第五章 海に引きずり込まれる女


   1


「島田さん、美奈子の部屋の合鍵を持ってきてくれ」

 さやかさんは叫んだ。

「わ、わかりました」

 島田さんはそういうと、事務室に飛んで帰った。

「な、なにごと?」

 高橋夫妻、それに綾が部屋から飛び出してきた。少し遅れてスタッフルームに戻っていた洋子さんも駆け込んでくる。

 さやかさんは島田さんが鍵を持ってくる間、美奈子さんの部屋のドアに打ち込んだ楔を外していた。そのあと、ドアの鍵を開けようとしたがやはり鍵が掛かっているらしく開かない。

「くそっ。こんな馬鹿なことがあってたまるか」

 さやかさんは何度もドアノブをガチャガチャと動かしながら引っ張ったが、ドアはなんの反応もしない。やがて島田さんが合鍵を持ってくると、鍵穴に差し込んだ。

 がちゃりと音を立てて、ドアは開いた。

「まて、あたしとポチ子が入る。他のやつらはここにいろ」

「そうはいかない。ボクたちも入るぞ、一郎君!」

「ポチ子、阻止しろ!」

「了解です、さやか様」

 薫はさやかさんに張り合おうとしたが、ポチ子がタックルしてきたおかげで、さやかさんのほうが一歩早かった。

「誰もいない」

 先に入ったさやかさんは、意外なことをいった。

「なんだって?」

 薫もすぐ横に並ぶ。腰にからみついたポチ子を引きずりながら。

 わずかに遅れて、島田さん、綾、高橋夫妻、洋子さん、それに僕がなだれ込んだ。

 部屋の中にはたしかに誰もいなかった。

 犯人はおろか、美奈子さんすらいない。

 そんな馬鹿な?

「きっとバルコニーにいるんだよ」

 薫が叫んだ。

 それしか考えられない。美奈子さんはきっとバルコニーに出て、あのラニを思わせる謎の女に撃たれたに違いない。

「残念ながら、バルコニーにも誰もいない」

 さやかさんはバルコニーの側からガラス越しに外を眺めていった。

「しかもサッシにはクレセント錠が下りている」

 そんなはずはない。それなら美奈子さんはいったいどこに消えたんだ?

 しかもバルコニーに張り付いて化け物のような女が中を覗き込んでいたのだ。僕が美奈子さんだったらけっして鍵を外さないだろう。ある意味、クレセント錠が下りたままになっていたのは当然ともいえる。

「床が水浸しだね」

 薫がぼそりといった。

 いわれてみれば、床にはバケツで水をこぼしたように水たまりができている。その水はバルコニーまで続いていた。サッシを開けて雨が吹き込んだにしても多すぎる。

 その水たまりの中に、さっきまで美奈子さんが着ていたTシャツと短パンが脱ぎ捨てられてあった。まるで衣服を残して、美奈子さんの体だけがどこかに消えたかのようだ。

 僕はまたしても人魚伝説を思い出す。

 伝説では、ホテルの主人の婚約者は水たまりの中に引きずり込まれ、そのまま海の底に連れていかれた。

「しょっぱい。これは海水だね」

 薫は指で床に触れ、それを舐めてつぶやく。

「くそ。そんなことより、美奈子はどこに消えた?」

 さやかさんからは心なし焦りが感じられた。

「海だよ。美奈子さんは海に落ちたとしか思えないね」

 薫がいう。

 伝説そのままだが、部屋の中にいない以上、たしかにそれ以外の可能性はなかった。

 さやかさんもそう思ったらしく、引き戸を開け、バルコニーに出た。

 とたんに風に乗った雨が吹き込み、部屋の床をさらに濡らした。しかしみなバルコニーの側に集まった。

 外を見ると、海は相変わらず狂ったように荒れている。

「これを使いましょう」

 島田さんは気を利かせて、どこからか懐中電灯を取ってきたようだ。さやかさんとともにバルコニーに出ると、懐中電灯で外の海を照らす。

「あ、あれを……」

 怯えたように島田さんは叫び、ライトを一点に向ける。

 そこには白波の立った海面から、白い一本の腕が上に向かって伸びていた。

 美奈子さんの腕。

 僕だけじゃなく、誰もがそう思っただろう。

 白い腕は手招きをするように揺らめくと、ゆっくりと海中に沈んでいく。

 そして白波が被ったかと思うと、そのまま二度と浮かび上がってこなかった。

 全員がバルコニーに身を乗り出し、海を覗き込んだ。島田さんがライトをあちこちに向けるが、荒れた海は中の様子を覆い隠す。いくら照らしたところで美奈子さんの姿は見つからなかった。

「潜れるか?」

 さやかさんが明らかに期待してない様子で、洋子さんに向かっていう。彼女は無言で首を横に振った。

 荒れ狂った波は岩礁に叩きつけられ、真っ白になり砕けている。素人目にも潜るのが不可能としか思えない。

 仮に美奈子さんが生きていても救助は無理だ。もっとも生きていることはないだろう。

「くそ、いったいどういうことなんだ? やはり美奈子は犯人じゃなかったのか?」

 さやかさんは顔に苦悩の表情を浮かべ、いった。

「そんなはずはありません。さやか様の推理以外に可能性なんかあるわけないです」

 そういうポチ子もおろおろしている。

「あの銃声はなんだったんだろう? どこかで撃たれてるはずだよ」

 薫がいう。

 たしかになにか変だ。銃声が聞こえたのに、血はどこにも流れていない。いったいあのとき銃はどこで撃たれたのだろう?

 見回しても部屋の中に弾痕らしきものはない。

「ポチ子、弾痕を探せ」

「はい、さやか様」

 ポチ子は敬礼すると、ネズミのようにちょこまかと部屋を走り回った。

 ほかの全員も部屋中を探したが、どこにも拳銃を撃ち込まれたあとなどない。

「どういうことだ? 拳銃はバルコニーで撃たれたってことか?」

 さやかさんは唸る。

 しかし僕には納得できない。バルコニーから化け物が中を覗いている姿を見たからだ。叫び声から考えても、美奈子さんはあの女の姿を見たはずだ。どう考えても美奈子さんが自分から外に出るわけがない。

 だからあの化け物のような女が犯人で、彼女が美奈子さんを撃ったとすると、バルコニーから室内の美奈子さんを撃ったはずだ。

 しかし室内には弾痕も血痕もない。弾はバルコニーへ出る扉のガラスを貫通すらしていない。

「いったい犯人は、……どこから入ったんですか?」

 ポチ子が脅えた口調でいうが、誰も答えない。さやかさんも、薫も。

「さやか様と島田さんが薫ちゃんたちの部屋に入ったときも、あたしはホールに残って見張ってましたから。ドアから入るのは不可能ですっ!」

 ポチ子が断言した。

 残る可能性はバルコニーから入ることしかない。この部屋はポールの角部屋と違って、入り江には面していない。ドアとバルコニーしか外に出入りする場所がないのだ。

 そして僕は現にバルコニーにいた怪しい女を見ている。

 だけど、いったいどこから?

 海は荒れ狂い。泳いで渡ることはもとより、ボートでも近づけそうにない。

 バルコニーを飛び越えて?

 そういえば……

 僕は美奈子さんのバルコニーであの女の姿を見る前に、自分の部屋を覗かれていたことを思い出した。

 つまり、あの女は綾かさっちゃんの変装で、バルコニーの手すりを飛び越えながら、部屋を横断した?

 いや、ありえない。

 なぜなら銃声の直後に綾もさっちゃんも部屋から飛び出していたからだ。

 あの女の姿を見たときから計算したとしても、彼女たちが部屋から飛び出すまで、一分程度しか経っていない。時間的に考えて、さっちゃんや綾があの女であるはずがない。

 かといって、犯人があらかじめ美奈子さんの部屋に潜んでいた可能性はない。美奈子さんを閉じ込める前に全員で部屋の中を調べたからだ。

「屋根からバルコニーに下りたんじゃ?」

 僕はそれしかないと思い、口に出した。

「無理です。屋根はかまぼこ状ですよ。真ん中らへんはともかく、端に行くほど急勾配です。この風と雨の中、短時間で屋根を横断するのは不可能です」

 島田さんがいい切った。

 ここに来たとき、海から見た光景を思い出す。たしかに屋根は体育館を思い出させるかまぼこのような形だった。普通の人間なら、とてもあの上を走ったりはできない。

「とにかく全員を集めよう」

 さやかさんがそういうと、島田さんは部屋を走って出た。

 しばし全員が無言で部屋の水たまりを見つめたまま黙り込む。みななにが起こったのか、必死に考えているのだ。

 ようやくさやかさんがポチ子に向かって指示した。

「ポチ子、おまえ、カメラ持ってるよな。薫たちの部屋のバスルームの鏡に書かれた文字を写真に撮っておけ。筆跡鑑定に掛ければ、一発だ」


   2


 全員がホールに集まったころ、カメラを手にしたポチ子がさやかさんのところに駆け寄った。

「さやか様。鏡に字なんか書かれていません」

「なんだと?」

「ははっ、どうやら犯人に先を越されようだね」

 愕然としたさやかさんに、薫が「やられた」って顔でいう。

 今のどさくさに紛れて、拭き取られたのだ。

「まあいい。どのみちこの場で筆跡鑑定ができるわけじゃないからな」

 さやかさんはその後、一瞬考えたあと、島田さんに聞く。

「ここの現地スタッフで日本語が書けるやつはいるのか?」

「いえ。会話はそれなりにできるものが多いですが、読み書きはぜんぜんだめです」

「ふん。つまり、あれを書いたのは日本人ってことだな。まあ、それがわかっただけでもいいさ」

 そう唸ったあと、現地スタッフを含め、全員を着席させ、なにが起こったのか説明した。とたんにどよめきが走る。

「やっぱり人魚の呪いよ」

 双子のメイドが顔を見合わせて、互いに震えながらいう。

「美奈子が殺された?」

 そういって怯えているのはヨヨだ。

 それ以外のスタッフは互いに現地語でいい合った。

「頼む、静かにしてくれ。またいろいろ聞かなくちゃいけない」

 さやかさんは私語を制したあと、まず僕に聞いた。

「まず、事件が起きる直前のことだ。一郎、おまえほんとうに怪しい女がバルコニーから美奈子の部屋を覗いていたのを見たのか?」

「ほんとうです。髪振り乱した裸の女が、ガラスに顔をつけるようにして中を覗き込んで、にた~って笑ったんですよ」

 さやかさんは疑わしそうな顔で聞いている。心外だった。僕の精神はいたって正常だ。

 いくらナイスバディないい女だからって、それは譲れない。

 そうは思っても、客観的に考えれば、疑うのが当然かも知れない。なにせ、あまりにも異常な話だ。

「顔は見たのか?」

「いや、暗かったし、髪が邪魔でよく見えませんでした。でも、口元だけは見えました」

「つまり、それが誰かはわからないってことか?」

「そ、そうですね」

 たしかにさっぱりわからない。

「下半身は魚だっんじゃないのかい、一郎君」

 薫が冗談ぽくいった。

「やめてくれ。手すりで隠れて脚は見えなかった。だけど普通に足があっただろ。常識で考えて」

 僕はとても薫の冗談を笑えない。半分本気でそう信じかけている。

「いや、ちょっと待って。それだけじゃない。僕がバルコニーを覗いたのは、誰かが部屋を覗いていたからだ。つまり、あのとき謎の女は美奈子さんのバルコニーに行く前に、僕たちの部屋を覗いたんだ」

「なんだと?」

 僕がいい忘れていたことをいうと、さやかさんをはじめ全員が半信半疑といった顔だ。

「とにかくだ。もし一郎が見た女が犯人だとしたら、犯人はホテルの宿泊客以外ということになる。なぜなら客たちは銃声の直後に全員ホールにいた。時間的に見て、客が犯人であることはあり得ない」

「スタッフでもないよ」

 洋子さんが口を開いた。

「スタッフは全員スタッフルールの一室に集まってたから。彼らも怖かったと見えて、ひとりになるものは誰もいなかったよ。まあ、あたしを含めてね。だから悲鳴と銃声をみな同じ部屋で聞いたんだ。それまではいっしょだったからスタッフの中に犯人なんていない」

「それだと誰も知らない第三者が島の中にひそんでいるってことになるけど……」

 薫が疑わしそうな顔でいう。

「まあ、そういうことになるな」

 そういうさやかさん自身、そんなことは信じていないといった顔だ。

「あの、今度こそ自殺ってことはないんでしょうか?」

 島田さんが恐る恐るという感じで口を開いた。

「つまり、ポールさんを殺したのはやはり彼女で、逃れられないと思い自殺したっていうのは?」

「う~ん、それはどうだろう?」

 薫が口をはさむ。

「バルコニーに出て、拳銃自殺をしたあと、海に落ちたってこと? まあ、仮に一郎君の見た謎の女が幻覚だったとしても変じゃないか。まず、どうしてバルコニーに出るサッシ戸の鍵が掛かっていたんだい? それに彼女は銃声の直前に叫んだんだよ。ものすごく不自然だと思わないかい?」

「それに一郎たちの部屋に警告文を書いたのが美奈子ってのはあり得ないな。ポールが殺されたあと、美奈子は一度たりとも一郎たちの部屋に入るチャンスはなかった。消すことはさらに不可能だ」

 さやかさんが唸る。

「さあってと、そろそろさっきの推理は間違いだって認めたらどうだい、名探偵さん?」

「ははっ、女子高生がなんか生意気なことをいってますよ、さやか様。なにかいってやってください」

 ポチ子は我慢できないとばかりに自分のご主人様をあおったが、さやかさんは無視した。内心、自分の推理が間違ってると認めたのかもしれない。

 やっぱり、薫がいったように、美奈子さんは犯人じゃなかったんだ。

 僕にはそうとしか思えなかった。しかし、それにかわる推理が浮かぶはずもない。もうなにがなんだかわからなくなった。

 だが全員にアリバイがあることや、ラニを思わせる不審な女を何人も目撃していることから、外部の人間が犯人であることがもっとも可能性が高いような気がする。

 ヨヨが海の中で見た、ラニの姿をした人魚は窒素酔いによる幻覚かもしれないが、その他に、綾、洋子さん、まあくん、そして僕自身がラニとしか思えない女の姿を目撃している。

 しかもその女は、どう考えても密室状態の部屋を自由自在に出入りしているとしか思えない。

「全員の証言を信じる限り、事態はとんでもなく異常だ」

 さやかさんはうんざりした顔でいった。

「犯人はラニに似た女で、嵐の中のバルコニーを鳥か獣のように飛び移る。こいつは一郎たちの部屋に忍び込み、警告文を残したあと、美奈子の部屋のバルコニーから中を覗き込み、美奈子の姿を確認するとにやりと笑った。だが次の瞬間、女の姿は消え、銃声の直後、美奈子の部屋に乗り込むと部屋は水浸し、鍵が掛かったまま美奈子の姿は謎の女ごと消え、海の底に引きずりこまれた。しかもその女は一瞬の隙に一郎たちの部屋に忍び込み、警告文を消し去った。そればかりか、どう考えてもここにいる全員に鉄壁のアリバイがある」

 さやかさんはここまでいうと、力なく笑った。

「そんな馬鹿げたことがあってたまるか。そうでなくても、ポールは絶対犯人が逃げ出せない状態で撃たれた。しかも唯一の可能性と思われた美奈子犯人説は崩れた」

「どんなに不可能に思われても、これは夢でも幻でもないんだよ」

 やけくそ気味のさやかさんにかわり、薫がいった。その顔はふざけてもいなければ、投げやりでもない。真剣にこの謎を楽しみたいといった感じで、目つきが妙に鋭くなっている。

「これは現実に起こったことなんだ」

 そう、まぎれもなく現実だ。

 綾や洋子さんがラニの亡霊を見たといったときは半信半疑だったが、今度は僕が自分自身で見た。ほんものの亡霊なのか、人間が化けているのかは知らないが、ラニの亡霊は明らかに存在する。

 そしてその亡霊は、人間には不可能としか思えないことをつぎつぎとおこなう。

 さらにいえば、ふたりの犠牲者の死に様は、この島に伝わる人魚伝説にそっくりだ。

「わかるのか? おまえにはこの事件の真相が。ははっ、……悔しいがあたしにはもう、お手上げだ」

 さやかさんは力なく薫を見る。

「ははは。そんなに慌てなくてもちゃんと解決してみせるよ。ただちょっと時間が足りない。もう少し考えさせてよ」

 薫はさやかさんの態度を見て、ふたたび、にかっと笑う。

「とにかくこの事件に関してはこれ以上詮索しても無駄だろう。全員にアリバイがあることがわかっただけだ。なにしろ死体を見ていないんだからな。あしたの朝、死体を引き上がることができれば、また新たな展開もあるかもな」

 さやかさんは疲れきった様子でいった。

「さやか様、弱気になるなんてさやか様らしくありません。こんなあたしと同じ年の女に負けていいんですかっ!」

 ポチ子はもう涙目だ。

「ふっ、そうだな。どんな不可解に見えても、しょせん人間のやったことだ。謎は必ず解けるはず」

「そうです。そのいきですよ、さやか様。親の金で高校いってるやつなんかに負けないでください」

 ポチ子は握り拳を振り上げた。

「や~ん、部屋に戻るのは怖いわよぉ」

 さっちゃんが空気を読まず、青い顔でいう。

 僕もそれは同感だった。またバルコニーから部屋の中を覗かれるかと思うとぞっとする。そもそも相手は神出鬼没の亡霊かもしれないのだから。

「みんなホールで一夜を明かすか?」

 さやかさんの提案にみな依存はなかった。それが一番安全な方法のような気がする。部屋に帰ったところで、とても眠れそうにない。

「眠くなれば眠ればいい。あたしは起きて見張っているから、万が一この中に犯人がいても手は出させない」

 みな無口になった。滝のような雨と、すべてを吹き飛ばさんとするばかりの風、そして狂ったような波の音ばかりが聞こえる。

 薫はそれ以降、ひと言も話さず、椅子の上でひざを抱えたまま、ぶつぶつといいながらひたすら考え込んでいる。

 さやかさんはいらいらした様子で時折外を確認しながらホールの中を歩き回った。

 誰も眠らなかった。次第に夜は開け、外から聞こえる狂ったような嵐の音が次第に小さくなっていった。


   3


 太陽がやや上のほうに上がったころ、雨も風も止み、波もかなり静かになっていた。島田さんが警察に連絡を取ると、彼らがこの島にやってくるのはおそらく昼ごろになるということだ。それまでにまだ三時間ほどある。

 島田さん、洋子さん、ヨヨ以外のスタッフは二手に分かれて島を探索していた。もちろん、見知らぬ第三者が犯人である場合を想定し、不審な人物がいないかどうか探るためだ。

 洋子さんとヨヨは今潜っている。もちろん客など連れていない。美奈子さんの死体を引き上げるためだ。警察が来るのを待ってなどいられない。すでに流されている可能性が高いが、ひょっとしていまならまだ見つけられるかもしれない。

 いったい彼女はどんな殺され方をしたのだろう?

 僕の脳裏には凄惨な場面が浮かぶ。

 ポール同様に、喉を撃ち抜かれたのだろうか?

 あるいは伝説のように首を掴まれ、生きたまま海に引きずりこまれたのだろうか?

 ホテル前のビーチでは島田さんと宿泊客全員が海面を固唾を呑みながら見つめていた。

「うん? これはなんだい?」

 薫がビーチでなにかを拾った。ノートの切れ端のようなものだった。

 そこには半分消えかかった英語の文字が書かれてある。


『You killed me.』


「なんだこりゃ? 『おまえは私を殺した』だ?」

 さやかさんがそれを見て首をひねった。

「ふ~ん。なるほどね」

 薫はそれを興味深そうに眺めていた。口元に笑みが広がる。

「おい、なにかわかったの……」

 さやかさんが薫に問いつめようとしたとき、入り江に洋子さんとヨヨが浮上した。ふたりの腕の中には人間らしきものが抱かれている。

 美奈子さんだ。

 全員の興味がそっちのほうに向く。

 洋子さんたちがビーチに向かって泳いでくるにつれ、その姿は鮮明になっていく。

 ふたりに抱きかかえられているものは、間違いなく美奈子さんの亡骸だった。驚いたことに美奈子さんは全裸だった。

「うわっ、ど、どうして、裸……」

 僕は思わずつぶやいてしまった。

 そういえば部屋にはTシャツと短パンが水たまりに脱ぎ捨てられていた。犯人がわざわざ脱がせたのだろう。だけどいったいなんのために?

 まったく理解不能だが、美奈子さんは死んだあと、伝説の通り、全裸のままで荒れ狂った嵐の海に一晩中漂っていたということは間違いない。

 誰もが凍りついたように固まり、その姿を見つめている。死体がビーチまで運ばれると、島田さんとさやかさんが無言で引き上げた。

「無残な」

 島田さんが沈黙を破った。

 そう、それはたしかに無残な死体だった。体中に細かい切り傷があり、左の胸に銃で撃たれたと思われる小さな丸い穴が開いていた。おそらく心臓には当たっていない。肺を突き破り、その穴から海水が流入したに違いない。それはまさに地獄の苦しさだったのだろう。美しかった美奈子さんの顔は醜くゆがんでいた。

 苦悶と恐怖と憎悪が入り混じったような顔。

 見開いた目。大きく開いた口。顔中に刻まれたしわ。濡れた長い黒髪がべっとりと顔に絡みついている。体中の血液が流れ出したのか、顔をはじめ全身は屍蝋のように白い。

 右腕は上に突き出し、左手で喉をかきむしっている。その状態で固まっている。

 さやかさんは遺体を抱き起こすと背中を確認した。背中にも同じ位置に穴が開いている。弾は貫通したらしい。

「わからないな。……どうして美奈子さんは撃たれたんだろう?」

 薫は遺体を見ながら、不思議そうにつぶやいた。

 さやかさんは傷を確認すると、遺体の目を閉じ、島田さんが用意していたシートをかぶせる。

「たしかになぜだ? 伝説の見立て殺人なら、首を絞められたまま溺れ死んだはずだ。なぜ、銃殺なんだ?」

 さやかさんも納得がいかないらしい。

 たしかに一見人魚伝説に見立てているようでいて、詳細は微妙に違う。犯人は見立てにこだわるよりも、作業効率を優先したのだろうか? あるいはなにかのアクシデントのせいで、そうせざるを得なかった?

「遺体のそばにこれが落ちてたよ」

 洋子さんがBC(浮力を調整するジャケット)のポケットから拳銃を取り出した。

「六連発のリボルバー。弾は二発撃たれている」

 さやかさんはそれを受け取り、回転式の弾倉を調べていった。

「つまり、その二発でポールと美奈子さんを殺したってことですね?」

 ポチ子が悲壮な顔でいう。

「おそらく間違いないだろうな。つまり凶器は同じ。同一犯ってことだ」

 さやかさんが分析する。

「ねえ、一郎君。ところで犯人はいったいどこから撃ったと思う?」

 一瞬、薫の顔にはかすかに笑みすら浮かんでいるように見えた。

「どこからって、ええっと……」

「死体の銃創にこげあとが付いていないことから考えても、犯人はすくなくとも銃口を体に押しつけて撃ったわけじゃないな」

 言葉に詰まった僕に代わって、さやかさんが答えたが、首をかしげている。

「なにか、変だ」

「そうなんだ。血痕や弾痕がないことから室内で撃たれなかったのは間違いないけど、じゃあ、どこで撃たれたのか。バルコニー? バルコニーなら血は雨で流されたのかもしれないし。でもこんなせまいバルコニーでふたりがもみ合ったとしたら、銃の取り合いになりそうだし、至近距離からの発砲になるよ。銃創のまわりが焦げてるのが自然だよね。かといって、ボートとかで無理矢理海から近づいてバルコニーにいる美奈子さんを撃ったとしたら、体内を貫通した弾はガラスを突き破るか、壁にめり込むはずだよ。だけどそんな跡はないんだ」

「なるほど、つまり犯人はバルコニーから美奈子を海に突き落とし、そのあとでバルコニーからとどめの一撃を放ったってことか?」

「でも変だよね。一郎君の話じゃ、犯人はバルコニーから中を覗いていたんだよ。美奈子さんは逃げるとすると当然ドアに向かうはずだ。ところが、なぜか美奈子さんは自分からバルコニーに出た? どう考えても不自然だよ」

 たしかに変だ。

 僕にはいくら考えても、そういう状態になることはあり得ないと思う。

 仮にバルコニーで見た謎の女が幻だったとしても、ドアはさやかさんたちに見張られていた以上、犯人はバルコニーから進入したとしか考えられない。どう考えても美奈子さんはドアに向かって逃げるはずだ。そして助けを求めるはず。

 密室云々とは無関係に、なにかとてつもなく不自然に思える。

 それになぜ犯人はわざわざ美奈子の衣服を剥ぎ取ったのだろう? そもそもそんな時間はなかったはずだ。

「なにがいいたいんだ、薫。なにかわかったのか?」

 さやかさんはしばらく考えた末、薫に問いかける。

「だいたいはね」

 ほんとかよ?

 棒は思わずつっこみそうになる。

「信じられないね」

 さやかさんは露骨にありないといった顔をした。

「そうです。はったりに決まってますよ。さやか様にさえわからない謎が、こんな女にわかるはずがありません」

 ポチ子の鼻息は荒い。

「はったりなんかじゃないさ。だけどまだ完璧じゃない」

 薫はもどかしそうにいう。

「ねえ、洋子さん、遺体はどのへんに沈んでいたんだろう? 拳銃は?」

「ちょうど美奈子さんの部屋のまん前だよ。拳銃もそのすぐそばに沈んであったよ」

「すぐそば?」

 薫の目が輝く。

「海の中の様子をヨヨがビデオに撮っているけど、見る?」

 そういえば、ヨヨは入るとき、ハウジングといってビデオを中に入れる水中ケースを持っていた。これを使えば、一般のビデオで水中撮影することができる。

「もちろん、見るよ。さやかさんも見たいだろう?」

 薫は挑戦的な目つきでさやかさんを見る。

「ああ、当然だ」

 さやかさんは薫をにらみ返した。

 一同はホテルのホールに戻り、ビデオで水中の様子を観察することにした。


   4


 ヨヨがビデオの配線を繋ぎ、ホールのモニターに映す段取りをしている。

 綾はさすがに海中の遺体の様子を見たくないらしく、オサルにちょっかいを出しながら、そっぽを向いている。それでも自分の部屋にもは戻らない。怖いのだろう。

 それ以外のものはモニターに釘付けになった。気になるのだ。

「準備ができたみたい」

 洋子さんがそういうと、ヨヨは機械を操作した。モニターに画像が映る。

 真っ白な砂地が写る。洋子さんが解説を入れる。

「ここは入り江の中」

 透明度が悪い。おそらくきのう海が荒れたため、細かい砂がまだ海中を舞っているためだろう。

 画像はゆるやかに沖に向かっていく。ヨヨはビデオのスイッチを入れたままゆっくりと泳いでいるらしい。

 しばらくすると、砂地を抜け、珊瑚礁に出た。

 ここも透明度が悪いとはいえ砂地よりはましで、十メートルほど先までは見渡せる。その光景に圧倒された。

 あたり一面には大ぶりのテーブルサンゴが所狭しとひしめき合っている。その合間から、なにやら植物ようなものが揺らめいている。たしかソフトコーラルといわれるものだが、こうしてみるとまさにお花畑だ。そのまわりを蝶のように色とりどりの小さな熱帯魚たちの群れが踊り狂っている。

 まさに楽園だった。透明度がよければさらにきれいだったろう。

 カメラは下の珊瑚礁すれすれにすべるように移動していく。

 しばらく進むと、左側に建物の柱が見えた。ホテルの海に突き出している部分を支える柱だ。

「ここがポールの部屋の真下よ」

 前方に白い影が見える。ゆらゆらと水中を漂っていた。

 あれが死体?

 僕は胸が締め付けられるような気がした。

 カメラが寄るにつれて、白い影はその姿をはっきりと映し出していく。

 まぎれもなくそれは美奈子さんだった。

 長い髪が下のサンゴに絡み付いている。美奈子の体は、顔を下にしてゆったりと波に翻弄されていた。

 誰もが息を呑み、言葉すら発しない。

 カメラの映像は遺体を間近から映したあと、九十度回転した。画面には海中の柱と基礎が映りこむ。距離にして美奈子さんの遺体から数メートルほど先にあると思われる。基礎からなだらかなスロープになって下がっていることから考えて、死体の位置は建物の基礎部分よりも少し深いところにあるらしい。透明度が悪いせいで多少映像はかすんで見える。柱の本数を数えると、たしかに手前から二番目の部屋のまん前だ。

「これが美奈子さんの部屋の基礎の海中に張り出した部分」

 洋子さんが説明する。

「なるほど、たしかにそのようだな。死体が流されなかったのは髪が引っかかったからか」

 さやかさんはひとりで納得していた。

 カメラはそのあと、遺体のそばに落ちていた拳銃を映し出した。テーブルサンゴにはさまるように引っかかっている。

 画像はここで終わった。このあとは美奈子さんの遺体を運ぶ作業に入ったのだろう。

「一応海中マップに位置を書き込んでくれると助かるんだけどな」

 薫のリクエストに応え、洋子さんはテーブルに建物の位置こみの海中マップを広げた。

「美奈子さんが引っかかっていたのはこのへん」

 洋子さんが印をつけたのは、まさに美奈子さんの部屋のまん前、バルコニーから三メートルほど離れたところだ。水深は十二、三メートルくらい。そこからほんの五メートルも沖に向かうと、ドロップオフになっていて水深がいっきに百メートルほどになる。もし流されてその下に落ちていれば、二度と見つけることはできなかっただろう。

「おそらく、落ちたあと波に翻弄されて髪の毛がサンゴに引っかかったんだ。だから遠くに流されずにほとんど落ちた場所にとどまったんだよ。体にできていた切り傷は、波に揉まれてサンゴで切ったんだ」

 洋子さんが説明を続けた。

「でも意外と深いんだね、ここ」

 薫がぼそりという。

「深いとなにか変なのか?」

 さやかさんが不思議そうな顔で聞く。

「だってそうじゃないか? ボクたちは沈みゆく美奈子さんの手を見たんだよ。あれは助かろうとして必死で手を伸ばしていたように見えた。浅いところなら波にもまれた拍子に髪の毛がサンゴに引っかかったのかもしれないけど、そんな深いところまで沈むのは不自然じゃないか。だって撃たれたのは心臓じゃなくて、肺。即死じゃなかったんだし、美奈子さんは泳げるんだから」

「きっと人魚に引きずり込まれたんだわ」

 さっちゃんがヒステリックに叫ぶ。

「べつに不思議なことじゃないよ。たぶん、肺に開けられた穴から海水が入って、そのショックで意識を失ったのさ。さらにそこから空気が抜けていって、浮力がなくなれば沈むよ」

 洋子さんが諭すようにいった。

「ふ~ん、なるほどね」

 薫はなにか必死に考えているようで、半分上の空で答えた。

 ふたたび、しばしの沈黙が訪れる。それは外から帰ってきた現地スタッフたちの報告で破られた。

 島田さんが彼らの報告を聞き、通訳した。

「二手に分かれて徹底的に島を探索しても、怪しい人物は誰も見つけられませんでした」

「で、でも、それはもう逃げちゃったってことじゃないの?」

 さっちゃんが反論する。

「いえ、彼らが探し始めたころ、まだ海は荒れてました。その前に逃げるのは無理でしょう。それに今でもこの島の周りこそ波は静まってきましたが、沖のほうはまだかなり荒れています」

 たしかに、謎の犯人がこっそり隙をうかがって逃げた可能性はほとんどないだろう。

 しかしそれはふたりを殺した犯人がこの島にいることを意味する。

 誰もが半ば認めつつも、認めたくなかった事実を突きつけられたということだ。

「もう少し探させましょう」

 島田さんはそういうと、彼らにふたたび指示を与え、外に放った。

「やはり、自殺なんじゃないでしょうか?」

 彼らを送り出したあとにいう。

 誰もがそう思いたい。外部の犯人でないのなら自殺であってほしい。殺人者と小さな島にいるのは真っ平ごめんだ。

「あたしもそうであってほしいけど、その可能性はきわめて低いな。自殺なら頭を撃つのが普通だ。ふたりとも苦しみながら死ぬような箇所を撃ってる。人間の心理的にあり得ない。鍵の問題もあるし、犯人らしき女の目撃証言もあるしな」

 さやかさんが吐き出すようにいった。

「人殺しと同じ島にいると思えばいい気持ちはしないだろうけど、まあ、あと数時間で地元の警察が来るんだろう? それまではひとりにならないことだな」

「あはははははははは」

 けたたましい笑い声に誰もが振り向いた。薫が嬉しそうにぴょんぴょんと跳びはねている。

「なにが可笑しい。ついにおかしくなったか?」

 さやかさんでなくてもそういいたくなる。

「さやか様が大事な話をしてるときに、失礼なやつですね」

 ポチ子もおかんむりだ。

「いや、そうじゃない。もうその心配はいらないよ。誰も死なない」

 薫の発言に誰しも驚いた。

「どういう意味だ。わかったのか、犯人が?」

 さやかさんは驚きを隠せない。

「そう、わかった。わかったんだよ」

 薫はいい切った。

「はったりです。はったりに決まってますよ、さやか様。でなきゃ、間違った推理にちがいありません」

 ポチ子じゃないけど、正直、僕にも信じられなかった。もしほうんとう犯人がわかったのだとしたら、薫は本物の名探偵だ。

「ふふふ、君ははったりはったりとうるさいな。じゃあ、このさいだからはっきりさせよう」

 薫は立ち上がり、椅子から離れた。そのまま部屋の中央に陣取り、髪をかき上げる。

「断言する。ボクの推理は完璧だ!」

 その瞳は自信に満ちあふれ、光り輝いていた。

「外を探しに行ったスタッフたちを呼び戻しますか?」

 島田さんが緊張気味の顔で聞く。

「ううん。その必要はないよ。彼らの中に犯人はいないし、外に出ていてもべつに危険はないから」

「もったいつけるな。誰だ? 誰が犯人なんだ?」

 誰もが思っている疑問を、さやかさんが口に出した。

「犯人の名前だけを口にしたって、絶対に誰も信じないよ。初めから説明しないと理解不可能なんだ」

 薫は悪戯っぽく笑いながら、そういった。

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