第21話

 僕にとって、初めての飛行機はとても刺激的だった。加速して離陸する時の宙を浮く瞬間は、楽しいような怖いような不思議な感覚だった。それに、席が空いていたので人の目をあまり気にしないで自由にできた。だけどユタは機上でずっと顔色が悪かった。どうやら飛行機が苦手なようだ。ずっと俯いたまま、何かぶつぶつと呟いている。

「ユタ、大丈夫?」

 僕が小声で聞くと、ユタは強張った笑顔を返すけど、かなり辛そうだった。

 結局、飛行機が着陸する時にはユタは廃人のようになっていた。緊張しすぎたせいで、頭が痛いらしい。飛行場ロビーのシートに座った後、彫刻のように動かなくなった。あともう1回飛行機を乗り継がないといけないけど大丈夫かと心配だった。

「大丈夫だ……ノエル、行こうぜ」

 ユタは全然大丈夫そうじゃない顔でそう言うと、搭乗口へと先に向かった。悲壮感漂うその後姿は、不覚にも少し痺れた。

 乗り継いだ飛行機は幸い最初よりもずっと飛行時間が短く、3~4時間くらいで目的地にたどり着いた。だけどその頃にはユタはもう自分ひとりでは歩けず、添乗員さんの肩を借りながら飛行機を出る羽目になった。僕の肩を貸してあげられないのが少しもどかしかった。

 飛行場から見た外の景色は、僕達が暮らしている場所と全然違っていた。照りつける太陽の眩しさも比較にならないし、歩いている人達の服装も僕達と全然違う。僕は早く外に出たいと思ったけど、ユタはまた飛行場ロビーのシートに倒れ込んでいた。今度はシートを何席か独占し、恥も外見も無く仰向けになって寝ている。

 どうせこれからの旅は長い。そしてこれからは体力をひたする削る行程になる。僕はユタの回復を気長に待つ事にした。

 結局その日は、飛行場に近いホテルに泊まった。

ユタは僕に少し自分の過去を語ってくれた。ユタの両親は仲が悪く、少し前に離婚したこと。そんな両親の側にいるのが嫌で、逃げ出すように全寮制の高校に通っていたこと。ガールフレンドがいた時もあったけど、仲が悪い両親を見て育ったため本気で付き合えなかったこと。サラだけは一目見ただけで本気で好きになったこと。幼い頃から飛行機が大の苦手だったことなど。ノエルの樹はずっと前から興味はあったけど、飛行機がネックになって今まで行けてなかったようだ。

「僕のために、無理して付き合ってくれたの?」

「そんな訳無いだろ。こういうのはタイミングなんだよ。俺だって、いつか行きたいとはずっと思ってた。だけどなかなか踏ん切りがつかなくてさ。そういう意味じゃノエルには感謝しているくらいさ」

 ユタは笑いながら言った。その笑顔には少し生気が戻っていた。

「ユタ、いろいろありがとう」

 旅の開放感のせいか、僕は素直にユタに感謝の気持ちを伝えることができた。

「ああ、俺もありがとうな」

 ユタは茶化さずに返してくれた。

「今日はもう寝もうぜ、明日からまた大変だからな。飛行機よりはずっとマシだけどな」


 ユタは電気を消すと、あっという間に眠りについた。横からユタの寝息が聞こえてくる。僕は天井を見ながらこの旅を振り返った。旅は思っていたよりずっと楽しい。驚きの連続だし、今まで知らなかったユタの一面も知る事ができた。いや、僕は今まで知ろうとしなかったんだ。僕にとっては、サラといる世界が全てで、それ以外は邪魔だと思っていたから。

 だけど最後に思うのはやはりサラのことだった。サラは今頃どうしているだろう。サラに旅の事をたくさん話したい。サラは僕の話を聞いたらくれるかな。

そして僕も、いつの間にか眠りについていた。


 翌日の朝、僕達は食糧を大量に買い込んだ。この街を出ると食糧を簡単に調達できなくなるかもしれなかった。味よりも日持ちして栄養価が高そうな加工食品を優先して買った。ここの食物は僕が今まで見た事が無いものばかりだった。特に果物や野菜は知らないものばかりで、見ているだけで楽しかった。

 ただ、実際に口に入れるユタは慎重にならざるをえないようで、一つ一つ手に取り、吟味しながら決めていた。そんなことしても何か分かる訳でも無いし、ただの気休めだと思うけど。

「食糧も2週間分は買ったし出発するか!」

 お店を出た後、ユタは威勢よく言った。たしかこの後はサパタという街までは車が通っていて、そこから先は廃道をひたすら歩く行程のはずだ。

「ヒッチハイクするの?」

「乗せてくれる車があったらな。金はあまり無いから、車がつかまることを願おう。いいか、たとえ言葉は通じなくても笑顔は万国共通だ。フレンドリーな笑顔が大切だからな!」

「ユタがでしょ?僕がハッチハイクする訳にはいかないんだから」

「それば、そうだな」

 ユタはサパタの街名を翻訳辞典を見ながら紙に大きく書き、大通りの歩道脇で目立つように掲げた。

掲げたのはいいけど、笑顔が良くなかったのか車は全然止まってくれなかった。普段どおりに笑えば誰かしら止まってくれるんだろうけど、ユタの笑顔は固すぎて、人を寄せ付けなかったのだろう。

「笑わなくていいから普通にヒッチハイクしようよ」

 結局、ユタが笑顔を失ってから一時間くらいで車が止まってくれた。その車は僕達の近くで止まってくれた。車の窓から体を乗り出して話しかけてきたのは初老のおじさんだった。伸ばした黒い髭と、日焼けした褐色の肌が印象的だ。

 ユタは車に駆け寄り、片言とジェスチャーでサパタの街に行きたいと告げた。それに対し、おじさんは返事を返した。

「これはたぶん、『いいよ』って事だよな?車に乗ろうか」

 ユタは小声で言った。

「ううん、どうしてあの街に行きたいのか尋ねているんだよ。あの街に行っても何も無いよって」

「お前、どうしてそんなこと分かるんだよ」

「翻訳辞典でこの国の言葉覚えたから。全部聞き取れるわけでは無いけど」

 ユタは驚愕した表情で僕を見た。たぶんおじさんからは、ユタは変人にしか見えなかっただろう。

ユタはノエルの樹に向かおうとしている事を伝えると、おじさんは露骨に嫌そうな表情で返事を返した。

「だめだって?」

「……ううん、乗るのは構わないけどあんなところ興味本位で行くべきじゃないって……呪われた樹だから……」

 おじさんの言うとおりなんだろう。辺り一帯の養分を貪欲に吸収し続け、不毛地帯に変えてしまう樹なんて誰も望んでいない。そして僕はその分身だ。

「よかったな!それじゃあ、お言葉に甘えるか!」

 僕の沈んだ気持ちを知ってか知らずか、ユタは声を弾ませ、片言のお礼を言いながら車に乗り込んだ。おじさんはユタの思わぬ反応に少し途惑ったようだったけど、何も言わず車を発進してくれた。 

 おじさんの話では、このスピードで進むとサパタの街には10時間くらいで着くようだ。車内でおじさんは、いろいろとユタに話しかけてきた。「どこから来たのか」「何の目的でノエルの樹に向かおうとしているのか」「自分には娘が5人いるので、一人嫁にどうか」など、話しは多岐にわたりその都度僕が小声で通訳した。おじさんは、最初とっつきにくい印象だったけど、話してみるととても親しみやすい人だった。僕も会話に混じりたかったけどさすがに我慢した。ユタは翻訳辞典を片手に必死に返事していたが、途中からは疲れきり、「自分には心に決めて人がいます」など、冗談を真に受けた回答をしていた。  

「サパタの町は昔、この国で有数の大きい都市だったんだ。だけど、ノエルの樹の根が街の近くまで侵食し、郊外で農作物もほとんど育たなくなった。その結果、たくさんの人が街を捨てて出て行ってしまった。残念だが、自分達もいずれ街を出なくてはならないだろう」

 おじさんは途中、寂しそうな表情で言った。おじさんはサパタの街の住民で空港がある都市には不足している生活用品を買うために来ていたらしい。僕は居た堪れない気持ちにさせられた。

「ノエルの樹はこの土地の人達にとってどういう存在なんですか?」

 ユタが尋ねたところ、おじさんは少し黙り込んだ。生活を脅かされているし、「呪われた樹」と話していたくらいだから、良く思っている筈は無い。だけど、嫌いだと即答できるほど単純でも無いようだった。

「……言っただろ。呪われた樹さ。その樹は俺達から生活の全てを奪った。ここ何年か成長は止まっているみたいだが、またいつ活発になるかは分からん。今度そうなった時にはサパタの街も間違いなく飲み込まれるだろう……昔軍隊が出動して焼き払おうとしたこともあったが逆効果だった。成長が一段と早くなっただけだったよ」

「すみません、嫌なこと聞いて」

 ユタが申し訳無さそうに謝ったが、おじさんは聞こえてないかのように片手をハンドルから離し、自分の髭を撫でながら遠い目をした。 

「……ノエルの樹は昔、信仰の対象になっていたこともあるんだ。もちろん、今ある樹では無く、もっと昔俺のじいさんが子供の頃の、大きさ以外は普通の樹と同様に植生していた時代だ」

 おじさんは苦虫を噛んだように眉間に皺を寄せながら言った。

「この辺りは昔から旱魃が多くてな。ノエルの樹はそんな時の数少ない水の供給源だったそうだ。逆に大雨が降った時は水をたくさん吸収し洪水にならないようにしてくれたそうだ。それにノエルの樹はとても甘い実が生り、その実は商品としてもかなり重宝されたらしい。そんな樹に対して、昔の人達は敬意を抱いて信仰の対象として祀っていた……爺さんは生前よく言っていたよ。『ノエルの樹は悪くない。だから決して憎むな』ってな。俺達はどこかで神様の逆鱗に触れてしまったのかもしれん……」

 

 サパタの町に着いたのは陽が沈んだあとだった。おじさんは、自分の家に泊まる事を誘ってくれたけど、それは遠慮して街にあるホテルの前で降ろしてもらった。車で移動した感じでは街の規模は大きそうだけど、その割に人は少なかった。ホテルも、2割くらいしか部屋は埋まっていないようだった。

「ああ……今日もへとへとに疲れた。もう翻訳辞典は当分見たくない……」

 ユタがベッドに体を投げ出しながら言った。

「だけど今日一日でずいぶん話せるようになったね。おじさんもいい人だったし」

「ああ、そうだな……」

 ユタは遠い目で呟いた。もしかしたらユタも、おじさんの話を思い返しているのかもしれない。ノエルの樹って何なのだろう。僕はその日、なかなか寝付くことができなかった。ユタもまた眠れないのかベッドの上で何度も寝返りをうっていた。

 翌朝、僕はきつい陽射しで目を覚ました。昨日カーテンを閉め忘れたのは失敗だった。この街の陽射しはサラの家とは大違いで、眩しいだけではなく照りつけるような熱さだ。起きて隣にいるユタを見ると、体中から汗を吹きだし、肌は一日にして真赤になっていた。それでも起きないユタはすごい。

 僕達はチェックアウトを済ませホテルを出た。日中に見る街の景色は、思っていた以上に寂しかった。ホテルに接する道路は、広いにもかかわらずほとんど車は通っていなかった。補修もろくにしていないのか、コンクリートはいたる所に罅が入っている。道路に隣接している店は、半分以上は既に廃屋になっていそうだ。おじさんの寂しそうな顔が思い出された。

「……まああれだな。空港のある街で食糧調達しておいて良かった」

「うん、だけど水はもう少し用意しようか」

 ユタの、ポジティブなのかよく分からない言葉に僕は返事した。

 ここからは、サパタにある廃線となった鉄道の駅まで行き、線路沿いにノエルの樹がある方向へひたすら歩き続ける。40マイルくらい歩くと、ノエルの樹の最寄となるザイツという街の駅に着くので、そこからは街の旧地図を頼りに10マイル程歩くらしい。

「ねえユタ、ここからは自分で歩くよ。あと荷物は僕が持つ。食糧とか寝袋が入ってるから結構重いし」

「いや、俺が持つ。ここは女子供が出る幕じゃない。お前は自分の心配だけしな!」

 サパタの廃駅で、ユタは威勢よく言った。だけど、5マイルも歩かないうちにユタはへとへとになった。けど無理もない。荷物は20キロくらいはあるし、それにこの熱さだ。しかも廃線となった線路はところどころで隆起したり草が生い茂っていて、思った以上に足場が悪かった。

「僕、荷物を持ちたい気分なんだ」

 僕がそう言うとユタはやっと荷物を僕に渡した。だけどユタはふて腐れて、その日は僕にほとんど話しかけてこなかった。

 結局その日歩いた距離は15マイルくらいだろう。街の明かり一つ無い場所なので、日が暮れる前に僕達は線路の上に寝る場所を確保し休むことにした。線路上だと遮蔽物が無いため朝の陽射しは相当きついだろうけど、見晴らしはいいので何かあったときに対応が取りやすいと思ったからだ。

「なあノエル、別に怖い訳じゃないけど、猛獣とかこの辺にいるのかな?」

 ユタはランプに灯を点け、不安そうな表情で尋ねてきた。

「分からないよ。ノエルの樹の周辺は草一つ生えないって聞いたからいないと思うけど、この辺りはいるかもね」

「交代で見張った方がいいかもしれないな……俺とした事がうっかりしてた……身を守る武器は何も準備して無い」

「そんな心配しなくて大丈夫だよ。猛獣程度なら僕が追い払うから。そんなに怯えていたら、ゆっくり休めないよ」

 僕はユタの小心さを鼻で笑うように言った。まあ、ユタは普通の人間だから猛獣が怖いのは仕方ないけど。

「くそっ、お前恰好良すぎだろ!重い荷物だって軽々と持てるし、猛獣も恐れないなんて卑怯だ。俺はお前を認めない!」

 ユタは理不尽な怒りを僕にぶつけてきた。

「気に障ること言ってごめん、僕が悪かったよ。お詫びに少し離れたところで寝るね」

「いやいや、その必要は無い。俺達は相棒だから側にいないと意味ないし」

 ユタは必死に頭を横に振った。

 結局その日は、ユタの寝袋の隣にシーツを敷いて寝た。僕の言葉に安心したのか、ユタは熟睡し朝まで一切目が醒める事は無かった。逆に僕の方は、周囲に危険が無いか気を配ったせいであまり寝られなかった。

 

 翌日、僕達は思った通りきつい陽射しに目を覚まさせられた。日焼けで赤くなっていたユタの体は、皮が剥け始め少し褐色がかかった色に変化している。ユタの肌の色が日に日に変わっていくのは見ていてなんだか面白かった。

「よし、今日は最低20マイルは進むぞ!」

 出発の準備が整った後、ユタは威勢よく声を出し当然のように僕の前に荷物を置いた。ユタはもう、無駄な意地を捨てたのだろう。

 その日は、前日と比べると順調に進む事ができた。ユタが最初から軽装だったこともあるけど、道路沿いに余計な遮蔽物が無くなったのも理由としてあった。5マイルほど歩くと、もうそこに雑草や木などは生えていなかった。ただ無機質な線路だけが、その先の道を示していた。

 線路は山間に沿って作られていたため、見える景色は荒涼とし乾ききった土と岩ばかりだったけど、途中のいくつかの場所で捨てられて無人になった街の風景が見えた。

「ほら、道草してないでさっさと行くぞ」

 立ち止まりそうになる僕に対し、ユタはこつんと頭を叩いた。

 廃墟の街並は僕の心に刺さった。遠くない昔、街にはたくさんの人達が暮していた。だけど、ノエルの樹によって平穏な生活が奪われてしまったんだ。僕の意思でこんな結果を招いたという訳でも無いけど、心がとても苦しかった。

 僕達はその日、ユタの宣言どおり20マイルを少し超えるくらい歩いた。だけど僕達は素直に喜ぶ事はできなかった。歩き疲れたのもあったけど、それ以上に土と岩ばかりの灰色以外色の無い世界を歩き続けたのが精神的にこたえたからだ。

 その日の夜は、ユタは昨日のような不安な素振りを見せなかった。草一本生えていないような場所で猛獣が襲ってくることなど無いし当たり前かもしれない。だけどそんなところも寂しかった。

「なあ、ノエル」

 ユタが寝袋から僕に話しかけた。音一つ無い世界では、ユタの声がいやに響いて聞こえる。ランプの炎がゆらゆらと揺れ、僕達の影もそれに合わせ踊るように揺れている。。影を目でゆっくり追いながら、僕は口を開いた。

「……なに?」

「明日にはノエルの樹にたどり着けそうだな」

「うん、ユタがへばらないで歩けたらね」

「ああ、そうだな」

 ユタは僕の冗談を流し素気なく答えた。横を見ると、ユタは何事か考えるようにじっと宙の一点を見ていた。しばらくして、ユタは再びおもむろに口を開いた。

「なあノエル、樹に着いたら分かる事だけど……ここにはもう何も無いのかもしれないな」

「えっ、それってどういうこと?」

「……いや、悪かった。あまり意味は無いんだ。何も無いところを歩くと、気分が滅入ってな。明日もあるし、もう寝るか」

 ユタはそう言うと、寝袋の中に顔を埋めた。

 なんとなくユタの言いたい事は分かった。この場所はあまりにも寂しすぎる。そしてその中心にあるノエルの樹にだって、願いを叶えてくれるような「真実の実」なんてきっと存在しない。

 でも僕には一つの予感があった。その予感は、ノエルの樹に近づけば近づくほど確信に近づいていく。それは「ノエルの樹はかつての僕だった」ということ。僕にはこの樹に関する記憶など無い。だけどノエルの樹に触れれば、記憶が甦るかもしれない。

 今日はなんだか疲れた。もしユタが一緒にいなければ、途中で行く事を諦めていたかもしれない。僕はゆっくり目を閉じサラの事を想った。旅に出る前はサラとぎくしゃくした状態が続いたけど、今はサラの笑顔しか思い浮かばなかった。


 残念な事に、その日は朝から空がどんよりと曇っていた。そして、雨が降ったり止んだりというぐずついた天気だった。ユタは雨具を頭からすっぽり被り、ぬかるんだ道を水溜りを避けながら歩いた。ここの気候では、天気が良すぎても暑くて大変だけど、悪くてもそれはそれでしんどい。

 だけど不幸中の幸いで、ザイツの街の駅には歩いて2時間くらいで着く事ができた。駅の看板はプラットホーム上に落ちており、もう文字もほとんど消えかかっていた。前日僕達は思っていた以上に進む事ができていたみたいだ。その駅はぽつんとプラットホームだけ地上に顔を出していて、周囲に他の建物はひとつとしてなかった。土に飲まれてしまったのかもしれない。

「ふうっ、やっとここまで着いた。だけどここから先は線路みたいな目印も無いし、慎重に行かないとな」

 ユタは、額から流れ落ちる雨水と汗をタオルで拭いながら言った。

「大丈夫だよ。ノエルの樹がどの方角か何となく感じるから。だけど足元には気をつけないとね」

「ノエル……お前ナビゲーション機能までついているのかよ。俺がいない方がかえって早く着いたかもな」

 ユタは呆れたような、そして落胆したような声で呟いた。

「そんな事無い。ユタがいないと僕はここまでこれなかった。とても感謝しているよ」

「はいはい、そうですね……」

「ユタ真面目に聞いてないでしょ!」

「いや、聞いてますよ。ノエル様にそう言っていただいてとても光栄ですって」

 ユタは投げやりな口調になっていた。何を言っても聞く耳を持たないだろうから、それ以上何も言わなかった。だけどこの旅が終わったらたくさん「ありがとう」って言おう。

 そこから先は、僕が先導して歩いた。もう人工の構築物なども一切見えず、まるで砂漠を歩いているような錯覚に襲われる。こうやって歩いているうちに、駅のプラットホームが埋もれずに残っていたのが奇跡だったことが分かった。本当ならここにだって街があったはずだ。その全てをノエルの樹が飲み込んでしまったのだろう。

 途中で霧が発生し、その霧は進むにつれてどんどん濃くなっていった。そして少し先さえ見えなくなった。まるでノエルの樹が僕達が来るのを拒んでいるみたいだった。僕は歩きながら何度も後ろを振り返った。ユタは疲れているようだったけど、しっかりと後ろをついて来ている。だけどもしここでユタを見失ったらもう会えないような気がした。

「ユタ、大丈夫?」

「大丈夫だって!そんなに心配なら手を握ってやろうか?」

 ユタは冗談半分にそう言った。僕としてはそれくらいしたい気分だったけど、ユタが意地を張っているなら僕も合わせないといけない。僕はその後も、後ろを振り返りながらも歩き続けた。

 もうどれくらい歩いただろうか。先が見えないと距離感も全然つかめない。かなり進んでいる気もするし、全然進んでいない気もした。こんな状態で歩き続けてユタも本当は疲れきっているに違いない。息も相当上がっている。だけどなんの文句も言わずひたすら歩き続けた。

 それは突然のことだった。霧が切れて視界が開けた。僕は目の前にあるものを見て、思わず立ち止まった。

「おいノエル、何止まってるんだよ」

 後ろからユタが声をかけてきたけど、目の前にあるそれを確認するとユタの足も止まった。

 目の前には大きな樹があった。僕達はもうノエルの樹に着いたんだ。だけど僕達が思わず立ち止まったのは、ただ目的地に着いたからという訳ではなかった。

 目の前にあるノエルの樹は、ただただ大きかった。こんな巨木は今まで見た事が無い。幹の太さもすごかったけど、樹高も天まで届くのではないかと思えるくらい高かった。

 そして何よりその樹は禍々しかった。樹の色はまるでこの世の全ての不幸を体現したかのようにどす黒く、そして樹の形は幹の太さからは想像できないくらい歪に曲がりながら空に向かって腕を伸ばしている。樹の真下からは根が放射状に伸びているが、根の一部はまるで地中から吸えなくなった養分を空中から奪おうとするかのように、地上に迫り出している。

「……これはすごいな……」

 ユタは思わず呟いていた。

「……うん」

 僕は頷いた。

 呪われた樹と言われるのも納得だった。この樹は、見ただけで人を呪われた気にさせる程不吉な雰囲気を持っている。だけど僕はそうは感じなかった。 なぜか分からないけど、歪に曲がったその樹の姿は、呪いというよりもむしろ悲しみを一身に表しているように見えた。

 僕は樹の幹に近づくため、一歩前に右足を出した。

「おい、ノエル。これ以上進んだら危なくないか?」

 ユタは後ろから僕の肩を掴み、静止させようとした。

「ありがとう。だけど大丈夫だよ」

「そうか。まあノエルがそう言うなら、きっと大丈夫なんだろ」

「だけどユタはここで待っていてね。僕が大丈夫だからって、ユタもそうとは限らないし」

 ユタは何か言おうとしたけど、僕はそれを遮って歩き出した。少し気がひけたけど、このままではユタもついて来てしまうかもしれないから仕方ない。

 近づいていくと、この樹の大きさには改めて驚かされた。ここまで大きくなるまでにいったいどれくらい養分を吸い続けたんだろう。いや、吸収したのは養分ではなく、人の負の感情なのかもしれない。もともとのノエルの樹は、こんな姿では無かったはずなのだから。

 幹まで近づいたけど、僕は躊躇してなかなか触れる事はできなかった。この樹の記憶を知るためにここまで来たけど、それが良い記憶では無いことくらいは分かりきっていたから。だけど同時に、この樹の記憶を自分が受け容れないといけないという思いは、いっそう強くなった。僕はこの樹の分身などでは無く、きっと僕自身がこの樹なんだから。

 僕は勇気を出して手を前に出した。そしておそるおそる掌を幹に近付けていく。あと数センチで幹に触れるところまで手を伸ばした。だけどどうしてもそこから先は伸ばせなかった。

「いつまでそうしてるんだよ」

 突然後ろからユタの声がした。僕は驚き、思わず幹に触れそうになった。ぱっと振り向くと、ユタは僕の真後ろにいた。

「待っててって言ったのに!」

「待たせ過ぎるからだよ」

 ユタはこつんと僕の頭を叩いた。

「躊躇うのは分かるけど、こういうことは思い切って前に踏み出すんだよ!そうしたら意外に上手くいくもんだ。現に、俺もここまで来て全然大丈夫だったし」

 ユタはにやっと笑って言った。ユタのせいで、僕の張り詰めた空気はゆるんでしまった。なんだか緊張していたのが馬鹿らしくなってくる。

 僕はひとつ大きく息を吸ったあと、ゆっくりと吐き出した。そして掌を前にかざすと、ゆっくりと触れた。

 想像していたのとは違い何も起こらなかった。僕は少し躊躇したが、腕に力を入れ樹に触れている掌を強く押し当てた。だけど何も起こらない。僕は拍子抜けし掌を樹から離そうとした。その瞬間、不思議な感覚に襲われた。電流のような刺激が樹から僕の体に入り込み僕の体を駆け巡る。

 そして、自分のものではないと思われる記憶の波が、僕の頭の中に洪水のように溢れた。不思議だ。それは僕の記憶であって、僕の記憶では無い。そこから僕の意識はぷつりと切れ、別の世界へと運ばれていった。

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