜の海の中で愛し合う夢です。なぜか海の中でも息ができ、人魚と抱き合いながら、海の底へ、底へと潜っていくのです。夢を見ている間は心がとろけるほど楽しかったのですが、次の日目が覚めると、恐ろしくなりました。つまり私は人魚に取り憑かれてしまったのではないかと思ったのです。

 私は堪らずホテルの主人に相談しました。主人といっても私とあまり年の変わらない若者で、アメリカの白人です。私とはくらべものにならないような色男で、おまけに金持ちでしたが、えらぶらず、海を愛し、下のものの面倒をよく見る人でした。

「なんだ、その噂は知っているが、おまえまでそんなことをいうのか?」

 主人はそういって笑いました。他のものは一瞬見ただけで錯覚かもしれないが、私はじっくりと観察した上であれが人魚だと判断したと、必死で訴えました。

「わかったわかった。そこまでいうのなら、同じ時間に同じ場所に行ってみよう。俺も興味があるしな」

 そういって約束してくれました。どこまで信じていたのかはわかりませんが、もし主人までもが見れば、人魚は噂ではなく事実としてこのホテルでは定着することになるでしょう。その結果どういうことになるのかはわかりませんでした。

 その日の夜、私はきのうの場所の近くにこっそりと隠れていました。今度は見つからないように充分に気を使って。

 するとやはり現われたのです。人魚はきのうと同じように岩に腰掛け、髪を梳いていました。私はきのうにも増して心ときめきました。

 しばらくすると主人がこっそりとやってきました。私との約束を果たしてくれたのです。主人に内緒でここに隠れていたので、主人は私には気付きません。しかし人魚には気付いたようです。主人の顔には明らかに驚きの表情が浮かんでいました。そしてそれはすぐに美しいものを魅入る顔に変わりました。私はすこし複雑な気持ちになりました。私のしたことは主人を悪しきことに巻き込んでしまったのではないかと考えたからです。

 人魚は主人が見つめていることに気付いたようです。きのう私にくれたような笑みを浮かべ、水の中に飛び込みました。すると驚いたことに主人は服を脱ぎ捨て、人魚を追ったのです。

 夜の海に入る主人を見て、恐ろしくなりました。なにかとんでもないことをしてしまったのではないか、そう思いながらも一歩も動けません。体を張って主人を止めることなど考えもつきませんでした。

 私の軽率な行動が主人を海の底に引きずりこんでしまった。

 そう思ってしまったのも当然でしょう。主人はしばらくたっても海に潜ったまま上がってこないのです。おそらく昨夜の夢のように主人は人魚と抱き合いながら海の底に向かっていったに違いありません。

 なんということをしてしまったのでしょう。私はただ海をいつまでも眺めながら、がたがたと震えているしかありませんでした。

 しかし意外なことにしばらくすると海から主人が上がってきたのです。まるでなにごともなかったかのように平然と岸に上がると服を着て部屋に帰っていきました。その顔には恐怖も苦痛も感じられず、むしろ爽快感すら浮かんでいるようでした。

 その顔を見て、はじめて恐怖から解放され、同時に主人に対して嫉妬しました。

 私は余計なことを考えすぎたのではないか? 主人のように欲望の赴くままに人魚を追いかけるべきではなかったのかという後悔です。

 きのうの夢は、人魚がテレパシーで誘っていたのではないか? あの甘美な体験を主人は現実のものにしてしまったのではないか? 私はそのチャンスをみすみす主人に譲り渡してしまったのではないか?

 そう思うと、いてもたってもいられませんでした。ほんのわずかな勇気がなかったために、大きなものを逃がしてしまったのではないかと思えてしょうがないのです。その日はおのれの愚かさを呪い、ろくに眠ることすらできませんでした。

 次の日になり、主人は信じられないことをいいました。

「おまえのいう通りにしたが、やはり人魚など現われなかったぞ」

 耳を疑いました。あのことを隠そうとしているのか? あるいは人魚の魔力で記憶を失ってしまったのか? いずれにしろ、人魚に出会ったことは認めませんでした。私は納得がいかず、また得体の知れない不安に取りつかれ、その日から探偵の真似事をする羽目になったのです。

 また夜になると、こっそり外にでて姿を隠し、海を張り込みました。その結果とんでもないものを見てしまいました。その日も同じように現われたのですが、あの人魚に脚が生えていたのです。人魚に脚が生えた、不思議ないい方ですが、そうとしかいえません。あの人魚の姿さえ見ていなければ、魅力的な裸女が海から現われたとしか思わなかったでしょう。しかしあの姿を知っている私にとって、それは脚の生えた人魚以外の何者にも思えませんでした。

 人魚はその姿で海から上がり、ホテルの中に入っていきました。私としてはこっそり後を追うしかありません。人魚はそのまま主人の部屋に入っていきました。

 神に誓って、その日まで覗きのような下劣な真似などしたことがありませんでしたが、覗かずにはいられませんでした。いったいあの人魚はなにをしようとしているのか? 確かめずにはいられなかったのです。

 私は外に回り、窓から主人の部屋を覗きました。中では恐れていた通りことが繰り広げられていました。

 主人と愛し合う人魚。主人は「ラニ、ラニ」と呼びながら、人魚の体を貪っていました。ラニとは人魚の名前なのでしょう。

 そのとき、私に湧き起こった感情は恐怖などではありませんでした。

 嫉妬です。それも殺意に似た激しい嫉妬でした。きっとそのとき、誰かが顔を見たならば鬼のような形相に恐れをなしたことでしょう。狂おしい嫉妬の炎が私の体を焼きつくしていきました。

 ああ、なんて間抜けだったのだろう。少しの躊躇のせいで、あのような魅力的な女をみすみす主人に渡してしまった。本来ならあの魅惑的な体を貪っているのは私のはずだったのに。

 そう思うと気が狂いそうでした。しかし私はふたりの情事を見ずにはいられませんでした。胸を掻き毟りながらも互いにかわす情熱的な愛撫を目に焼き付けていたのです。

 この日を境に私は下劣な覗き魔になり下がりました。いけないことと思いつつ、またそんなことをしても嫉妬が激しく燃え盛るばかりだと知りつつも、取りつかれたように主人とラニの情事を盗み見ることを止められなくなったのです。それはまさに人魚の魔性の仕業としかいいようがありません。

 また昼間に海で人魚を見たという話もさらに頻繁に行われるようになりました。つまりラニは昼間は人魚として出没し、夜になると人間の姿に変わり主人を訪ねるという二重生活を始めたということでしょう。

 もはやホテルの人間の間では、人魚が実在することは確かな話として定着していました。しかしその人魚が夜になると人間に変わるということを知っていたのは、主人の他は私以外にいなかったはずです。主人が秘密にしている以上、仲間にそのことをいうことはできませんでした。仮にいったところで誰も信じてくれないでしょうし、そんなことをすれば主人から疎まれることは間違いなかったでしょう。

 私が覗き魔になりさがったのには、嫉妬以外にそういう思いもあったのかもしれません。つまり保身のために口をつぐんだというやましさや、秘密を打ち明けたくても打ち明けれない葛藤を覗きで晴らしていたのかもしれません。

 いずれにしろ、しばらくの間、私の覗きは続き、主人と人魚の逢い引きも続いたということです。しかしそれはやはり異常なことだったのでしょう。長い間は続きませんでした。主人の婚約者という女性が島にやってきたのです。

 彼女は親同士が決めた婚約者とはいえ、それはそれは美しい女性でした。サリナという白人女性で美しいだけでなく、頭が良くて経営を学んだやり手でもありました。主人はたちまちサリナ様に心を奪われ、サリナ様も主人を生涯の夫と決めたようです。その結果主人はラニを遠ざけ、私の覗きの癖もそれを境にぴたりと収まってしまいました。ラニの場合と違って、サリナ様には美しい女主人という以外には特別な感情を持てなかったからでしょう。

 サリナ様は主人とは違い、自然を愛するよりもまずお金、経営のためならば自然を破壊することさえいとわない人でした。そして従業員が噂する人魚を自分たちを害する魔物と決め付け、退治しようとまで考えたようです。

 そのため、サリナ様は近くの島の漁師に漁業権を売り渡し、島の魚やサンゴの採取を許可したのです。主人はそれまで海と自然を愛し、この島の美しさを永遠に残そうと考えている人でしたが、サリナ様に骨抜きになった今では、もはやサリナ様の横暴をとめようとは考えもしないようでした。

 その結果、ラニは昼間島に近づくことすらできなくなり、夜は夜で主人の体を完全にサリナ様に奪われた結果になったのです。果たして魔物が人間の女に愛しい人を奪われ、みすみす指を咥えて眺めているでしょうか? 私は徐々になにかとんでもないことが起きるのではないかという不安が膨れ上がってくることを感じずにはいられませんでした。

 ある夜、久しぶりに外に出ると、海辺からしくしくという女の啜り泣きが聞こえてきました。そちらの方を見てみると案の定、ラニでした。ラニは主人の愛を失うことで魔力も失ったのか、人魚の姿のままで岩に腰掛け、泣いていたのです。

「うらめしい。うらめしい」

 悲しみと嫉妬と恨みのこもった声で何度もそうつぶやいていました。

 私はこの時点でもまだラニを愛していました。不謹慎にもこれはチャンスだと思いました。悲観にくれたラニに優しい言葉をかけ、自分のものにするチャンスだと。

 勇気を奮い、声を掛けました。もう二度と下らない躊躇のために宝を逃すような真似はしたくなかったからです。

「あなたなどに用はない」

 しかし非情にもラニはそう答えたのです。なんという仕打ちでしょう。主人さえいなければ私のものになっていたはずのラニの言葉とは思えません。

「あの女はわたしから男を奪っただけでは飽き足らず、この海を死にいたらそうとしている。許すことはできない」

 そういってまた泣くのです。私など眼中にはないということなのでしょう。ひたすらサリナ様にたいする恨み言を口にするばかりなのです。

「そこまでいうのならこれから部屋までいって主人を奪えばいいではないか」

 思わずそういってしまいました。まさに嫉妬のなせる業です。

「そうだ、そうしよう」

 ラニはそういうと、海に入り、主人の部屋の方まで泳いでいきました。主人の部屋のバルコニーは海に面していますから、おそらくそこから中に入るつもりなのでしょう。

 私はラニを焚き付けたことを少し後悔しましたが、同時にこれからいったいなにが起こるのか見逃すことはできませんでした。ラニが捨てられて以来、ぴたりと止まっていた覗きの欲求が再び湧いてきたのです。

 気がつくと、壁に張りついて窓から中を覗いていました。

 主人とサリナ様が愛し合う姿を覗くのは初めてのことです。主人とラニが求め合う姿を見たときに比べればなんという感慨もありませんでした。私が見たいのはふたりの姿などではなく、ラニがいったいなにをしでかすか、ということです。

 突然、バルコニー側の壁がどんどんと叩かれました。ラニが海から這い上がってきたのです。

「あああ、どうして私の目の前でそのようなことをするのです。わたしと愛し合った日々は偽りだったのでしょうか?」

 そのときの主人の驚きようといえば、滑稽ですらありました。逆にサリナ様は極めて気丈な態度を取りました。

「おまえが魔性の人魚か? わたしの愛しい人を誘惑していたとは知らなかった。おまえなどに用はない。この人はわたしが幸せにするからおまえは海に戻れ。命が惜しかったら二度とここに来るではない」

 そういいながらつかつかとバルコニーまで歩いていき、ラニを打ち据えました。なんという気丈な女性なのでしょう。

 海の中ならともかく、陸上では魚の下半身のままではなす術がありません。ラニはなんの抵抗もできずサリナ様に打ち据えられるしかありませんでした。

「あああ、悔しい。海の中ならばおまえなどに負けないのに。悔しいけれどいまのわたしには魔力がない。しかし満月の夜ならば魔力が戻り人間の姿に戻れようぞ。次の満月の夜、目にものを見せてくれる」

 目に涙を溜め、唇をかみながらそういうと、ラニは海の中に飛び込んでいきました。

 サリナ様は青い顔で震えている主人を抱いていいました。

「いいのです。あなたは魔物にたぶらかされていただけ。なにも恐れることなどないのです」

 意外にもサリナ様はラニと関係のあった主人を許したのです。愛とは別の打算があったのかもしれませんが、それは私ごときには計り兼ねることでした。

 その後、ふたりは激しく愛し合いました。ラニのことが起爆剤になったかのような異常なまでの激しさで。

 私は急激に興味を失い、部屋に戻りました。しかし眠れませんでした。気になってしょうがなかったのです。

 いったい次の満月の夜にはなにが起こるのだろう?

 次の満月まであと何日もありませんでした。私がそう思うのも当然でしょう。

 そして満月の夜になりました。その日は午後から雨が降り出し、風も出てきて海は荒れ、暗くなるにつれそれは酷くなっていったのです。

 日が暮れるとまさに嵐になりました。台風でもないのに滝のような雨、荒れ狂う海、耳障りな風の音、そして時折稲光が夜空の雲の形を照らし、雷鳴の轟きが耳に響きます。空を見上げると星は雲に隠れ、まったく見えないにもかかわらず、満月だけが雲の隙間から顔を出しているのです。

 はっきりと確信しました。ラニはきょう来ると。

 自分の仕事が終わると、他の従業員たちに気付かれないようにして、この嵐の夜に外に出ました。もちろん外から主人の部屋を覗くためです。もちろん主人は私がきょうのことを知ってるとは思っていません。私が覗き見していることなどまったく気付いていないのですから。

 全身に雨と風を受けながら、主人の部屋の外の壁に張りつきました。そして窓から中を覗くと、主人とサリナ様はなにやら真剣な眼差しで話し合っています。主人は手に拳銃を持っていました。ふたりとも今夜ラニがやってくることを覚悟しているのでしょう。

 不意に海の方から心臓に氷を押し当てられたような冷気を感じました。振り向くと黒い海の中から全裸のラニが現われたのです。満月の力で妖力を取り戻したのか、ラニには脚が生えていました。海から上がるとゆっくりとこちらの方に近づいてきます。荒れ狂う風に長い髪は乱れ、全身から禍々しい妖気を放ち、あたりは真っ暗なのに雲から現われた月がスポットライトのようにラニを照らすのです。

 そこにいるのは私が恋焦がれたラニではありませんでした。つり上がった目は爛々と燃え、顔色は蝋のように白く、不気味な笑みを浮かべた唇は耳元まで裂け、そこから吐く息は腐った魚のように生臭い。まさに妖怪としか思えない恐ろしさです。

 恐怖のあまり、体がまったく動きませんでしたが、ラニには私の姿が見えているのかいないのか、こちらには目もくれず外壁に両手をつけました。

 信じられないことが起こりました。ラニの体が壁を通り抜けていったのです。

 まず手が吸い込まれ、続いて顔、そして体が壁を通り抜け、主人の部屋の中に入っていくのです。

 中から悲鳴が聞こえました。当然でしょう。まさか壁をすり抜けて入ってくるなどとは夢にも思っていなかったでしょうから。私はふたたび窓に張りつかずにはいられませんでした。主人もサリナ様も明らかに脅えていました。主人も銃をラニに向けながら震えています。

「あなたはなぜそんなものを私に向けるのですか? この女にそれほど心を奪われたというのですか?」

 ラニは一瞬もとの美しい顔に戻ると、やさしく銃を掴みます。主人は金縛りにでもあったかのように、なにもできませんでした。

「なにしてるの? 早く撃って」

 サリナ様が叫びます。主人は必死に引き金を引こうとしているらしいのですが、震えるだけで指が動くことはありませんでした。

「そう、撃とうとしたのね。この女のいいなりになって」

 ラニはふたたび妖怪の本性を現すと、主人の固まった指を強引に引き剥がし、銃を奪い取りました。そしてそれを主人の方に向けたのです。

「ひいいいい」

 凍ったように固まっていた主人が飛びのきました。まるでそれで弾をふせげるかのように、左手で顔を庇いながら。

 非情にも銃声は鳴り響きました。

 主人は倒れ、ベッドが鮮血に染まりました。弾は左手を貫通し、喉を貫いたようです。出血がそれを物語っていました。

「あ、ああ……あああああ」

 サリナ様はその姿を見て、必死に逃げようとしました。しかし腰が抜けたのか、まともに立つことさえできません。

「ああ、愛しい人を撃ってしまった。これも全部おまえのせいだ」

 ラニはサリナ様を睨むとそういいながら、銃を足元に落としました。足元には体から垂れた水が床に溜まっていて、銃はそこに落ちたのですが、不思議なことが起きたのです。水溜まりといっても床から数ミリ盛り上がっているだけのはずですが、銃はまるで海に落ちたかのようにぽちゃんと音を立てると、その水溜まりの中に沈んでいったのです。

 サリナ様は必死で手をばたばたと振りまわし、追い払おうとしていましたが、ラニはそんなはかない抵抗をものともせず、サリナ様の首を掴みました。いえ、正確にいえば両手で絞めたといっていいでしょう。そしてそのまま自分の方に引っ張り込んでいきます。サリナ様は死にものぐるいでそれをふりほどこうとしていましたが、そんなことでどうにかなるものではありませんでした。

 不思議なことにラニの脚は次第に水溜まりの中に埋もれていきました。私はその水溜まりが海に繋がっていることを直感的に理解しました。つまりラニはここからサリナ様を海の底に連れて行こうとしているに違いないのです。

「ひあぁあああ」

 サリナ様もそのことに気付いたらしく、必死で振りほどこうとラニの手首を掴みながらもわけのわからない奇声を発し、踏みとどまろうとします。しかしラニの体はすでに腰まで沈んでいました。さらに胸、首と海に繋がった床に埋没していき、ついには頭まで入ってしまいました。引き続き、サリナ様の顔が引き摺り込まれ、さらに体が。最後に残った脚だけがばたばたと水面で動いていましたが、それも水の中に消えました。

 まるで夢のようなできごとでした。部屋の中に残ったのは主人の死体と水溜まりだけ。しかもその水溜まりには人魚が来たことを暗示するかのように数枚の魚の鱗が煌めいていました。

 その直後、部屋のドアをドンドン叩く音が聞こえました。銃声を聞いた従業員たちが駆けつけたのでしょう。ドアには鍵が掛かっていたらしく、みなドアから入ることはできませんでした。

 すぐに彼らは外に回り、私のいるところにやってきました。まさかすべての事情を知った上で覗き見をしていたなどとは口が裂けてもいえません。

「銃声を聞いて駆けつけたが、そのときは犯人はいなかった」

 とっさに嘘をつきましたが、それを疑うものはいなかったようです。

 もちろん大騒ぎになりましたが、警察がやってきたのは次の日の昼ごろでした。この風と波のおかげでその日のうちに近づくことができなかったのです。もちろんその晩、私は一睡もできませんでした。目をつぶればラニが夢の中で私を海の底に引き摺り込んでいくような気がしたからです。

 次の日、サリナ様の死体が海の底で見つかりました。なぜか衣服を剥ぎ取られ全裸になっていたのです。警察の話では、浅瀬の珊瑚礁で髪の毛がサンゴに絡みついて浮くことができなかったようです。引き上げられたとき、さいわい時間が経っていなかったので死体は腐乱していませんでしたが、皮膚は死蝋のように青白く体中に付いた切り傷が無性に赤く目立っていました。さらに顔は恐怖と苦痛の為に歪み美しい面影はどこにも残っていなかったのです。あとにも先にもあのような恐ろしい顔は見たことがありませんでした。さらに喉には赤黒い手のあとがはっきりと残っていたのですが、さいわい誰もその手の型と一致しなかったので、私を含め、従業員が犯人扱いされることはありませんでした。不幸中の幸いというものです。

 結局この事件は未解決のまま終わったのですが、その後もサリナ様の生前の許可で魚を捕りに来た漁師が謎の死を研げるという事件が続出し、またその噂があっという間に広がりました。その結果、この島のホテルは封鎖せざるを得なくなり、誰も近づかなくなったのです。

 まもなく、主人を殺したのは人魚だという噂が広まりました。きっと従業員の中に私同様、夜な夜な主人と逢い引きをしていた女が、海で見た人魚と同じ顔だということに気づいたものがいたのでしょう。

 この島はもともと地元ではイルカ島と呼ばれていたのですが、この事件のあと、誰もその名前では呼びません。人魚の島、そしてまわりの海は人魚の海と呼ばれるようになったのです。

 そして誰もが人魚を恐れ、この島には近づかなくなりました。

 命が惜しければ、人魚の島には上陸するな。死にたくなければ、人魚の海では漁をするな。

 誰ともなくそういい出したのです。

 こうして島の自然はラニによって永遠に守られていくのでしょう。

 私はいつの間にか老人になってしまいました。最近良くない噂を耳にします。あの人魚の島に日本人が新しいホテルを作るとか。私は声を大にしていいたい。

 おやめなさい。かならず新しい犠牲者が出ます。

 なぜなら人間が住めば必ず自然は破壊されるのですから。ラニがそれを黙ってみているはずがないのです。


   3


 僕がそこまで読み終わると、薫は満足そうな笑みを浮かべた。

「どう? これがこの島の人魚伝説だよ。事件と一致するじゃないか」

 しばしの間、誰もが沈黙した。

 訳した僕自身、事件のあとにこれを読むと、ようやく異常な事態を飲み込めた。

 冗談だろう? ほんとうに伝説のまんまじゃないか。

 伝説のホテルの主人は密室状態の部屋で、射殺された。その際、左手でかばったため、弾は左手と喉を貫通する。そして床に残っていた海水と鱗。さらには嵐の夜に海から現れる裸の女。

 思わず身震いする。違うといえば、伝説では部屋の中にいたもうひとりの女が、海の底に引きずり込まれるが、それがないくらいだ。

「つまり、犯人は伝説に見立てて殺人をしたのか? なんでだ? なんのためにそんなことをする?」

 さやかさんが苦悩のうなり声を上げる。もちろん誰も答えない。

「やっぱりさっき見たのは、……ラニなんだ。死んだラニ? いや、伝説のラニか?」

 ヨヨが明らかに脅えた声でいった。

「それだ、さっきからあたしが気になってるのは。海の中で人魚を見たといってたね。くわしく説明してくれ」

「そのままだよ。入り江の中に人魚がいた。人魚が泳いでいたんだ」

 さやかさんはいっしょに潜っていた美奈子さんを見る。

「ほんとに人魚かどうかはわからないわ。うねりで砂を撒いて透明度がかなり落ちていたし、ライトを当ててもすぐ視界から消えちゃったから。あたしはイルカだと思って喜んだんだけど」

「違う。人魚だよ、美奈子。そうに決まってる」

 常識で考えれば、イルカなのだろう。夜だし水が濁っていて視界が悪いとなれば、少し離れればその姿もよくわからないはず。ヨヨがそれを人魚だというのはたんなるは思いこみだ。

 そう信じたい。しかし、ポールの死に様や、亡霊を見たという洋子たちの証言のあとでは、それは気休めにしか思えなかった。

「ああ、ラニ。可哀相なラニ。早く天国に行って」

 双子のメイドは生前ラニとは仲がよかったらしく、泣きながら互いを見つめ合った。

「ね、ねえ。それってこういうこと? つまり死んだラニが、海に現れて、あたしたちが見たあと、壁をすり抜けてポールの部屋に行った。そこでポールを撃ち殺したあと、海に戻って人魚の姿に戻って逃げた。そういうことなの?」

 さっちゃんが、めずらしく真顔でいう。

「いくらなんでもそんなことあるわけないだろう」

 さやかさんが不機嫌そうにいう。

「じゃあ、いったいなにが起こったのか説明できるの?」

 さっちゃんはさやかさんを睨み付けた。

「そ、それは……」

 さやかさんは沈黙した。なにが起こったかなんてわかるはずもない。

「だいじょうぶです。さやか様に任せておけば、たちどころに解決しますから」

 ポチ子がふんぞり返って胸をぽんと叩いた。

「ふふふ、さやかさんに解決できるかどうかはともかく、これから謎を解き明かすんじゃないか。みんなから事情を聞いてね。ポチ子君には気の毒だけど、はっきりいってボクのほうがさやかさんより早く真相にたどり着けると思うよ」

 薫が名探偵気取りで、じつに楽しそうにいい放った。

「むむぅ。そこまでいうなら勝負です、薫ちゃん。どちらが先に真相にたどり着くか。さやか様が負けるはずがありません。ねえ、さやか様」

 ポチ子と薫の間に火花が散った。

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