第16話

「サラを壊してしまうかもしれない。僕はそれが怖いんだ」サラにそれをちゃんと伝えようと決意したのに、僕はなかなかサラに言い出せずにいた。何回か伝えるために話しかけようとした。そしてサラは、その都度僕に笑いかけて話しを聞いてくれようとした。

 僕はその笑顔が凍りついてしまうのが恐かった。もしかしたら、もうその笑顔をもう二度と僕に向けてくれなくなってしまうかもしれない。サラは優しいから、真剣に僕の悩みに向き合ってくれると思っているのに、どうしても最悪の可能性が脳裏をよぎってしまった。

「あのね……ユタさんにノエルの事を話そうかと思うの」

 サラが僕にそう言ってきたのは、僕が自分の中でそんな悩みに対し自問自答を繰り返ししていた時だった。思ったとおり、サラはあいつの事を上手くはぐらかせなかったようだ。だけど仕方ない。サラが嘘を付くのに向いていないことくらい、分かっていたことなのだから。

 僕は少し悩んだ。あいつは悪い奴ではないから、口止めさえすれば僕の事を他人に言いふらしたりはしないだろう。だけど、あいつはサラに対して好意を抱いているし、そんな簡単に引き下がるだろうか。

「いつまでもあいつに付き纏われるのも嫌だし、仕方ないか……」

 僕がそう言うと、サラの顔色が曇った。サラは分かりやす過ぎだよ。サラもあいつに好意を抱いている。サラの分かりやすくて素直な性格は好きだけど、こういう時は辛かった。今までずっと一緒にいて、ずっといろいろな気持ちを共有してきたのに、サラのあいつに対する思いだけは決して共有できないから。

「あと、話しは僕からするから。その方があいつに対しても説得力ありそうだし。サラは一切口を挟まなくていい」

 僕はサラの顔色の変化に気付かない振りをして、言葉を続けた。

「うん……」

 サラは消え入るような小さな声で返事して、首を縦に振った。「サラ、ごめん」僕は心の中で謝った。サラの気持ちは分かっているのに、あいつをサラから引き離そうとしている。だけどそうでもしないと、僕の心の中の黒い塊が、僕を飲み込んでしまう。

 その翌日、あいつは家にやって来た。出迎えるため立ち上がろうとするサラを制止し、僕が代わりに玄関へと向かった。ドアを開けると、あいつが少し緊張した様子で立っていた。

「あれっ、サラは?」

 サラの姿が見えず、代わりに人形の僕が目の前にいるので、あいつはかなり面食らった様子だった。

 僕は黙って踵を返し、サラのいる部屋へと戻ろうとした。どうせ部屋の中で話さないといけないのだから、この場でこいつに話すのが煩わしかった。

「えっと、家に上がっていいのかな?」

 あいつは途惑いながらも僕についてきた。「やはりついて来たか」ここで引き下がるような奴では無いことくらい分かっていたけど、僕は舌打ちしそうになった。

 部屋の中に入りサラを確認すると、こいつは興奮を抑えられない様子でサラにいろいろ尋ねだした。それに対しサラは困った様子で黙りこくっていた。

「あなたも適当に腰掛けてください」

 僕はサラの隣に座ると、こいつに席をすすめた。僕が言葉を発したのを聞き、こいつは驚きのあまり完全に体が硬直し、目を大きく見開いた。

 そんなこいつの様子を無視し、僕は今までの経緯についてできるだけ簡潔に、必要最低限のことだけを話すように努め、そして僕について口外しない事と、もうこの家には来ないことを求めた。

「本当に大丈夫って言い切れるのかい?君自身本当は、自分がサラを傷つける事を恐れているんじゃないかい?」

 こいつがそう言ったのは、僕の説明が終わった後だった。僕が発作を起こした時、サラを傷つけてしまう危険性についてこいつは指摘してきた。そしてそれは僕自身が一番恐れている事でもあった。

「そんな事はありえない!」そう自信を持って言い切れたならどれだけ楽だろうか?だけど僕はそれを言えなかった。そんな自分自身が情けなく、悲しくてやりきれない気持ちにさせられた。

 僕に代わり、横にいるサラがこいつに対して反論してくれた。だけど、僕はそんなサラを置いてその場から逃げ出した。こいつの言葉よりも、僕を庇おうとしてくれるサラの言葉の方がずっと僕の胸に突き刺さったから。

 それから少しサラと話した後、あいつは家を出た。サラも一緒に出るらしい。きっとあいつは、僕の事を悪く言うつもりなんだろう。別にそんなの構わない。

 今日はっきりと分かった事があった。それは僕が全然成長していないということ。サラの身体は成長しどんどん大人になっていく。だけど僕は人形だから一切成長しない。それは身体の話しだけでは無かった。サラは身体の成長に比例するように心も成長している。だけど、僕はずっと同じところにいる。

 たとえ僕がサラを壊してしまう事が無かったとしても、こうしてどんどん離れていってしまうのだろうか。そして、最後には僕の前からいなくなってしまうのだろうか。僕は、いても立ってもいられないくらいの強い焦燥感に駆られた。

 僕は立ち上がり玄関に向けて走り出した。サラに会いたい。サラに触れたい。そして、サラと話がしたい。玄関のドアを急いで開け、僕は外に飛び出した。サラとあいつの話し声が家の裏手から聞こえて来た。僕は走ってそっちへ向かった。何かしたいわけでは無いし、何かできる訳でもないのに。

 サラとあいつの会話は途絶えていた。だけどその時、僕にはその理由を考える余裕は無かった。

 

 僕はそこから一歩も動く事はできなかった。

 あいつはサラの両肩に手をかけ、そしてサラの唇に自分のを合わせていた。前にサラが言っていた。それは大切な相手に対してその気持ちを表現するための行為だって。

「ごめん……また来るから」

 あいつはそれだけ言うと、僕のいる方向から逆に向かって走り去った。

 そして、サラはその場にしゃがみこんだ。サラの瞳からは涙が溢れていた。だけどそれは、痛い時や悲しい時に出るものと違うことくらい明らかだった。

 胸が苦しい。今までに無いくらい苦しかった。苦しすぎて息もできない。こんな苦しいなら、僕の胸なんて無かったらいいのに。そして、そして僕に感情なんて無かったならこんな思いをしなくてすんだのに。

 サラが部屋に戻ったのはそれから小一時間くらい経った後だった。

僕はその間、ただ立ち尽くしてサラの事を離れて見ることしかできなかった。

 部屋に戻ってからのサラは、まるで抜け殻のようだった。僕だってとても話す気分ではなかったけど、サラの事が気になって仕方なかった。

「サラ、ぼうっとしてどうしたの?」

「ううん、何でもない」

 そんな意味の無いやりとりが繰り返される。だけど、「何でもない」なんていえる状態で無いのは明らかだった。サラは、視線を宙に彷徨わせていると思ったら、今度は大きく溜息をついたり、クッションを抱き締めたかと思えば放り出したり、そんな無意味な行動を繰り返していた。

 きっとあいつの事で頭がいっぱいなんだろう。そんなサラなんて見たくはなかった。

「ねえっ、サラ!」

 僕は痺れをきらし、サラの袖を引張った。

「サラ様子が変だよ!いったいどうしたんだよ!」

「えっ……いや、何でもないの」

 サラはまるで、僕がそこにいる事に初めて気が付いたかのように驚いていた。そして返事は、相変わらず「何でもない」の一点張りだ。自分が惨めだった。僕はずっとサラのことしか考えていないのに、サラの視界に僕はいない。

「サラ、あいつに何かされたんでしょっ!」

 僕は、掴んでいたサラの腕を強く掴んだ。本当は何があったかなんて知っている。だけど僕はサラに否定してほしかったんだ。サラにはそんな気が無いにも関わらず、無理やりあいつにされたんだって言ってほしかった。

 だけど「そんなこと無い」ってサラが言うのは分かっていた。その言葉はサラの口から聞きたくなんて無かった。でも「何でもない」なんて言われ、秘密にされるのはもっと嫌だった。

「ううん、本当に何でもないのっ!」

 サラは慌てた様子で、必死にあの時の事を隠そうとした。

「嘘だっ!サラはあいつに何かされたんだ!どうしてそれを隠すの?サラに何かあったら、僕は絶対にあいつを許さない!」

 僕は引き下がらなかった。いや、半分暴走して引き下がれなくなっていた。

「っ……ノエル、腕が痛いよ……」

 サラの声で僕ははっとした。僕はいつの間にか、手加減できないくらいサラの腕を強く掴んでしまっていた。僕はすぐに手を離したけど、サラが袖をめくると、僕が掴んだ部分には僕の手のあとがはっきりと痣として残っていた。

「もうっ!あとがついちゃったじゃない……」

「サラ、ごめん……」

「ううん、いいよ別に。私の事はほんと気にしないで。ユタさんには何もされて無いの!その……私が勝手にいろいろ考えちゃっているだけで……ノエルには関係ないから」

「……へえ、僕には関係ないんだ……」

 その言葉は、他のどんな言葉よりも残酷だった。確かにサラとあいつの問題なのだろう。僕が入り込む余地なんて、ほんとは最初から無かったんだ。

「……サラには、僕は必要ないんだ」

「えっ違う、違うよ!そんなつもりで言って無い!」

 サラは、はっとした様子で否定した。

 だけどもう限界だった。僕はサラが大好きだ。それなのに、その気持ちが強いほど、サラが遠ざかった行くように感じる。そして好きすぎるから、裏切られたと感じた時つらくなり、サラを憎んでしまう。

「……サラなんて……サラなんて大嫌いだっ!」

 僕は叫ぶように大声で言った。僕は最低だ。

この瞬間は、僕はサラを傷つけたたかったんだ。僕がサラのことで傷ついたのと同じくらい、サラを傷つけたかった。たとえどんなかたちでもいい、僕でサラの気持ちをいっぱいにしたかった。

 僕はサラの顔を見ることなく部屋を出て行った。サラは泣いていたのだろうか。どうしてこんなことばかりしてしまうのか、もう自分でも分からなかった。

 せめてこの時、サラの顔だけでも見ておけばよかったのかもしれない。この後僕は、見ることの無かったサラの悲しむ顔を想像し、苛まされ続ける事になった。

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